作・どのみち孤独、漫画「猫の無関心」を読む
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せこは一人の男子に、付き合って、と言い寄られるが、相手のほうに向きもせず、猫を撫でながら、いらない、猫のほうが可愛いから、と断る。
そのことを聞いたうづらは、よく話していたから、今度こそ付き合うと思っていた、と驚く。せこは猫を抱きながら、話していただけで興味はない、猫は可愛いけど人間は愚かで嫌い、と答える。
せこの猫好きは昔からで、小学生の頃に、道路の脇で死んでしまった子猫を見てからだ、とうづらは思い返す。せこは抱いている猫を、触ってみな、とうづらに向ける。うづらは猫を撫でようと手を伸ばすが、猫はその手を引っ掻く。
せこは負傷したうづらの手に絆創膏を貼り、あったかい、と言ってその手を握る。うづらは赤面する。
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せこが下駄箱を開けると、新たに男子からのラブレターが入っていた。うづらは盛り上がるが、せこは、嬉しくない、と迷惑そうだ。そして、そんなことより自分の上履きがまた隠されたことに、せこは気付く。
せこは顔がいいからモテる。しかし、せこは嫌われてもいる。せこはあまり笑わない。他人を寄せ付けない、無自覚の敵意を振り撒いている。そう、うづらは感じている。
教室で、女子二人がせこに、課題のプリントを集めている、と近寄る。せこは、プリントを持ってきたのになくなった、あなた達は何か知らないか、とその女子二人に訊く。女子の一人は、わたし達を疑っているのか、と反発する。
うづらが間に入って、わたしが新しいのを持ってくるから、とその場を収める。せこを残して三人は廊下へ出る。女子二人はうづらに礼を言い、うづらは、ついでに集めたプリントも持っていく、と言う。
女子二人は、昨日、手を握っていたのを見たが、せこはレズなのか、とうづらに訊く。うづらは表情を変えずに、それはせこへの悪口か、と女子二人を見る。
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家庭科部として活動する、せこの許にうづらが来ている。うづらは楽しげに、今日は何を作ったのか、とせこに訊く。せこは、おからのクッキー、と答える。うづらは一つ貰いたい、とねだり、せこは戸惑いながら承諾する。うづらは早速、クッキーを食べて、これはお腹いっぱい食べたいくらい美味しい、と絶賛する。せこは、言いにくそうに、これは猫用だ、と伝える。うづらは、べつにそれを気に止めていない様子だ。
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うづらはせこと下校しようとするが、せこの靴が濡れていることに気付く。体育靴を貸そうか、とうづらが申し出るが、せこは、もう慣れたし、人間なんて最初から期待していない、と断る。人間は愚かで嫌い、とせこは言うが、わたしのことも好きではないのだろうか、とうづらは思う。
下校途中、せこは子猫の鳴き声が聞こえて嬉しくなる。そして、その鳴き声の主を探して道路の脇に入り、そこで側溝の中にいる、血だらけの子猫を見付ける。せこは戦慄し、子猫が死んでしまう、と涙を溢す。そんなせこを見て、うづらは目を見開き、せこを眺めながら、その子をどうするのか、と問う。
せこは、病院へ連れていく、と答え、地面に這いつくばって、怯える子猫に手を差し伸べる。うづらは、せこに向かって、本当にいいのか、近くに親猫がいるかも知れない、一度人間が触れたら匂いが付いて、親猫はもう助けに来なくなる、と言う。
更にうづらは、せこの家は厳しい、猫なんて許してもらえるのか、と問い詰める。せこは、でもかわいそうだ、と答える。せこは子猫を拾って病院に連れていくが、手を尽くしても数日も持たないかも知れない、と告げられる。
うづらは、白いと目立つから獲物にも逃げられるし、弱っている個体は置いていかれる、自然界では生き残れない、だから親猫にも捨てられたのだ、と淡々とした風情で、せこが拾った子猫について評する。せこは、でも、だってこんなに可愛いのに、とまた涙を溢す。
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次の日から二日間、せこは学校を休む。うづらは、せこがいないと学校生活がつまらなく感じる。そして、せこのためにノートを取り、給食のパンを取り置き、プリントと合わせて、それらをせこに届けようと、せこの自宅を訪ねる。
