10月22日の日記:執筆の柔軟性
依頼されてる楽曲の一つが大詰め。完成形がみえてくると楽しい。作曲をしているとゾーンに入ったように集中するんだけど、それを抜けた時、ああやっぱり向いてるなぁと思う。勝手に時が過ぎていく。集中のピークタイムだけを切り取っていろんな活動に適応していきたい。何事にも適度なバランスというのがあると思う。やりすぎはよくない。スイカの先っぽだけを集めたい。そうすればずっと高い場所で飛んでいられるから。
反対に、朝の日記はやや筆が重い。理由はわかってる。迷いがあるから。いまだに着地地点を描けずにいる。続いていることはえらい。続けることに意味があると思うから。だけど、ただただ続けることには意味がないと思う。
今日で連続投稿は124日目。毎回投稿の前後に数字がでるから見てるけど、別に意識はしてない。100日を超えるまでは結構きにしてたけどね。今は、ああ勝手にそんなになってるのね、って感じ。
せっかく継続しているのに、その力の方向性をうまく制御できていない感覚がある。それはさっきも言ったとおり最終地点を描けていないからだろうな。いや、実は描いてはいる。僕は文章を書くのなら本になればいいなって常に思っているから。最近はそれを意識して執筆していた。だけれど、そういう意識があると固さが生まれる。最近筆が重いのは固さが原因だ。もっと柔軟な文章を書いていたい。今は結構柔軟に書いている。なぜならこの文章は作品にならないから。テキトーに書いてる。テキトーofテキトー。
柔軟性と作品性を保ったまま自分の納得がいく執筆をする。これが難しい。柔軟性を保とうとすると、どうしてもエゴくなるし、蛇足の多い文章になる。このノイズをよしとすればいいんだろうな。だけれど、短くスパッと明快に書いてある文章もまた好き。
また、テーマも据えずに蛇行運転をするような文章も好きなんだ。これは書き手のエゴかもしれない。この文章は日記だからかなりエゴい。だいぶつまらないと思う。
色々とバランスが難しいけれど、継続という観点からするとやっぱり柔軟性を大事にしたほうがいいような気もするな。突拍子もない流れの中で面白いフレーズが出てきたりするしな。結局、僕は坂口恭平の影響をめちゃくちゃ受けてるんだと思う。今まで何人かに坂口恭平さんみたいな文章ですねって言われたことがある。別に意識して書いたつもりはない。彼とは似てる部分が多いと思っているし。だけど、結局めちゃくちゃ影響を受けているんだろうな。ベースはそれでいいんじゃないかって思うしな。
テキストの塊は好きだよ。僕が今フォローしている人もテキストの塊を吐く人ばかりだし。いろんな道をたどって、結局僕は初期衝動に戻るんだと思う。
だけど、エゴだけで進んでも読まれない。僕もそういう文章を納得しない。だから、柔軟性を大事にしつつも、読み手がいるという意識は常に抱えてる方がいいんだろうな。読み手というか、聴衆かな。文字を書くというよりもしゃべっているものを文字起こししているという感覚の方がこういう書き方だと正しい気がする。常に目の前に誰かがいる。その意識が、多少なりとも文章に論理性や説明する必要性を与える気がする。文章にやわらかさも与える気がする。
こうやって柔軟な文章を書くと、思考が進むのがわかる。日記だからっていうのもあるかも。自分の興味関心について自由に書ける。まだ言葉になってないものについて考えている。まだ言葉も持たないまま、突き進むことに意味があるんだろうな。執筆行為が言葉を見つける旅であって欲しいんだろう。そしてそのプロセスが作品になれば嬉しい。例えば文字数だとか、そういう縛りを抱えると理路整然とはなるが、味が消える。僕はノイズが好きなのかもしれない。