わたし、伸び代ありますんで。
椎名亜希子さんの文章が大好きで、心に沁み込ませながら読んでいる。
昨日、この記事を目にして、
わたしの次男が夕食を食べるのに集中できず、「ヲイヲイ、一生食ってるんかい?」くらいの時間をかけて食べているので、すごく興味を持って読んだ。
うわー、刺さる。
痛い。わたし、これだなぁ。
やっぱり、わたしなんだ。
そのとき、ふんわりと、胸の辺りがずずんと重くなった。「わたしがダメだからなんだ」という思考が浮かんでいる。
「へー、珍しくこんな風にかんじてる」と気づきながらそのいやーな感じを味わってみた。
すると、ずーっと前の記憶が蘇る。まだ息子たちが赤ちゃんだった頃の記憶。
「母乳出てないから、赤ちゃん育ってないね」という言葉に「母乳の出ない私はダメなんだな」
「赤ちゃんがこうなのは、お母さんの抱っこが原因なの」という言葉に「私の抱っこが悪いんじゃん」という思考を持っていた頃。
あなたが悪いと言われたわけではないのに、私が悪いんだ、と罪悪感というか、重圧というかそんなものをわざわざ抱えていた時期だった。
その重さが胸によみがえる。
ああ、わたしは、「ちゃんと育てたい」って思っていたんだね。いまも、「わたしのせいで子供が困らないように、最大限やらなくちゃ」と思っている。だから重圧を抱えていたし、できないときは、罪悪感を感じていた。
自分では子育てを気楽にやっていると感じていたから、この思いが生まれたのは意外だった。
そういえば、椎名さんのセッションで息子を見てもらった時、「子供は、親のいろいろを体であらわしてくれるから」と言われて(文言はもっと明確で美しいものだったけれどわたしの記憶力がほんとすんません)、自然と涙が出てきたのを思い出した。
このとき、「なんの涙?」って聞かれたけれど言語化ができなかった。
でもきっと、「また、私がやってしまった」という罪悪感と重圧のようなものが身体に残っていて、それがあの時出てきたんだなぁと感じた。
わたしがしっかりと子育てしなければと、思いすぎていたし、「できていない」ということを重く捉えてしまっていた。
重たい気持ちを味わっていたけれど、それを軽くしてくれたのもまた、椎名さんの文章だった。
このなかにあるこちらの文章。
そうだった。わたしがダメなんじゃなく、子供がダメなんじゃなく、ただ、伸び代があるだけなんだった。
わたしにも息子にもまだ可能性があるってことだった。
罪悪感感じてたんだね、重圧感じてたんだね、よしよし、と身体を撫でて、軽やかに眠りについた。
できないって、なんてことないじゃない
次の日、次男にバスケしに行きたいと言われて、バスケットゴールのある小学校に2人でいった。前日にドリブルシュートを夫に教わったからその練習がしたいということだった。
次男は小2で、バスケを習っているわけではないし、興味をもったのもつい最近なので、慣れない手つきでボールをつき、ゴールにえいやっとボールを投げるもへんな方向に行ってしまう。わたしは「頑張っててかわいいなぁ」とスマホで動画を撮っていた。
すると、遊具で遊んでいた小学生の5人くらいの集団が、急にバスケのボールを持ってこちらにやってきた。
4つゴールがあるのに、わざわざ次男のところでドリブルシュートをしてみせる。ミニバスやっているのだろうことはわかるくらい、スムーズな動きだった。
おおお、マウントとりにきたかっ!と私は身構えてしまった。もし私が小学生のころに同じことが起きたら、絶対帰ってた(笑)状況。へたくそな自分を感じると、すごく気分が重く感じるから。
でも、そのときに、あれ!と気づいたのだった。なにか、差があるのかな?と。次男と他の子になんの差も感じなかった。
それは、次男がそんな5人を意識しながらも、自分の世界に入って練習している姿を見たからかもしれない。
バスケが好き、バスケを上手くなりたいって思いはみんな同じで、上手とか下手とかどうでもいいことなんじゃないかなぁ、と。だって、この子には上手になる可能性があるのだから。
それを見た時に、わたしも母として、他のお母さんから見たら劣等生かもしれない。
でも、なんにも問題ないんじゃないか。だって、私にはこれから伸びる可能性があるのだから。と気づいた。
🏀
帰り道、「うまい子たちがきた時、どんなこと感じてたの?お母さんはああいうとき、自分が下手くそなのがいやで、やめちゃってたとおもう。それでも続けてて、お母さんはあなたを尊敬したよ」と伝えたら「きっと、習ってる子たちなんだろうなぁ、うまいなぁ、すごいなぁと思ってみてたの。僕もね、じーーっとその子たちに見られてた時はさすがにゴールに投げられなかった。きっと下手くそだなぁって思ってるんだろうなって」
そんなこと感じてたのね、すごい!と言いながら帰った。
なにかできなくたって、なんてことない。今からできることはたくさんある。
そんなわけで、わたしの胸の重さは完全にとれて、ご飯を集中して味わって食べるということを楽しめております。