共に生きないほうが良い 誰かと生きてしまうことの害悪 --反共生主義を考える

人にとって、害悪とは何だろうか。それをこの場ですんなりと決定することはできない。自分にとっての害悪が、他人にとっては害悪でないかも知れず、自分にとっては害悪でないものが、他人にとっての害悪かも知れないからだ。

ただ、一つだけはっきりしていることがある。害悪は何者かにとって望ましくないからこそ害悪と呼ばれている、ということだ。害悪は少なくとも誰か一人にとっては望ましくないもののはずだ。望ましくない、と誰一人として感じないものは、害悪とは呼ばれない。

さて、人が倫理的あるいは道徳的に生きる、とはどういうことだろうか。それは、他人を尊重して生きる、ということだ。倫理も道徳も他人のためにある。自分のためだけの倫理、自分のためだけの道徳、というものはない。

もしあなたが世界にたった一人だけ生きている人間であるなら、そこであなたは何をしても良い。それで何らかの利益不利益を被るのは、あなたしかいないからだ。その時、あなたは倫理も道徳もなく、あなたの望むように生きることができる。他人がいなければ、倫理も道徳も成立しない。

倫理や道徳は、他人がいて成立する。自分とは、自分以外の誰かにとっては他人でもあるので、他人がいる、とは自分がいることも含む。倫理や道徳は、自分と他人がいて成立する。しかしその真の成立には、更にもう少し条件が要る。

もしあなたが、ある誰かと世界にたった二人で生きている人間であるなら、そこには倫理や道徳が成立しているはずだ。もしそこに倫理や道徳が成立していないなら、その時は自分か他人のどちらかが、あるいは互いに、相手を自分と同じ人間と認めていないか、相手が存在していることをそもそも知らないかだ。

自分と他人がいて、そのことを互いが知っていて、互いに相手を自分と同じ人間と認めている時、ようやくそこに倫理や道徳は成立する。倫理や道徳とは、自分の生が他人に影響し、他人の生が自分に影響する、それを認識した上で、自分も他人も互いの生をどうするべきで、互いに相手の生をどう許容するべきか、という規範のことだ。もし自分の生が自分にしか影響せず、他人の生が他人にしか影響しないなら、この規範は成立しない。不要だからだ。

では、その倫理や道徳の中身とは、どのようなものであり得るのか。ここでも、世界にたった二人の人間しか生きていない場合を考えてみよう。そこでは、相手の生にあれこれ干渉するのが倫理的あるいは道徳的であるかも知れず、あるいは相手の生に一切干渉しないのが倫理的あるいは道徳的であるかも知れない。

なぜそうも中身が両極のものであり得るのか。それは倫理や道徳が、数学や物理法則のような、人間とは無関係に成立しているものに基づくのではなく、人間の気持ち、人間がどう感じ、人間がどうしたいか、人間をどうしたいか、というような、人間そのものの感性に基づくからだ。

早い話が、人間が何を害悪と感じるか、に倫理や道徳は基づく。そして話は冒頭に戻る。人にとって害悪とは何か。そこではっきりしているのは、誰一人として害悪と感じないものは害悪ではない、ということだけだった。だが、誰一人として害悪と感じないものなど、この世にあるだろうか。そもそも、誰一人として害悪と感じないことなど、どう確かめればいいだろう。

それを確かめる方法がないのであれば、この世の、ありとあらゆるものは、人にとって害悪である可能性を免れない。この時、害悪は必ずしも回避すべきものとはいえなくなる。

なぜなら、ある害悪を避けることが、別の害悪に当たるかも知れないからだ。あらゆるものは害悪である可能性を免れないのだから、人はあらゆる害悪の中から、よりましと考えられる害悪を選んでいくしかないことになる。

その考え自体、害悪かも知れず、しかしそれが、よりましな害悪と考えられる選択でもある。よりましな害悪と考えられても、害悪である以上、それは選ばない、という規範は可能だろうか。

それはさておき、ここで考えたいのは、人がより倫理的で道徳的であるには、どう生きればいいのか、だ。人はよりましと考えられる害悪を選んでいくしかない。だとすれば、それがそのまま人の理想の倫理や道徳を規定するだろう。

あらゆるものは害悪である可能性を免れない。そこには人が生きることも含まれる。しかし、だからといって、なら人は生きるのをやめるべきだ、とはならない。倫理や道徳は、人と人とが共に生きるからこそ必要となるものだからだ。

全ての人が生きるのをやめて、人が誰もいなくなれば、倫理や道徳の必要も、倫理や道徳の根拠も消える。人はやがて死んで消える。倫理や道徳もやがて消えるかも知れない。人は究極は自然に属する。だからある時、全ての人が自然に死んで消えるかも知れない。それに伴い、倫理や道徳も消えることになる。自然を肯定するなら、この自然の成り行きも肯定することになる。

倫理や道徳を鑑みれば、人が自然に消えるなら、それを受け入れるべきであり、しかしそうでないなら、人は先ず生きるに任せて生きなければならない。人が生きることが害悪の一つだとしても、人が生きることは倫理や道徳の大前提だからだ。少なくとも、倫理や道徳を理由に人は生きるべきではない、とはならない。

ただし、倫理や道徳は人に必ず生を義務付けるものでもない。倫理や道徳は、人と人とが共に生きるのに必要な規範であって、それ以上のものではない。ある人が生きたくなくなったとしても、その生を終えるまで、その人のできる限りの倫理や道徳を果たせばよい。

倫理や道徳は、人に生死を義務付けはしない。ただ、人にその生を全うするに当たって、他人の生を考慮せよ、と要請するのみだ。

そういったことを踏まえて、では、人がより倫理的で道徳的であるには、どう生きればいいか。倫理や道徳の根拠は人の感性に基づく。いかなる人も一切、倫理や道徳と感じられないなら、それは倫理や道徳とはなり得ない。

一方で、何人かの人が倫理や道徳と感じられたとしても、それが必ずしも倫理や道徳であるとは言えない。その何人かの感性が特殊なだけかも知れず、場所や時代を移したり、別の多くの人と関わることで、これまで倫理や道徳と思われたものが、じつは違っていた、となってしまうことがあり得る。

しかしそれでは、人は何もできそうにない。どうすればいいのか。

繰り返すが、倫理や道徳の根拠は人の感性に基づく。ある規範が倫理や道徳と人が感じられれば、それは倫理や道徳となる。そして、そう感じられない人が多数、出現すれば、それは倫理や道徳とは言えなくなっていく。

