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目的の有無で思考してることがわかる気づき

人が何かアクションを起こすときは必ず目的があって、それを達成するために行動をしている。

あるときは何かしらのメリットを求めてかもしれないし、またあるときは誰かに頑張っている姿を見せて勇気づけたいかもしれないし。

もっと視野広く考えると、人の頭の中っていうのは自分の利益のために行動をするようにシステム化されているようにも思います。

とはいいつつも、無目的に行動をするパターンが無いのかというと、そうでもないことに気づきました。

例えば「勉強しなさい」という言葉のシャワーを浴びて育っている小学生は、親が部屋をのぞいたときだけ勉強をしているフリをしているかもしれません。

勉強は大人から見れば自己投資ですが、子どもからしたらただ苦痛な作業になっているだけだったりします。

勉強のフリをする子供の目的は学力向上ではなく、親にガミガミ言われるのを避けるためにやった行動だと見れます。

目的がないわけではありません。ただ僕はこの場合の行動は目的がないアクションと捉えています。

じゃあ、このケースの場合の目的があるとはどういうことなのか。勉強をする「フリ」ではなく、
子どもが自らの考えで学力向上のために勉強を「する」場合であれば、それは目的があると感じます。

何が違うのかといえば、「思考の介在」と行動の目的の優先順位の最優先事項が「自己利益を追求したものになっているか」です。

わかりやすくいえば、他人の利益を満たすことが最優先事項になっている場合のアクションは行動した「フリ」と同じだと考えているわけです。

ここでポイントになるのは、「フリ」であっても自己利益が全くないわけではないということです。

勉強したフリの子どもはそれで怒られなくて済むというメリットを得るためにもやっています。
ただ、それは自分がやりたくてやっているわけではなく、発想の起点は親の立場から考えられたアクションだということです。

僕の場合の話をすれば、仕事中にふと自分がやっている作業は、果たして何のためにやっているのかが分からなくなった時がありました。

よくよく考えてみると、自分の思考で考えたことではなく、周りのアドバイスにそのまま従ってやっていたからだとわかりました。

アドバイスに従って動くことは悪いことではないと思いますが、ビジネスマンとして動くのであれば周囲の声をもとに、一度自分の思考プロセスを動かすことが必要だと思います。いつ、何を、どこで、どうやって実行して、その先にあるゴールは何かを考えた上でアクションをしていればよかったなと。

科学的な根拠をもとにではなく、僕のコテコテの持論ですが今日書いたことを踏まえて頑張っていこうと思います。


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