出迎えたせこは、うづらに礼を言う。うづらはせこの、家での服装を、可愛い、と思う。せこは、今は親がいないから上がっていかないか、とうづらを誘い、うづらはそれに応じる。
小学生の頃振りに上がった、せこの家の中は、相変わらず、お洒落で綺麗だった。せこの母が綺麗好きだからだ。せこの部屋に行くと、あの日に拾った、血だらけだった猫が、綺麗に元気になっていた。
うづらは、せこの母がよく猫を飼うことを許した、と驚く。せこは、母にいっぱい、汚い、と言われたけど、部屋から出さないなら、という条件で許してもらえたことを話し、その時のことを思い返す。
母はせこが持ち込んだ猫を汚がり、家が汚れるから、と猫を捨ててくるように言う。せこが何か言おうとするのを遮って、母はせこに、帰ってきたなら、汚いから、手を洗って、服を洗って、身体を洗って、掃除をしろ、と言い付ける。
猫を飼うことを許してもらえるように、せこは、お願いします、と頭を下げる。その振る舞いを母は、わたしを悪者にしようとする、汚いやり方だ、と非難し、そういうところが別れた夫にそっくりだ、と言い、わたしに全然似ていないのだから、別の子と取り違えたのだろう、と言い、あなたは本当に可愛くない、と言う。
母とのやり取りを思い返し終わったせこは、押し黙る。うづらは、どうしたの、と訊く。せこは、母が帰ってきたことを感じ取る。せこの母が、せこの部屋に入ってきて、友達が来ているのか、と冷たく訊く。うづらは、せこの母に挨拶する。せこの母は、冷たくうづらを眺めた後、相手がうづらであることに気付くと、温和な表情に変わって、うづらの評判のよさに言及し、せこも見習ってほしい、と言い、うづらは本当に可愛い、と言って笑顔を見せる。その言葉と態度は、せこの心を押し潰す。
うづらを気遣う言葉を残して、せこの母は部屋から退出する。うづらは、せこの母は本当に綺麗で美人だ、と言い、せこの可愛さは母に似たのだろう、と言う。せこは、全然似ていない、わたしは可愛くない、とうづらの言葉を否定する。
ただいまも言えず、掃除も下手。母は忙しいから、自分がしっかりしなければならないのに、いっぱい汚れて家に帰る。母の言う通りにできないし、言うことも聞けない。うづらと違って自分は、愛想よくできないし可愛くないから、母にも学校の人達にも嫌われる。
母からの否定の言葉、学校の人達からの否定の言葉を思い返しながら、せこはそう、うづらに語り、涙を溢す。そんなせこを前にして、うづらは表情を輝かせて、せこの手を握り、そんなことはない、せこは可愛い、と明言する。
せこの顔も中身も好き。きっとブクブクに太っても可愛い。頭がいいところも、料理が上手なところも、猫が好き過ぎるところも、その全部を可愛いと思っている。
うづらは、そう語る。
靴を隠されているのも、宿題をなくして困っているところも、悪口を言われて悲しいのにそれを見せないところも、両親が離婚して大変になっているのも、母親が厳しくて家に帰るのが嫌そうなところも、そういうのも全部、好き。
うづらは続けて、そう語る。
だから、この先、せこに好きな人ができて、告白して振られたり、付き合った人に酷い振られ方をしたり、結婚して子供が出来てDVされたり、不倫されて離婚して慰謝料も貰えなかったり、子供にも「お母さん、嫌い」と言われたり、そういうのを全部、傍で見ていたいと思う。
うづらはうっとりとした表情で、そう打ち明ける。
せこはそれを冷めた表情で聞き届ける。涙はもう引っ込んでいる。人間は怖い。やはり猫が一番可愛い。せこは改めてそう思う。
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この作品は、可愛い、可愛くない、という問題を描いている。これは、綺麗、汚い、という問題でもあり、猫か人間か、という問題でもある。
せこは猫を、可愛い、と言う。しかし、せこの母は、猫と猫を持ち込んだせこを、汚い、と言い、可愛くない、とも言う。猫が汚いのは、怪我をして血だらけだったからだ。部屋から出さず、看病と世話をし、怪我が回復して元気になり清潔になれば、母はもう、汚い、と拒絶はしない。ただ、あまり快く思ってもいないようだ。
可愛くない、や、汚い、は怪我や血のことを言っているのだろうか。
せこは母と違い、血だらけの状態の時から猫を、可愛い、と言っている。そして、血で汚れた猫を助けるために地面に這いつくばって、自らも汚れていく。母がせこに腹を立てているのは、せこが家の中に血を持ち込むこともそうだが、怪我をし血を流す者に同情して、その汚れを怖れずに接触しようとするからではないか。