なら、ある規範を倫理や道徳と感じられる人達だけで集まり、それ以外の人達と新たに交流を始めなければ、人はより倫理的で道徳的な状態でいられる、ということになる。少し前に「何もできそうにない」と書いたが、これは「新しく人を招くことはできそうにない」と言うべきで、これが一つの回答となる。「でき」なくていいし、する必要もないし、するべきでない。

まとめて言えば、「今生きている人の中から、ある規範を倫理や道徳と感じられる人達だけを選んで互いに集まり、それ以外の人を新たに招かないで生きる」だ。そうすれば、人はより倫理的で道徳的な状態でいられる。

倫理や道徳は、人と人とが共に生きるための規範だった。この解答は、ある人とだけ生きて、ある人とは生きない、という選択を含む。だから矛盾しているように見えるし、実際に矛盾になり得る。しかし、この矛盾は解消することができる。

倫理的で道徳的であろうとしながら、つまり、人と人とが共に生きようとしながら、ある人とは生きない。これは、その「ある人」さえいなければ何も問題が生じていない、ということでもある。だとすれば、その「ある人」がいなくなればいい。だが、それには、その「ある人」を殺すことになるだろう。そうするべき、ということか。

いや、ここで重要なことは、人と人とが共に生きることの範疇が何であるか、だ。わたし達は何を以て、共に生きている、と言えるのか。もし、同じ一つの規範の中で生きていることが「共に」の意味であるなら、わたし達は今「共に」生きているだろうか。

これは、そうだ、とも言えるし、そうでない、とも言える。わたし達は同じ一つの規範を生きながら、同時に、別々複数の異なる規範をも生きている。国際社会の規範。国の規範。地域の規範。会社の規範。学校の規範。町内の規範。家庭の規範。親子の規範。兄弟姉妹の規範。友人同士の規範。知り合い程度の関係の規範。知り合いでも何でもない関係の規範。客と店員の規範。SNSの関係の規範。その他、様々な人との関係の規範。

もしこれら全ての規範に所属していなければ、「共に」生きている、と言えないなら、例えば就業していない人や友人のいない人は、「共に」生きているとは言えなくなり、従って倫理的であることも道徳的であることも、できなくなってしまう。

逆に言えば、わたし達は倫理的であったり道徳的であったりするために、先ず就業したり友人作りをしなければならないことになる。兄弟姉妹もなく親も既にないなら、人はその規範に所属することはできない。孤独な人はそれだけで、倫理や道徳から決定的に離れていることになる。それはとてもおかしなことではないだろうか。

これも逆に言えば、多くの規範に同時に所属しているほど、倫理や道徳に近いことになる。なら、自身にせよ、他人にせよ、誰かを様々な規範に所属させようとすることが、より倫理的で道徳的な行為だ、ということにもなる。

例えば、孤独な誰かのことを勝手に友人認定して、友人同士の規範を与える。その誰かは勝手な友人認定を怒って拒否し、当然、友人同士の規範も守らない。その時、その孤独な誰かは倫理や道徳に従わない、酷い人だ、と言えるだろうか。

もし言えないのであれば、ある誰かをより多くの規範に所属させることは、倫理や道徳とは関係なく、ある誰かが多くの規範に所属していることもまた、倫理や道徳とは関係ないことになる。

これは、ある規範に所属するなら、人はその規範に則した倫理や道徳の課題を負うだけであって、どの規範にどれだけ多く所属しなければならないか、という課題を人は予め負ってはいない、ということを意味する。もしそういった課題を負っているとすれば、その人はそういった課題を負うことになる規範に、自ら好き好んで所属している、というだけのことだ。

わたし達は、規範に所属しなければならない、という規範には所属していない。わたし達は原初の状態では、いかなる規範にも所属していない。というより規範とは、わたし達のために、わたし達が作り出したものだ。

わたし達は好き好んで原初に規範を作り出し、同じく、好き好んでその原初の規範に所属する。後はそれぞれの原初の規範の中で、いかに振る舞い、そこで更にどんな規範を作り出し、所属するかだ。

さて、わたし達は何を以て、「共に」生きている、と言えるか。わたし達は先ず、原始の状態ではいかなる規範にも所属しない者同士として「共に」生きている。

そして、人は大抵の場合、規範なしには生きられない。だから新しく規範を作るか、既にある規範を見付けて、そこに所属する。そこでは、同じような規範を求める者同士が「共に」生きている。

前者は無規範のように思えるが、それはわたし達が作り出した規範がないだけで、わたし達が従わなければならない規範が、そこにはある。それは先ず宇宙や物理の規範であり、次に生命としての規範だ。これらはわたし達が宇宙の中で、生命として在るための規範であり、これらに従わないことは、宇宙の存在としても生命の存在としても、不可能だ。

生命は自死することもできるが、生命は永久不滅ではなく、いつか終わりを迎えるものであって、生命は生命でなくなることも含めて生命だ。自死は生命の規範に背くようでいて、そのじつ、生命の規範に従う正しい営為の一つでしかない。

宇宙もまた永久不滅ではない可能性があるが、生命の終わりと違って宇宙の終わりは、誰も見届けたことがない。それ以前に、我々は宇宙の極めて狭い領域しか経験しておらず、その経験ですら全てを解明できているわけではない。だから宇宙の規範については、ここではこれ以上深入りしない。

宇宙や物理や生命の規範については、倫理や道徳の問題は起こらない。それらの規範に従わないことは誰もできないし、別の言い方をすれば、誰もがそれらの規範に完全に従えている。宇宙や物理や生命の規範については、誰もが完全に倫理的で道徳的だ、と言える。

問題は後者だ。こちらの規範群は人が作り出した、人為的なものであり、だからそれへの加入と脱退も人為的だ。それだけに、それに都合よく従わないことも可能になってしまう。それが倫理や道徳の問題となって現れる。

わたし達は、宇宙の規範の中にいたりいなかったりを、都合よく切り替えることはできないが、人為的規範、例えば誰かと親子関係であったりなかったりは、都合よく切り替えて、その義務や責任などを遺棄してしまえる。

人から人が生まれる、という現象は生命の規範に属するが、そこに親と子という関係を見出だし、他の関係と区別し、それぞれに特別な意味や責任を付与するのは、紛れもなく人為であり、人為というものは、それを重大と認識する人同士の間でのみ、重大となる。そして、ある人為を重大と認識しない人同士の間では、それは重大とはならない。

神を信じていない人が、神を信じている人を見ても、神を信じていない自分を何とも思わないのと同じだ。だが、神を信じている人を見て、自分も信じたほうがいい、と思う人もいる。

