我が恩師、アニメーション作家・相原信洋
1999年。浪人生だった私が、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)のオープンキャンパスで、インディアンみたいな人を発見した。
チリチリパーマのロン毛で、サイケデリックでド派手な服。
正直、怖くて近づけない。
しかし気になって仕方がない。
それが京都造形芸術大学教授、そしてアニメーション作家の相原信洋先生との出会いだった。
私が京都造形芸術大学に入学したのは、相原先生という存在がいたからだ。
そして、私が相原先生のアニメーションの授業を受講したのは、アニメーションに興味があったというよりも、相原先生に興味を持ったからなのかもしれない。
相原 信洋(あいはら のぶひろ、1944年 - 2011年4月30日)は、個人アニメーション作家。
商業アニメのアニメーターとしてキャリアをスタートさせ、スタジオ・ゼロ、次にオープロダクションに在籍。1981年の劇場映画『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』では宇宙空間の抽象的なグラフィック・アニメーションを担当する。
1965年よりアニメーションの自主制作を開始し、精力的に作品を発表して世界各国から招待上映され、アニメーションアートの発展に力を注いだ。
その作品は、サイケデリックな色彩で直感的。されど精密なドローイングのアニメーションは、シュールで混沌とした世界を描き出している。
短編アニメーションというよりも、実験映画にも通じるアバンギャルドな作品だ。
相原先生は、多数のアニメーション作品を発表する、本物のアーティストだった。
しかし、時としてハチャメチャで破天荒。たまに理不尽なことも起きる『先生』らしくない大学教授。それが相原先生だった。
まさに、作品のままの人物像。
そんな相原先生のアニメーションのアニメーションの授業を受講し、そして色々な国の旅をついて回った。
一回生の夏は、インド・ネパール。
四回生の春は、チェコ。
それに、北海道の富良野の映画祭や、壁画を描きに埼玉のダムへも行った。
そして京都の海辺の別荘(?)にみんなで遊びに行ったりと、その背中を追う。
相原先生は、その当時から多拠点ライフを実践していた。
京都に拠点を置いていたはずだが、wikipediaによると函館にも家があり、富良野や、ネパールにも家を持つ。気がつくと、世界中を飛び回っていた。
『ライトボックス』という道具がある。
蛍光灯やLED照明が入った箱で、手描きのアニメーションを作る際にトレースをするために使う道具だ。
相原先生はどこにいくにも『ライトボックス』を持ち歩いていた。旅先でアニメーションを作るためだ。
インターネットがない時代から、ノマドワーカーだったのである。
そして、私は相原先生には多くのチャンスを頂いた。
チェコへの旅では、相原先生のツテでプラハ工科大学を見学に行くことが目的。私は卒業後に、真剣にチェコ留学を考えていたのだ。
結局、チェコには留学に行かなかった。
その理由も相原先生からもらったチャンスだった。
大学卒業後、イギリスのアニメーション会社に就職できたのも、相原先生からの電話がきっかけだった。
イギリスで就職した後も、一時帰国した折には必ず大学へふらりと遊びに行った。特にアポは入れない。そんな野暮なことは、相原流ではないのだ。
会えなきゃ、会えないで仕方ない。
でも、会えた。縁があったからなのだろう。
しかし2011年4月30日、相原先生はバリ島に滞在中に急逝する。
直前まで元気に食事をしていたらしい。
とはいえ不謹慎だが、旅先のバリ島で亡くなるところが相原先生らしいのではないだろうか。
『バリでめちゃくちゃおもしろいこと見つけたから、ちょっと空に行ってくるよ〜!』とでも言わんばかりの、突然の亡くなり方だったのだ。
追悼行事も参加して、後日遺品として私もド派手な服を何着か頂いた。まさにインディアンのような服。
しかし、もっとも色濃く受け継いだものは、その生き方だろう。
今でのアジアでふらふらと、アニメーションやアートを作っている。
今、もし、相原先生とお会いしても、私は恥ずかしくはない生き方をしているはずだ。
この記事を書くにあたって、久々に相原先生の写真を見る。改めて、本当にド派手な格好だ。なかなか、あのド派手な服を私が着る機会はなさそうだ。
とはいえ、相原信洋先生は私にとって、カラフルな憧れのスナフキンだった。
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