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家の近くに遊歩道があるということ

大学時代に住んでいたアパートの近くには「玉川上水」の遊歩道があり、社会人になってから「せせらぎ散歩」と言われる遊歩道がやや離れてはいたがあった。特に遊歩道を求めてそこに住んだわけではなかったが、なんとなく好きで時々散歩をしに出かけていた。

というは、こないだまでいたフィンランドには本当に多くの遊歩道が整備されていたからだ。当時は家が定まっていなかったからAirbnbを使って2箇所に住んでみたが、100m先が森だった。別に軽井沢のような別荘地であるわけではない。むしろヘルシンキ周辺では、安い地区に分類されるところだったと思う。それなのに、森がすぐ近くにある、しかも500m先くらいにもちょっとした森がある。なんだこれと思った。

そういうこともあって、こちらの人たちはよく散歩している。雪が降っても、お構いなし。そして日中に意外と若い人たちが散歩しているのを見かけたが、この人たちは働いているのか?と思ってしまうほどだった。

それに比べると日本に遊歩道は少ない。もちろんフィンランド(北欧)が異常なだけなんだと思うけど。ニュージーランドは人口も面積もフィンランドに非常に似ている国だが、そこまで多くの遊歩道はなかったし、散歩している感じもしなかった。きれいに管理された芝生の広場は本当に多かったけど。


フィンランドにはまだ遊歩道という無駄を賄えるだけの余裕があるのだろう、そして散歩に使えるだけの時間的余裕もあるのだろうと最初はそう思っていた。しかしそうとも限らないと最近は思う。

フィンランドでは、散歩という娯楽のためだけに遊歩道をわざわざ整備しているわけではないらしい。散歩をしてもらい心身ともに健康を促進することで医療費の節約にもなる。冬は雪が多く降るため道路が封鎖されることもある。そんな時に遊歩道があると非常用として使える。フィンランドという国は社会保障や教育の面でとても合理的で優れたシステムをもっている。しかし同時に「合理的に考えたらそうなんだけどね・・・。」と感じることが時たまあった。

余白があること、無駄があること、それがそのためだけにあるのではなく、何か生産的なことのために存在しているかもしれないと思うと、なんだか苦しい。日本には本当に多くの無駄が存在しているが、そこにはある意味可能性があるのかなとも思っている。

そんな私もただ無為に過ごしていると感じると日が続くとなんだかやりきれない気持ちになる。しかし、全てが何かのために費やされている日々も疲れる。そんな日はなんだかしょうーもないテレビが見たくなる。そうやって社会は回っているのかもしれない。

私は歩くことが好きだな最近思っている。暇なら散歩しにでかけたいとも思うし、特に旅行先の散歩は楽しい。それでも旅行先で散歩だけで終わってしまうと何だか寂しい。つまり散歩で何かいいものに出会いたいという気持ちがどこかにあるのだろう。歩くことが何かの役に立つと考えてしまっている自分がたしかにいる。

今『ウォークス 歩くことの精神史』を読みたい。日本に帰ったら読もう。

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