逆に、神を信じている人が、神を信じていない人を見て、神を信じている自分を何とも思わなかったり、自分も信じないほうがいい、と思うこともある。

他人を見て、今まで通りに神を信じない人。新たに神を信じ始める人。もう神を信じるのをやめる人。今まで通りに神を信じる人。これらの人の意思決定に善悪はあるか。あるとすれば、善悪を決めるのは何か。それは新たに人が加入したりしなかったり、脱退したりしなかったりの、対象となる規範だ。

神を信じる規範からすれば、新たに神を信じる人が増えれば善で、減れば悪だ。あるいは、いかなる神も絶対に信じない規範からすれば、何かの神を信じる人が増えれば悪で、減れば善だ。

ここで重要なのは、なぜ規範はこうも物事の善悪を決めようとするのか、だ。しかしこの問いは錯誤している。規範は物事の善悪を決めるために人為的に作られたものであって、なぜ人は何もないところに規範を作って、そこに属し、物事が善悪に分けられた中で生きたがるのか、と問うのが正しい。

そしてその答えは、人は人にとって好ましいものを善と呼び、好ましくないものを悪と呼び、好ましいものを選別して多く集め、好ましくないものを選別して多く排除したいから、だ。ではその、好ましい、好ましくない、とは何を意味するのか。

それは、自身の生をより良いと感じさせられるかどうか、だ。規範はそのために物事を善悪に仕分ける選別器であり、これは数が多ければ多いほど、力を発揮する。だが、この選別器は個体に固有のものであって、複製はできない。

そこで人は複製の代わりに、先ず自分のものにできるだけ似た選別器を持つ個体を選別して多く集める。こうして複数の似通った、多くの他人の選別器を用意して互いに利用し合うすることで、事前に強力に選別された、それぞれの究極に好ましいものに近いものを、互いに得ることができ、最後にそれを、それぞれが自身の固有の選別器に掛ければいい。

この集められた他人の選別器の中に、全く性質が逆の、好ましいはずのものを好ましくないものとして排除し、好ましくないはずのものを好ましいものとして集めるような個体が混じっていたらどうなるか。試しに、冷蔵庫に糞尿を蓄えたり便所に食料を流したりする人と同居することを想像してみればいい。悪夢以外の何者でもない。そんな同居人など、一刻も早く家から追い出したくなるはずだ。

この同居人は、大抵の人が排除したがるだろう、好ましくないものの例だが、しかしこの同居人とはなぜ同居に至ったのかを考えてみよう。普通なら、正反対の規範を持つ人同士は、そもそも一つの家に同居しない。冷蔵庫に食料を蓄える規範に属する人は、冷蔵庫に糞尿を蓄える規範に属する人を家に招かない。

これは、糞尿を蓄える側からも同じようなことが言える。冷蔵庫に糞尿を蓄える側からすれば、冷蔵庫に食料を蓄えるなんて、とんでもないことだ。食料とは便所に流すべきもののはずだからだ。よって、糞尿を蓄える規範に属する人は、招かれたとしても、冷蔵庫に食料を蓄える規範に属する人の家で暮らすことはない。

にも拘らず同居が発生するのは、どういう場合か。一つには、産まれたばかりでいかなる規範にも属していない存在である子供が、家に招かれ、その後、成長したその子供が自らの意思で、糞尿を蓄える規範に属した場合。もう一つには、誰もが食料を蓄える規範に属する人同士だったはずが、何らかの理由で、途中で誰かが糞尿を蓄える規範に属し直した場合。もう一つには、互いに規範が正反対であることを承知しながら、一つの家に同居することに、互いに無視できない利益があるので、家の中に互いの専用の冷蔵庫を設け、互いの冷蔵庫には一切、干渉しない、というような契約を交わした場合。

原初の状態では、人はいかなる人為的規範にも属していない。人為的規範は、入るも抜けるも人為であり、任意だ。人為的規範は、人為的に作られたものなのだから当然、人の都合で書き換えることができる。正反対の規範だろうが、都合がいいなら、環境を整備して互いに共存することができる。逆に言えば、都合が悪くなったなら、正反対の規範はいつでも本来の排他性に復帰し、互いに共存を撤回する可能性がある。

このようにして、正反対の規範でも同居が起こるし可能ではあるが、問題は、同一の規範しかないと思われていた中から突如として正反対の規範が出現したり、あるいは共存できているはずの正反対の規範同士でも、その共存はいつでも覆えり得る、ということだ。

規範は善悪を決めるものだった。だから、突如として出現した正反対の規範や、これまで共存していたが関係が覆った正反対の規範に対して、それを追い出して滅ぼすことを善と決めてしまうこともできるし、それを遂行すれば再び規範は同一のものだけとなる。それで問題はなくなる。

ここまであれこれ書いてきたのは、倫理や道徳の問題について考えるためだった。倫理や道徳の問題とは、善悪や人為的規範に関することだった。善悪は人為的規範が決めるものであり、ということは何を問題とするかも人為的規範が決められる。だから、人為的規範の問題はこのようにして、人為的に揉み消し、葬り去ることができる。

それで話は終わりか。いや、ここまであれこれ書いて考えたかったのは、問題を揉み消して葬り去れるか、ではない。問題とは何か、なのであり、もしそれを考える目的が、問題を揉み消して葬り去るためなら、話はここで終わっていい。だが筆者は、ここで話を終える気はない。

それは、問題を揉み消して葬り去ることには関心がないことを表明し、揉み消して葬り去ることとは別の態度を問題に対して取ることに関心があることを表明し、揉み消して葬り去ることが、問題と向き合うための最終解答とはならないことを表明したいからだ。

問題について考えたら、問題を揉み消して葬り去ることができる、と分かってきた。だからその通りに問題を揉み消して葬り去って終わり、ではない。それでも更に問題について考え続けたい。問題を、揉み消して葬り去って終わり、で済まさない。それが問題について向き合うことであり、問題とは向き合えるから問題なのであって、揉み消して葬り去ってしまったら、それ問題ではなくなってしまう。筆者は、問題に向き合い、考え続けたい。

それは、いつか人は死ぬと知りながら、いつか地球や太陽が滅ぶことを予測しながら、それでも人が人と生き続ける、そのことと同じかも知れない。

話を戻そう。規範の中から、それに背くような新しい規範が出現することがある。あるいは、最初から背反する規範同士にも関わらず、これまで同居できていたのが、不可能になることがある。問題とは、性質がいくらか異なる二つの規範が、一つの家に同居できなくなる状況が発生することだ。

一方の規範を葬り去ることで問題は消える。だがここでは、葬り去ることは考えない。それは、問題をそのまま放置することとも違う。問題は解消されなければならない。

解消とはどういうことか。問題とは向き合えるからこそ問題だった。それと同じく、放置することができないからこそ問題でもある。放置して何の不都合もなければ、それは問題ではない。解消とは、その不都合を処置することだが、それは問題を葬り去ることと何が違うのか。

