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どのみち孤独・作、「人形のひとり立ち」を読む

孤児のソーラは夜中、便所に行き、帰りに泣き声を聞き、人形を見付ける。ソーラは人形を興味深く見回し、スカートを捲って中を確かめようとすると、人形は動いて言葉を喋り、スカートを押さえてソーラに抗議する。

人形は我に返り、再びただの人形たろうとするが、ソーラは、なぜ動いて喋れるのか、とほうっておかない。人形は鬱陶しがるが、なぜ綺麗なのか、と問われると気分を良くし、キリシアという名を名乗り、人形職人の父に心を込めて作られ、名付けられたので、心が生まれ、父の本当の娘のように愛された、と語る。

そして、気付けば父に、ここに置いていかれ、不要になって捨てられたのだろう、と言って泣き出す。ソーラは、捨てられたのではなく寄付されたのではないか、と言うがキリシアは、同じことだ、と言う。ソーラは、この孤児院ではみんな同じような境遇だ、と言う。

キリシアは、自分は人形だから同じではない、と言うが、ソーラは気にせずキリシアを連れて寝床に戻り、キリシアを自分の布団に入れて、元気を出すのは明日から、と言って寝かし付けようとする。わたしは人形だから寝ない、とキリシアは困惑する。そして、その内、ソーラのほうが寝入ってしまう。

翌朝、ソーラはキリシアをみんなの前に連れて、新しく来た子だ、と紹介するが、キリシアは動かず喋らない。みんなは当然、キリシアをただの人形としか思わない。

みんながいない時間になると、わたしを振り回すのはやめて、とキリシアはソーラに抗議する。ソーラは、みんなと仲良くなれると思った、と言うがキリシアは、おもちゃにされるだけだ、と否定的に返す。

キリシアはソーラが洗濯しているのに気付き、そういうことは大人がやってくれるのではないのか、と訊くとソーラは、ここではみんな自分でやることで、ここに来た子はいつか巣立って一人で生きていかなくてはいけない、と答える。キリシアは感心する。

そこへ年長の男子が通り掛かり、いつもサボっているソーラが自分から進んで洗濯をしていることに驚く。そして、誰かと喋っていたようだが、とソーラに尋ねるが、ソーラは返答を避ける。キリシアは近くの地面に、静かに転がっている。

ソーラは男子が掃除の準備をしていることに気付いて、やりたい、と言い出す。いつもサボっているのに、と男子が戸惑っているとソーラは、ぼくはもうお姉さんだから、と強くねだる。

ソーラは掃除をするところを得意気にキリシアに見せるが、失敗ばかりで男子に叱られる。次にソーラは調理場へ行き、料理を手伝うところをキリシアに見せようとするが、これも失敗し、手伝いを断られる。次にソーラは畑に行き、農作業を手伝おうとする。泥だらけになりながらも、ソーラは野菜を無事に収穫する。キリシアは感心する。

そこへ女性教師が通り掛かり、キリシアを連れているのを見て、それはクレイリー氏から頂いたものだから、ままごとに使うとしても大切に、と言い付け、勉強のほうも忘れずに、と付け加える。ソーラは勉強だけは相変わらずサボろうとする。

キリシアは、孤児院はわたし達のように捨てられてしまった子も多いのに、これだけ忙しければ悲しんでいる暇もないだろう、と呟く。ソーラは、みんな何かを目指し、一人で生きていっている、ぼくもいつか自分の仕事を見付けて、そしたら両親を探して会い、それがどんなに嫌な人だったとしても、大人になった自分の姿を見せ付けたい、と話す。

キリシアはソーラを尊敬し、わたしも一人で生きていけるようになりたいから、家事を教えてほしい、とソーラに頼む。キリシアは掃除に挑むが失敗し、服を汚す。ソーラはキリシアにエプロンを作ってあげる。

キリシアは家事を身に付けていくと同時に、服への欲求も高まっていき、ソーラに注文を重ねる。犬のジョセフにも気に入られていく。ソーラはキリシアの服の注文に応えるために、女性教師に相談し、面倒を見てもらう。そして、服作りの才能を見出だされる。

ソーラはキリシアの服作りに勤しみ始め、家事の練習を通じてのキリシアと過ごす時間が少なくなる一方で、キリシアは家事の練習をジョセフに見せるようになり、仲を深めていく。やがてソーラはキリシアに立派な服を作り、それを着せるに至る。その頃には、ソーラは年長の女子に成長していた。

孤児院を訪れた、寄付者の婦人が、キリシアに目を付け、その服の出来に高い関心を抱く。女性教師を介してソーラは、婦人が新しく街に出店する、仕立て屋への就職を打診される。ソーラはそういう話をキリシアではなく、年少の女子、ビビィにするようになっている。