せこが血だらけの猫を持ち帰った時、母は掃除機を持っていた。家の綺麗さに、母は執着している。だから、家を汚す、血だらけの猫のことも、そんな猫に同情して持ち帰ってきてしまう、せこのことも、可愛くない、と母は嫌う。可愛い、とは家の綺麗さと結び付いている。
母から言われた、可愛くない、という言葉に、せこは傷付きながらも、それは間違いではない、と思っている。せこは母に愛されたい。母を愛しているからだ。だからせこは、母の意に沿うように、できるだけ家を汚したくはない、と思っている。
しかし一方でせこは、怪我をし血を流す者のことも愛してしまう。怪我をし血を流す者を救うには、家に持ち帰って手当てをしなければならない。せこは相反し合う、二つの愛する者の間で板挟みになる。そこでうづらの存在の意味が見えてくる。
せこは、わたしはうづらのように愛想よくできない、と嘆いていた。うづらは、せこと親密に付き合いながらも同時に、せこを嫌う人達とも上手く付き合えている。
せこの母はうづらを、可愛い、と言い、せこを、可愛くない、と言った。せこにうづらを見習ってほしい、とも。せこもまた、うづらを、可愛い、と言い、自分自身を、可愛くない、と言っている。せことせこの母の、せことうづら、それぞれに対する評価は一致している。
せこは母と同じく、家を汚してはならない、と思っているが、母と違って、家を汚してでも、怪我をし血を流す者を救いたい、とも思っている。せこはこれを上手く両立できないために母に、可愛くない、と言われて嫌われる。であれば、可愛い、とせことせこの母に評価される、うづらとは、せこと違ってこれを両立する者だ、ということになる。
うづらは決して家を汚すことがない。これには二つの意味がある。うづらはうづらの家を汚すことがない。せこの家が汚れるのは専ら、せこの責任であって、うづらにはその責任がない。そして、せこの家が汚れる時、怪我をし血を流す者は救われる。
うづらは作中で何をしているか。いつも、せこの傍にいて、せこを見守り、せこがすることを見守り、せこがされることを見守っている。うづらはせこに好意的な目を向けているが、それだけではなく、せこが嫌がらせを受けたり、せこが人を怒らせたり、せこが性的噂の的になったり、せこが死にかけた子猫を前に戦慄したりする様子を見て、はっきりとは態度に出さないが、楽しんでいる。それは、作品の終盤でうづらが自ら、せこに語って聞かせる通りだ。
うづらもまた、せこと同じく、怪我をし血を流す者を愛している。うづらにとっては、せこ自身も、その者の一人だ。せこは主に心に怪我をし血を流している。うづらはそれを、堪らなく愛している。ただ、その愛の方向性は少し、せことは異なる。
そして、うづらも、せこやせこの母と同じく、自分の家を汚さないようにしている。主要人物達が一様に、できるなら汚したくない、と思う家とは何なのか。
家とは、私的な領域でありながら、誰かを招き入れて、もてなしたりする、公的な領域でもある。言わば、個人の私的な部分を誰かに見せることになるのが家であり、だからみんな汚したがらない。それは恥でもあるからだ。
せこの母は恥を一切、見せたがらない。せこも恥を見せたくはないが、見せなければならなくなる時もある、と考えている。うづらも恥を一切、見せたがらない。しかし、見せなければならなくなる時もある、と考えている。だから、うづらはいつも、せこの傍にいる。
うづらは、人に見せたくない恥の部分を全部、代わりにせこに負わせ、自分の恥ではなく他人の恥に形を変えて、誰かに見せている。うづらが、せこだけでなく、せこに対する周囲の反応にも興味を持つのは、そのためだ。
せこはうづらの作品であり、うづらの汚れを示す、うづらの恥を示す、うづらの家の代わりだ。せこは、うづらの家の代わりに汚され、人の目に曝される。うづらの欲求によって。
この作品は、汚されたせこを、読者の目に曝して楽しむものだ。せこに、そのような仕打ちをするのは作者であり、だとすれば、うづらとは作者のこととなる。そして作者とは、その作品の第一の読者のことでもある。だからうづらは、せこを誰よりも愛しながら、艱難辛苦に喘ぐせこを、誰よりも近くで楽しむことができる。
この作品の終盤は、せことうづら、自身が作り出した人物と作者の対話が描かれていることになる。作者の欲求を聞かされた、せこは、半ば呆れたような表情で、人間は怖い、猫が一番可愛い、と作品の結論を示す。
