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作・タイザン5、「一ノ瀬家の大罪」を読む

先ず初めに説明しておく。この記事は、作品各話の要約(というよりは、普通はただの書き起こしと思われるだろう文章)を順番に並べて、その後、巻単位の作品の要約を置き、次に作品全体の要約を置いて、最後に、この作品とはどういうものかを語っていく。

筆者は読解の執筆を重ねる中で、このような手法に行き着いた。これは、作品の中で何が起こっているかの精密な調査であり、作品の中で起こったことを筆者がどう認定しているかの明示であり、作品の中でこういうことが起きていたよね、と読者に確認しておく作業でもある。

漫画は雰囲気で読まれるものであり、言葉で表されていない情報については、案外と理解が弱いことが多々ある。それに、漫画は大抵、自分がただ楽しむために読むのであって、他人に何かを語るために読むのではない。普通は、そこまで真剣に読まない。

真剣に読むと疲れるし、あまり楽しくはない。しかし、真剣に読むことでようやく見えてくるものがある。読者に代わって、そんな疲れるし楽しくないことをやって、それを態々見せるのは、この記事で最後に語る、この作品とはどういうものか、という読解の主張のためではある。

だけどそれとは別に、真剣に読むと細かな点に気付くようになり、それは時に作品の見方を変えたり、見方を豊かにしたりしてくれて、そんなに好きではなかったはずの作品が好きになったり、好きだった作品がより好きになったり、ということが起きて、こういう手間を掛けるのもいいものだ、と思ってもらいたいからでもある。

経験上、これをやって、好きな作品が嫌いになってしまうようなことはなかったし、そんなに好きではない作品に無駄な時間を費やした、と思うこともなかった。作品を理解することは、作者を理解することで、それは一人の人間を理解することと同じだ。

好きにせよ嫌いにせよ、ある何かや人について理解が進む、ということに、人間は悪い気がしないものらしい。ただ、これをやって誰しも損はない、とまでは言わない。相当に時間は掛かるし疲れることは、確かだからだ。

しかしながら、この手法は著作権に引っ掛からないか、という懸念がある。こう言っておけば容赦されるとは思わないが、要約は主に作品の既読者を想定している。既読とて細かい部分は忘れている、あるいは雑な理解をしているだろうから、これを筆者の作品理解で埋め合わせる必要がある。

ここで未読者を排除する術はないのだが、漫画の主要な楽しさは映像画像を観賞することにあって、話については、これだけを子細に取り出しても楽しくはなかろう、と思われる。

未読だが、話が知れて儲けた、などという人もいるかも知れないが、そういう手合いは金銭を落とす気が最初から乏しいのであって、それよりも、既読で単行本も全巻購入した、既読だがよく分からない作品だったので単行本の購入は見送った、というような人達に、この記事は読まれたい。

未読でも、ここまで熱心に語る人があるなら単行本を買って読んでみよう、というような人達にも読まれたい。終盤の、翔を説得する美奈子は作品中、一番にかわいいぞ。こういう部分は、文章ではどうやっても表現し切れるものではない。だから単行本を買え。そして読め。

この作品は、前作「タコピーの原罪」から引き続いて注目していた人達の一部から、失望を買ったように思われ、その失望を少しは取り消させられるか、という狙いもあって、この記事は書かれている。

さて、今までならさっさと本題を始めてきたところを、なぜこのような説明から入ったのか、というと、この記事の最後の語りに少々問題があるように思えたからだ。

ある作品とはどういうものか、その作品の要約を書き終えた後であっても、語るべきことが明確に浮かんでいることはない。漠然とはある。そんな状態でさっさと書き始めてしまい、探り探りで進んでいき、やがて語るべきことが形になる。今回もそんな感じだった。

ただし今回は、その作品の内容が、夢と現実、現在と過去を行きつ戻りつする複雑なもので、さらにはある程度の長さの連載の中、作品の始めのほうと終わりのほうで、その質ないし方向性に変更が生じているようであり、話を追うように進めていた読解も、それに連られて、始めのほうと終わりのほうで整合性が怪しい部分が生じてしまっているはずだ。

はずだ、と曖昧な物言いなのは、きちんと精査はしていないからだ。苦労して結論を導き出した後に、数万字を精査するのはつらい。つらかろうが、本来なら結論から遡っていって、整合性が怪しい部分を見付けて整理すべきとも思われるが、今はその気力がない。

それに、結論を踏まえてそれまでの論を整理し、最初からこう書くつもりでいた、というような顔をするよりは、色々と曲がりくねって終わった、この作品に準じて、その読みも曲がりくねったままの姿を、正直に見せたほうが正しいように思えたのだ。

そんなわけで、最後の語りは、思わせ振りなことを言っておいて、それをきちんと回収していなかったり、「罪」とは何かについて、3ヶ所くらいで、別々のことを言ったような気がする。

それらは整理されていないだけで、全く出鱈目を言ったわけではなく、この作品で注目すべきである点に変わりはないはずだ。もうこれ以上、言い訳を続けても、見苦しくなる一方だろうから、御託はそろそろ、この辺でやめて、以降、ようやく本題に入る。

・第1話(第1巻)

