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テスト0点のその先に

わたしは、happyちゃんというブロガーさん(いや、もはや実業家)の『HTL』というオンラインサロンのようなものに入っていて、心や意識のことを学びながら毎日気づきを頂いている。

そこにはたくさんの部活があって、その中に、ママが集う部がある。ママたちの日々の奮闘や、子育てを通した気づきのシェアは本当に素晴らしくて、毎日唸っているのだけれど、その中でも「おおお!」となったのが、長野県のマキさんという方のシェアだった。

マキさんには中学生の長男さんと小2の次男さんがいる。小2の次男さんは、3月生まれで、他の子よりもいろいろとペースが遅かったのだそう。少し心配はしていたけれど、「子供がやりたいことを優先して、親が邪魔さえしなければ、子供は大丈夫!」という思いがあったので、そのまま見守っていたそうだ。

そう思えた背景には、長男さんとの経験があった。長男さんはゲームが好きで好きでたまらなかったのだが、ゲーム時間を制限したり、注意したりしているうちにどんどん元気がなくなり、学校にも行けなくなりつつあった。そこで、マキさん自身がきちんと自分と向き合った上で、ゲームを時間無制限にし、本人がしたいようにすることを続けていた。すると、恐れていた「勉強ができなくなるかも」「友達とコミュニケーションとれなくなるかも」「目が悪くなるかも」のどれも現実には起こらず、むしろ生き生きとしていて、マキさんご自身もそれで「心の筋トレができた」とおっしゃっていた。

さて、マイペース次男さんに話を戻すと、

次男さんはひらがなも全く覚えないまま小学校にあがり、なんとテストは1年間ほとんど0点!!懇談会でも先生から「これだと、2年生になって苦労すると思います」と言われたのだとか。

けれどマキさんは「勉強しなさい」の一言も言わず、本人が勉強したいという時に、勉強に付き合って、とにかく口出しせず、見守るということだけやっていた。

まず、これがすごい。もし私だったら、無理やりにでも勉強させてしまいそう。それはたぶん、「この子が勉強できなくて辛くなったらどうしよう」とか「どんな親だと思われるんだろう」とかの不安や恐れからの動きだと思う。

マキさんはその恐れとおそらくしっかり向き合っていて、絶対うちの子は大丈夫という信頼からそのような行動ができたのだろう。(ああ、尊敬の眼差し。のび太のママと正反対。)

マキさんは、子供たちを決して見放しているわけではなくて、しっかり観察しているところがポイントだな、と思う。「0点をとり続けていたら、学校に行くのも、嫌になってしまうのでは」と思って次男さんを見ていたけれど、なにひとつ気にせず楽しく学校に行っていたのだそうだ。いつもご機嫌で鼻歌まじりで家にいる。(それも大モノ感出てんなと思ってしまう。)

だから、本人の希望をいつも大事にして、勉強面でもその他の面でもサポートしていたらしい。

コロナで休校になって家で学習することを余儀なくされたときも、「やりたくなったら、やってね。やりたくなければやらなくていいよ」と言って宿題も本人に任せ、次男さんが「カタカナもう少し覚えたいな」といったらドリルを買って渡すなどしていた。

2年生になって、休校が明けたら、なんと次男さん、いきなり100点の答案を持ち帰ってきた。

え?これは間違いでは?と何度も名前を見直し、「合ってる……。」もしかしたら、先生が手伝ったのかな?と聞いてみたが、ひとりで解いたとのこと。

そこから、80点台もとり続けられるようになってきたというのだから驚き。

マキさんは、次男さんが100点をとれた、というところにとらわれていなくて、(それがまた尊敬のまなざし2)「子供がご機嫌でいられる状態をつくり、やりたいな、という思いを大事にして、コツコツと学習するということを積み重ねると、それが、やる気や意欲に変わり、形になるのだなと思った」と、いや、ちょっとマキさんが100点じゃん、という満点コメントで締めていた。

これは、母である自分自身が整っていないとできないスゴ技。どんなふうにご自分と向き合っていたのか聞いてみた。

まず、長男さんの「ゲームをしまくっている息子にそのまま自由にしてもらう」というのが私はできないから、どんなふうな経過をたどったのか聞いてみると。

「私たちも自分が好きなものを大好きな人から否定されたら悲しいように、子供も自分が好きなものを大好きなお母さんに否定されたら、悲しいですよね。コソコソ隠れてやったり、だんだん心を開いてくれなくなったり、話してくれなくなったりしたら悲しいなと思ったので、話を聞いてみる、はしていました。どんなゲームをしているのか、ゲームの何が楽しいのか話しかけたり。無理やりにでも好きになったり理解しなきゃ!というのではなく。ただ聞くというだけ。」