ビビィは、わたしもキリシアみたいな人形が欲しい、と言う。ソーラは、なら家事をしっかり済ませられるようになりなさい、と指導する。それからソーラは、自分がキリシアを独占したままでは年少の子供達に悪い、と考える。

ソーラが年少の子供の世話をするために席を立つ傍らで、寝ていたジョセフが目覚め、キリシアの前に座り、話を聞く。キリシアはソーラの成長に驚き、ソーラと自分との越え難い違いを意識し、自分にとっての成長とは何か、と考える。

そして、かつてソーラが話していた、両親を探して会い、大人になった姿を見せ付けたい、という夢を思い出し、父に会って、なぜ自分を手放したのか聞こう、と決める。それが自分の成長に欠かせないものだ、と考える。

キリシアはジョセフを頼り、その背に乗って街へ向かう。そうして父、クレイリーの店の前に来てみたが、昼間にも拘わらず、閉まっていた。キリシアは裏へ回り、店の中に入り込む。店の中では、明かりも点けず、クレイリーが酒に浸り、相当に酔っていた。

キリシアは、お父様、と呼び掛けるがクレイリーは、キリシアを見もせずに否定し、店は閉めている、と答える。クレイリーがようやくキリシアを見ると瞬時に、それが自分が手掛けた人形であることを認め、キリシアが立って歩いていることを笑い、居眠りする。

その後、キリシアはクレイリーを起こして、孤児院でのことを話す。クレイリーはそれを醒めた表情で聞き終える。キリシアはクレイリーに、店を閉めたことについて訊ねるとクレイリーは、人形師はとうにやめ、道具も捨て、新しい店が出るのでここを出ていかなくてはならない、と答える。

キリシアは、わたしは店が大好きだったのに寂しい、と残念がる。クレイリーは黙って酒を口にしている。キリシアは、どうしてわたしを手放したのか、と尋ねる。

クレイリーは、そもそも人形に名前をいちいち付けるようなことはしておらず、キリシアに名前を付けたのは、それが幼くして死んだ娘の名前であり、死んだ娘の代わりとして作ったからだ、と事情を語り始める。

クレイリー夫妻は子供が出来ず、人形も売れず、生活は苦しかった。しかし娘、キリシアが生まれると、全ての苦難はどうでもよく思えるようになった。だがキリシアは、何の成長する姿も見せてくれないまま、病で死んでしまった。クレイリーの妻は悲しみに暮れ、それを慰めるためにクレイリーは、力の限りに娘に似せた、人形を作った。

目にできるはずが、できなくなってしまった、娘の成長を想像して作られたのが、人形のキリシアだった。ところが、人形のキリシアが出来ると、クレイリーの店は繁盛し出した。

死んだ娘を利用したようで、クレイリーは心苦しさに苛むようになり、クレイリーの妻も、キリシアがあまりに似過ぎていたために、却って悲しみを増してしまった。夫妻は別れることになった。しばらくしてクレイリーは人形師をやめ、売れ残ったキリシアを孤児院へ寄付した。

そう語り終えたクレイリーは、人形など所詮は本物の悲しみを癒すことなどできない、おもちゃだ、と吐き捨て、自分が作ったもので自分が不幸になるとは思わなかった、と言う。そしてキリシアを見て、だがおまえは何だか幸せそうだ、人形のくせに、と侮蔑し、それは生きていれば娘が受け取るはずだった祝福を、おまえが代わりに受け取っているからだ、と言う。

キリシアは身を引き締め、クレイリーを見据え、店の掃除はしているか、服を洗濯できているか、と問い、わたしはソーラという子に教わって、家事をできるようになり、クレイリーから与えられた娘の名前も、ソーラとの暮らしも、既にわたしの一部になっている、と主張する。

キリシアは立ち上がり、わたしはあなたの本物の娘ではないし、その代わりになるつもりもない、ソーラと孤児院で暮らしてきた、キリシアという名の一人の孤児が、わたしだからだ、とクレイリーに宣言する。

キリシアはさらに、わたしは人ではないが、人形だから知ることもある、できないことができるようになる、知らないことを知るようになる、それは素晴らしい、そして、今のあなたはそれとは程遠い、だからあなたの今の言葉を、わたしは受け取るわけにはいかない、子供の成長はあっという間で、気を抜いていては置いていかれる、と忠告する。

