体系 現代の世界と日本 (2)
小島恒久編「現代日本の経済・労働」(えるむ書房、1991年10月10日)
第4章 金融
第2節 金融自由化と金あまり現象
1980年代後半になってから勤労者の身近な生活の部面にも金融自由化の波が押し寄せてくるようになった。まず大口定期預金の金利自由化やスーパーMMC、金貯蓄口座などの金融新商品の登場により一般勤労者も自 分の金融資産の運用について関心が高まった。借り入れ面でも変動金利型の住宅ローンができて金利動向に関 心をもたざるをえなくなった。加えて1989年までは株式ブームの中で、賃上げのために組合強化というより個人的に財テクでカネもうけという気分に流される状況も生まれた。金利は1989年半ばから上昇し株価は暴落し たが金あまり現象は消滅したのだろうか。本節ではこの面に光をあててみたい。
一 金あまりの源泉と結果
第1節でもみたように1980年代の日本の金あまりの源泉は直接的には二つの現象①技術革新 (コンピュータ化) により企業部門に大規模な償却超過が発生したこと、②財政緊縮により国債発行による財政の資金調達がネットでは大きく減少するに至ったこと、に負っている。
コンピュータをはじめとする資本財価格が相対的にも絶対的にも低下し企業部門に大規模に償却超過が発生したということは、とりもなおさず技術革新による生産性向上の成果が労働者にはほとんど配分されなかったということを意味している。剰余価値率は上昇し搾取は強化されてきたということができる。この結果、あまった金=貨幣資本の過剰蓄積部分は三つの方向に向かった。一つは、国内の資産取引(株式、不動産など)であるが、これは売り手に貨幣資本を移転しただけで、国内で循環するだけであった。二つは、国外への資本輸出であり、米国債からはじまって直接投資へと多層化していった。三つは、財政に対してと勤労者への貸付けであり住宅ローンと一般消費者信用の増加である。これは相対的な賃金低下の中で労働力再生産費用を貸し付け、追加搾取を行うものであった(拙稿「労働者と消費者信用」、『唯物史観』VOL34)。
このうち一番目の資金の流れは地価上昇、株価上昇をもたらしたが、その中で表れてきたのは期待収益率(割引率)の一般利子率に対する相対的低下である。これはとりもなおさず貨幣資本の蓄積が過剰に進行しているということを物語っている。投機資金が大量に発生したことの裏付けでもある。
二番目の資本輸出の増大は日本を一流の帝国主義に押し上げる要因として働いている。世界的な資金(貨幣資本) の偏在を進め、いわゆる南北問題 (帝国主義による一次産品生産国の搾取) を深刻化させる一要因ともなっているのである。
三番目の財政や勤労者への信用の増大は国内における持てる者と持たざる者への分岐を広げた。また財政を通じて所得を高額資産家(国債保有者)に再分配する機能をもたせることになった。
二 国債累増の果たした役割
日本における金あまりをもたらした構造をみると、国債累増による役割を無視することはできない。 日本の国債発行残高は1970年代後半から1980年代前半に急増過程を辿るが、これは1974〜75年不況ののち 税収が伸び悩み、支出面では景気の大きな落ち込みを防ぐための政策がとられたからである。これは1980年代 前半になって行政改革の下で緊縮政策がとられてもすぐには改善しなかった。緊縮政策の効果が表れ出すのは1980年代半ばのことである。
1980年代半ばに150兆円にまで増加した国債発行残高は当然のことながら大規模な流通市場を必要と し、その整備を促すことになった。国債は引受シンジ ケートを通して銀行・生保・証券会社によって引き受 けられ、証券会社は個人や事業法人に販売した。1970年代後半〜1980年代後半には国債利子の限度つき非課税措置(特優)も実施されて個人への販売が促進された。
このような国債発行の増加によって金融機関の資産運用は証券化し流動化した。このような資産の流動化は金融機関の証券運用体制も整備することになり、その姿勢は徐々に投機的なものへと進んでいったのである。
1980年代後半になって財政赤字が実質的に大きく縮小した結果、金融機関がその証券運用先を外貨債、内外株式へ求めていった基盤がつくられていたというべきであろう。
三 金あまりと大企業の資金調達
金あまり現象は大企業の財務行動を大きく変化させた。いわゆる財テクの登場である。ここでは株高、円高に沿って資金調達がどのように変化したかをみていきたい。