とにもかくにも、寄り添っている。子供達の気持ちにひたすら。(マキさん自身の気持ちも大事にしているというのもきっとポイント)その温かさはきっと子供たちにも届いているのだろうな。

どんなふうに自分と向き合ったのですか?と聞いてみると……

「子供の姿にモヤモヤした時は、『あ、わたし暇なのね』と思って自分の気分が上がることをしています。悩む時は暇な時、と思っています」

これはすごくわかる。花まる学習塾の高濱さんもそんなこと言っていた。「お母さんが、アイドルにハマるくらいが、ちょうどいいんですよ」と。わたしは完璧ではないかっ。

ゲームに没頭してる暇があるなら、漢字の1ページでもやってよ!って思うこと、わたしもありました。でもそれは、わたし自身にかけてる言葉なんじゃないかと思ったんです。「そんなふうに遊んでる暇があるなら掃除しなよ!」みたいな。だから自分に矢印をむけて、自分が集中したいのにできていないことはなんだろう?と考えていました。

たしかに。自分が遊ぶことに罪悪感持っていたら、人にもそれを投影して、「ゴルァ、遊んでねーで勉強しろ」と言いたくなる(いきなり言葉遣い悪い)。

自分が思う存分自由に遊べて満足できていたら、そばにいる人が何していようが気にならない。

これはわたしが経験しているからわかる。

夫を厳しく縛っていた頃、わたしは全然自由じゃなかった。それは自分で勝手に枠を決めて、自分を縛り付けていただけなのだけれど、それに気づかないまま、ひたすら夫にあれするな、これするなと言っていた。「私だって我慢してるんだから、あんたも我慢してよ」っていうやつだ。

けれど今は私が自由なので、(やりたいことを思う存分やっているので)夫が何していても本当に気にならない。この原理が子供にも応用されるということなのだ。

だけどなぜだろう、子供になるととたんにいろいろと不安になる(笑)。ゲームばかりしてて、動画ばかり見てて本当に大丈夫なのか?

しかしこれも、HTLの方の言葉がきっかけで理由がわかった。

わたし、子供に「何者か」になって欲しかったのだ。

それは、「ゲーム好きが高じて、ゲームクリエイターになってアメリカで講演した人がいるよ」と言われたときに、ちょっと安心しちゃっている自分がいた瞬間に気づいた。

え、何かになればいいのか?それが私の安心なのか?なんかそれって違くないか?

その方も同じことを言っていて「ゲームクリエイターだからよい、というわけではない。何者かになる必要なんてないんですよね」

わたし、子供たちに「何者か」になって欲しいから、その道を想像しては、不安になっているのかも。「勉強しなかったら、その何者かにはなれないかも」「このままお行儀悪かったら、その何者かにはなれないかも」というふうに。

何者かになるかなんて、子供が決めるし、肩書きがあるから素晴らしいわけでもなけりゃ、幸せなわけでもない。そんな先のことを見て今の子供達の気分を奪ってどーするんだい。

そう思ったらとたんに楽になった。子供達への眼差しも変わったように思う。

わたしは、息子たちが息子たちらしく生きていてくれたら、それでいいんだった。なにも恐れなくていいんだった。

それから、私自身に対しても、「何者か」にならなくていいんだよ、と許すようにした。

(これは、マキさんの言葉や他のママの言葉を通して、「子供に向かって投げている言葉は、わたしに向かって投げている言葉」ということがわかったから。)

とはいえ、息子たちが動画やゲームに夢中になっているときも、本当に夢中になっているのか、惰性でダラダラなのかはしっかり見極めていこうかなとは思っている。

でも最近わたしが「何者かにならなくていいんだった」と気づいてからは、何も言わずとも、キリのいいところでゲームや動画はやめて、宿題をやったり、工作したりしている気がする。

これって私の意識が変わったからなのかなあ。わたしが見るところが変わってきたのかもしれない。

これからも、実験を続けていこうと思う。

マキさんのブログはこちら。

ほんと、毎日気づきだらけやな…。












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