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明日の記憶
昨日のブログで以下のようなことを書きました。
「終わる日」を定めることで「今」をよりよく生きる。
こんな終活があってもいいなと思います。
しかし、日々の生活の中で、そのようなことを常に意識しながら生きていくためには、何らかの刺激というか、意識をあえてフォーカスするための工夫が必要ではなかいと思っています。
そこで、わたしは、自分をいつも冷静に見つめることができるブログを作成する時間に、これまで、自身の死生観を揺るがした出来事や出会った本について書き残していこうと思います。
まずは、荻原浩(おぎわらひろし)さんの『明日の記憶』という作品に触れてみたいと思います。
広告代理店営業部長の佐伯は、齢五十にして若年性アルツハイマーと診断された。仕事では重要な案件を抱え、一人娘は結婚を間近に控えていた。銀婚式をすませた妻との穏やかな思い出さえも、病は残酷に奪い去っていく。けれども彼を取り巻くいくつもの深い愛は、失われゆく記憶を、はるか明日に甦らせるだろう!山本周五郎賞受賞の感動長編、待望の文庫化。
年老いたり、病気になっていく怖さ以上に、記憶が失われていく怖さが、これほどのものかと、主人公の思いを想像するだけで、ぞっとしました。
わたしの思い描く人生のラストは、人生の後半を、自分で自分でデザインをし、描き切った達成感の余韻を残すかのような閉じ方です。
いっそ明確な余命を宣言されれば諦観の境地や、限られた時間を生きる勇気も生まれてくるかもしれないが…(中略)
しかし、この病はそれを許しません。
これからの自分の人生だけではなく、これまでの記憶さえ失っていってしまいます。
(中略)…私は、枝美子の顔だっていつかは忘れてしまうのだ。
…人生の半分以上の時間をともにすごして、誰よりも知っている忘れるはずがない人間なのに。たとえ私の寿命がまだまだ続いたとしても、一緒にいられる時間がたくさん残されているわけじゃない。…
肉体の終わりよりも、記憶の終わりが先にやってくるかもしれない。
なおさら、自分の残された人生をどう生きるかということに焦りを覚えました。
しかし、次の言葉に一筋の光が見えました。
記憶が消えても、私が過ごしてきた日々が消えるわけじゃない。私が失った記憶は、私と同じ日々を過ごしてきた人たちの中に残っている。
何か特別なことを、特別な人たちとする必要はないのですね。
私の人生は私のものだけではなく、わたしの大切な人の記憶に刻まれる。
だから、ごく普通の日常の時間でさえ尊いのですね。
こうやって考えてみることで、「空気のような存在の人」と「なんでもない話」をしている「今」が、とても意味のあるものに思えました。
さあ!「今」をどう生きる?