涙を溢す詩織に呼ばれて、翼は病院で目を覚ます。家族のような人達に覗き込まれ心配される状況を翼は、まるでドラマのような他人事として感じる。その家族のような人達の面識がないからだ。翼は翼と呼ばれるが、それが自分のことだとは分からない。翼は記憶喪失らしい、と言われるが、そういう人達の言うことも伝聞しかなく、彼らも事故による記憶喪失らしかった。翼は記憶喪失の原因となった事故の記事が載った新聞を読んでも、現在の状況が他人事のようにしか感じられない。自己紹介をすることになり、翼は詩織に覚えがある気がするが、詩織は翼を避ける素振りをする。自分の学生証を渡され、身分を告げられた翼は、これから上手くやっていけるのか不安に思う。

翼達は病院で何となく家族らしい関係を始める。記憶がないので自分の情報端末にアクセスできない、という話題で、翼はみんなを沸かす。その馴染んだ様子を見て、詩織は翼に、呑気だ、と愚痴る。翼は家族の記憶を取り戻すために、架空の思い出話をすることを提案する。みんなが話に乗って、架空の旅行話に盛り上がる中、詩織は一人、話に乗れない。一番最初に目を覚ましたのが詩織であることを、翼は知らされる。翼は屋上に行った詩織に、架空の思い出話を促すが、記憶喪失には刺激を避けて安静にするのが一番だ、と詩織は主張する。翼は、そんなに早く記憶を取り戻したいなら、やはり架空の思い出話だ、と譲らない。詩織は、なぜ何も思い出せない状況で不安にならないのか、わたしは不安で仕方ない、と翼に訴えるが翼は、記憶が戻らなくてもみんなも詩織もいる、架空の思い出話も楽しい、おまえが兄と呼び続けてくれたからおれは一人の時に元気付けられた、詩織も一人で悩むくらいならみんなと話せ、と言って去る。詩織は翼達のいるところへ戻って、不安を呑み込んで架空の思い出話に加わり、架空の旅行に行った気になり、翼は何も怖くないと思えるほど、今の一ノ瀬家は最強で最高だ、と自信を感じるが、やがて退院の日を迎え、家に帰ってみると中は荒れ放題で、家族一人一人には鍵付きの個室があって、そこにはそれぞれ人には言えない何かが隠されているようだった。翼の部屋には、壁一面に、無数の大小の「死」という文字が書かれ、全員の顔が塗り潰された家族写真があった。翼は家族にそれぞれの部屋のことを訊くが、誰も何もなかった振りをする。翼の疑問を押し退けるように、家族は翼に、出来合いの鶏肉の揚げ物を食べるよう勧める。それを食べた翼は、吐き気を覚える。架空の思い出話を通じて、家族がどういうものかを分かったつもりになっていたが、それは間違いらしい、と翼は予感する。

・第2話(第1巻)

詩織は家族の誰よりも先に家を出て登校していた。翼は詩織が一緒に登校する気がなさそうなことに不満気だ。翼は他の家族に話し掛けようとするが、みんなもそそくさと家を出ていく。家に一人残された翼は、せっかく仲良くなれたのだから、みんなの話を聞きたかった、と言いかけて、自室のおぞましい有り様を思い出し、その考えの困難さに思い当たりながら、それを誤魔化すかのように、登校の支度をする。

復学の挨拶を済ませ、席に着いた翼は、以前の自分がどんな学校生活を送っていたのかを知ることに、期待を膨らませている。しかし、級友らは翼から距離を置き、遠巻きに翼に視線を送るばかりだ。その光景は自室のおぞましい有り様と重なる。そこへ中嶋が、おれがおまえの親友だ、と話し掛けてくる。翼は中嶋と楽しく過ごすが、以前の自分は本当にこうだったか、と不安になって中嶋にそう尋ねる。中嶋は、すぐに何かを忘れるところも含めて以前と何も変わらない、と答える。そして、放課後に歓迎会をするから来い、と伝える。翼は、中嶋がいてくれて本当によかった、と思い、そのことを伝えたいと思いながらも教室に来ると、翼は級友らが見ている前で、中嶋に残飯を全身に浴びせられる。そして中嶋は、翼が裸で土下座させられたり、残飯を食べさせられたりしている動画を翼に見せ、おかえり、翼、と言う。翼は、これが以前の自分であることを知り、夢が終わった、と心の中で呟く。

・第3話(第1巻)

翼は中嶋に、牛乳を浴びせられ、体育着や教科書に落書きをされ、一人での掃除を押し付けられ、鞄を川に蹴り捨てられる。翼は、なぜこんなことをするのか、おれが何かしてそれを覚えていないなら謝る、と中嶋に訴える。中嶋は、気持ち悪いから、と翼をいじめる理由を答える。翼は以前の自分が味わっていた気持ちを知り直し、きっと何も言い返せなかったのだろう、と思いながら中嶋に逆らい、中嶋への悪口を言い、おまえのほうが気持ち悪い、と涙を流して叫び、その場から走り去る。走りながら翼は、でもせいせいしただろ、と以前の自分に語り掛ける。

翼が中嶋に反抗した出来事を誰かが撮影しており、その映像が共有され、翌日の学校で話題になっていた。中嶋は先輩らに制裁を受け、級友らからも見放される。そして、鞄を拾ってきたから、と翼に泣きながら許しを乞う。翼は中嶋がしたことを、最低だ、と思いながらも、中嶋と過ごした楽しい時間のことも思い出され、迷うが、以前の自分が睨み付けてくると、許すわけないだろ、土下座して床を舐めろ、と自分では考えたこともないような、怒りの言葉が口を衝いて出る。

・第4話(第1巻)