何らかの理由で、一つの規範で治まった一つの家に、背反する規範が発生する。と同時に問題も現れる。その事態には何らかの不都合があり、放置はできない。そこで何らかの契約や工夫が必要となる。それによって問題が解消されたなら、背反する規範同士は一つの家に同居することができる。

しかし契約や工夫は、何らかの理由で破綻したり無効になることがある。その時、再び問題が現れる。そうなれば、新たな契約や工夫が必要となる。それによって問題が解消されたなら、再び背反する規範同士は一つの家に同居することができる。

問題の解消とは、ここでは、背反する規範があることを許容し、それとの同居を許容しながら、しかし背反することの不都合だけを問題とし、不都合を許容範囲に収めるための、契約や工夫の創意と実施と、その努力を意味する。

そしてそれこそが、倫理や道徳と呼ばれるもののことではないのか。

少し前に、一つの規範で治まった一つの家、と言った。だが、その更に前に、規範は個体に固有の、複製できない選別器、とも言った。現実には規範とは、個人ではなく集団で営まれるものを指す。規範は似通ったもの同士なら、契約も工夫も凝る必要がなく、互いに容易に同居できる。

だから、一つの規範で治まった、というのは正確ではない。現実に言われる、一つの規範、というものは、厳密に言えば、差異だらけだがその程度が強くない個体の規範同士の、結合のことだ。それが何を意味するか。

一つの規範の中から背反する規範が現れる、ということを言ったが、そもそもの一つの規範が、多数の差異を含むものだ。差異とは、背反の程度が許容できる範囲に収まっていることの言い換えでしかない。だとすれば、背反する規範が現れる、というのも、想定されない異常事態よりは、一つの規範が予め孕んでいた可能性であり、当然に想定されるべき通常事態だ。

一つの規範は常に、新たに背反する規範を出現させる危険を孕む。その意味でも、問題を揉み消して葬り去る選択は、やはり賢明でない。背反する規範の出現を予防する究極の方法は、元となった一つの規範を葬り去ることに他ならないからだ。

一つも規範のないところに、背反する規範が出現する危険はない。だとすれば、全ての固有の規範と、その根拠たる個人を葬り去るべきだ。しかしそれは最終解答にはならない。問題は向き合えるから問題であり、葬り去らないから問題であることができる。

わたし達は規範を葬り去ることができない、というところから考えを始めなければならない。もう少し別の言い方をしてみよう。究極の解答は、全ての規範を葬り去ることだが、それは動かしがたく明白であり、考えるに値しない。わたし達が、問題を考える、と言えるには、究極の解答だけは最初に避けなければならないのだ。

そして、その解答の一つとして既に「今生きている人の中から、ある規範を倫理や道徳と感じられる人達だけを選んで互いに集まり、それ以外の人を新たに招かないで生きる」というものを提出しておいた。そこに加えて「人と人とが共に生きることの範疇が何であるか」が重要だ、とも言っておいた。

規範を葬り去ることはできない。個人を葬り去ることはできない。だから、背反する規範同士、背反する個人同士はそのままに。しかしそれでは、狭い一つの家の中で、背反する者同士がぶつかり合うことになる。これを放置することはできない。そのままにしながら放置しない、とはいかにも矛盾する。

そこで必要となるのが契約や工夫だった。契約とは、都合と不都合を関係付けて、不都合の程度を小さく評価することだ。例えば労働契約なら、労働を提供する代わりに報酬を貰う。報酬が都合で、労働が不都合だ。

もし報酬と労働が関係付いていないなら、労働する意味がなくなる。労働するから報酬がある。労働しないから報酬がない。これが承知されていないなら、労働は単に心身を疲れさせるだけの行為で、害しかない。であれば、労働などしないほうがいい、という結論になる。しかしそうすれば、報酬もなくなってしまう。

ある二人の人、AとBがいるとする。Aは木の実を獲って食べて生活していて、余った分は保存していた。するとBはその木の実を勝手に持っていって食べてしまう。同時にBは魚を獲って食べて生活してもいて、余った分は保存していた。するとAはその魚を勝手に持っていって食べてしまう。二人の栄養状態は、陸と海の食料を両方摂取しているために、非常に良好だが、どちらか一方だけの摂取になると状態は悪くなり、食料を収穫することはできなくなる。

二人の生活はそのように成立しているが、どちらかが自分で食料を獲ることをやめたり、保存している食料を相手が勝手に持っていくことを容赦しないようになれば、二人の生活は破綻する。

もし二人が互いの生活と行動を理解し、食料の収穫を続けながら、その一部を相手が持っていくことを許すのであれば、二人の生活は良好となる。これが契約となる。この時、都合は異種の食料の入手、不都合は収穫の一部の減損だ。

だがそれは減損というより、交換あるいは変換というべきだ。Aは木の実の一部を、Bを利用することで、本来なら得られなかった魚に変換してる、といえる。減損どころか、実態はより豊かになっている。不都合はほぼ都合に変わって解消している。

このような機序は生命および生態系の基本でもある。太陽エネルギーを栄養として蓄えた植物は成長し、養分に包まれた種子を作り、その成長した植物や種子を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べ、肉食動物を人間が食べ、それらの動物はいずれ死んで朽ち、菌類に分解されて植物の養分となる。喰われることが、喰われた者自身を富ませる。不都合が都合を増進する。

契約とは、このような機序を正確に繰り返すことを計画し、互いに参入し、互いを富ませることだ。富ませるは喰わせるであり、自分の身を喰わせて犠牲にし、先ず自分以外を富ませてから、いつかその富を自分に回収することが、その意義だ。

倫理や道徳とは、決して楽なものでも快いものでもない。楽で快いものであるなら、言われずとも誰もが倫理や道徳に邁進しているだろう。一方で倫理や道徳は、全くの損や無駄でもない。もし楽でも快くもなく、全くの損で無駄なことだったら、倫理や道徳など誰にも顧みる理由がない。

なぜ倫理や道徳が求められるか、といえば、それらはわたし達を富ませるが、しかしわたし達にとって決して楽でも快いものでもないために、わたし達の誰もが進んで担いたがらないものだからだ。倫理や道徳とは、将来のわたし達を富ませるために、現在のわたし達が引き受けるべき、犠牲のことだ。

もしそうなら、より倫理的であること、より道徳的であることとは、より犠牲を引き受けることだろうか。いや、そう単純にはならない。というのも、犠牲には全く損なことも無駄なこともあるからだ。将来の富に繋がらない犠牲を、倫理や道徳とは呼ばないだろう。

