日本経済とリストラクチュアリング
1993年執筆
北村 巌
リストラの本家は米国
現在、企業経営はリストラクチュアリング花盛りである。略して「リストラ」と称されることも多い。リストラクチュアリングは米国で80年代後半から流行した言葉で直訳すれば「企業再構築」ということになる。背景には資本収益性の低下を徹底した合理化で乗り切ろうとする資本の意図がある。このところの不況で日本でも「リストラ」ばやりだが、米国で意味するリストラよりも一般的に合理化を指すケースが多いようだ。
まず、米国におけるリストラからみてみよう。米国におけるリストラは巨大規模になった多国籍、多業種企業(国際的コングロマリット)が自らの内側で産業構造高度化を図るというのが語源であった。当然、企業(グループ)内でのスクラップ・アンド・ビルドが大規模に行われ、それは首切り、労働強化をもたらすのである。
こうした一企業ないしはグループの内側でことが運ばない場合、企業の事業部門の売買の活発化がリストラを推進する手段となった。事業部門が売買されることによってそれまでえられていた労働者に有利な職場慣行など様々な労働条件が切り下げられていく。つまり、労働者には売却か倒産かがつきつけられ、それによって合理化がいっきに強行されるわけである。
リストラはもちろん合理化であるが、技術進歩を背景にした機械設備の導入などによる生産性の向上とそれによる相対的剰余価値の生産が目的とされるのではなくて、労働条件の切り下げによる絶対的剰余価値の生産が直接に目的とされる。
企業の売買の活発化はM&A(マージャー・アンド・アクィジション)ブームとも称された。米国では80年代後半に金融自由化のもとでいわゆるジャンクボンド(格の低い高金利の債券)が企業買収を目的に買収目標の企業の資産を担保にして発行される(LBO=レバレッジドバイアウト)というようなことが行われ、企業買収が友好的なものも敵対的なものも含めて活発化した。このあたりについては「ウォールストリートもの」の映画で紹介されているので読者の多くもご存知だろう。または日本企業も米国企業の買収を活発化しこのブームの主体でもあったわけで、雇用先企業が買収を行った事例をご存知の読者もいるかもしれない。
米国経済全体をみると80年代前半はレーガノミクス(レーガン大統領の経済政策)による減税(主に企業と高額所得者にたいする)と軍備拡大による好景気がみられた。このことによって、第二次オイルショックと呼ばれる80-82不況が克服された一方、米国は財政赤字が急激に膨張し対外債務も急激に膨らんだ。米国の対外純資産が実質的にマイナスにおちいっていった80-87年はそうした経済政策の転換がみられた時期でもある。一つにはレーガン自身の手によってゴルバチョフとの間で米ソのデタントが進められ、それまでの軍備拡張路線を軌道修正した。もう一つはドル高政策の転換=ドル安政策でありこれによって米国の産業の国際競争力を高め、貿易収支の改善を通じて対外債務の増大に歯止めをかけようとした。こうした政策は当然経済成長の鈍化を生み出し、米国企業に膨張してきた国内市場への依存からの脱却を求めるものであった。ここに米国でリストラクチュアリングと呼ばれる一連の事業部門の大規模な再編成を通じた合理化運動が展開された条件があったのである。
米国の企業買収の専門誌M&Aによると、企業買収の規模は米国での実績をみると80年代後半は1件当たり平均おおよそ2億ドルの規模であったが、最近では1件当たり平均規模は1億ドル程度になっている。昨年の買収額トップの事例はバンカメリカ(バンク・オヴ・アメリカの持ち株会社)によるセキュリティー・パシフィック(金融会社)の買収で総額42億ドルであった。以下16位までが10億ドル以上の買収であった。こうした大規模買収はまだ断続的に続いてはいるものの、概括していえば米国ではすでに大規模な企業買収によるリストラは一巡しているといえるだろう。こうした企業買収の場合、株式市場で通常取り引きされていた価格に対して買収価格は40%から60%高くなる。これは買収側に買収後の合理化による企業収益の増大(つまり搾取の強化)に自信がもてているからであり、またそうした自信を持つ投資家ないし企業が現れない限り買収は起きない。
もっともこうした資本家としてはまっとうな買収目的をもつものだけでなく一時的に買収して転売による利ざや稼ぎをねらう動きも強まった。このあたりは現代の資本主義の持つ腐朽性の現れと考えてよいだろう。
