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VHSの手触り

ネトフリで初期のドラゴンボールを見ている。画質は当時のものだし、画面サイズもアナログ時代のもの。だから見ていてすごく懐かしい気持ちになる。昔はこういう画質が当たり前だったんだよな。いとこの家にはテレビ放送を録画したVHSがいっぱいあったのでよく見ていた。地獄先生ぬーべーとか、それこそドラゴンボールとかね。

今はそういう記録媒体を使わなくても録画機能はテレビで完結する。というか最近は録画すらしない。みたいテレビがあればTverを使えばいいし、ネトフリやアマプラを使えば見たいものは大抵見れる。VHSもビデオデッキも必要ない。いろんなものがスマートになったなぁって思う。今となっては、VHSのあのデカさはムダだ。余計だ。

だけれど、いろんなものがスマートになる過程で手触りもなくなったなぁと思う。まるで空を掴むような心地だ。VHSはでかくてやぼったい感じだけど、確かな手触りはあったと思う。物感というかね。

もちろん、僕たちが求めているのは機能だ。見たい映像が見れたらいい。だけど、どこかで手触りを探している自分がいる。がっしり物体を掴みたいよ。時代の変化に脳が追いついてない感じ。たぶんずっと追いつかない。老害みたいなことを言いたいんじゃなくて、人間の本能的に目の前にものがないという状態を理解できない気がするんだよな。そこの気持ち悪さって払拭できるんかな。

いろんなものがスマートになる。究極のスマートは0だ。物が消える。時代もどんどんスマート=良しとして進んでいる。そして僕もそのスマートさを日々享受しているわけで。2つの選択肢の中でより便利な方があるのなら、やっぱり便利な方を選ぶ。だけど、そこにはなんだかえも言えない寂しさも付きまとう。もうTUTAYAにDVDを借りに行く楽しみは消えた。不便だからわざわざそんなことはしない。ストリーミングになくてもオンラインで借りたらいい。だけど、そういう選択肢がなかった時代はビデオで見ることも、DVDやCDを借りにいくことも不便なことではなかった。より便利な選択肢がでてきたから相対的に不便になったというだけだ。過去は無駄じゃなかったものが無駄に成り下がった。そうやって排斥された無駄の中に面白いものや趣があったような気がするな。

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