では、富に繋がる犠牲とは何だろう。その前に、富とは何だろう。富とは何らかの蓄積だ。そしてこの蓄積は、何かと交換あるいは変換できるものでなければならない。金銭の蓄積は富と言えるが、ただの石ころを蓄積しても富とは言えない。

ただ、金銭が富と言えるのは、それが使える市場がある限りだ。市場が認めない金銭だったり、そもそも市場が成立していなければ、金銭は富とは言えなくなり、ただの石ころと変わらなくなる。また、ただの石ころと考えられていたものに、重要な科学的特性があることが発見され、途端にそれが富となることもある。

だからといって、いつか使えなくなるかも知れない金銭の蓄積が、無意味になったり、いつか有用になると信じて石ころを蓄積することが、重要になったりはしない。

蓄積する行為は常に将来のためだ。現在のこの瞬間のために蓄積する、ということは成立しない。何かを蓄積する行為の価値は、その蓄積に手が付けられる将来が決める。であれば、現在始められる蓄積は常にその価値が不明だ、ということになる。なら、金銭の蓄積を始めることも、石ころの蓄積を始めることも、将来の価値が不明という点で等価であるように思える。

にも拘らず、大抵の人は、金銭の蓄積はしても、石ころの蓄積をしようとはしない。それは、現在こそは過去に想定された将来であり、過去の分の「金銭の蓄積の価値」と、過去の分の「石ころの蓄積の価値」は、ここで確定しているからだ。

人は、過去の価値、既に確定した価値を基準にして、将来に向けて現在すべきことの、仮の価値を決め、その価値に従って現在すべきことを決める。そうでなければ、人は現在すべきことを決めることができない。

もっと言えば、過去の価値を現在の価値判断の基準にしようとする者だけが、現在すべきことを適切に決められ、過去から見た将来である現在まで、生き残ることができたのだろう。過去の価値を基準にせず、またその他に何の基準も持たない者は、現在すべきことの価値を常に激しく変動させることになる。

昨日は陸上で生きたが、今日は水中で生きる。明日は真空中で生きる、などということを繰り返していれば、どんなに強者で環境適応性の高い者も、早くに死滅することになる。長く生き残れるのは、過去の価値を継承して、過去から激しく逸脱しない者であり、それ自体が何かの蓄積の形式であるように思える。

話は、富とは何か、だった。富とは蓄積で、それは過去から継承され、現在の人が有用と評価し、将来も有用であろうと期待し継承していこうとするもののことだった。そして、富には犠牲が結び付いている。何の犠牲もないのに富は増えない。将来のために一万円を貯蓄するのなら、その一万円は当然、現在使うことはできず、その分だけ貧しく、現在を過ごさなければならない。

その一万円が将来、二万円になったとすれば、犠牲を払って富が増えたことになる。この一万円の犠牲に耐えることが、倫理や道徳だ、ということになろう。では、より倫理的、より道徳的になる、とは、この一万円という額をひたすら上げて、それに耐えていくことだろうか。

それは現在の犠牲を増やしていくことであり、それを突き詰めれば、現在の全てを犠牲に捧げることになる。将来というものは、現在の継続の先にある。現在の全てを犠牲に捧げたなら、将来もなくなる。富とは、蓄積に対する、将来の評価を前提とする。その前提を破るような犠牲は、富にはならない。よって、それは倫理や道徳にはならない。

ただし、それは世界に自分一人しかいないような状況で、だ。世界には無数の人がいる。それは、無数の現在と無数の将来が混じり合ったような状態で、様々な生が継続していることを意味する。

自分一人の現在の全てを犠牲にしても、自分以外の無数の誰かの将来があり続け、それらの人々に蓄積が継承されるなら、自分一人の現在の全ての犠牲は富となり得る。よって、それは倫理や道徳になり得る。

ある一人の現在の全ての犠牲は、そのある一人の死を含む。もしある一人が倫理や道徳を突き詰めるなら、そのある一人は自らの全てを犠牲にして死ぬことになる。もしある集団が倫理や道徳を突き詰めるなら、そのある集団に属する一人一人は自ら死ぬことになる。それは、自分の他にも誰かが死ぬことを、互いに後押し合うことだ。それは果たして倫理や道徳なのか。

倫理や道徳は、誰かの将来があり続けることを前提とする。加えて、犠牲は可能な限り少ないほうがよい。現在の一万円の犠牲で将来に二万円が手に入るのと、現在の五千円の犠牲で同じく将来に二万円が手に入るのなら、後者のほうがよい。なぜなら、犠牲を少なく抑えることが、そのまま蓄積の増進に繋がるからだ。

犠牲が将来の蓄積を生む。しかし犠牲が大きいほど、将来の蓄積は減る。奇妙な事態だ。これは、蓄積が効率に左右されるからだろう。犠牲には、全く損なことも無駄なこともある。犠牲が大きくなれば、損や無駄も大きくなる。この損や無駄こそが、倫理や道徳に反するもの、と言えよう。

必要な犠牲を渋れば蓄積は減り、不必要な犠牲を増やしても、やはり蓄積は減る。なぜ蓄積が何もしなくても減るのか、といえば、蓄積を志向する人間こそが、何もしなくても衰え、やがて死んで消えてしまうものだからだ。

蓄積を増すには、何かを犠牲にしなければならない。かといって、何でも犠牲にしさえすればいいのでもない。必要な犠牲だけを断行し、不必要な犠牲は可能な限り排除する。倫理や道徳は、蓄積を増すための、犠牲の基準と、それを確実に実行しようとする態度のことだ。

人が倫理や道徳に悩むのは、それが犠牲と蓄積の関係を扱うものであり、人は犠牲と蓄積なしには、現在も将来もないからだ。そして、犠牲と蓄積は不可分であり、現在の蓄積が将来の蓄積に繋がるように、現在の犠牲は将来の犠牲に繋がる。

犠牲は嫌なものだ。自分から何かが減っていってしまうことだからだ。それで人は蓄積を欲する。蓄積が多くあれば、何かが減っていくことの嫌さも軽減するからだ。だが蓄積は犠牲によって生じる。人は何もせずにいても、衰えて死んで消えていく。人は生きている限り、犠牲に追われ続ける。

ここで少し立ち止まって考えてみよう。倫理や道徳は、誰かの将来があり続けることが前提だった。その将来のために、現在のわたし達は常に何らかの犠牲を引き受けなければならなかった。だがその将来とは具体的に何なのか。わたし達は何のために犠牲を引き受けるのか。何のために倫理や道徳を追究しようというのか。

