現代資本主義の金融経済(14)
4.欧州ソブリン危機
②欧州通貨統合のハードル
1999年のユーロ導入について振り返ってみよう。もともと第二次世界大戦後の欧州西側では欧州内の為替レートの安定、経済統合による経済の効率化、経済相互依存の進化を媒介とした政治的・安全保障的な安定を望む声が強かった。1970年、欧州通貨統合についてルクセンブルク首相のピエール・ヴェルネによっていわゆる「ヴェルネ計画」が示され、単一通貨の導入を目指して、1980年までに経済通貨統合を達成することがうたわれていたが、これまで固定相場制だったブレトン・ウッズ体制が翌年にはニクソンショックで崩壊してしまい、前提条件が崩れてしまった。それでも1972年には欧州為替相場同盟、1979年には欧州通貨制度が創設された。欧州通貨制度では、欧州通貨単位(ECU)が導入され、各国の通貨の相場が大きく変動することを防ぐ役割をもつものとなった。
1988年、欧州委員会委員長であるジャック・ドロールのもとで経済通貨統合を検討する委員会が「ドロール報告書」を作成し、3つの段階で経済通貨統合を目標とした。1990年7月1日、通貨統合の第1段階に入り、欧州経済共同体加盟国間の資本移動が自由化された。1994年1月1日からの第2段階では、欧州中央銀行の前身である欧州通貨機構が設立された。そして1995年12月16日、マドリードで開かれた欧州理事会の会合において新通貨の名称を「ユーロ」とすることが決められた。1992年の欧州連合条約では、加盟国は経済通貨統合の第3段階、つまりユーロ導入にあたっては「収斂基準」を満たすことが必要とされた。ユーロ導入国に対して、通常の経済情勢においては財政均衡を維持することを義務づけ、他方で景気が悪化している情勢では、経済の安定化のために財政政策を行うことが認められており、該当年のGDPの 3% を上限とすることとなった。ただし、その累積債務残高についてはGDP比60%を上限とした。1999年1月1日、ユーロがそれらの国において電子的決済通貨として導入され、さらに現金が2001年から順次流通に入った。
共通通貨ユーロが導入されたことによって欧州に為替リスクのない人口3億人の市場が誕生した。ユーロ圏経済はユーロ導入の準備段階で統一市場形成への期待が強く、個人消費や投資、さらに輸出入に活性化の効果があった。実質経済成長率をみると、ユーロ導入の少し前の1996年の1.5%から1997年2.6%、1998年2.8%と加速し、2000年には3.8%の高成長を達成した。ただ、これは米国発のITバブルの影響で成長の加速が起きた面があり、ITバブル崩壊後の2002年と2003年のユーロ圏の成長率は1%未満に落ち込んだ。特に輸出入と固定資本形成が大きく落ち込んだのが特徴的である。その中でユーロ圏加盟国の個人消費の落ち込みは限られており、スペイン、アイルランド、ギリシャ、さらにフランス、フィンランドなどで個人消費の底堅さが目立った。一方、ドイツとイタリアでは2000年代前半に景気停滞局面が長期化した。とくにドイツでは個人消費が2002年以降、長期にわたって低迷することとなった。
ドイツの個人消費が振るわなかったのは、輸出の失速によって景気が悪化し、失業率が上昇したことも一因であるが、それ以上に官民で取り組んだ雇用コスト抑制策によって勤労者の所得が抑制されたことが大きく影響したと考えられる。欧州では1999年のユーロ導入に続き、2004年にはポーランドやチェコなど中東欧10カ国のEU加盟が決まっていた。地理的に中東欧にもっとも近いドイツでは、企業がこれら諸国の安い労働力に大いに期待し、2004年をにらんだ直接投資が1990年代から活発化していた。危機感を持ったのはドイツの労働組合と政府で、国内雇用を維持するため、雇用コストの抑制策に取り組んだ。ドイツの賃金は産業別の労使交渉で決定されるが、ドイツ国内の雇用維持を条件に、賃金上昇率抑制が相次いで合意された。また、政府は公的年金保険や雇用保険の改革に取り組み、社会保障コストの負担抑制に努めた。一連の対策でドイツの家計所得の伸び率は2002年から2006年半ばまで実質ゼロ近辺で推移し、消費は低迷した。
所得水準が高いドイツで所得が伸び悩む一方、所得水準が相対的に低い周縁国の所得が高い伸びを達成することは、ユーロ圏という通貨同盟において各国の所得格差が是正されることにつながり、悪いことではない。むしろ、通貨統合によって、資本移動が活性化され、周縁国の経済水準をかさ上げしていくことが期待されていた。2000年から2007年の平均経済成長率をみると、ドイツ1.4%、フランス1.8%に対してスペイン3.4%、アイルランド5.0%、ギリシャ4.1%というように、今回問題となった周縁国の経済成長が高かったのである。周縁国の経済成長は固定投資に主導され、それをファイナンスした外国井からの資本流入は通貨統合効果によってもたらされたものであることは明らかだった。こうした2000年前後からの南欧諸国の高い経済成長は、この目的が達成された証拠のように見受けられた。ドイツとイタリアの成長率の伸び悩みという問題点はあったものの、ユーロ圏全体の成長率は2004年から2007年にかけて平均2.5%という堅調な伸びを維持した。そして欧州経済全体の景気がピークに至る直前の2006年、2007年はドイツとイタリアの景気も拡大局面に入ったとの実感が生まれた。
