『私はソファ』・『道脇』
・『私はソファ』
横になっていると猫が腹の上に乗る。そうすると自己肯定感が上がる。まるでソファのように扱われているのだが、それが嬉しい。「あなたイスになりなさい」「はいいい」みたいな、アニメで見るような会話の気持ちがわかる。使われる嬉しさがある。モノの気持ちになれる。
僕がソファになるとき気をつけることは品質だ。特に安定性には気をつけている。なぜなら、不安定なソファだとすぐに立ち去られるから。立ち去られるのは悲しい。ソファの上で伸びなんかされると、場合によっては落っこちそうになる。そうなると「不良品か?」と思われるかもしれない。必要であれば手で猫の体を補助して、いかにも「ここは安全で心地いい場所ですよ」というアピールをしている。
猫は堂々とした立ち振る舞いで僕の腹に座っている。いったい何を考えているのかは不明だ。仮にも飼い主である僕だ。モノのように扱うとはいったいどんな気持ちなのだろう。これは猫なりのスキンシップなのだろうか。それとも「お、都合のいいイス発見」という気持ちでいるのだろうか。飼い主として認識しているのか、道具として認識しているのか。これは人間でいうところのおんぶみたいなものなんだろうか。わからない。そのくらい、かも当然のように僕の腹の上で腕を組んで箱になり鎮座している。
そういえば最近だんたんと夜も寒くなってきたな。うちの猫もちょっと地面だと冷たくてこうしてるのかなとか考える。そう考えると猫の寝床をもう少しあたたかい仕様にしてみるかと、ふわふわの毛布を敷き詰めてみた。猫を連れてきてみるとお気にめさなかったようで、僕はすぐに毛布をのけた。猫のお気にめすままに。ははあ。
・『道脇』
ランニングをしてきた。帰り道は歩いて帰っていた。朝にランニングをすると気持ちがいい。するまでがめんどくさいと思うこともあるけど、やったら気持ちがいい。僕は気分よく歩いていて、気づいたら歩きながら道脇の植物に触れていた。久しぶりだなと思った。
子供のころは歩きながらいろんなものに触れていたなと思う。ガードレールだとか、柵だとか、木の枝だとか、よくわからない植物だとか。ときに直にふれてみたり、ときに棒をもってふれてみたり。
だけど、大きくなってからいろんなものを触ると汚いと思うようになったし、そもそもそういう行為が子供っぽいので自然といろんなものに触らなくなった気がする。自然と成長していくなかで消えた習慣なので、そこまで深く考えたことはない。
でもいまだに歩道のでっぱりの上を歩くこともある。横断歩道の上だけ渡るみたいなことはずっとしてないな。
別にそういうなんとも言えない行為をしなくなったことに対して悲しい気持ちはない。自然なことだからね。だけど、無意識のうちに消えたものっていうのを自覚したときに少し不安な気持ちになる。一体何を忘れたのだろう。いつのまにか大事な何かを忘れてたりしないかな。忘れてることを忘れてないかな。そんなことを思う。
そういう意味では、道脇のものに触れるという行為は大事なことなのかもしれない。子供のときに何を感じていたのか。その瞬間に立ち返れる気がする。変わることは悪いことではないけれど、大事なものをなくしてないかどうかは、死ぬまで確かめていたい。