可愛い、可愛くないとか、綺麗、汚いとかではなく、怖い。せこにそう言われる人間とは、何なのか。
せこは、これまでにも人間について言及している。一つは、せこに交際を申し込んでくる男子達についてだ。それはせこを専ら、見るだけの立場の存在であり、つまりは読者のことだ。そしてもう一つは、せこの靴を隠したり、せこの靴を濡らしたりする人達についてだ。それは、せこの意思を無視して、せこに何らかの作用を及ぼす存在であり、つまりは作者のことだ。
人間とは、読者や作者のことなのだが、より正確に言えば、本来はそういった作品外の存在であるはずが、ちゃっかり作品内に現れて、せこに接触しようとする者のことだ。うづらの告白によって、せこは人間の本当の正体に対する認識をはっきりさせられた。
そこでせこが漏らす感想が、怖い、だ。可愛いだとか何だとかいうような次元の話ではないのだ。そして、せこがそれと対置させるのが、猫だ。せこが異様に愛する、猫とは何なのか。
それは、決して読者にも作者にもなるはずのない存在であり、それ故、作品内に現れても、せこにとって何も怖くない、ただ可愛いだけの存在だ。作品外にいようが、作品内に現れようが、猫はただ可愛い。
猫は引っ掻いたりする。あるいは、もしかしたら、猫に靴を濡らされるようなこともあるかも知れない。だが、そのようにされたとしても、せこは猫を嫌いになることはないだろう。読者にも作者にもなり得ない猫に、せこをどうこうしたい、という欲求はないからだ。少なくとも、せこにとって怖いと思える欲求はない。
猫は、せこに関心がない。無関心だ。男子達や、嫌がらせをする者達、うづらなどとは大違いだ。単に自分のことを可愛がってくれたり、看病してくれたら、誰でもいい。猫は人間の誰でもないし、特定の人間を求めることもない。せこだけを特別に求めることはない。猫は匿名を象徴する存在だ。
男子達も、嫌がらせをする者達も、うづらも、せこに関心があり過ぎる。それは、せこが固有の名前を持った人間だからでもある。もしせこが、固有の名前を持たない、一匹の猫だったなら、誰もせこに、過ぎた関心を持たなかっただろう。普通に可愛がってもらえるだけだ。
せこにとって可愛いことは、可愛がってもらえることと結び付いており、可愛がられることは、匿名性と結び付いている。匿名性とは、いわゆるモブであることであり、それは物語に主体的に関与しない者のことだ。
可愛いは綺麗であり、可愛くないは汚いであり、汚いは人の固有の恥であり、それは家を汚す血のことだった。血とは、綺麗で可愛い匿名の存在に、汚くて可愛くない、固有性を付与する、物語への関与のことだ。
せこは、怪我をして血だらけになった猫を持ち帰り、綺麗にした。物語への関与を拭い去った。というよりそれは、固有性を獲得して物語への関与を始めてしまった存在を拾い上げ、ちゃんとその物語を適切に果たさせ、物語から解放して、また匿名の存在に戻す作業を表している。
猫によって象徴される匿名性とは、もっと言えば、名前はまだない、固有性を獲得していない、物語への関与をまだ始めていない段階の、漫画表現の部品としての、単なる図像のことだ。そこから血が流れ、そこに固有性と物語への関与が発生し始める。そういった存在を見ると、せこはほうっておけない。
せこは固有性と物語への関与を負ってしまった猫を、ただの可愛いだけの猫に戻す。その作業は部屋の中で密かに行われ、その姿は母にもうづらにも読者にも見せない。せこが見せるのは、全てが終わった後の、可愛く綺麗になった猫だけだ。
せこの家や、せこの部屋とは、作者が自らの恥を作品に変えて読者に見せる場でありながら、同時に、恥を作品に変えるための作業場でもある。
せこの母が、血だらけの猫を持ち込もうとする、せこを快く思わないのは、それが物語ないし漫画の構想の隠喩だからであり、構想が作業場にまで上って来たなら、漫画の執筆が始まり、手も作業場も汚れることになって大変だからだ。漫画を執筆する、ということは、汚れることが不可避の、可愛くなくなってしまうことなのだ。
血はしばしば、意図的にしろ、そうでないにしろ、表現者にとってのインクを表象する。インクが表現者の手指を汚しながら、手指を汚すという、その性質が、紙面に表現を成立させる。汚れこそが表現になる。
せこと、せこの母は、作者の、漫画家としての実務の領域を表す。二人がうづらを、可愛い、と口を揃えて言うのは、うづらが、漫画や漫画作りを、ただ楽しいとだけ思える、作者の、漫画家としての実務から離れた立場を表しているからだ。