小学生の頃、中嶋は給食の牛乳が飲めなかった。中嶋の父は、牛乳を飲めれば中嶋は男の子らしくなってくれる、と考えている。給食の時間を過ぎても牛乳を飲めずに困っている中嶋のところにやって来た翼は、中嶋に代わって、その牛乳を飲む。給食の居残りから解放された中嶋は、翼にサッカーに誘われ、翼にサッカーの技術を誉められ、下の名前で呼ばれる。翼は中嶋と一緒に同じサッカークラブに入り、自己紹介が下手な中嶋に代わって、中嶋を相棒と呼び、二人で得点王を目指す、と周囲に宣言する。中嶋は翼といると自信を持てる。翼は、中学に行ったら一緒にレギュラーを目指そう、と中嶋と約束する。が、翼は家庭の事情でサッカーをやめてしまう。翼を失った中嶋は自信も失うが、翼との関係を信じて頑張り、レギュラーを獲り、それを翼に報告する。翼は、昔の約束など覚えていない、と言い、約束を信じていた中嶋を、気持ち悪い、と言う。中嶋は翼に掴み掛かる。

現在、中嶋への反抗を経て翼は、中嶋に牛乳を浴びせ、中嶋の服や教科書に落書きをし、一人での掃除を押し付け、中嶋の持ち物を川へ投げ捨てるようになっている。残飯で中嶋のサッカーのレギュラーのユニフォームを「洗う」ように中嶋自身に命じ、翼は中嶋を見下ろす。中嶋は、これまで自分のことばかり考えて、翼のことを何も分かろうとしなかったことを、翼に詫びる。中嶋は残飯の入った容器を抱え、自身のユニフォームを前に、こんなの何の意味もなかった、と言い、それを汚そうとする。翼は、はたと気付き、残飯の入った容器を中嶋から取り上げ、それは違うだろ、と中嶋に言う。

・第5話(第1巻)

中嶋に、それは違うだろ、と思わず言ったものの、何が違うのか、翼は分からない。翼は中嶋を懲らしめるように周囲の級友らに促され、中嶋への恨みを思い返しつつも、でもおまえにとってはそれだけじゃない、友達だったんだろ、と以前の自分に、自室にあった中嶋との写真を見ながら語り掛け、自分のことも何も思い出せないけど何か駄目な気がする、と言って級友らに、中嶋への懲らしめをやめることを伝える。そして更に言葉を続けようとするが周囲は、二人の間に何があるのかも、記憶喪失のこともどうでもよく、面白そうだから付き合ったのに冷めた、二人共、気持ち悪い、と言って帰り始める。翼は、おまえらがここ一週間、おれを笑っていたのは覚えている、と級友らに残飯を浴びせる。そして、おまえとの昔の関係を思い出してから残飯でユニフォームを洗わせるかは決める、と中嶋に言い、ユニフォームを仕舞わせると、中嶋にも残飯を浴びせ、今のおれにしてきたことはこれでチャラだ、と言って逃げる。逃げながら翼は、全てを思い出したら喧嘩も仲直りもまたできる、と考える。

翌日、翼は残飯を級友らに浴びせたことを報告され、担任教師に責められる。それは元々は級友らも賛同した、中嶋への懲らしめが発端だが、級友らは黙っている。翼が事態の説明を一人、求められる中、おれが残飯サッカーをやろうと誘った、と中嶋が言い出し、翼と中嶋は居残りで反省文を書かされる。

・第6話(第1巻)

詩織は、一応は家族として振る舞うものの、翼に対して不快感を隠さない。食卓の上には、出来合いのパンがこの家にある最後の一つしかない。記憶喪失から一週間、経ち、翼はぎこちなかった家族との生活にも慣れてきたが、詩織とはしばらく顔を会わせていなかったことに気付く。翼は詩織に、帰宅がいつも遅くなっている理由を訊き、詩織は何か答えようとするが、まさか駅前で彼氏とデートか、と翼は茶化し、その態度に詩織は、わたしは呑気な翼と違って毎日、記憶を取り戻すために頑張っているの、と怒り、出掛けていく。残飯サッカーの件、以来、翼と中嶋は教室で孤立しており、おれが呑気なものか、と翼は反発する。

翼と中嶋は、罰として担任教師から、食料廃棄削減のための募金活動を翌日から一週間、駅前で行うことを命じられる。中嶋は部活があることを理由に、募金活動への参加を翌々日からにしたい、と言うが、ロッカーを開けると、部活をやめろ、と迫る何者かからの文がいくつも貼られており、それを見た中嶋はやはり翌日から参加することにする。

家では、出来合いの食料が尽き、誰も何も買ってきておらず、全員で困っていた。あまり開けていないらしい冷蔵庫の中を探してみると、ジャガイモとニンジンがあり、冷凍庫には鶏肉があり、戸棚にはカレーのルウがあった。一家は全員で慣れないカレー作りをし、食べ、楽しく笑い合うが、詩織だけはそれに馴染めず、カレーを残して外へ出る。公園で落ち込んでいる詩織を追い掛けてきた翼は、以前の自分達に何があったかは気にせず、今の家族を信じるよう詩織に伝えるが詩織は、わたしは翼とは違う、わたしのことを何も知らないくせに、と言って翼の前から去る。

翌日、駅前で募金活動をする翼と中嶋だが、翼は詩織とのことをずっと気にしている。そんな時、翼は、年上の男性と親し気にしている、着飾った詩織と遭遇する。

・第7話(第1巻)