そして、クレイリーをまだ父と呼び、自分を作ったことへの感謝を伝えると共に、別れの挨拶をし、ジョセフの背に乗って孤児院へ帰る。その途中、ジョセフはキリシアを気遣う言葉を掛けたらしい。キリシアは、きっと大丈夫、と答える。

ソーラは帰ったジョセフを迎えると、背に乗ったキリシアを見付け、キリシアを持ってどこまで行っていたのか、と尋ねる。ソーラはキリシアを手に取る。キリシアは動きも喋りもしない。

ソーラはキリシアの服に、ほつれを見付け、屋内に戻って修繕を始める。そこへビビィが訪ねてくる。どうしたのか、と訊くソーラに、ビビィは黙って泣くのをこらえている。ソーラが孤児院を出ていくことになって寂しい、ビビィの心情を察したソーラは、キリシアをビビィに譲って託す。

キリシアと一緒に布団に入ったビビィだが、ソーラの代わりとなるものを貰ったとはいえ、やはり寂しい。するとキリシアは動いて喋り、かつてソーラがキリシアにしたように、元気になるのは明日から、とビビィを寝かし付け出す。ビビィは驚き、キリシアを不思議そうに見ている。

便所からスカート捲りへ。作品は下への関心から始まる。下とは排泄に関わることであり、性的なことでもあるが、この二つは子供的な関心と、大人的な関心とを、それぞれ表す。子供から大人へ。自身の持つ、女性としての身体に、ソーラの関心は向かっている。それには、自分と似た、孤児のような、人形が重要になってくる。

ソーラにスカートを捲られて取り乱し、動いて喋ってしまったキリシアは、再びただの人形に戻ろうとする。しかしソーラから向けられる関心に抗えず、また、綺麗と言われたことに気を良くして、自身の出自を語り出す。そして、父に捨てられた、という意識を強調する。

孤児は、両親が死んでしまう、などの理由でもなるわけで、必ずしも親に捨てられてなるものではないが、ソーラが両親にいつか会いに行きたい、と言ったことを考えれば、ソーラの両親は生きていて、そのことをソーラは知っているのだろう。そして、恐らくは、なぜ自分を手放したのか、を知りたがっている。

なぜ自分を手放したのか、はキリシアが、自分が成長するために、父に聞きたいことだった。キリシアの関心は、ソーラの関心によく似ている。それは、キリシアが動いて喋る、というのがソーラの個人的な空想だからだ。

ソーラは夜中に見付けた、綺麗な人形に自分を重ね、それを自分に似た、自分の妹のような、自分だけの家族のような存在として空想し始めた。ソーラ以外の人々の表現を借りれば、それは、ままごと、ごっこ遊びだ。

ソーラは当初、その空想が他の子供達にも通じるものと思っていたが、そうはいかず、自分だけの空想と観念しながら、それを続けた。そのような観念ができるくらいに、ソーラの心はもう大人になり始めている。

ソーラは自分より小さいキリシアに、大人な自分を見せようとして、今までサボりがちだった様々なことに、自分から積極的に挑んでいくようになる。そして、キリシアの呟きに答えるようにして、自分の将来について、考えるようになる。

するとキリシアは、わたしもソーラのように一人で生きられるようになりたい、と望み、これまでソーラがこなしてきたことに挑むようになり、ソーラはそれを支える。

キリシアが家事を身に付けるにつれて、ソーラはキリシアの服作りに凝るようになり、そのことで、キリシアよりも、大人や、空想ではない妹のような子との関わりを大きくしていく。それがソーラを一人で生きていくための仕事に繋げ、ソーラは孤児院から離れることが決まる。

この頃のソーラはもう、キリシアと話すようなことはなくなっていたのだろう。ただ、キリシアの服作りは続けていた。それを見ていたビビィにとって、キリシアとは、服作りをするための理由であり、服作りとは、ソーラのような大人になるための準備だ。

ビビィはソーラに、わたしもキリシアのような人形が欲しい、と言った。人形があれば服作りをする理由が出来、それはビビィを大人にするはずだ。ビビィは大人になろうとしている。ソーラはそれに対し、家事をしっかり済ませられるようになれ、と教える。

かつてソーラは、キリシアに対してお姉さん振り始めることで、家事を済ませられるようになった。今ここでソーラは、その時と同じようなことを再現している。

女の子が大人になるには、目標となる、お姉さんのような存在が要る。子供の頃のソーラは、お姉さんのような存在を欲しており、キリシアに対してお姉さんを自ら演じることで、それを満たしたのだろう。

ソーラは今、本物のお姉さんのような存在になって、ビビィを導き、かつての自分が欲しかったものになり、かつての自分と同じものを欲しているビビィを満たしている。しかしソーラは、まだ子供のビビィを残し、もうじき孤児院から離れることになっている。