将来とは、未だ来たらぬもののことだ。だから、それは何かは現在の時点では確定していない。なら、わたし達はよく分からないもののために、犠牲を引き受けなければならないのか。いや違う。もしわたし達が、将来に対して何の意思も及ぼせないなら、わたし達は将来と関わる理由がなく、よってそのために何の犠牲を引き受ける理由もない。倫理や道徳など捨て去ってしまえる。

わたし達が将来のために犠牲を引き受けられるのは、現在のわたし達が将来に対して何らかの意思を及ぼせるからだ。それは他ならない現在のわたし達が、過去に将来への何らかの意思を及ぼして現在にいることで証明されている。

わたし達はわたし達自身の意思で、未だ来たらぬ将来を定め、それを、完璧ではないにしても、引き寄せることができる。ここまでこの記事を読み進めてきた人は、過去に、この記事の内容を知りたい、と思った人のはずだ。そしてその欲求は現在、叶いつつある。過去の意思が及んで現在があり、現在の意思が及んで将来がある。

将来は未定だが、だからこそ、わたし達自身の意思を及ぼして、それを定めることができる。将来が既に何かによって定まっていて決して動かせないものなのだとしたら、わたし達には何もできることがないし、することもない。意思などあろうと無意味だ。わたし達が何かをしようとするのは、わたし達の意思に意味がある、と信じるからこそだ。

将来はわたし達の意思で定めることができる。つまりそれは、わたし達が何のために犠牲を引き受けるのか、何のために倫理や道徳を追求するのか、これらの答えがわたし達の意思次第であることを意味する。どんな将来を望むかが、倫理や道徳を追求する意味を決定する。そして、その意味の決定は、倫理や道徳の内実を規定するだろう。

人は生きている限り、犠牲に追われ続ける。もし何の将来も望むことをしなければ、わたし達はその犠牲に何の意味も見出だせず、ただ無駄な犠牲を積み上げるしかなく、そしてそれと共に、いずれ消えていくことになる。

無駄な犠牲が倫理や道徳に反するものであるのは、無駄な犠牲の持つ悪質さ、というより、わたし達が望んでいる将来に、その犠牲の意味を結び付けて理解することのできない、わたし達の限界にも由来する。望んでいる将来の実現に、ある犠牲がどう作用するのかを、わたし達は全て理解することはできない。

望んでいる将来の実現に寄与する、と思える犠牲は蓄積と呼ばれ、そうでない犠牲は無駄と呼ばれる。無駄な犠牲とは、犠牲への意味付けの失敗でもあり、その点から言えば、何らかの将来を望むこととは、犠牲を意味付けて、それを無駄に終わらせない営みのこと、となる。

では、わたし達はどんな将来を望み、その将来のために、どんな犠牲にどう意味付けをすれば、倫理や道徳を極めることができるのか。

倫理や道徳は所属する規範によって異なるので、それを極めたいなら、できるだけ所属を絞るべきだ。それは別言すれば、極められそうにない規範には一切所属せず、それを全て無視する、ということだ。もっと言えば、既存のどの規範にも所属せず、自分一人で自分だけの規範を作り、そこで、自分自身を倫理的で道徳的な存在だ、と定めてしまえば、それで済む話だ。

人は全ての規範に所属することはできず、仮にそれができたとして、その全ての規範の中で倫理や道徳を極めることは、到底不可能だ。そしてその一方で、前述した、誰でも簡単に可能な、自分勝手な極め方がある。後者を選んで、話は終わりか。

それでいい人は、そうすればいい。しかし、そんな下らない結論で満足するために、ここまでつらつらと言葉を積み重ねてきたわけではない。後者の自分勝手な極め方は却下した上で、人はいかに倫理や道徳を極めることができるか。それを考えたい。

自分勝手を却下するなら、他人をできる限り考慮すべきだ。他人をどれだけ考慮できるか。しかしそれには、どうしたところで限界がある。その限界に挑戦することが、倫理や道徳を極めることか。そう考えてもいいが、それも別の意味で下らない。できる限り頑張る、などという結論は子供染みているし、何の答えにもなっていない。もっと精細に検討してみよう。

他人をできる限り考慮とは、どういうことだろう。この他人とは、誰のことか。身近な人のことか、縁遠い人のことか。それ以前に、単独の相手なのか、複数の相手なのか。たった一人の身近な相手のために倫理や道徳を極める、というのは達成し易そうだが、その人以外を考慮しない点で、殆ど自分勝手と変わりがない。

自分勝手から離れたところに答えを求めるなら、他人とは、身近な人も縁遠い人も含めた複数の相手、早い話が、自分以外の全ての人、ということになる。しかし、それだけの人に対して倫理や道徳を極めるのは到底不可能、という判断は既にした。なら、対象をここから絞っていけばいいのか。

対象を絞っていいのなら、たった一人の相手か、自分一人に、結局は帰着することになるだろう。なので、対象を絞ることも却下する。そうなると到底不可能という結論の前に、再び戻って来ることになる。

なら今度は、全ての他人に対して倫理や道徳を極めることの不可能性とは何なのか、を考えてみよう。なぜそれは到底不可能なのか。

以前にも書いたように、人々の規範はしばしば背反し合う。その背反は、工夫次第で、背反したままに問題の解消を図ることができる。だが、考慮しなければならない規範が増えれば、それに伴って背反の複雑さも増し、その問題の解消の困難さも増す。対象が全ての他人ともなれば、それらが極まる。

不可能性の成立要件には、一つは人々が必ず背反し合うことが挙げられる。もう一つは背反したままに問題を解消することの困難さの、規模拡大による指数関数的増大が挙げられる。

ここで重要な点を確認しておこう。背反単独では不可能性は構築されない。背反したままでも問題を解消することはできる。背反自体は決定的な障害ではない。そして、背反の質や量の規模が拡大すると、問題の解消が困難になる。

ここでは全ての他人を対象とすることを考えるので、背反の量については動かすことができない、ということになる。その上で、もし不可能性を崩すために何かを動かすことを考えるなら、それが許されるのは、残った、背反の質だけだ。

では、この背反の質とは何か。それは例えば、神を信じるか否か、といったことなどに代表されるが、こういうことはもっと精細に分けることができる。神を信じることとは、神を信じない者をどう考え扱うことなのか。神を信じないこととは、神を信じる者をどう考え扱うことなのか。

神を信じる者は神を信じない者を、無条件に滅ぼそうと考える場合もあれば、税金を納めれば受け入れる場合もあるし、神を信じる行為や自由を邪魔しないだけで受け入れる場合もあるし、究極に寛容であれば、行為や自由を邪魔したとしても受け入れる場合もあるかも知れない。これらは、神を信じない側からも、神を信じる信じないを反転させて、同じことが言える。

