母の治療開始から15年の節目で思うこと

この手記は、闘病することになった家族を持った娘の視点から書いたものである。そして、巷に出回っているような感動ストーリーでもなんでもなく、悪しき事例もありのまま書くし、家族自体の心境や環境の変化も書く。もし、自分が家族を支えられてないのではないかと思い、悩んでいる人がいたら、その気持ちは自然なことであり、自分を責めるようなことではないというメッセージを伝えたい。誰もが、向き合ったことがない状況に直面し、逡巡し、自分や家族なりのありのままの状態を作っていく、その過程にいる。率直すぎる表現もあって傷つく人もいるかもしれないが、当時のありのままの気持ちと、その後の変化を書くことが大事なので、表現の拙さがあってもご容赦いただきたい。

私の母が乳がんを患ったのは15年前のことだ。クリスマス周辺のある日、当時の彼氏と遊びに行く朝に、「胸にしこりがあることに気づいた」と本人が言った。その時は、「なんで出かける直前にそれを言う?」と正直思った。でも、今考えると、色々といつ話すべきか迷った末に、どうしたらいいかわからなくなって、そのタイミングになってしまったのだろう。
年が明けて、なかなか精密検査に行かない母に私は苛立ち、「自分で異常に気がついていて、早く確定したら早く治療ができるのになぜ行かないのか。早死にしたいんか!?」と言った。なぜそんなきついことを言ったかというと、私の祖母、つまり母の母親は、すい臓がんで私が中2の時に亡くなっていた。発見した時は手遅れで、手術室で開腹したものの何もできない状態で、不調を訴えてから半年か1年ほどで亡くなってしまった。私は、がんという病気の恐ろしさに人生で初めて直面し、その急激な状況の変化についていけなかった。しばらく祖母の死を受け入れることができないまま、暗黒の中学時代を送った。母だって、受け入れるには時間がかかっていた。
そういうわけで踏ん切りがついたのか、近隣の病院に行き「限りなく黒に近いグレー」ということで、大学病院に紹介状を書いてもらうことになった。
そして「家族を呼んで検査結果を一緒に聞いてください」というドラマでよくある光景が到来した。私はショックで診察室で号泣した。がんの治療法は確実に進歩しているとはいえ、10年前の祖母のことがあったから、嫌な想像しかできない心境だった。
社会人1年目の年度末であった。

家族の病気というのは、いつでも「なんで今?」という状況で訪れる。新卒研修を受け、OJTもこなし、さて独り立ち直前というタイミングで、私だけ戦線離脱をしなければならない。当時いた会社はマスコミ系で、会社にいる時間=頑張り=評価というカルチャーがまだあった。しかも2月、3月が繁忙期であった。
私の父もまだ現役で働く年齢で、新卒の私より何倍も稼いでいる。そして昭和オヤジの典型パターンで家事一切は母に丸投げしていた人だ。働いている会社も男社会で、家庭の事情に理解がない。必然的に、私が看病することになった。大学で色々チャレンジしたことを生かして、仕事を頑張って、いろんな広告を世に出していくぞ。意気揚々と漕ぎ出した将来の展望は、そこでつまづいたように思えて、正直、悔しく焦る気持ちがあった。
一方で、母の治療が思わしくなければ、考えたくないケースもありうる。そしてその目処が立つかどうかは、誰にもわからない。その現実と、自分の本心の間で、私は不安になり、こんな気持ちを持ってしまっていいのかと悩み、毎晩のように静かに自室で泣いていた(当時は実家にいた)。

上司に相談して、仕事を1週間ほど休ませてもらうことになった。どういうきっかけか忘れてしまったが、休む直前に新卒同期が会議室に集まってくれて、激励してくれた。その中の一人が、自分の親も子宮がんで闘病したことがあるという話をしてくれて、比較的、若い時期に親の看病をするケースって、自分だけではないんだなと思い、励まされたのを覚えている。
何人かの友人にも、メールをしたら電話をしてくれて、私の気持ちに寄り添ってくれたり、他愛のない話をしてくれたりして、支えられた。