しかしながら問題も生まれた。資金余剰国と資金不足国の固定化である。ドイツ、ベネルクス、北欧諸国を中心とする北部ヨーロッパの国々は恒常的な資金余剰国となった。生産性が高く資本財などの輸出競争力を持つ諸国である。一方、恒常資金不足国は、現在財政懸念国に名前を連ねている南欧諸国とアイルランドと社会主義経済から市場経済へと移行し、西欧向け製品の生産市場としてキャッチアップを図る中東欧諸国であった。この動きは各国ベースで言えば、経常収支黒字国で黒字が拡大し、赤字国では赤字が拡大し続けていた動きと呼応する。ここで問題となるのは、この動きが「ユーロ圏」という仕組みによって増幅され、固定化されてしまったことである。
問題の本質的な解決というよりは、政府債務問題のスパイラルなデフレ危機に至ることを阻止するための方策ではあるが、金融の超緩和は2つの意味で必要である。ひとつは市場心理の悪化による流動性の問題で金融機関が連鎖的に破たんすることを防止すること。もうひとつの役割はマイナス実質金利によって債務デフレを緩和することである。
政府債務を増税や歳出削減なしに軽減するためには利子を実質的にマイナスにすればよい。例えば、国債の金利が1%で物価が2%上昇すれば、実質的には1%国債残高が減少したことになる。実際、現在、米国や欧州の先進国で超金融緩和を行っている結果、現在はほとんどの期間の金利がインフレ率より低くなって実質マイナスになっており、これは意識的に行われている政策であるといってもよい。その直接的な目的は流動性の供給による金融システムの安定化であって政府債務残高の実質減少であるとはいえないが、結果とし財政赤字の棒引き効果がでてくることになる。
それでは、この棒引き効果は誰の負担になるのか?実質金利がマイナスであるということは、預金や債券の保有者その分だけ損失を受けるということである。つまり、実質ベースでみたとき、預金や債券の保有者から債務者に資産の移転が行われるということになる。仮に債務者が国家だけであれば、金融資産の残高に税をかけることと、実質ベースでは同じことになる。しかし、実際には債務者は国家に留まらないので、一般的に債務者全体にメリットを与えることになり、景気刺激策としては有効であるものの、資産再分配上の副作用を伴うことになる。また名目的にはプラスの金利が維持されているものの、実質金利のマイナスは一通貨圏のみでは持続できない。金融市場は世界的につながっており、資本移動が自由な先進国間では実質金利は収斂していく力が働くはずだからである
もうひとつの観点は域内における物価格差をどうみるかという点である。統一市場である限り、移動の容易な財や、サービスのうちでもある程度遠隔でも提供可能であったり提供が国境を越えて容易に行えたりするようなサービスであれば、価格は市場メカニズムによって単一の価格に収斂すると思われる。
もともと、ユーロ導入以前の中心国の物価と周縁国の物価には水準と価格体系の差があった。物価、とくにサービス価格は概して中心国が高く、工業製品価格はしだいに単一価格に収斂しているといえる。であれば、景気が良かった時期に周縁国のほうが、インフレが高かったのは、ある意味で必然的な動きであったし、市場メカニズムに沿ったものでもあった。
今後、周縁国の国際収支を改善させるには、周縁国の産業の輸出競争力を高めることが肝要である。長期的には構造政策による生産性上昇が大切だが、短期的には価格面での調整がまず必要になる。ユーロ圏の中心国に対して相対的に周縁国の付加価値の価格の引き下げを行わなければならない。つまり、物価そのものの上昇の格差に注目するよりもより賃金の格差の拡大に注目しておくべきで、周縁国と中心国の賃金格差が生産性格差にみあうように調整されていくかどうかがポイントになろう。
ドイツ連銀のウルブリッヒ経済部長は連邦議会の金融委員会(2012年5月)で、ドイツの物価上昇率はユーロ圏の平均物価上昇率を将来上回ると予想され、それを容認すべきだろうとの見解を述べている。ショイブレ財務相もこの考え方を支持し、また、賃金上昇についても積極的なスタンスを表明している。賃金の上昇によって需要を拡大し、欧州全体の緊縮による需要減退に対しプラスの効果を期待する考えである。
周縁国で生産される財やサービスへの需要を他国、とりわけEUの中核国が作り出すことである。80年代前半の中南米債務危機のときには、米国はドル高と減税を中心にした内需拡大を行い、中南米諸国に市場を提供した。これは当時の債務国における緊縮策とあいまって貿易収支の大きな改善をもたらした。しかしながら、ドイツが80年代前半の米国のような需要基地の役割まで引き受けることができるかどうかは未知数だろう。
危機が深刻化する過程で、その収束には財政統合が必要というコンセンサスが形成されていったことである。ただし同時に、社会的・政治的な障壁があまりに高く、財政統合などは机上の空論というのも、もう一方のコンセンサスだった。解が明確になる中で、そこへの到達が不可能に近いという認識が根付いたわけであり、こうした出口なしの閉塞感が危機の一段の深刻化を招いた。これが当時と今の大きな違いである。財政統合の最終形が見えてきたわけではもちろんない。
しかし2012年6 月末のEUサミットで銀行同盟が主要議題として登場し、ユーロ圏共通予算も討議された。銀行同盟については救済側の資金負担を伴う破綻処理の一元化、預金保険の一体化の議論を回避し、銀行監督のみを先行させるなど、「できる所(政治的コストの小さい所)から統合を進める」という姿勢は相変わらずであり、政治の動きが加速したとは言いがたい。しかし、このような財政統合の「部分」が具体的な討議の対象になっていることは、財政統合が既に夢物語ではなくなりつつあることを意味している。そして、こうした政治の変化の結果、時間はかかるがユーロ圏は統合の方向に動きつつあり、その時間を埋めるのがECBだというコンセンサスを生みつつあるように思われる。