好きと向き合うこと
ということで、頭の中を外に流してみる。
一人暮らしを初めて11ヶ月自分が苦しかった理由がだんだんと分かってきた。
今まではインプットばかりで、アウトプットをしてこなかった。
だから、頭には情報が入るばかりで、ずっとなんだか苦しかった。
自分に自信をつけなくては時代に置いていかれてしまうと、
人生に焦ってばかりで、何か自分に強みをつけなければと、手当たり次第知識を付けようとしていた。
そんな私だけど、唯一自分に自信がついたと実感した出来事が二つある。
それは、その一つが卒業研究とスターバックスでのバイトの経験。
自分の好きを信じて描いた卒業研究。
初めは、自分の仮説を証明することなんてできるはずないと思った。
だから、卒論らしいテーマで調べてみたこともあったけど、全く興味がなかった。
卒業研究のテーマについて途方に暮れていた時、
私はあることを恐れていたことに気づいた。
それは、自分の好きに対してとことん向き合うことによって、
“好き”が“嫌い”になってしまうのではないかという“恐れ”であった。
考えてみれば、高校選びの時も大学選びの時もこの好きに対しての怖さがあった。
好きが嫌いになった瞬間にその好きと向き合うことができる最高の場所が、苦痛の場所になってしまうと思っていたのだ。
この時の私は、大学三年生。自分の好きと、大学生の仕事である“研究”を通してとことん向き合える最後の時期であった。
だから、私は自分の背中を押して、自分の仮説を信じて証明してみようと決意したのだ。
その時の気持ちは、「もうとことん突き詰めて、仮説が証明できなかったら仕方ない。好きが嫌いになったら、私の好き対する気持ちはそこまでのものであったと思うだけのことだ」と、半ば投げやりであった。
でも、そのおかげで、何冊も何冊も本を読んで、とことん好きに向き合い、論文を書き上げることができた。
そして、ゼミの先生との口頭試問が始まった。
どんな酷評が待っているかとドキドキしていた。
その言葉は、「内容がうまくまとまっていない。言いたいことを羅列してあるだけのようだ」だった。
ですよね。と私は思った。
「…ただ、あなたのこの研究の対象に対する熱意だけは伝わってきた。私は、この手の熱意のある論文を読むのは好きです。これをもっと突き詰めていけば院の修士論文のレベルまでもっていける内容になるでしょう。」
という言葉があった。
私は、「ああ、それ。私が言いたかったのは、ただただそれが好きな理由。私が惹かれた理由を伝えたかったの。」
自分の仮説を信じて、形にできたことがとても嬉しかったし、自分に自信がついたと思った瞬間であった。
ゼミの研究室を出て、あの窓からみた快晴にはえる富士山を見た景色と、清々しくて背筋がピンと伸びた自分の気持ちを忘れない。