アジア経済の混乱とAPEC
「社会主義」1998年1月号(社会主義協会)
北村 巌
1.アジア諸国の経済混乱
97年7月以降、タイのバーツの暴落に始まり、アジア諸国の通貨は軒並み暴落した。年末迄の対ドル相場の下落率をみると、タイバーツ46%、インドネシアルピア51%、韓国ウォン43%、マレーシアドル34%、フィリピンペソ33%、シンガポールドル14%、台湾元14%などとなっている。通貨暴落の直接的なきっかけは、国際的な投機目的のヘッジファンドによる投機と伝えられているが、そうした投機が成功する裏には経済的な条件があった。
アジア途上国の経済は、表1にみるように、若干の変動がありつつも、80年代後半から概ね高度成長を成し遂げてきた。この高度成長の主役は輸出であり、それが日本をはじめとする外国からの直接投資を呼び込みながら、国内の設備投資を増加させ高い経済成長を維持してきた。
こうした構造がどうして崩れてきたのであろうか。第一には、これまでの輸出相手先である欧米先進国の側で、財政再建の動きが強まり、貿易赤字体質がかなり改善されてきたことをあげることができる。第二に、中南米諸国、東欧諸国の経済が立ち直り始め、アジア諸国にとっての競争相手が増加していることによって、これまでのようなアジア諸国が欧米先進国の輸入増加のメリットを独占的に享受することができなくなった。第三に、これらの諸国の賃金の上昇により、低賃金労働力を競争力の源泉とするような産業はしだいに衰えはじめた。これらが長期的にみてアジア諸国の成長の足かせになってきている。
しかし、輸出主導経済が変化しつつある中で、高まった国内の所得を背景に国内需要主導型の成長志向がみられなかったわけではない。しかし、その内需の生み出される構造は国外からの投資に頼る部分が大きかったのである。輸出産業の鈍化と、外国からの直接投資が停滞しはじめる中で、国外からの投資は証券投資などのポートフォリオ投資のウェイトが大きくなっていった。これは、アジア諸国の通貨が米ドルにペッグ(相場を固定)されていること、その一方で高金利であることが、国際的な資金を呼び込む形となった。そうして、これらの諸国の国内には多かれ少なかれ不動産価格などの資産価格の高騰といういわゆる「バブル現象」を引き起こしたのである。80年代以降、先進国でも経験済みのことではあるが、こうした資産価格の上昇にのみ支えられた経済成長は長続きしない。
これを崩壊させる力は日本からやってきた。日本は95年の円高以降、経済の1定の回復が見られる中で、財政的緊縮政策にうつり、97年は消費税率の引き上げ、減税の廃止、社会保険料の引き上げ、公共事業の縮小など、9~10兆円の規模の財政緊縮が行われた。
これは国内の貯蓄の超過をもたらし、海外への資金移動が誘発されることで、為替レートを円安に振れさせてきた。この円安により、日本は輸出の増加、輸入の停滞という形で貿易黒字を増加させてきている。通関ベースでみると、96年の6兆4千億円の黒字に対し97年は11月までの累計で8兆8千億円を越し、10兆円に近い黒字となろうとしている。日本が貿易黒字を増加させているということは、とりもなおさず、アジア諸国にとっては貿易収支の悪化を意味する。アジア諸国の通貨が米ドルにペッグされているため、円安は円に対する自国通貨高となり、輸出の抑制、輸入の増加に結びついた。直接的な日本との収支の悪化ではなくても輸出市場は同一であり、日本の輸出拡大はアジア諸国にとっては輸出の抑制につながる。日本企業の動きも、通貨高に対応して生産をこれらの諸国から国内に引き戻す動きも出てきた。
以上の条件を考慮すれば、タイなどの諸国が円安を無視したまま、自国通貨をドルにペッグしておくことはできないことはわかりきっていた。しかし、一方で、自ら自国通貨の切り下げを行えば、ドルにペッグしていることで流入していた外国資金は流出を始める。これも選択はできないというジレンマにおかれたのである。そうした条件がある中で経常収支の赤字の大きい国から狙われ、ヘッジファンドによる投機が成功したのが今回の通貨暴落の事態であった。
2.新たな途上国債務問題
今回のアジア諸国の通貨暴落、そして、対外債務問題の深刻化は途上国の債務危機に発展している点で、80年代初頭における中南米債務危機と似通っている。連鎖的に危機が波及した点、工業化がある程度すすんだ中進国に起きている問題である点などが指摘される。
一方で、様々な相違点も存在している。中南米危機の場合、国外資金の借り手は政府ないし政府系機関であって、その資金の使途は大規模なインフラ開発などの公共的事業が多かった。第一次オイルショック以降の世界不況の中で、ドルの実質金利が大きく低下したため、国外資金を取り入れて内需振興として公共事業が行われたがそれが第二次オイルショックと米国の金融引き締めにより限界に達したことが背景である。
これに対し、今回のアジア諸国の場合、民間ベースの資金の問題が大きい。タイ、韓国などでは民間銀行の経営への不安から、信用不安が拡大している現状がある。 中南米危機の時は、中南米の経済の危機であると同時に、貸し手である米国商業銀行の危機でもあった。
表2 BIS報告銀行の国際貸付の分布(1996年12月末) (構成比、%)
日本 北米 欧州 その他
世界全体 17.1 15.0 54.3 13.6
途上国 20.0 17.7 49.9 12.4
アジア 32.3 11.0 42.2 14.5
ラ米 6.3 31.0 54.4 8.2
中東 5.8 8.9 66.0 19.2
アフリカ 4.5 6.3 79.0 10.2
東欧 3.9 9.3 79.5 7.3
先進国 14.6 8.9 57.3 19.3
(出所) Bank for International Settlements