こうした取引の主な場であったLBO(レバレッジドバイアウト)市場の規模は89年がピークで293件総額755億ドルであり企業買収全体の23・8%を占めた。92年には市場規模は件数では199件と多いものの総額では72億ドルとピークから十分の1未満になっている。
このことは米国では「おいしい」買収案件はほとんど終了し、現在は生産現場における合理化が進行、奏功している時期に入っていることの証左である。これが昨年秋頃からの現在の米国の情報機器を中心とする設備機器投資主導型の景気回復の条件になったのである。
リストラクチュアリングの意味するもの
企業買収の成功とは何を意味しているのか、労働者の立場から考えてみたい。われわれは1企業内の事業部門の再編成などの合理化にはたびたび遭遇してきたから、それが労働者にどういう意味をもつのか身を持って体験している。そこでそうなじみのないケース=いわゆる乗っ取りといわれるような事例を考えてみよう。
いまAという企業が収益があがらず株価も低迷しているとしよう。この企業の生産物は将来的にもあまり成長が見込めないが、本社ビルは大都市の一等地にある価値の高いものだとしよう。つまり古く資産も優良だが成長性のない企業である。この本社ビルを賃貸するか再開発すれば大きな収益源になることが見込まれているとする。経営者は伝統的なオーナーで本業に執着しており、自らは本社ビルを売却したり転用したりする考えはない。いくつかの不動産会社から打診があっても断っていたとしよう。
そこでこの企業を敵対的に買収(通俗的にいう乗っ取り)しようとする投資家がでてくる条件ができる。この投資家はおそらく次のような意図をもつだろう。現在の比較的安い株価(買収するとすれば購入価格は現状の市場価格より高い価格にはなるが)で企業Aを買収する。現在の経営者を追放し、生産活動を大幅に縮小するか部分的に切り売りを行って本社機能も縮小し移転する。本社ビルを売却して資金を回収して、他者に生産部門も売る。この過程での受け取れると予想される収入(キャッシュフロー)を一定の割引率(利子率)で現在価値に直した額が市場で買収にかかる費用よりも大きければその分大きな利鞘が稼げる。これが最後まで完遂できれば企業買収は成功である。
この場合、結局のところいってみれば成功した乗っ取り投資家の利益の源泉は直接的な搾取の強化だけではなく、生産活動の縮小や切り売りによって犠牲となる労働者なのである。つまりそうした犠牲の上で、資本家間の期待収益(将来における搾取の可能性)の分配として、利ざや稼ぎが成立するからである。
この例は買収者がはじめから転売を目的にしているという意味でやや極端かもしれないが、資本家の意図は全体として合理化の遂行である。徹底した合理化をやりきれない経営者が資本主義のメカニズムを通じて追放され、総資本全体としての合理化が貫かれていくことにほかならない。
国内における企業売買をめぐる情勢
いままで日本では上記のような60年代頃の一時期をのぞいて敵対的買収というのはほとんど起きていないか、成功してこなかった。その理由としては、70年代初頭に完成した企業間の株式の保ち合いによる株主の安定化が敵対的買収への予防措置として機能したという面をもっている。上場企業平均では事業法人の持ち株比率は3割強であり、このうちのかなりの部分が資金運用というより安定株主として相互に保有する「保ち合い」を形成していると思われる。
こうした構造が日本資本主義の中核部分=独占資本グループにおいて崩壊していくとは思えない。いわゆる旧財閥系などの6大企業集団やその他新興の電機、自動車などの製造業系の企業グループも株式保ち合いの解消を本当の意味での身内の間で行う可能性はないに等しい。
ところが新聞や経済雑誌誌上などでは保ち合いの崩壊だとか、日本型経営の転換だとかいう文字が踊っている。実際に有力企業が株式保ち合いの解消に動いたという報道もされる。
しかし、これらは中核的独占資本グループの解体の前兆などではなく、その強化のための再編整理の動きである。中核企業間において株式の保ち合い解消の動機はない。当面の資金づくりのための部分的な保ち合い比率の引き下げは考えられても、現在の保ち合いによって保障されている経営陣の寡頭的な支配を崩すような保ち合いの解消は行われるわけがない。それは体制の問題である。