翼と詩織は互いに相手に気付くが、詩織は知らない振りをして、年上の男性と去っていく。翼は中嶋を巻き込んで、詩織への尾行を始める。親しそうに遊ぶ詩織と男性とを見て、その関係を、中嶋は犯罪的なものと考えるが、翼は詩織のただの年上趣味とだけ考える。詩織と男性はファミリーレストランに入り、翼と中嶋も後を追い、二人とは離れた席に座る。翼は中嶋に、詩織達に接近して会話を盗み聞きしてくるように頼む。中嶋は一度は嫌がるが、おまえしかいない、と翼に言われると、小学生の頃の関係を思い出し、引き受けてしまう。中嶋は二人に接近して会話を盗み聞きしては、戻って翼に報告することを繰り返す。その内、二人の会話は甘ったるいものになっていき、翼と中嶋は激しく疲れる。

帰宅して自室の鍵を開けた詩織に翼は、盗み聞きで得た情報とそこから辿って得た男性の情報とを突き付ける。男性の名は穴水だ。何で付いてきているの、最低、と詰る詩織に、こっちの台詞だ、おれのことを呑気とか言って、と翼は詰り返し、詩織が甘ったるいことをしたり、美味しいものを食べたりしていたことなどを論うが、中嶋が忠告した、インターネットでの知り合いと不用意に会うことの危険性についても話し、詩織の身を案じる。詩織は苦し気な表情で、余計なお世話、と言い、翼を追い払おうと突き飛ばす。よろけた翼は偶然にも、鍵が開いている詩織の部屋の扉を開けてしまう。その中には、無数の大小の同じぬいぐるみが、所狭しと並んで飾られていた。それを見た翼は、秘密を抱えていたのは、おれだけではなかったのかも知れない、と思い、部屋の中を見られた詩織は、その場にへたり込み、翼を力なく罵倒する。

・第8話(第2巻)

部屋に入ってきた翼に詩織は、わたしは大丈夫だから、と出ていくように言う。翼は詩織の様子を見て、大丈夫とは思えず、何かあるならおれに相談しろ、と言うが詩織は、翼には関係ない、と拒絶する。翼は無性に苛々してきて、年上の男性にちやほやされて嬉しいのだろうが、ああいうのに媚びを売るのは、傍からは馬鹿らしく見える、と言い、詩織は子供だから、おとなしく、おれに頼ればいい、と言う。詩織はぬいぐるみを翼の顔に投げ付け、わたしだって好きでやっているわけではない、偉そうに言わないで、学校で孤立しているくせに、家では明るく振る舞っているが、本当は学校ではいじめられているのだろう、情けない、自分が先ず駄目な人に兄振られたくない、翼が兄でなければよかった、と翼に当たる。

翼は夜の公園で落ち込んでいる。そこへ帰宅途中の翔が通り掛かり、泣いている翼を見て驚き、一緒に座って話を聞く。翼は詩織の乱暴さを言い立て、おれが言い過ぎたのは詩織が何も言わないからだ、と主張するが、おれになんか言いたくないのか、と思い当たり、もう知らない、と拗ねる。それを見ていた翔は、翼は本当に詩織が大切で心配なんだね、と言う。そう言われた翼は、でも詩織を傷付けたかも知れない、と心の整理が付かない。翔は、ぼく達は記憶喪失で互いのことを何も知らないのだから、ぶつかるのも当然だ、と言い、詩織の力になりたいきみの気持ちは間違っていないと思う、と翼に伝える。翼は詩織に会いに急いで帰宅するが、詩織はさっき出掛けた、と知って再び外へ探しに出る。夜の歓楽街を穴水と一緒に歩く詩織を見付けて、翼は駆け寄る。穴水は翼に、威圧的に用件を尋ね、翼は怯んで妙な声を出す。翼は大人達の雰囲気に怯え、自分もまだ子供であることを思い知りながら、自分が子供として持っている社会的身分と名前を名乗り、詩織が自分の妹、家族であることを伝え、彼女を連れていかないでください、と懇願する。翼は、勝手に付いていったり言い過ぎたりしてごめん、格好悪い兄でごめん、と心の中で詩織に謝り、でも、いくら情けなくても、おれはおまえの兄だから、世界で一番、おまえのことが心配なんだ、と心の中で叫ぶ。

・第9話(第2巻)

一週間前、詩織は携帯端末のロックを解除することに成功する。自分のとされている部屋や、部屋にある服にも違和感を持つ詩織は、以前の自分がどんな人間だったかを知りたがり、その手掛かりを携帯端末の中に求める。そこには、穴水からの親し気な連絡の履歴があり、その人を、自分のことをよく知っているだろう友達と見込んだ詩織は、穴水と会う。しかし、穴水は大人の男性で、詩織は会うなり、翼と同じように妙な声を出す。相手を心の中で警戒する詩織だが、穴水は馴れ馴れしく話し掛けてきて、頭に手を置いてくる。その態度に寒気を感じていながら詩織は、あなたのために着飾ったの、と極めて明るく言ってしまい、そんな自分に驚き戸惑う。穴水は更に馴れ馴れしい態度で手を肩に回してきて、詩織をデートに誘う。詩織は、気持ち悪い、と思いながらも、にこやかに承諾の返事をする。デートを終えて帰宅した詩織は、便所で嘔吐する。訳の分からない部屋に暮らし、変な服を着て、年上の男性と頻繁に連絡を取るのが、以前の自分だった。それ以降も詩織は穴水と会った。気持ち悪い、と思いながら、自分の身体ではないみたいに、手足が勝手に動いた。本当は嫌だ、と言いたい。記憶を喪失し、もう以前の自分ではない、と言いたいが言えない。詩織はずっと心の中で助けを求めていた。