日本の民間銀行のアジア向け貸付は2648億ドルであるが、最大の向け先は香港、次がシンガポールであり、今回の混乱で通貨が大きく下落したタイ、韓国、インドネシア向けは、それぞれ375億ドル、243億ドル、220億ドルとさほど大きな規模ではなく、これまでのところ日本の民間金融機関にとって、国内の不良債権問題に比較し深刻な問題とはなっていない。むしろここ数年は欧州の金融機関による貸付の急増があり、こちらの方への影響が大きい可能性もある。
ただし、タイ向けについてみるとタイの対外民間金融機関債務が702億ドルであるうち、日本は375億ドルと53%を占めており、日本がどうでるかはタイにとって大きな問題である。
規模の大きい韓国にたいしては、東京三菱銀行やシティバンクなど日米欧の主要銀行は、深刻な外貨不足に陥っている韓国に対する緊急の金融支援策として、返済期限1年以内の短期融資を1~3年程度の長期融資に振り替え、貸し出しを継続する方向と報道されている。
貿易面からもかなりの影響がでてくるであろう。今回の通貨安はおそらく日本の 輸出の減少につながることから、日本の経済成長率を0.5%程度押し下げる効果がでてくるかもしれない。
今後のアジア経済の展開の中で極めて大きい役割を果たすのが中国経済の動向である。中国の経済成長はめざましく、96年の実質GDPは9.7%の成長であった。97年に入ってやや鈍化しているものの9%程度の成長が期待されている。
しかし、こうした成長は輸出主導で行われており、周辺諸国の大幅な通貨安の中で中国のみが為替レートを維持したままで輸出を継続的に拡大しうるかどうかは疑問である。人民元の切り下げという事態になれば、アジア経済に再び大きな衝撃を与えることになろう。
3.APEC閣僚会議の位置 - アジア通貨体制のゆくえ
こうした経済情勢の中、97年11月18日から19日に第9回APEC(アジア太平洋経済協力閣僚会議)がカナダのヴァンクーバーで開かれた。参加国は、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、チリ、中華人民共和国、中国香港、インドネシア、日本、大韓民国、マレイシア、メキシコ、ニュー・ジーランド、パプア・ニューギニア、フィリピン、シンガポール、チャイニーズ・タイペイ、タイ及びアメリカ合衆国の18ヶ国・地域である。
今回のAPECの最大の課題は、「貿易及び投資の自由化及び円滑化」であり、より具体的は、早期自主的分野別自由化(EVSL)である。ここでは、「世界貿易自由化におけるAPECのリーダーシップを示すことが重要である」ことが強調された。共同行動計画としては、以下のような事項が合意された。
・税関近代化ブループリント及び税関協力に関するその他のイニシアティブの策定
・ビジネスの情報及び支援のためのAPECインターネット・サイトの設置
・国際規格との整合化の進展
・知的所有権の取得及び使用についての透明性向上
・メンバーが自主的にそれぞれのIAPに含めることが可能な投資環境を改善するための選択肢の策定
・モデル相互承認取決めの作成
・紛争仲介作業を指導するための原則
・APECビジネス・トラベル・カードへの参加拡大等を通じたビジネス関係者の移動の円滑化
・政府調達における透明性に関する非拘束的要素
・アジア太平洋情報社会を実現するための作業
・技術的規制に関する準備、採択及びレビューに向けたAPEC指針の完成
・APECメンバーの実効関税率についてのインターネットを通じた一般からのアクセスの確保
・統合・インテリジェント輸送システム創造のための行動計画
・水産業のための市場・貿易情報
・独立発電事業者にとっての入札、承認及び規制の簡素化及び一層の透明性に関する指針の作成
・貿易促進作業部会及び貿易・投資データ・レビュー作業部会におけるイニシアティブ
貿易自由化については、WTOに集中して、他国間協議により進展を図りたいアメリカ以外の諸国と二国間協議で自らに有利な交渉を行いたいアメリカとの利害の対立がある。APECの枠組みでの貿易自由化の進展は他国間協議をベースにする方向への動きとなっている。
この方向は、実は多国籍企業(最近はトランス・ナショナルズとも表現される)の利害に沿ったものでもある。APEC域内では、多国籍企業の活発な国際分業の再編成にともなって、アジア諸国間の経済の相互依存関係が深まっており、域内貿易の自由化促進はこうした動きに拍車をかけるものとなるだろう。
一方、通貨問題に関しては、APEC開催以前に一部でみられたアジア通貨基金(AMF)創設の動きはアメリカの反対で封じ込められ、IMF(国際通貨基金)主導の対策が合意されたといってよい。これは、アジア地域における相対的に自立した経済圏の形成が通貨の面を通じても促進されることに歯止めをかけるものとなる。
しかし、経済の実態からいえば、今後、日本が再び財政積極策に転換し、アジアからの輸入拡大を行っていくと、ヨーロッパや米州大陸における経済圏とは濃度の差が大きいとはいえ、地域的な経済統合が進んでいく可能性は高い。
今回のアジア通貨暴落は、これらの通貨が円の動向とも調和していなければ、やっていけないことをはっきりと示した。日本銀行が、アジア諸国の中央銀行への支援体制を整備していることは、いずれ、円の国際化が、アジア地域を中心にして進んでいく条件が成熟していることを示している。 今のところ、一部で提案されている「ドル、円を中心にした通貨バスケット」へのアジア諸国通貨のペッグという枠組みを作るまでの動きには至っていない。しかし、事実上、アジア諸国が程度の差こそあれ、そうした「通貨バスケット」を意識した通貨政策をとらなければやっていけなくなったことを示したのが今回の事態である。
「社会主義」誌(社会主義協会)掲載 経済情勢分析リスト(北村執筆分)