だからソーラは、キリシアをビビィに譲ろうと考えている。そして、そのためには済ませておくべきことがある。キリシアはソーラなしに動いて喋り出し、かつてソーラが願っていただろう、なぜ自分を手放したのか、という疑問を親にぶつけ、その答えを知ることを、ソーラに代わって果たすための、小さな冒険に出る。

ここで今一度、確認しておく。キリシアが動いて喋るのは、ソーラの個人的な空想だ。だから、冒険の先でキリシアはクレイリーに会い、件の疑問をぶつけるなどの対話を果たすが、キリシアがソーラの空想である以上、このクレイリーとその対話も、ソーラの空想ということになる。

人形としてのキリシアと、それを作って寄付した、人形師のクレイリー氏自体は実在する。女性教師が、それに言及しているからだ。だが、クレイリー氏がいかなる経緯でキリシアを作ったのか、幼くして死んだ娘がいたのか、などはソーラが自分の境遇を元にして作った話だろう。

ソーラは寄付された人形に、両親から手放された、孤児としての自分を重ね、その人形の生みの親であるクレイリー氏を、自分を手放した、よく知らない両親と重ねた。ソーラは空想のキリシアの記憶と心を作り演じることで、よく知らない両親との関係を、擬似的に味わうことができた。

ソーラはキリシアを、その父と対話させ、別離させることで、空想の物語に決着を付け、ソーラがキリシアに求めていた、両親との関係を擬似的に味わう機能を終了し、除去するつもりだ。

それがキリシアをビビィに譲るために済ませておくべきことだ。その機能ないし物語は、ソーラの個人的な願望を叶えるものであり、ビビィにとっては異物になるだろうからだ。

ソーラはキリシアを、自分専用の人形から、ビビィあるいは他の年少者達が広く頼れるような、汎用的な人形に変えていくつもりだ。なぜか。子供が大人になる際の支えにできるだけの空想をするには、特別な才能が必要だからだ。子供の頃にキリシアを他の子に紹介した時に、ソーラはそのことを痛感している。

ビビィや他の年少者達には空想の才能がない。あるなら、わたしもキリシアのような人形が欲しい、とソーラにねだるまでもなく、勝手にキリシアと会話し、さっさと関係を始めているはずだ。

恐らく、ソーラは孤児院を離れた後も、キリシア用の服や手紙を送るなどして、空想の力を、その才能がない子供達に代わって補填し、キリシアを通じて子供達が無事に大人になれるよう見守っていく気であり、作品の最後で、キリシアがソーラなしに動いて喋り、ソーラがかつてした寝かし付けをビビィに行っているのは、キリシアから空想のクレイリー要素が除去され、よりソーラ自身に質が近付いたからだ。

他の子に通じない、自分だけの空想から、他の子を見守り、大人にしていくための空想へ。人形は成長しない。しかしソーラは成長し、それに伴い、ソーラの空想も成長している。自分だけのためではなく、他の子供達のための空想ができるようになることが、ソーラにとって、大人になることだったのだ。

もう一つ、語っておくべきことがある。キリシアとクレイリーの対話は空想であり、このクレイリー自体も空想だった。しかし、ソーラはキリシアに自身を重ね、キリシアの生みの親であるクレイリー氏に、自身を手放した、よく知らない両親を重ねていた。

だとすれば、キリシアとクレイリーの対話には、単にキリシアに纏わせた物語を決着させて終わらせるだけではない、重要な意味があるはずだ。

ここには二つの意味がある。一つは、いかなる理由でか、自分を手放した両親への、その子供としてのソーラからの返答であり、もう一つは、空想に支えられて成長し、服作りで身を立て、自分のためだけではなく、年少者達にも空想を届け、そういう創作者として生きることを決めたソーラが、創作者の先達であるクレイリー氏を元にした空想と、その対話を通じて、自身の空想への意識を明確にすることだ。

クレイリーは、死んだ娘の代わりとしてキリシアを作った。それは図らずもクレイリーの店を評判にすると共に、クレイリー夫妻の心を苛ませた。死んだ娘とは、忘れたい過去、あるいは忘れ難い過去のことであり、創作とは忘れることができない過去を、何らかの形で再現して、表に出すことだ。

人の心を動かす、優れた創作物はしばしば、そういった過去を精密に、あるいは生々しく、語るものであり、それは創作者自身やその周囲の人の心をも動かしてしまう。そして、それは決して望ましいものであるとは限らない。