詩織に、もう帰ろう、と翼は言う。穴水は、翼に年齢を確認し、詩織の兄であることを確認し、詩織が未成年だ、と理解すると、まだ何もしていないし、何もする気はなかった、と弁明し、怯えて去っていく。翼は詩織に無事か尋ねながら泣く。詩織も泣く。詩織は翼に縋り、感謝の気持ちを伝える。相変わらず、駄目な人に兄振られたくはないが、翼が兄でよかった、と思い直す。

翼は詩織を自室に招き入れ、詩織に代わって、詩織の携帯端末から、穴水との連絡手段を消す。詩織は、翼の部屋の異常さに絶句している。翼は、もう慣れた、と言い、高そうなカメラもある、とカメラを手に取り操作するが、動かない。詩織は、本当に適当、と呆れる。そして、わたしはあの部屋のことも、なぜ穴水と会っていたのかも分からなくて、気に病んでいたのに、と言うと、翼は病院での時と変わらず、思い出せなくてもいいだろう、と言い、詩織は不機嫌な目を向ける。翼は、学校で色々なことがあり、家族でカレーを作って食べて笑い合えたことで、記憶がなくても、家族がいるのはいい、と思えて、困っている家族がいたら心配だし助けたいし、そういう家族が笑えているなら、昔のことはどうでもいい、と話す。詩織は、病院にいた時と同じ、馬鹿丸出しで、まるで進歩がないが、翼らしい、と笑う。翼の考えを見直す詩織に翼は、やはり家族は笑顔でないと、と言う。その言葉を聞いた詩織は、何かの光景が脳裏に浮かぶ。どうしたのか尋ねる翼に詩織は、何でもない、と答える。

後日の朝、翼に話し掛けられた翔は、時間がないから、と断ってそそくさと出掛けてしまうが、その際に何かの紙を落としていく。家族は、翔の様子が最近おかしい、と話し合う。あまり家にいたがらないようだ。翔が落とした紙を詩織が拾うと、それは社員旅行の案内だった。それには家族全員の申し込みが済んでいることが記されていた。

・第10話(第2巻)

翔は家族も連れていける社員旅行があることを、翼達に話す。記憶喪失で大変な状況だから辞退しようと思っている、と翔が伝える隙もなく、もう翼達は旅行に行く気になって盛り上がっていて、架空ではない本物の旅行に行ける、サルを見られるかも、と喜んでいる。翔は辞退の意向を言い出せず、外へ出る。心配して翔を追ってきた翼は、公園で翔と話し合う。翼は家族での旅行を楽しみにしていることを伝え、喧嘩していた詩織と仲直りができたのが翔のおかげで、そのことへの感謝と共に、翔が自分の父でよかった、と伝える。

翔は丁度よく修理から戻ったワゴン車を用意して、翼達を旅行先に連れていく。翔は用意した飲み物を、道中、家族に勧める。翼が、到着までどう暇を潰そう、と言うと詩織は、少しでも勉強したら、と嫌味を言い、おまえはあの年上男性とチャットでもするのか、とやり返し、二人だけが知る詩織の秘密を持ち出しかけたので、それを言ったら許さない、と詩織は怒る。翼はしりとりを提案する。子供っぽい、と詩織は言う。翼は、おれらの初めての旅行だから、車の中から思い出を作りたい、と語り、詩織は今回はすんなり乗り、しりとりが続き、しかし翼が気付くと、いつの間にか時間は夜になっていて、翼と翔以外は眠っており、昼頃に着くはずの車は、まだ走っていた。本来は日光へ行くはずが、車は福井県へ向かって走っているようだ。翔は翼に、ぼくも気付くのが遅れてしまったけど、笑っていたいだけでは駄目なんだ、と告げる。翼は意味が分からず聞き返すと翔は、中嶋や詩織に何も聞かなかったことや、何も調べずに詩織の携帯端末から機能を削除したことを、翼に指摘する。なぜそれらのことを知っているのか、と翼は戸惑う。翔は、家族や家の中にいくらでも手掛かりはあったが知ろうとしなかっただろう、と続ける。そして、またあの事故のことも何も分からなかった、と言い、翼に謝り、直後に車は激しい事故に遭う。

翼は再び病院で目覚める。以前と同じ家族のような人達が心配そうに覗き込んでいる。翼は自信なさそうに、記憶喪失であることを表明する。翼は事故の直前のことを思い出そうとして、頭痛を感じる。そこへ、やはり全員が記憶喪失みたいだから自己紹介をしよう、と提案する、翔とは違う男性が現れ、一ノ瀬翔を名乗る。

・第11話(第2巻)

