体系 現代の世界と日本 (1)
小島恒久編「現代日本の経済・労働」(えるむ書房、1991年10月10日)
第4章 金融
第1節 金融の国際化
北村巌
1980年代は日本の金融の国際化が進行していったといわれる。
これはそれまで閉鎖的であった日本の金融市場が他の資本主義国に対して開かれたというような現象面についてのみ考察されるのでは不十分であり、1970年代後半からのコンピュータ革命を中心とする日本経済の合理化の進行と併せて捉えることが重要であろう。
一 外為法の改正
1970年代末ごろから高まっていた国際資本移動自由化の要求、圧力に対して実施されたのが外国為替法の抜本改正(1980年12月1日施行)である。これまで資本移動を原則的に禁止していた立場から原則的に自由化するという180度の転換であった。この転換は以後1980年代の国際資本移動の活発化の制度面からの基礎条件となった。
制度面について跡をたどってみると外為法改正に続いて大きな影響を持ったのが日米金融協議である。この協議は米国が日本に金融市場の開放を求めるという枠組みで設定された。日米金融協議の結果、大銀行の望むような金融の自由化措置が段階的に実施されていったほか、外国銀行、証券会社の対日進出ブームも起きた。
こうした日本の金融の環境をめぐる変化は、結果として日本の資本輸出を促進させる作用を持ったのである。 しかし、出発点となった外為法改正そのものはオイルショックによる国際収支危機の中でオイルマネーの取り込みを意図したものなのであった。これは歴史の皮肉であろうか。というよりは、国際的相互依存の増大が国際資本移動の必要性をますます高めていったという事情が1960年代後半からの一貫した傾向なのであり、日本資本主義がそうした世界市場の枠組み に組み込まれざるをえなくなったことが国際資本移動の原則自由化を日本が採用した本質的な要因であった、と位置づけられよう。
二 国際資本移動の増大
国際資本移動の増大はネットの日本の資本輸出量という面に注目すれば1980年代前半に急拡大しその後は緩やかな減少傾向にある。図1は日本の長期資本流出額の推移である。1989、1990年と減少しているが今後はなだらかな減少傾向を辿ると予想されている。
このようにネットの資本輸出に注目すると減少傾向がみられるが、資本移動そのものは相互的に拡大傾向が続いてきている。
表1は長期資本流出額の内訳を示したものである。これをみると1983年ごろから1987年にかけて対外債券投資が急拡大し、続いて対外株式投資、対外直接投資というようにより高い収益率を求める具体的投資へと高度化してきたことがわかる。
資本輸出の主体ということからみると証券投資(債券、株式)では生命保険会社や信託銀行(事業会社の資金運用含む)が大きな役割を果たしたのに対し、直接投資では製造業や不動産業が大きい役割を果たした。
資本移動の活発化にともなって外国為替市場の規模も急拡大した。 東京市場では直物出来高が1980年8.5億ドル(一日平均)から1990年には100億ドル (同) に急膨張した。もちろん、海外の外為市場も急速度で拡大し、取引仕法としても直接的な直物取引のみでなく先物取引やスワップ取引、オプション取引などが急拡大した。この為替市場の発達は国際資本移動の基礎的な部分(直接投資、長期証券投資、借款など) のための外貨需要に対して短期的投機的取引がこれに相対しながら取引の可能性を保証するものとなった。そのため金融機関の外為ディーラー部門も異常に発達することとなった。
三 日本の資本輸出増大の源泉
ところでこうした1980年代の日本の爆発的ともいえる資本輸出の増大を支えたものは何であったのかという点について触れておかなくてはならないだろう。
国際収支表を形式的にながめるだけでは資本の純対外流出分は経常収支の黒字分から外貨準備の増分を差し引いたものに等しくなるよう調節されるという結論が導き出される。この理屈からは貯蓄に対して日本の国内 投資が過少であったからという理由が見出されることになる。つまり、日本の国内貯蓄に比べて投資が少なすぎることが、その分だけ貿易収支面でも黒字を生み資本流出に回っているというのである。
しかし、貿易も対外投資も相手国のあることなのであるから国際的な相互関係の変化の中で捉えられなければならない問題である。第一に、輸出が爆発的に伸びるためには国際競争力の優位と需要の存在がなければならない。1980年代の事情においては、日本のコンピュータ化の進展による電機産業の競争力の強化がまず指摘されなければならないだろう。日本は通産省主導で1980年代初より半導体や光通信などの技術開発を企業横断的な共同体制 (技術研究組合など)で進め効率的に行った結果、半導体産業で決定的といえる競争力を手に入れ、これをベースにコンピュータ産業でも大きい競争力を手に入れた。オイルショックにより国内企業が省力化投資を強く志向していたこともコンピュータの市場を大きく拡大するものとして作用し規模の効果による生産コスト削減=競争力強化に寄与するものとなった。
こうした国際競争力の向上が電機産業を中心に輸出の増大を導く基礎的な条件となっていたのであり、1981年に登場したレーガノミクスによってアメリカが財政赤字拡大 (軍縮と高所得者減税)によって景気刺激を図りドル高政策をとった時に日本からの爆発的な輸出の増大が引き起こされたのである。