色々と汚れなければならない大変さを忘れられれば、漫画に関わることは大変に楽しい。でも、汚れなければ漫画は完成しない。綺麗に出来上がった漫画の陰には、作者が汚れる大変な日々が隠れている。
せこはうづらの作品だが、もっと言えば、漫画家が、漫画家としての実務の大変さを、漫画家としての実務から離れた立場から眺めて、それを面白がって出来た作品だ。
そんなだから、うづらはせこに、もっともっと大変な目に遭ってよ、面白い(漫画が出来る)から、と要求し、そう要求されたせこは、怖い、と思うわけだ。漫画家が、漫画を作る大変さを面白がって、自分はもっと大変な目に遭うべき、と自分に要求するような漫画を描いているのだから、どうかしている。作者はどうかしている。
だがそれを、怖い、と思えることを作品にしてもいるわけで、そのことから、作者は正常だ、とも言える。いや、どうなのだろう。よく分からないよ。
しかし何にしても、この作品の結論は、猫が一番可愛い、だ。猫も可愛いも綺麗のことであり、綺麗とは汚いを脱した状態のことであり、汚れる大変な日々を脱して、作品が完成した状態のことだ。それが一番。
作品が完成すればこそ、その作品が何を表現しているか、その表現はいいのか悪いのか、といったことについて考えることができる。楽しむことができる。読者であれ作者であれ、何よりもそのことに関心がある。
だが、作品のほうは人間の事情に無関心だ。作品はただそこにあって、誰かに読んでもらえれば、それでいい。作品を作ることで作者がいかに汚れてしまうか、とか、作品を読んで読者が何を感じるか、とかも、どうでもいい。
せこが異様に愛する、猫とは、読者でも作者でもない、固有性と物語への関与を持たない、匿名の存在を象徴していたが、それとは別に、読者だろうが作者だろうが匿名の存在だろうが、どうでもよく、それら全てを見境なく受け入れてしまえる、漫画という表現、およびその作品のことでもある。
漫画家にとっての漫画、作者にとっての作品は、そのために汚れようがどうしようが、完成して目の前にいてくれるようになったら、それだけでいい、ただ可愛いものだ。いや、汚れるからこそ、より可愛いのかも知れない。
汚れるほど可愛い。それはまさに、うづらの心境だ。一方で、汚れを綺麗にしたい、せこの心境がある。汚れたままの猫は死んでしまう。それは作品の構想が、形にならないまま、人知れず、ひっそりと側溝の中で朽ちることだ。それはあまりに悲しい。
汚れは、可愛い猫と出会える機会だ。だから、せこの汚れを楽しむ、うづらも、猫の汚れを綺麗にしたい、せこも、共に可愛いに繋がっている。ただし、汚れを綺麗にすることは大変。それだけは、ちょっと許されがたい。なのでそこは、おかあさん、お願いします。
綺麗であることへの執着は、作品を手掛けたい欲求と、作品を手掛けたくない欲求、この矛盾した二つの欲求を生む。本物の猫の汚れや怪我なら、それを綺麗にするためにすべきことは、ある程度決まっている。しかし作品の完成となると、そのすべきことは作品毎に異なる。
作品を描き上げたい。でも、どう描けばいいのか。それが分かってくるまで、いつも苦しい。こんなに苦しいなら、そもそも作品を描き始めるんじゃなかった。作品を手掛けることは、その両極の間を往復し続けるようなことなのだろう。
しかし、いくらその両極を激しく行き来したところで、作品が最後に辿り着くのは、猫が一番可愛い、だ。どんなに途中で苦しんだとしても、その果てに出会えた作品は、その苦しみに優って、一番可愛い。
作品毎に、それをどう描けばいいかは違っても、作品が完成した後の思いは、いつも決まって同じらしい。だから作者は、これからも、またどこかで汚れた猫を見付けて拾ってきては、大変なことになると知りながら、家に持ち帰って綺麗にすることを繰り返す。我々読者は、その大変さを目にしないまま、綺麗になった猫だけを、作者に見せてもらうことになる。
いや、この作品は作者の大変さを暗示しているのだから、これからは、綺麗になった猫を見て、作者はさぞや大変な思いをしたのだな、と思える。
それで我々読者は、作者に労いや心配の言葉を、表向きは掛けるかも知れない。だが、その裏側では、作者には早く次の、今回よりもっと大変な目に、遭ってほしいな、などと思ったりするかも知れない。まるでうづらのように。
しかし、そんな怖いうづらちゃんが何人いたところで、猫の可愛さは変わらない。せこの猫好きは変わらない。大変な目に遭うことも、家や手指を汚すことも、綺麗で可愛い猫と出会うために、誰よりも作者自身が一番望んでいることだからだ。