企業の保ち合いの解消はもっぱら周辺部においてのみ行われようとしている。これは一面的では独占資本グループによる企業支配が弱まるようにもみえるが、逆にいえば切り捨てであるかもしれない。例えば製造業の完成品メーカーにとっては円高の進行によってこれまで支配下においてきた国内の下請け部品企業は切り捨て海外生産に本格的に移行するほうが利潤追求からは当然だからである。保ち合いの解消は必ず強者の側の利益のために行われる。なぜならば保ち合いの解消には経済的な動機=利潤の追求が背景にあるからである。
もちろん保ち合いが周辺部において解消されていけばその部分においては企業売買は起き易くなっていくだろう。中堅企業の所有は一定程度流動化していく可能性はでてくる。この場合、日本の中堅、中小企業分野での合理化、再編成を強く促進する圧力となると予想される。
主流は企業内リストラ
現在のところ日本においてのリストラクチュアリングは、いまのところ企業内における事業分野の再編といったことが主流になっている。その意味では70年代以降、われわれが経験してきた合理化一般ととくに差異を強調することはないようにも思われる。「リストラ」という新しい言葉で、87年の不況時にすっかり人気のなくなった「合理化」という言葉を置き換えているだけの例も多い。
世情「リストラ」といわれているものをいくつか例示してみよう。
宅配便で成長しているヤマト運輸では経営者が急成長故の大企業病の心配と収益体質の悪化を懸念している。そこで本社機能、管理部門の簡素化が打ち出された。現在、本社にある15部34課の統廃合を図り、余った人員を営業などに振り向けるという。また営業所段階ではセールスドライバーと事務系職員の垣根をなくし社員の多機能化を行うという。こうした人事政策は、当然労働者間の競争(仕事の上でも会社への忠誠という意味でも)を激化させる。そこで人事制度、査定制度の見直し(部下による上司の査定の導入など)も検討されている。中高年労働者に厳しい環境が導入されることは必至であろう。
また、情報機器の導入による生産性の向上も図られている。「第4次NEKOシステム」である。これはICカードを利用した携帯型のPOS端末をセールスドライバー一人ひとりが所持し、客先での受注状況をその時点で記録、営業所に戻った後の事務処理を簡略化する。このシステムが全面的に導入されれば人件費比率を2%低下させることができる見込みであるという。
このヤマト運輸の例では成長産業の中での合理化のより一層の推進であり、急成長企業故の今後の中高年労働力対策や機械化が提起されているわけである。
成熟してしまった産業のほうではどうか。カメラの旭光学工業の例をみてみよう。92年度の連結決算は93億53百万円の最終赤字であった。特殊要因もあったが営業段階で6億50百万円の赤字であり実態として経営が危機感を持っていることは疑いない。旭光学は成熟してしまったカメラから医用機器や情報機器へ多角化を図ってきているが、多角化部門が軌道に乗らないうちにカメラ部門の急激な落ち込みが現れてきている。そこで当面は多角化よりもカメラ部門における合理化を強化し収益性の回復に全力をあげようとしている。その柱は国内外の生産拠点の再編成と部品のコストダウンである。
国内では一眼レフや高級コンパクトカメラの生産を子会社の東北精密に集約する。また海外向け中高級コンパクトカメラの生産はフィリピンで増産、香港、台湾の生産子会社も強化して3年間で海外生産比率を70%(現在50%)にする予定である。赤字部門(8ミリビデオなど)からの撤退も決めた。
こうした生産拠点の海外へのシフトなどで3年間で300人の人員を削減、2300人体制をめざすという。旭光学の例は事業部門の大幅な再編を柱としているという意味でリストラの名にふさわしいかもしれない。しかし、この再編計画もメインバンクである第一勧業銀行の支援をうけるためのものであり、米国的な企業再編につながるものではない。 これらの例を見る限り日本のリストラなるものはM&Aを中心とした米国のリストラとはだいぶ様相を異にしている。しかし、こうしたものにだけとどまっていくという保証はない。細川政権の規制緩和路線は市場原理=資本の論理のあからさまな貫徹を推進しようとするものであり、企業再編の行われる環境についても注意を要するだろう。70年代初頭における知識集約型=輸出型産業強化の産業構造転換政策以来の産業構造政策の大きな転換点が訪れている。その先はいわば「空洞化」した内需型産業の振興であり、帝国主義の腐朽性の深化、拡大につながる。