そこからの記憶は正直断片的である。手術室には歩いて向かう病院だったが、入る前に「私はもうまな板の上の魚だから、お医者さんを信じて任せる」と力強く言った母のこと。医療事故防止のために麻酔に青い着色料を入れていたせいで、めちゃくちゃ青く変身した母が病室に戻ってきて、冷や汗をかいたこと(今では笑い話)。主治医の先生から、取った腫瘍を手で触るように言われ、まだ生ぬるい温度の石のように硬い塊を持ち「この硬さを覚えておきなさい。こういうのを見つけたら、あなたもすぐに病院に行くように」と言われたこと。帰り道に、父とお寿司屋さんに寄って、とりあえず成功を祝うかとちょっと高めのお寿司を食べて帰ったこと。
それまでの23年の人生で体験したことがない、なかなかの衝撃の連続だったことは確かだ。

多くの病気がそうであるように、手術したからといって治療は終わりではない。術後の傷のケアや日常生活の補助が、私の家事となった。母の場合は、放射線治療を数ヶ月行い、ホルモン療法としていくつかの薬を毎日服用することになった。乳がんの場合、他のがんと比べて進行がゆっくりな傾向があるため、5年〜10年は検査や経過観察で通院する。
毎年、CT検査を含めた全身検査を行って、再発していないか観察していく。要するに、向こう10年程度は、年度末に精密検査の結果をドキドキしながら待つ落ち着かない日々を過ごすことになった。

母は、自分ががんになった背景や意味合いを考える心境になっていた。それまでの生き方、食生活などいろいろなことを見直し、結論として「もっと、気ままに生きよう」という結論に達したようだ。もともとマイワールドがある人だったが、術後はそれに拍車がかかった。それが、父と私の価値観やペースとあわず、家庭内でストレスが生じたことは正直否めない。
父は、病気の影響もあって家事のペースが落ちた母に辛く当たることが時々あり、私はそれに反発した。父vs私の対立構造ができて、その仲裁をする母という状態になった。
一方で、自分も会社の中堅クラスになってわかることとして、当時の父も配偶者の闘病という現実を前に、自分も倒れるわけにいかないという気持ちと、仕事で失敗できないというプレッシャーを抱えていた。今でいう男性更年期の状態だったかもしれない。それまで見たことがない、情緒不安定で、何かに当たり散らす言動が時々発生するようになった(今は引退して、落ち着いた爺さんになっています)。

私は、母の入院中、病院と実家と会社をトライアングルで駆け回り、退院後は、会社で残業ができない代わりに、夜中に家で猛烈に仕事をした。会社のメールを自宅メールで読めるようにし(今はNGなやつだけど当時はOKだった)、プライベートの携帯番号をクライアントに教え、毎日のように徹夜をして仕事をこなし、年度末に離脱して遅れた分をキャッチアップしようと無理をした。そのせいで、ついに5月ごろに不整脈で寝込むことになってしまった。原因はストレスだった。
差し飲みに行こうと約束した友人に「心臓がバクバクするので、ごめん」というメールをして、自分でも驚くぐらい心拍数がおかしい状態で12時間くらい寝た。起きたら翌日昼ごろで、会社の先輩はもちろんのこと、前日ドタキャンした友人から何度も着信が残されていた。心臓がおかしいと言われて音信不通になったら、誰だって心配するだろと怒られた。
それがきっかけで、私は会社を辞める決意をした。

親の看病だけでなく、将来的にもし子供を育てることになったり、介護が発生した時を想像すると、会社にいる時間や対応した時間=時給=自分の価値で評価される環境だったら、どうやっても這い上がれない。そういう不安がなく誰かに任せられる人たちと、私は立場が違っていて、父が家庭のことを何もできない以上、私がフォローするしかない。しかし、会社にとってはタクシー帰宅も厭わず残業する行動ができない社員は、きっと迷惑な存在だろう、と当時は思った。であるならば、どういう状況下であっても、自分の出したアウトプットやパフォーマンスで評価され報酬がもらえる仕事に就いた方が良いのではないか。そのためなら一から出直そう。そういうわけで、手っ取り早く潰しが効きそうな市場調査という仕事に着目し、第2新卒枠で採用してくれるマーケティングリサーチ会社に転職した。新卒1.5年目のことだ。