ここで、神を信じる者が神を信じない者を無条件に滅ぼそうと考える、最も厳格な信者の場合を例に考えてみよう。この最も厳格な信者の前に、非信者が現れたとする。もしその非信者が一人であれば、無条件に滅ぼされて終わる。だが、非信者が国々の規模で現れた場合はどうか。

信者に厳格と寛容の幅があるように、非信者にも厳格と寛容の幅がある。最も厳格な非信者がいたなら、それは当然、厳格や寛容を問わず、信者を滅ぼそうと考える。だが、信者と非信者がそれぞれ国々の規模で現れている場合、互いに滅ぼして終わる、ということはできなくなる。

国を滅ぼすのは大変だし、自身も消耗する行為だ。厳格な信者は無条件に非信者を滅ぼす、ということだが、非信者に厳格と寛容の幅があり、幅があると言えるほどにその規模が大きければ、無条件は修正せざるを得なくなる。

最も厳格な信者が非信者全体を滅ぼそうとするなら、非信者達は最も寛容な者を除いて、滅ぼされまいと団結して最大限の反抗をするだろう。そうなると、最も厳格な信者の消耗も苛烈を極め、下手をすれば逆に、滅ぼされかねない。

だとすれば、最も厳格な信者は、滅ぼす相手を戦略上は限定せざるを得ない。消耗ができるだけ少なく済むことを考えながら、有限の戦力を投入する相手は、誰であるべきか。

ここで最も寛容な非信者を選べば、最も寛容な者さえ滅ぼそうとするのだから、それより寛容でない者も滅ぼしの対象になるので、最も寛容な非信者を滅ぼすことに消耗しながら、最も寛容な者以外の非信者全体も結局は敵に回すことになって、無戦略の場合と同じになる。いや、有限の戦力を、わざわざ戦う意義の薄い相手に投入している分、無戦略より酷い結果になるかも知れない。

滅ぼす相手として正しいのは恐らく、最も厳格な非信者だ。それは、こちらが何もせずとも、あちらから攻撃を仕掛けてくるだろうし、それ以外の非信者は、こちらから攻撃を仕掛けなければ、敵対することがないからだ。

ここでは、何も戦争戦略の理屈を云々したいのではない。ここで言いたいのは、最も厳格な信者にとっての、背反の質の違いだ。最も厳格な信者にとって真っ先に戦い滅ぼすべき相手は、最も厳格な非信者であり、最も寛容な非信者は一番後回しにすべき相手だ。

これは言い方を変えれば、最も厳格な信者にとって背反の度合いが最も高いのが、最も厳格な非信者で、背反の度合いが最も低いのが、最も寛容な非信者だ、ということだ。これを更に言い換えれば、最も厳格な信者にとって、信者以外でその倫理や道徳に相対的に最も反しないのは、最も寛容な非信者だ、ということだ。

ある神を厳格に信じながら、また別のある神を厳格に信じることは、同時にできない。あるいは、いかなる神も厳格に信じない、ということも、同時にできない。厳格な信者と、厳格な非信者、その両者に対して同時に、倫理や道徳を果たすにはどうすればいいか。それは、どちらにも同時に最も寛容でいる、というのが一つの答えだ。それはいかなることか。

倫理や道徳とは、犠牲だった。それは、自分達が信じるもののための意義ある犠牲だが、一方で損や無駄な犠牲もあった。それは害悪とも呼ばれるものだろう。

厳格に神を信じるための戦争にその身を捧げる、意義のある犠牲があり、戦争に身を捧げないどころか、敵の攻撃に反抗もせず、命と資源をただ奪い取られる、損な犠牲がある。敵の資源を増やすことは、害悪だ。では、戦争に身を捧げず、しかし敵の資源を増やさないのであればどうか。敵の資源を増やす増やさない、は、味方の資源を減らす減らさない、でもいい。

意義の対極に害悪がある。そして、その真ん中には、意義がないが、害悪でもない、そういう立場があるはずだ。害悪とは、避けるべきものだから害悪と呼ばれる。そして、意義がないことも、良くはない。しかしその代わりに害悪でもないのだとすれば、それは決して悪くはないのではないか。

意義がないが、害悪でもない。そのことを前述の信者と非信者の話では、どちらにも同時に最も寛容でいることだ、と説明した。寛容である、とは、相手の自由にさせることだが、別の言い方をすれば、相手に手も口も出さないことだ。もっと簡単に言えば、相手の邪魔をしない、相手の邪魔にならない、ということだ。

最も相手の邪魔をしない、最も相手の邪魔にならないこととは、どういうことか。邪魔とは何なのか。それは恐らく、相手の意思次第だ。こちらが、何も邪魔をしていない、と思っていても相手が、邪魔だ、と思えば何であれ、それは邪魔になる。

邪魔をしない、邪魔にならない、とは相手に何も思われないことであり、だから、最も邪魔をしない、最も邪魔にならない、とは、相手に最も何も思われないこととなる。では、相手に最も何も思われないようになるには、どうすればいいのか。

何かをすれば何かを思われる。相手に邪魔と思われる、かも知れない。いや、何かをしなくても、何かをするかも知れない時点で、既に相手に邪魔と思われている場合もある。何かをするかも知れない、ただそこにいるだけで邪魔、ということは日常の感覚でもあり得る。

ただそこにいるだけで、何かをしていることになるし、何かを思われてしまう。相手に最も何も思われないためには、何はなくとも、そこにいてはならない。相手の目の前にいてはならない。相手の目の前からいなくなれば、さすがに邪魔とは思われないだろう。

目の前にいないけど邪魔、と言うなら、いくら何でもそれは理不尽だが、なくはないことかも知れない。しかし一過性のことだろう。なぜなら、その相手は、ある人が目の前からいなくなったとしても、他の誰かが目の前にいる生活を変わらず送るだろうからだ。目の前に誰かがいながら、目の前にいないある人のことのほうが邪魔、とは思うまい。

いや、脳裏に浮かぶだけで、邪魔は邪魔だ、とは言える。だがそれは、最小限度の邪魔とも言える。究極に邪魔をしない、究極に邪魔にならないこととは、この世に生まれないことであり、この世に生きないことであり、この世の誰の脳裏にも浮かばないために、この世の誰にも知られないことだ。

しかし、わたし達は既にこの世には生まれてしまったし、この世に生きてしまっているし、この世の誰かに知られてしまっている。人は一人では生まれてくることはできないし、一人で生きて成長し、倫理や道徳を極めようと考えることはできない。

