自分を拠り所にして、自分にしがみつく
ほほぅ。若くして。亡くなってしまったのね。ふんふん。ネットの誹謗中傷か。ふんふん。あたかも、その周りの言葉が正解かのように見えるよね。自分には価値がないような。
ちょうど、落合陽一さんの動画を見ていて、SNSの殺伐とした雰囲気どーにかならんかねみたいなことを話していたから、それと繋がって、ベロベロベロと考えが湧いていたから書きたいと思う。
外側に正解はない
私も、外側に正解があると信じて生きてきた人間だからよくわかる。どこかに「わたし」の進化系が、もしくは完成形があってそこに到達するためにどうしたらいいか、とずっと考えてきた。どう改善すれば、どう努力すればそこにいきつけるのか、それを考えるのが人生と思ってきたから。
仕事もそうだし、母としても、「立派なサラリーマンになるために」「母としてしっかり子を育てられるように」どうしたらいいのかを考えて、うまくいかなければ責めて、落ち込んで。他人と比較ばかりしていたと思う。
だから、人の言葉のほうが、わたしの感じ方より正しいように見えて、そちらを採用していたし、心の中に取り入れていた。
でも、いろんな挫折を経て気づいてしまった。「あれ、どこにも正解なんてなかったんじゃん。その正解が自分を苦しめていたのだ」ということに。
そこから「自分」を起点にした。つまり、正解は、わたしだ、と決めた。
たとえば、自分の師匠のような人がいう言葉を、鵜呑みにしなくなった。わたしがどう感じているのか、を大事にした。身体のことは、専門の方(お医者さんとか、整体師さんとか)の助言も聞いたけれども、わたしの感じ方を大事にした。仕事のことも、人からのアドバイスを聞いたら必ずわたしに問い合わせてから進んだ。
そういえば、これも同時に進めていた。「絶対に自分を責めない」こと。なにがあっても。
タモリさんが反省なんてしたことないって言っていて、今までは信じられなかったけれど、今ならわかる。わたしも反省しないし、責めなくなった。(工夫はするけれど。)
他にも、変えてきたことはたくさんあるのだけど、それらを続けて獲得できたのは、自分への絶対的な信頼だった。わたしなら大丈夫という信頼。これがあるのとないのとでは、心の中の波の立ち方が全く違うことにも気づいた。
自分への信頼がどんどん高まっていった頃だった。仲間がわたしの悪口を言っているのを聞いてしまったことがあった。ものすごくひどい言われようで、わたしのことをその人は「あいつ」と言っていた。
それを聞いた瞬間は、猛烈な怒りが沸いた。ひどい!と素直な気持ちがわいたから、それはそのまま、大切にして、時間が経ってからじわりじわりとくる怒りも、大事に感じてみていた。そのときに、「あれ?」という感覚があった。
悲しみがまるでない。刺さってない、と気づいた。痛みがないぞ?と。
そこには、「あー、そちら側からはそういう意見になるだろーね。」という客観視と、「わたしはいま怒っている」というメタ認知と、あとは、「へへーん、あんたになんかわたしの価値決められませんから」という絶対的なわたしへの信頼と、この3つが存在していた。それが猛烈に嬉しい体験だった。外側に正解があった時代にその悪口を聞いていたら、おそらく、しばらくは外に出られなかったと思う。この変化を感じたときに「自分」を正解にし、「自分」を拠り所とすることの大切さを痛感した。
息子にも、よく話す。
「わたしはあなたに、きっといろいろ言う。でも、全部あなたが決めていい。あなたが思ったことが全部正解なんだよ。お父さんやお母さんが言うことなんて、自分が嫌だと思ったら聞き入れなくていい」
そして、ある方が語っていて素晴らしいなと思った言葉も、いつも付け加える。
「あなたの価値は、お父さんやお母さんが決めるのでもない。他人が決めるものでもない。あなたが決めるものなんだよ」