一ノ瀬家の面々は自己紹介をし、帰宅して家の中の惨状を目撃し、何もなかった振りをする。翼は以前にも同じようことがあった気がしている。翔を名乗る男性は、以前の自分達がどうだったかより、これからどう生きるかが大事だ、と以前に翼が詩織に言ったようなことを説き、以前の自分達を知る手掛かりになる携帯端末を、新しい物に交換させ、翼がいじめられている証拠を見付けて学校と連携することで、翼に中嶋との関係を回復させない。一ノ瀬家はまたカレーを作る。翔を名乗る男性が、家族が笑えていればいい、と言うと翼の脳裏に、笑っていたいだけでは駄目だ、という本当の翔の言葉が過る。翼はカレーの辛さについて尋ねると男性は、丁度いい、と答える。翼は本当のの翔がこの程度の辛さでも参っていたことを思い出し、男性が父でも翔でもないことを確信し、あんたは誰だ、と問うが、他の家族は付いてこず、男性も翼の問いを受け流す。

翼は詩織とファストフード店へ来ている。翼は、自分達が同じ時間を繰り返していることや、翔が別人と入れ替わっていることを詩織に話すが、相手にされない。翼は本当の翔の特徴を挙げていると、まさにその人物が店員として二人の接客に当たる。

・第12話(第2巻)

本当の翔は、翼達のことを知らない反応をする。翼は家で、駅前の店で本当の翔に会った、と他の家族に言うが、理解されない。そこへ、翔を名乗る男性が帰宅して現れ、その話をするならまた病院に行くか、と翼をやんわり脅す。そんな中、美奈子だけは動揺して席を外す。

翼は本当の翔と話そうと、駅前の店に通い詰めるが、本当の翔は翼を知らないと言うし、注文がなければ相手にしようとしないので、翼は所持金を尽かす。退店した翼の後に、美奈子が本当の翔の姿を確かめに来る。

家で美奈子は翼に、本当の翔と何とか話そうとしていることを問い質し、無駄だからもうやめろ、と告げる。それでもやめようとしない翼に美奈子は、どうだっていいでしょう、あんなやつ、と言うので翼は美奈子に、何かを覚えているのか、と訊こうとするが美奈子は、やめろと言うのが分からないのか、と凄む。翼は、あんたはいつも余計なことばかり、と詰る美奈子の姿が脳裏に浮かんで怯む。美奈子は翼を置いて自分の部屋に入る。美奈子は本当は、翔を名乗る男性に違和感があり、翼の言うことを信じたわけではないが、駅前の店に行き、本当の翔の姿を確かめてしまった。すると美奈子は、何かが強く思い出されるようになり、それは絶対に思い出してはならない、と強く抑え込む。何かに気付きつつある翼と美奈子に対し、二人は馬鹿だ、思い出さなければ傷付かなくて済む、そのためにここがあるのに、と翼の部屋にあった、家族全員の顔が塗り潰された写真を手に、翔を名乗る男性は呟く。

翼と詩織は外を歩いていると、本当の翔を見掛ける。彼はアパートの一室の前で、女性と幼い子供に迎えられ、中に入っていった。翔は、ここに来ると落ち着く、と話す。一方、美奈子は本当の翔のことを思い出さないように、菓子などとその空き容器が所狭しと積まれた自分の部屋の中で、過食に耽っていた。

・第13話(第2巻)

二年前、美奈子は翔がアパートの一室に入っていくのを目撃していた。女性と幼い子供と楽し気に出掛けるところも見ていた。美奈子は翔の浮気を疑うが、同時に、それを信じられない気持ちでもいる。子供達に相手にされず、バイト先から廃品を喜んで貰ってくるような情けない男が、自分以外の女性に相手にされるはずがない。美奈子は翔が貰ってくる廃品をいつも、食べずに捨てていた。いつしか翔は、廃品を持ち帰らなくなっていた。翔は廃品を、それを喜ぶ、アパートの母子に持っていくようになっていた。その事実を美奈子は、隠れて掴んでいた。人員整理の対象になった後、恥もなく地元のファストフード店でバイトをする。子供に言い返すこともできない。実家を出ることもできない。ファストフードや、家族向けを謳う、貧乏臭くて安っぽいものを好む。美奈子は翔のそういったところが嫌いだった。美奈子は翔のバイト先の店に行き、商品を買って帰り、食べ、それが自分にとって不味いことを確認する。それ以来、美奈子の過食は始まった。

美奈子は翔のことを思い出した。そして、翔に自分が忘れられていることを理解した。しかし美奈子は、翔など不要で、今は翔になり代わって夫の役割を引き受ける、翔を名乗る男性もいる、と考える。だが、相変わらず本当の翔に拘る翼は、翔が女性と幼い子供と一緒にいたのを見た、と話している。それを聞いた美奈子は、翼に件のアパートの一室の前へと案内させる。

美奈子が翼と件のアパートへ行こうとしている、と知った、翔を名乗る男性は美奈子に、これ以上知っても傷付くだけだからやめろ、と言い、事故の真相まで思い出せばもう家族ではいられなくなる、と忠告する。美奈子はその意味を理解しないが、あなたの正体も思い出しているから、止めるようなら翼に全てをばらす、と撥ね付ける。

美奈子はアパートの一室の呼び鈴を鳴らす。別の家でまるで家族のように、のうのうと幸せに笑っているだろう、翔達の顔を見なければ、美奈子は気が済まない。だが美奈子はそこで、以前にも自分は似たような行動に出たことを、仄かに思い出す。どんな行動をしたのかを、美奈子が思い出そうとする中、誰かが扉を開けて応対しようとしている。

・第14話(第2巻)

応対に出てきたのは、描いた絵を翔に逸早く見てもらおうとした、幼い子供だった。その子の名前はけんたであることが判明する。翼はさっさと逃げるが、美奈子はけんたが描いた、家族のような絵に少しの間、目を奪われていた。