母の経過は、しばらく安定した結果を出していたが、5年後に再発した。ある年の年度末、メールで「ちょっと悪い結果だったけど、たぶん心配ないから」と言っていたが、結果的に違った。
その時、父と最悪に不仲になっていた私は、親に黙って一人暮らしをするアパートを仮契約し、止める母を振り切って実家を出ていた。
そんな経緯があったから、母の再発は、私が実家から逃げストレスを加えたせいかもしれないと自分を責める気持ちを抱いた。再発の診断を再び家族全員で聞いた時、当人を差し置いて私がまた診察室で号泣し、主治医の先生がなだめるという謎展開になった。あんなに頑張って食生活を改善して、良い経過だったのに、昨年は全く何も異常なしだったのに、なんで?という気持ちである。
転職した会社で大きな仕事を任せてもらえるようになり、これからというタイミングで起きたことだった。再発した母の状態も心配だが、私の人生ってどうしてこれほど落差があるのかと思ったのも事実である。
本人、そして現在も闘病中の方々は、我々の想像を超えた苦しい気持ちがある。であるからこそ、私のこの時の気持ちは、もちろん本人に言えるわけではない。ただ、周囲だってその時に置かれた環境下でいろいろな感情が沸き起こっていて、それを胸の内に抱えることしかできず、辛いこともあるのだ。それを誰かと共有することができる場は、あの時はなかった。

その代わりに、私は「どう家族の闘病と付き合っていくか」の心の持ちようをこの時に学んだ気がする。
毎回、自分が勝手に落ち込んだり、勝手に不安になっていたら、自分が持たない。逆にそういうよくない心理状態が自分自身を病気にしてしまうだろう。
どうやって発散・昇華していくかを考えた方が良い。そして極力、それまでの自分の生活や仕事、ルーティンに意識して集中する。自分のペースや平穏な気持ちを意識して保つことで、初めて人に優しくできる。
このことに、私はいろいろな人の助けを借りてやっと気が付いたのだった。

直属ではなかったがとある課長が「どうも元気がないから」と会議室に呼び出してくれて、全てを話した。「それはつらいよな。ただ、看病とか介護とかそういうものを抱えながら仕事をしている人は、実は周りにも結構いるぞ」と、心のバランスをどう取るかの話をしてくれた。
当時、たまたま勤務先の近くに勤めていた仕事関係者の人が、ある日、私を飲みに誘ってくれた。でも翌日は母の2回目の手術であった。行くか迷ったが、何となくまっすぐ家には帰りたくなくて、少しだけ飲みに行った。
会話の内容はほとんど覚えていないが、どうでもいい話をたくさんしたようだ。唯一、憶えているのが、「お米って一合だけ炊いても美味しくないのはなぜだろうか」という問いで、いかに一合炊きはダメかということで盛り上がった。その時の解決策は、二合炊いて冷凍ご飯にしておくという、これもどうでも良い話ではあるのだが、この一連の会話はとても鮮明に覚えている。こんな他愛のない話のおかげで、私は余計なことをぐちゃぐちゃ考えず、酔いも手伝ってさっさと眠ることができたのであった。

2回目の手術は、側から見ていても辛そうであることがわかった。5年経つと体力も落ち、術後の回復は歩行も、傷口も時間がかかった。
実家にしばらく帰るかどうか迷ったが、私は病院と自宅と会社のトライアングルを選択した。
当時、私が住んでいた家の近くに夜遅くまでフードを出してくれるお店があり、帰りが遅くなった日はちょくちょく通っていた。そこには仕事人としての私を知る人は誰もおらず、仕事で大変なことがあったら、ちょっと愚痴をこぼしたり、一切関係ない話をしたりして、リセットした状態で自宅に帰れるスイッチオフの場だった。BGMでかかっている音楽も私の好みで、音楽家の方も時々来店しており、いろいろ話す機会もあった。
病院帰りで気持ちが重たくなった時、うまくいかないことがあった時、このお店でいつものように温かいご飯を食べ、お酒も飲み、その時々の世間話をすることは、私にとって大事な浄化の時間であった。
いったんリセットして、切り替えるための時間が必要だった。それを自分で意識して作り出す必要があることに、この時はじめて気がついた。