第二に、レーガノミクスによる高金利・ドル高政策に直ちに反応して日本から米国債投資が活発化したがその源泉は何であったか、ということに触れておかなければならない。この面からは日本の国内における投資の停滞とそれによる余剰貨幣資本の増大を指摘することができるだろう。第一次オイルショックにより日本の企 業は設備投資を抑制し、したがって長期資金の借入れを抑制した。例えば上場企業でみると製造業の長期借入金は1976年度146億円 (平均) をピークに減少傾向となり1990年度は77億円となっている。これは銀行や生命保険などの金融機関に長期資金が還流するという現象を起こし、1970年代後半から1980年代初頭までは国債の大量発行を消化する源泉となっていたのであるが、行政改革路線の緊縮財政への移行にともなって八二年ごろには行き場のない余剰長期資金が大量に発生する構図ができあがったのである。この資金は外国債務(とくに米国債)への投資活発化の源資となった。
付け加えておくと、民間企業が設備投資資金を減少させた要因は単に投資を絞ったということにあるだけでなく、コンピュータ化の進展により資本財価格が実質的に低下し設備投資資金を節約することができた、言葉をかえれば大きな償却超過が発生していたという事実にも求めることができる。
四 世界金融市場の一体化
このように日本から大量の資金がアメリカに流入してアメリカの財政赤字に資金的裏づけをもたらし、あるいは欧州からもアメリカに大量の資金が向かうという状況になったことで大量資金の国際移動が常態化し世界の金融市場は一体化する傾向を強めた。
日本の金融機関の欧米への大量進出と欧米の金融機関の日本への進出がブームをつくり出し、日米金融協議 (1984年) によって日本の金融市場の自由化、国際化が強く求められるようになった。そのポイントはユーロ円 取引(非居住者の円貨金融取引)の自由化におかれている。
具体的には、銀行業務の分野で、①円転規制の撤廃、②ユーロ円CD発行の自由化、③ユーロ円貸出の自由化、④円建対外貸出の制限撤廃、また証券業務の分野で、①円貸外債発行基準の緩和、②ユーロ円債発行基準の緩和、③通貨スワップ取引の自由化、④ユーロ円債引受主幹事業務の外国業者への開放などである。
このような方策によって円の国際化を図り世界金融市場の一体化への対応が行われたわけである。このような円の国際化は国内資本からみると、①対外取引における為替リスクの回避、②国内金融機関の競争力強化、③東京の国際金融センター化などのメリットが期待されていた。国際的には①外国資本の為替リスクへの対応、②基軸通貨としてのドルの役割への補完といった資本のメリットを指摘することができる。
このような世界金融市場の一体化への対応は帝国主義陣営全体で強力に実施されていったのであるが、このことを階級利害の観点からみると、これは世界的に合理化競争を推進するための金融的手段なのである。各個別資本からみてファンダメンタルズ(基礎条件)のよい、すなわち労働者の反抗が小さく、搾取率が高い、技術力もその国の発展段階に即しているという国に資本が流出し、そうでない国から資本が逃避をおこす。国際金融の発達はこうした資本の流出入を活発化させていく。1980年代にはモノカルチャーの一次産品輸出国には常 に金融的な圧力が働いて価格の低位安定が実現され、資本主義工業国は原材料調達面でのメリットを享受した。また中南米諸国の累積債務問題は資本逃避の起きた国々でいかに国際的金融独占資本がIMFや世界銀行の機能を利用しながら内政に干渉し合理化をやらせようとしたかの良い実例である。
五 為替レート変動と国際協調
1980年代の為替市場には前半と後半でドル高とドル安の二つの大きな流れがあった。後半のドル安は帝国主義国の国際協調によって実現されたものであった。この流れについて振り返ってみよう。 1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルでG5(日、米、英、西独、仏)の蔵相、中央銀行総裁会議が開かれ、アメリカ主導の下に大規模な介入政策によって大幅なドル安へ為替レートを調整していくことが合意された。この結果、1985年10月から1987年4月にかけて大幅なドル安が現出し、円ドルレートでみると1ドル240円水準から120円へとほぼ100%の円切り上げとなった。
この現象は1980年代前半のレーガン政策の矛盾の爆発ともいえるものであったが、金融上の大変動によってむしろ実体経済面における大変動を緩和しようとしたものであったのである。
日本国内への影響についてみると、大幅な為替変動が起きたことによってまず東京為替市場の取引高が急増した。現在では1日100億ドル程度の取引があるのは通常のこととなっている。これは貿易や長期資本以外の投機的な為替取引を呼びこんだからである。これによって銀行などの外為部門が急膨張した。もっぱら為替投機を業務とするような商社まで現われた。
円高の進行は国内から国外への資本移動をさらに大きくするきっかけになるとともに、日本企業の資金調達の国際化に拍車をかけた。これには次節で触れることとする。
円の国際化という課題は当初はアメリカの対日金融・資本市場開放要求から出てきたのであるが、現在は日本側がこれを積極的に推進しようとしている。IMFの大幅増資により日本はドイツと並んでアメリカに次ぐ第2位の出資国となった。この増資をめぐってはアメリカやイギリスが相対的地位の下落に通じることから抵抗を示していたが、結局経常収支大幅黒字国である日本やドイツに国際金融体制の安定のための負担を分担させなければならないという事情から容認に至った。
日本の長期的な狙いは円の国際化を通じて東南アジアまでを含めた「円通貨圏」の創出に向かっているようである。そのことによって日本企業の多国籍化、とくに東南アジアへの進出は加速していくであろう。