アパートの一室の前から逃げてきた翼と美奈子だが、翼は美奈子の態度から、美奈子が翔のことを思い出している、と確信し、家族のことを知りたいから、思い出したことを話してほしい、と伝える。美奈子は、翔は不倫をしていた、と率直に言う。動揺する翼に美奈子は、こんなことを思い出したくなどなかった、と激しく言う。そして、思い出したのは翼のせいだとして、いつも余計なことばかり、と翼を詰る。翼の脳裏に、車の中で美奈子に、最後だから、と何かを頼まれる光景が過る。美奈子は俯き、翼に謝り、どこかへ去る。

夕方になっても美奈子は家に戻らない。家族は美奈子の最近の様子も含めて心配し、美奈子について翼に訊くが、翼は何も答えられない。翔の不倫のことで気の重くなっている翼に、翔を名乗る男性が心配するように近付き、父(であるおれ)に話してみろ、と言う。翼は、おまえは父ではない、と突っ撥ねる。翔を名乗る男性は、おれは不倫なんてしないのに、と言う。続けて、おれは翼を絶対に裏切らない、(不倫をする)本物の父は遠ざけた、だからもうおれが父でいいだろう、と言う。翔を名乗る男性は更に、楽しければいい、笑えていればいい、だから何度繰り返しても、忘れたままでいた、せっかく忘れられたのだから、それでいい、と翼に囁き掛ける。翼は家族のどうにもならない本当の有り様の、都合の悪くない部分だけを思い出し、他をちゃんと思い出そうとしなかったことを告白する。そして、車で事故を起こしながら、傷だらけ、血だらけになって伝えてきた翔の信念を、翼は受け継ぐ。過去を見なければならない。怖くても、自分や家族のことを知らなくてはならない。翼は翔を名乗る男性の前から去り、家を飛び出し、美奈子を探す。翼は、母のことを知りたい、一緒につらいことに向き合いたい、と願う。家族だからだ。そんな翼のことを、翔を名乗る男性は、本当に馬鹿だ、と言う。翼がやろうとしていることは簡単ではない。全てを思い出せば、翼はまた失うことになる、と翔を名乗る男性は予言する。

美奈子は、一人で公園で遊ぶけんたを見掛け、けんたを連れ去ろうとする。

・第15話(第2巻)

美奈子はけんたを連れ回し、けんたは疲れて眠くなり、眠ったけんたを美奈子は抱き抱えている。美奈子は翔の裏切りを許せず、けんたを殺してしまおう、と考える。そうすれば、翔と女性との関係は壊れ、翔が自分の許へ帰ってくるのではないか、と考える。そこへ翔が現れ、慌ててけんたを引き取る。美奈子は、自分の邪悪な企みが翔に知られた、と観念しかけるが、翔は美奈子が、勝手に外出してしまったけんたを、善意で連れ帰ってきてくれた、と思っていた。その場に女性も合流し、目を覚ましたけんたと共に、翔達は美奈子に感謝する。美奈子は、知らない人に付いていかないよう、けんたに教えたほうがいい、と伝えて、その場を去ろうとする。翔達の幸せを壊すつもりが、翔達の幸せの手助けをしてしまった美奈子は、翔を見下して話を聞こうともせず拒んだのだから、翔を取り戻せないのも当然だ、と自らを省みる。すると翔が美奈子を強めに引き止める。美奈子は、翔が自分のことを思い出した、と期待するが、翔は美奈子のことを、大量注文の客として思い出しただけだった。翔は、よかったら、と言って、礼としてチキンナゲットの割引券の束を美奈子に差し出す。美奈子は、よかったら結婚しませんか、と言った、かつての翔を思い出す。そして、割引券の束を受け取ると、女性のことを奥さんと呼んで、お幸せに、と言う。翔は、そういう関係ではない、と照れて言うので美奈子が追及すると、翔は狼狽する。そんな翔に苦笑しながら美奈子は、ちゃんとした求婚もできない、馬鹿でお人好しで貧乏臭い、大事なことが何も分かっていない、翔のそういうところが当時は大好きだった、と確認する。

美奈子が帰宅すると、美奈子はチキンナゲットが好きらしい、と聞いた翼が、美奈子を元気付けようと、それをたくさん買って待っていた。だが美奈子も、割引券の束を使い、たくさんのチキンナゲットを買っていた。翼達は楽しい夕食の時間を過ごす。

翼と美奈子は一緒に外を歩きながら、互いに謝り合い、和解する。翼は、美奈子が元気になってよかった、と言うが美奈子は、翼が遠慮して翔のことを言わないようにしていることに気付いて、大丈夫だから今度は一緒に翔に会いに行こう、と翼に提案する。美奈子は翼と、思い出したことについて話していると、部屋に日記があったことに思い当たる。帰宅後、美奈子は、日記を探しておくから、明日、一緒に見よう、と翼に言う。日記探しを手伝いたい、と言う翼に、部屋の惨状を見せるわけにはいかない美奈子は、明日は学校があるのだから今日はもう寝なさい、と答える。何だか、お母さんみたい、と翼は言い、当たり前でしょ、と美奈子は返し、二人はそれぞれの部屋に入る。早速、日記を見付けた美奈子は、それをめくる。そこには、公園でけんたを見掛けたことが、けんたの名前を記して書かれていた。けんたの存在や、その名前をはっきり認識したのは、今日が初めてのはずだ。美奈子の脳裏に、怯えるけんたの姿が浮かぶ。美奈子は頭痛を感じる。日記を読み進めると、繰り返し何かを謝罪する文面が現れる。そして、取り返しの付かないことをしたとして翼に謝る文面が現れる。美奈子は、本来はもう翼と話すことが難しい状況であることを思い出し、部屋を出ようとすると、翔を名乗る男性が立ちはだかり、時間切れだ、と美奈子に告げる。あと一回だけ、あの子に会わせて、と懇願する美奈子は、その場で消えてしまう。