企業の資金調達で1980年代後半に起きた大きな変化はユーロ市場において外貨建てワラント債(新株引受権付社債)による資金調達が爆発的に伸びたことである。この外貨建てワラント債の仕組みを簡単にみておこう。この社債は例えば10億ドル借りて4年後に10億ドル返すことになるが、その利率はかなり低く設定される。そのかわりに保有者に対して一定のあらかじめ決められた(普通は発行時の時価より5%程度高い)価格で株式を買う権利を与えるのである。これは円での発行コストを極めて小さくする方法になる。例えば一般のドル社債の金利が9%、日本企業のドル建ワラント債が5%、日本での社債が6%とすると、日米金利差は3%だから年率3%安く償還時のドル買いを予約しておくことができ、その部分を利払いにあてれば円ベースでの発行コストは2%となってしまうわけである。そのうえ、株式価格が上昇してワラントが行使されると借りた金額分だけ株式発行によってさらに資金が調達できこれを返済に充てることができる。これらがうまくいくかどうかは円高、株高が継続するかどうかにかかっているわけであるが。1990年以降、この構図は完全に崩壊することとなった。これから1993年にかけて紙くずと化すワラントが続出するだろう。これが問題となるのは発行されてきたワラント債のほとんどが分離型であって、ワラント(新株引受権)部分が国内に還流して流通していたからである。これらのワラントは償還時までに株価が行使価格を上 回らないと全くの紙くずとなる。そしてこれらのワラントは証券会社の手によって商品知識のない一般個人投資家に売られてきたのである。
現在から振り返ってみるとワラント債の大量発行は、ワラント発行によって大企業の資金を利用して独占資本への貨幣資本の集中を加速させる役割を担ったのだということができるだろう。
このように外貨建てワラント債が大量に発行されたことにより、輸出・輸入にあまりかかわらない企業も外 為市場での財務上のヘッジ行動にでるようになった。また為替市場での相場変動や各国の金融政策の変化に注目して発行通貨もマルクやスイスフランなどへと多様化してきた。
ところで、こうした資金調達は大企業に大きな設備投資のための資金需要が発生したために行われたのではなく、資金調達のための有利な条件が存在していたから起きたものである。そして調達した資金は「財テク」と称して証券市場へ投機的に注ぎこまれることとなった。この行為がまた証券市場における企業の資金調達の有利さを支えるものともなっていた。
ところが1988年半ば頃から設備投資ブームが起きてくると事情は少しずつ変化する。調達された資金はしだいに設備投資へも振り向けられるようになったからである。しかし、それでも企業の手元流動性は積み上げ続けられ、1989年末まで株式市場は投機的な値上りを続けた。
四 金あまりのツケの噴出
最近になって露呈した大手証券会社による大口顧客への損失補填問題はこれまでの金あまり=貨幣資本の過 剰蓄積の矛盾の発露の一端である。国際決済銀行(BIS)は1988年に国際業務を営む銀行に対して自己資本比率(総資産に対しての自己資本の割合)を1992年度末までに8%以上にするように規制することを決めた。この規制は各国の中央銀行が国際金融市場 の拡大にともなって銀行が負うリスクが大きくなってきていることに懸念を持ち適正化を図ろうとして合意したものであったが、同時に日本の銀行の欧米市場でのプレゼンスの高まりに対してこれを抑制させようとした 欧米の銀行の利害が反映されたものでもあった。
こうした規制が1980年代後半から準備されていれば1980年代後半のバブル経済はより穏やかになり、したがってその反作用もより小さいものになっていたかもしれない。しかし、すでに時機を失ない、逆にバブルのツケの発露を厳しいものにする作用を果たしている。というのは、金利の上昇にしたがって株価が暴落し、不動産融資総量規制もあいまって不動産市場が沈滞しているわけだが、BIS規制があるために銀行がさらに貸し出しを縮小し信用収縮が全般的に起こりうる条件を作り出しているからである。いわゆる「クレジット・クランチ」の発現である。
こうした状況は日本銀行が多少の緩和策をとっても改善するものではなく、設備投資や住宅投資への影響を通して長期拡大した日本の景気に水を差すものとなっていくだろう。
しかも、この状況は過剰に蓄積された貨幣資本が金融恐慌の発現によって破壊されるか、インフレの高進によって実質的に調整されていくかしない限り本質的に改善されることはないのである。
こうした貨幣資本の過剰蓄積の矛盾の発現は日本でだけではなく英米で先に発現してきている。1980年代の新保守主義による経済政策運営の矛盾の発現ともいえるのである。