1回目の母の手術の時は、私にはこういう選択肢がなかった(知らなかった)ことで、自分を勝手に追い込んでいたのかもしれない。
実家を出て、物理的な距離ができたことで、私自身の生活スタイルを作ることができ、それを守りながら家族と向き合うという形を作れた。このことは、その後にも効果があったのではないかと思う。

先日、母はついに経過観察の検査を全てクリアし、治療終了となった。
最初の手術から15年、長かった。
歳も歳なので、またいろいろ不調は出てくると思うが、この15年間を私なりに考えながら走ってきたことで、辿り着いた考えがある。

一つは、今だから思えることとして、親の病気は、結果的に私の人生を切り開く(?)転機になったということだ。新卒2年目で会社を辞め、一から違う仕事を始めたことで、調査文脈から統計解析に出会い、今のデータサイエンティストとしての自分がある。
家族や自分の健康は保証されているものではないし、社会情勢の変化も激しい。どんな状況下に置かれても自分が価値を発揮できる仕事は何かという視点を持ち続け、実現するための努力はそれなりに頑張ったと思うし、これからもしていくつもりである。親が健康なままだったら、私はこのようなキャリア論みたいなことを20代前半で考えることはしなかったであろう。あの時は暗闇にいるような気持ちだったが、とにかく可能性がある方向に手を伸ばそうとした当時の自分を、褒めてあげたいと思う。

それからもう一つ。どんな状況下に置かれてもパフォーマンスを発揮するためには、意識して自分の生活スタイルを守ることが大事であるということだ。毎日のルーティンでも良いし、時々行く近所のお店を持つでも良い。趣味活動でも良いと思う。ただし、そんなに労力がかからないものにする。無理しないとできないようなものは避ける。自分のスイッチオンオフやリセットができる何らかの場やツールを見つけたら、それを意識して守る。自分の気持ちが折れそうになった時こそ、閉じこもらず、自分を追い詰めず、「いつもの」何かを意識して実行する。これが、気持ちの平穏を保ち、自分にも他人にも優しくできる方法の一つであると、気付かされたのだ。

最後に、助け合いについて。サポートする、助け合うというと、何か直接関わらないといけないような気がするが、ただ隣にいて話しているだけでも十分な時だってあるということだ。
先に書いた一合炊きの会話も、近所のお店での世間話も、仕事の会議とは違ってそこから何かを生み出すための会話ではない。悩みの解決にも直接はつながらない。でも当時の私は、誰かに何かを相談したわけではなく、自分が沈痛な気持ちになっていたこととは全く関係ない話をするだけで、なんとなく救われた気持ちになった経験をしたのだ。(念の為書いておくが、親しい友人たちにはいろいろ打ち明けて、ボロ泣きする私に寄り添ってもらったことも大変心の支えになったことは事実。辛さを吐き出すことも大事である)
ちなみに一合炊きの話には、後日談がある。何年か経った時にもう一度この方にそれとなく一合だきの話をしてみたら、覚えていなかった。それどころか、一合炊きでも美味しい高級炊飯器があるのだと言って、毎日炊きたてを食べるために一合炊き派になっていた。わりとあの時の会話に救われたから、私はその後も二合炊きを続けていたのになと思ったが、他愛のない会話とはそういうものだ。言ったことすら忘れるほどのどうでも良い話が、誰かにとって何らかの意味を持つ出来事になったりするのである。
まさに「行為」ではなく「存在」が周囲に影響を与えるということだと思う。そして自分自身も、「存在」することで今後、誰かの何かに少しは貢献できたら良いなと考える次第である。

長文・駄文 これでおわり