見出し画像

教育において助けられたという経験の価値

「人に優しくしなさい」
このような言葉はたくさん言われているし、特に教育現場では耳にタコができるくらい言われているだろう。

人に優しくすることは良いことだし、誰もがそうするべきだとが頭では分かっている。でもだからといってそれができるかどうかと言われるとそこは難しい。
それでいて、「なんで優しくできないの!」と言われてしまうことも多々。そう言われてもね・・と思ったことは私自身たくさんあるし、多くの子どもや大人もどこか心当たりがあるのではないかと思う。

さて、ではどうしたら人は優しくなれるのか?

それは、
優しくできずに叱られたからでもなく、
優しくできた時に褒められたからでもなく、
優しくしなさいと口酸っぱく言われたからでもなく、

「本当に困っているときに、助けられた経験」ではないか?

旅をしていると、困ったことにたくさん出くわす。言語の壁や文化の違い、システムの違いに戸惑うことも多い。そういう時、毎回ではないけれど、決して少なくない数助けられた。

切符の買い方に戸惑っている時に、教えてくれたり(その人はそのまま料金まで奢ってくれ、笑顔で「Have a nice trip 」といってそのまま改札を抜けてどこかに行ってしまった)、英語が全く話せないレストランの店主とのやりとりに私が困っているとお客さんがメニューを詳しく説明してくれたり。ある時は住む場所に困っていると前のホストが「帰ってきていいよ」と言ってくれたり。

もちろんこれまでの人生でも私があまり感じていないだけで多くの人にたくさん支えられてきたのだろう。でもそこに気づくのは意外と難しい。

今手元にないから直接引用はできないが、東畑さんの『雨の日の心理学』にこんなことが書いてあったと思う。
「ケアされていることに気付かないようなケアこそ、一番いいケア」

私はきっとそういうケアをたくさんしてきてもらったのだろう。ありがたいことに。

しかしそれは半面で悪影響にもなる。ケアが届きすぎて、ある意味温室育ち的な部分もあったのだと思う。困る前に助けられてしまって、本当に困ることを経験できていない。

そういう私にとって旅は不快なことも多い。「だからいいこそいいんだ!」なんてきれいごとは言えない。早く日本に帰って安心快適な生活を始めたいと多々思う。でも既にこれまでの旅を振り返ると「悪くなかったな」と思うから不思議だ。そしてその記憶の中にたくさん助けられた経験があり、私も助けられる人・支えられる人になりたいと感じた瞬間がたくさんあったことは私の中の確かな事実である。


そう考えると人に優しくなるためにはこのような一連の経験が必要なのではないか。

①信頼され、自分でやってみる経験、
②でもうまくいかなかった時に支えられる・助けられる経験、
③そして次は自分が支える・助ける側になりたいと思う経験。

この一連の流れを繰り返し経験することで人は優しくなれるのかもしれないし、成長できるのかもしれない。



ただ、ここでいくつか問題がある。
①反面教師的な学びがここには存在しないこと
私たちは良い師と出会うことで成長もするが、悪い師(反面教師)からも十分に学び得ることがある。悪いというかあまりお手本にならない大人が周りにいない環境は本当にいい環境なのか?

②自分でやってみる経験、支えられる・助けられる経験が乏しい子どもたち
そういった子たちが事実存在する。その子たちの希望を削がないためにも、私の提示した一連の流れから、どこかに抜け道というか当てはまらない事例が存在することを願ってる。必ずあると思う。

③能力主義的な面での欠点
今様々なところで能力主義の問題が言われており、今の一連の流れにもそれに関して多少の問題がある。それは支えられる人になりたいと思う欲望と能力の間にギャップが生まれてしまったり、どれだけ支えられるかは能力に依存してしまう問題がある。

支えられる人になりたい、助けたい、役に立ちたい。そういう想いを持つからこそ成長できることは決して否定されるべきことではない。でも世の中にはそれが難しかったり、できることが限られてしまっている人がいる。その一方で能力が高く、多くの人を助けている人もいる。

ここには複雑で繊細な取り扱いが必要だと思うが、いくつか大事だと思うのは、
・能力的に厳しい人が支える・助ける・役に立つ立場を経験をできるように工夫することも大切だし、役に立ってると見えにくいものでも、こう考えると役に立っているという視点を提示することも大切
・その一方で、役に立ってなくても、そこにいられる。そういったことも大切

・逆に能力が高い人たちが、多くの困っている人を助けるようなモノやサービスを発明していくことも大切、
・その一方で、それが誰かの支える。助ける・役に立つ機会を奪っていることになっているかもしれないと想像力を働かせ、どこかでブレーキを踏むことやあえて助けられる側に回ることも大切

こんなことを考えるといい教育をしようと思ったらかなり高い専門性(知識とスキル)が要求されると感じる。でもそんなことは可能なのだろうか。これらを完璧にこなせる大人が果たしてどれだけいるのだろう。私は無理だと思う。だから私が思うのは一人一人の影響力を薄めること。親の影響力も先生の影響力も地域の影響力も。それはまた今度書いてみたい。

最後に『うしろめたさの人類学』と『居るのはつらいよ』から引用して終わりにしたい。

大きな動物を獲った狩人は、しばらく猟を休んで次はもらう側にまわる。わざわざ他人の道具で猟をして道具の所有者にも肉を渡す。誰かが一方的に与え手や受け手にならないように慎重に配慮している。「負い目」の蓄積が格差をもたらすことをちゃんとわかっているのだ。

『うしろめたさの人類学』 松村圭一郎

環境に身をあずけることができないときに、僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し、なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。

『居るのはつらいよ』 東畑開人


私が能力についてサッカーから視点から書いたものがあるので、もしよろしければいっしょにどうぞ。とても長いですが。



いいなと思ったら応援しよう!