そして、生きるのをやめてしまうことは選択肢からは除外している。ならそこから倫理や道徳を極めるために、誰にも最も邪魔に思われないように生きて死ぬためには、どうするべきか。

先ず、もうこれ以上、新たに誰かに知られるべきでない。そして、もう知られてしまった人の目の前にもいるべきでない。それは相手に何らかの形で関わってしまうことであり、関わってしまえば、相手の邪魔になるかも知れない。何も関わらなければ、邪魔にはならない。それは良くはないことかも知れないが、悪いことでもない。

神を信じるべき者にとって、神を信じることは良いことだが、神を信じないべき者にとって、それは悪いことだ。ある良いことは別の面から見た時、悪いことになる場合がある。それは、ある何かや誰かを、良い、と決めてしまうことは、別の面ではある何かや誰かを、悪い、と切り捨ててしまうかも知れないことでもある。

わたし達はある何かや誰かを、悪い、などと切り捨ててしまえる権利なり能力を本当に持っているのだろうか。いったい何が悪いものなのか。わたし達は決めていいのだろうか。もしよくないのだとすれば、良いことも悪いことも、わたし達は決めてはならない。

そうすることは悪いことだからだ、とは言えない。ただ、悪いかも知れないことだからだ、とは言える。そして、悪いかも知れないなら、それはできる限り避けるべきだ。良いことも悪いことも決めてはならない状況で、わたし達はどう生きなければならないのか。

良いことも悪いことも決められないなら、何をしてよいかも一切、決められない。なら、何もすることができない。となると、わたし達は生きることも存在することも、できない。してはならない。しかし、繰り返すが、生きないことを解決方法とするのは禁じた。これは、わたし達は第一に、わたしが生きることは良く、わたしが死ぬことは悪い、ということだけは予め決めている、と言える。

わたしは生きてよい。ただし、それ以外に良いことと悪いことを決めてはならない。なぜなら、良いことと悪いことを決めたら、わたしは誰かにとって悪となってしまうかも知れないからだ。わたしは生きてよいが、いかなる悪になってもならない。悪とは、滅ぼされるべきもののことだからだ。

そして死は、生物に定められたもの、少なくとも人に定められたものだ。もし生物や人としての死を悪とするなら、生物や人であることも悪、と言わなければならない。わたしは生きてよい、とは生物や人であることを、よいということでもある。

死は、生物や人であることを全うしたのなら、悪ではない。それは、生物や人であることを全うさせない死が悪、ということでもある。では何が、生物や人であることを全うさせない、ということか。それは、わたしが生きることの良し悪しからは既に離れた議題であって、決めてはならないことだ。

わたしが生きることはよい。それは同時に、わたし以外の誰もが生きることもよい、ということを意味する。そして、そのこと以外に良し悪しを決めてはならない。

良し悪しを決めないで、わたし達はどう生きられるのか。良し悪しとは、何をすべきで何をすべきでないか、という規範のことだ。規範があってもなくても、人は生きられる。しかし規範があると人々は、安定して集団を形成して、よりよく生きることができる。

だが、それは別の面からは、何かを悪と定めて滅ぼそうとすることであり、そうしようとする集団もまた、自身が定めた悪の側から見れば、別の悪と定まることでもある。警察は反社会勢力を悪とするが、反社会勢力の側から見れば、そんな警察は悪になる。

規範を新しく作ると、何かが悪になり、規範に所属する人々がよりよく生きるために、それは滅ぼされようとする。滅ぼされようとする側も抵抗し、滅ぼそうとする側を滅ぼし返そうとするだろう。自分を悪と定めるような規範は、自分にとって悪だからだ。悪を作ることは、さらに悪を作ることを呼ぶ。悪を作ることは悪い。

規範を作ることは、悪を作ることだ。規範は、人がよりよく生きるために作られる。人がよりよく生きようとすると、悪を作ることになる。人はよりよく生きようとしてはならない。悪を作ってしまわないために。

悪を作らず、悪にもならないためには、新しく規範を作ってはならないし、既にある規範に所属してもならない。集団で生きてはならない。あらゆる規範と集団から離れ、誰にも知られず、既に知られているとしても、その関係を決して更新も行使もせず、誰からも忘れられたように、まるでそこには以前から何者もいなかったかのように、一人で生きて、死ぬ。

それが、あらゆる人に対して倫理的で道徳的である、ということになる。それはあらゆる人に良いこととは言えないが、悪いことでもない。そして、仮に悪かったとしても、そのことをあらゆる人は知らないし、気にしない。もしその悪いことをどうにかしようと、あらゆる人と何らかの接触をしようとすることこそが、何かの悪の始まりになるかも知れない。

小さな悪をなくそうとして、より大きな悪を作ってしまうとしたら、愚かだ。その小さな悪を、より大きな悪を決して作ることなしになくせる、確実な根拠があるなら、そうしてもいいかも知れない。だがそんなものは、どこにあり得るだろう。ある、と言う者がいるなら、是非ともその証明をして見せてもらいたい。

わたしが生きることは良い。あなたが生きることも良い。だが、わたしは集団で生きてはならない。あなたと共に生きてはならない。しかしながら、あなたがわたし以外の誰かと共に生きることを、わたしは止めることができない。それが良いことか悪いことか、わたしには判らず、また、仮に悪かったとしても、それを決してどのような悪を作ることもなしに止められる根拠や術を、わたしは持たないからだ。

共に生きないほうが良い。共に生きなければ、仮にそのことが悪だったとしても、それが悪であることを誰も気にしないまま、その悪だけで終われるからだ。それは良いこととは言えなくても、決して悪いことではない。

人は一人で生きられる。しかし、人は一人では生まれることはできない。一人の男と一人の女が共に生きて初めて、人の生まれる可能性は生じる。わたしが一人の男であれ、一人の女であれ、誰とも共に生きなければ、人の生まれる可能性は生じない。人が生まれなければ、人が生んでしまう、あらゆる悪も決して生じることはない。

わたしはそれをしない。それは良いことではないだろうか。わたしはそう思う。

わたしは生きて死ぬ。他の誰とも共に生きず、他の誰にも知られず、他の誰とも関わらずに。だから、もしこの文章を誰かが見付けて読んでしまったとしても、これは他の誰に宛てたものでもないので、全て忘れてほしい。

もしこの文章の内容を忘れず、覚えているつもりなら、それはあなたの選択であり、責任だ。しかし、それが良いことか悪いことかもまた、あなたが決めることだ。わたしは誰とも共に生きていないので、あなたが決めたことが、仮に悪だったとしても、わたしはそれを知らないし、気にすることもない。