クレイリーは、人形は本物の悲しみを癒せない、おもちゃだ、と言い、キリシアを作ったことで不幸になったから、キリシアを手放した、と言い、幸せそうなキリシアに対し、それは死んだ娘が生きていれば受け取っていただろう祝福を、おまえが代わりに受け取っているからだ、と言っている。

ここで言われる、おもちゃ、とは人形のことであり、それは空想の別名だ。空想は本物の悲しみを癒せない。空想とは、欲しかったが手に入らなかったもの、失ってしまったものを埋め合わせる、自身の願望から作り出された偽物であって、それはどこまで行っても虚構だからだ。

キリシアが幸せなのは、娘が生きて幸せでいてくれていたら、というクレイリーの願望があったからだ。逆に言えば、クレイリーが娘の死や不幸を喜ぶ目的でキリシアを作っていたなら、キリシアは不幸を味わった果てに、無惨に壊れて終わっていたはずだ。

空想とは物語のことでもある。人形は、それを作った者が望んだ物語を生きられるだけだ。そして、いくら望ましい人形を作り、いくら望ましい物語を作って、その人形に生きさせたとしても、それは虚構だ。本物の悲しみを、過去を、現実を変えることはない。

ソーラの空想であるクレイリーはここで、空想という行為の無力さと、無意味さと、そのことへの絶望を語っている。空想と現実は関係がない、あるいは空想とは現実からの逃避、まるで出鱈目な飲酒のようなものでしかない、と。

それに答えてキリシアは、クレイリーが家事をできなくなっていることと、自分が孤児院でのソーラとの暮らしで家事をできるようになったこととを、対比して言及する。

キリシアが家事をできるようになったのは、確かにソーラの助力によるものだが、それ以前に、ソーラが家事をできるようになったのは、キリシアの存在によるものだ。

自分自身を重ねたソーラの空想であるキリシアはここで、空想が現実を変えることもある実例として、ソーラの成長を挙げ、空想という行為の持つ力と、意味と、希望を語っている。空想自体は確かに現実を変えてはくれない。しかし、空想は人を変えてくれる。そして、人は現実を変えていける。そのために空想はあるのだ、と。

クレイリーは、自分が不幸になったことを人形のせいにした。空想の無力さのせいにした。しかし、人が自分自身を変えていけるかは、その人自身の問題だ。そして何より、その空想を作ったのはクレイリー自身であり、創作者にとって、自身の作品で自身が不幸になったのなら、それはその創作者自身の無力さのせいに他ならない。

キリシアは、クレイリーとの関係を完全に否定することはせず、ただ別離するだけで終わる。それはソーラの、一人の創作者としての覚悟の表れだ。創作者としては創作の希望だけを語っていたいものだが、そうはいかない。クレイリーのような絶望は、常に創作者に付いて回ることだろう。

そしてここには、自分を手放した両親への、その子供としてのソーラからの返答が重ねられている。もしあなた方が、子供を作ったことで不幸になった、と感じ、わたしを手放したのだとしても、その原因と責任は、あなた方にあるのであって、子供であるわたしにはない。ソーラは空想を通じて両親に、そう言っている。

ソーラは子供の頃は、両親が嫌な人だったとしても、探して会って、成長した自分を見せ付けたい、と言っていた。ソーラは両親に未練がある。だから空想に浸ってでも、両親との関係を味わおうとした。両親への希望を抱いていた。

それから成長したソーラは、空想を通じて、両親との関係に別れを告げている。今や、よく知らない両親との関係ではなく、孤児院で暮らし、空想と服作りに勤しんだ日々と経験と、そこで出会い作った、愛すべき人々との関係と記憶こそが大事で、それがソーラを形作っている。

いつか両親との縁が再びあるかも知れないが、そうでなければ両親はもう、血が繋がっているだけの他人でしかない。忘れてしまって一向に構わない。

空想には絶望の余地を少しだけ残したソーラは、両親に対しては希望の余地を少しだけ残して、忘れることにした。そこにあるのは、未練でもなければ憎悪でもない。両親には両親の、何らかの事情があったはずであり、ソーラはそれを理解することにした。

そうすることができるのは、ソーラが一人の大人に成長し、両親を特別な存在ではなく、迷ったり間違ったりする、自分と変わらない、ただの普通の大人の男女として見られるようになったからだ。

ここでソーラは、両親という、自分だけの空想を卒業した。そして、血は繋がっていないが大切な子供達や、見知らぬ客を喜ばせるための、空想と創作の道に進み始めた。

「人形のひとり立ち」とは、空想が得意な孤児が、空想によって両親への未練を卒業しつつ、創作者としての意識を明確にしていき、一人の大人になるまでの、空想の空想だ。