やさしさを超越した言葉
次男を幼稚園に迎えに行き、わたしは彼への重要なニュースを伝えた。
「あのね、今日、スイミングお休みになったの。コーチの先生がね、コロナにかかっちゃったみたい」
わたしにとっては悲報だったが、彼にとっては吉報だったようで、彼の顔はパッと花開いたようになった。「え!?ほんとに?おやすみ?いえーい!」と拳を上に突き上げてくるくる回る次男。そして、ピタッと止まり言った。
「ん?でも先生がコロナは悲しいな」
歩みがゆっくりになり「それは悲しいな……」としばらくうつむき、「休みなんだねー!」とまた笑顔で私を見てスキップをした。これが悲喜こもごもというやつか。私の予想では、ただただ喜ぶと思っていたから、予想外の反応。
次男の心が「先生がコロナで苦しんでいるかも」のところまでたどり着いたことが、なによりも嬉しかった。「そこまで想像できる心が育ったんだなあ」と。
そんな話を母にしていたら、「優しいといえばさ、この間教えてくれた話の方がわたしはびっくりしたなぁ」
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夫の実家に帰った時、必ず寄るフルーツ屋さんがあった。そこではフルーツのスムージーが飲める。果物を買い、スムージーを買って車に乗って飲みながら帰るのが既定ルートだった。
コロナで遠出ができなかったけれど、久々に実家に帰れた時、「フルーツ屋さんいこう!」と長男が言った。「何飲もうかなー?今日はー」と思いを巡らせて、ワクワクで車を降りてフルーツ屋さんに入った。スムージーが売っているカウンターの上には「CLOSE」の小さな看板。
なるほど、スムージーの販売はお休みなのか。「このご時世だもんねぇ」と諦めて車に乗り込む。一番楽しみにしていた小3の長男は、車の中で「何でだよー」を連呼。助手席から私が振り向いたら、な、泣いてた(笑)。
そして灰になった彼を乗せて2時間もの帰路についたのだった(笑)。
その数ヶ月後、コロナ禍でまた実家に帰ることになり、いざ自宅に帰ろうとした時に長男が言った。
「フルーツ屋さん!!!寄ろう!スムージー飲みたい!」
「そうだねー。行ってもいいけど、まだスムージーは休んでるんじゃないかなぁ」
それでも行きたい行きたいと叫ぶ長男。その横で次男が言ったのだった。
「いやだよー。行くのー。また兄ちゃんの悲しむ顔見たくないよー。あれが嫌なんだよー」
悲しむ顔を見たくないって、恋人以外にも言うセリフだったっけ?ってか5歳でそれ言えるのか!とビックリしてしまったのだ。
もう、兄ちゃんの悲しむ顔、見たくない。
ジュースで泣く兄ちゃんの顔を。
いやー。すごい。
人の悲しみを見ると一緒に悲しくなってしまう繊細さは受け止めるとして、その言葉選びにも唸ってしまった。
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そんな次男がかけてくれる優しい言葉たちは、いつもいつも私を癒してくれるが、最高にわたしを癒してくれた言葉があった。
「ねぇ、お母さん?どうしてそんなにお母さんがかわいがられてるか知ってる?ぼくに。」
「か、かわいがってくれてるのね。なんでだろう?」
「それはね、お腹は太っちゃってるけど、そのお腹がかわいいし、お母さんの?からだ?しんちょうっていうの?(私はとっても背が低い)とか、顔とかがかわいいって思うから」
優しさ、超えちゃってる。
神の言葉になっちゃってる(笑)。
次々と湧き出るその言葉たちを受け止められるように、母は心を整えておくよ。そしてきっと痩せても君は褒めてくれると思うから。お腹は凹ますよ。