・第16話(第2巻)

美奈子の部屋が家からなくなっていた。翔を名乗る男性は、記憶喪失で目覚めた時から、母はいなかった、と言う。詩織と幸恵も同調する。美奈子も翔のようになってしまうのか、と危惧する翼に耕三が声を掛け、自分の部屋に招き入れる。そこは細かな文字や書類などが溢れ返る部屋だった。耕三は、一ノ瀬美奈子のことも一ノ瀬翔のことも、何度も繰り返し見てきたから覚えている、と言い、部屋全体を指して、これはおれが体験した2000回のループの全ての記録だ、と言う。記憶喪失の発端となった、福井県への旅行中の事故について、家族の誰かが言及すると、時間は巻き戻った。だから耕三は記録に徹した。まだ少し信じられない様子の翼に耕三は、翼が中嶋と和解した記録や、翼が詩織を巡って年上の男性に直談判した記録を読み上げ、それ以外の記録もある、と言う。記録せずとも記憶力に自信はあるが、と言いつつ耕三は改めて翼に一ノ瀬耕三を名乗り、事故前は大学で物理学の教授をしていたらしい、と語る。心強そうな味方の出現に感激した翼は、思わず事故について言及してしまうが、何も起こらない。耕三は、前回のループで翔が状況を変えた、と言い、翔が起こした心中事故以来、翼は記憶を引き継ぐようになり、事故への言及に対する縛りもなくなった、と言う。詩織や幸恵とも状況認識を共有できるようになり、彼女らも翼達と合流する。翔も美奈子も何か重要なことを思い出し、だから世界から消された、と翼達は結論し、その黒幕と目される、翔を名乗る男性に、翼は直接、事情を聞きに行き、耕三は慌てる。翼は、このほうが早いし、この人が悪い人である気がしない、と言う。更に、消される、ということは、ループから抜けられる、ということだろうと考え、また家族でカレーを食べられることに希望を持ち、翼は翔を名乗る男性に、真相を教えてほしい、と迫る。

・第17話(第3巻)

翼の大胆で単純な戦法に、翔を名乗る男性は大笑いし、翼は昔のままだ、と言い、事故の真相を知れば全てが分かる、とだけ答える。翼達はその言葉を信じ、真相を知るために家の大掃除を始める。日記が出てくることを期待したが、それは見付からず、その代わりにアルバムが見付かる。文字だけでなく写真でも、記憶が戻ることがある、と耕三が言い、景色が多い写真を見ていくが、成果はない。写真の中の一枚を、詩織が画像検索に掛け、それが近所の公園だと判明し、翼達はそこへ行ってみる。翼も詩織も、ここへ来るのは初めて、と言うが、写真と丁度同じ場所を見付けると、家族全員がサッカーの試合の応援に来て、誰かに中嶋との写真を撮ってもらった、小学生時代の日のことを、まるでその過去の時間に行ったかのように、翼は思い出す。一同は帰宅し、翼は、写真を頼りに同じ場所を探せば、誰か何かを思い出せるかも、と言い、みんなの思い出をもっと思い出したくなった、と言い、一同は団結する。翼が一人、自室にあったカメラを手にアルバムを見ていると、翔を名乗る男性が寄ってきて、そのカメラは壊れているだろうから捨てたらどうだ、と言う。翼は、これで昔に誰かに写真を撮ってもらった、大事なものである気がするから、と拒む。男性は、思い出さないほうがいい、と言い、翼は、またそれか、とうんざりし、名前も分からない、怪しいやつが、と漏らすと、男性は、颯太だ、と自身の名前を明かす。そして、本当はおまえは福井の事故で大怪我を負い、4年間も昏睡状態でいる、と告げる。

・第18話(第3巻)

颯太は、ここはおまえの夢の中だ、と翼に告げ、だからアルバムを見て何を思い出しても無駄だ、と告げる。翼は、おれ達は事故の後に病院で目覚めて、全員無事だった、と言うと颯太は、あの高さから落ちて本当に全員無傷だったと思うか、と問う。そして、あの後、一ノ瀬家はバラバラになって、やり直しなんてできなかったし、そもそも一家全員が記憶喪失なんて、あり得ることではない、と言う。翼の中の一ノ瀬家の像に、罅が入る。

全部忘れて、やり直せたらよかったのにね、という誰かの声があり、美奈子は自室で目覚める。手元には、事故の記事が載った新聞があり、一人重体、とあり、その下段の一部は手で隠れているが、恐らくは、一人死亡、とある。美奈子は過食症の療養日記を付け、飲食店での接客の仕事に出るが、料理を落として怒られる。美奈子は、ファストフード店で働いていた時の翔もこんな気持ちだったのかな、と思う。美奈子は町の中で、女性が連れている男児に見入る。美奈子は、4年前にわたし達家族は交通事故に遭い、大切な息子を失った、でもそれ以来、翼は無事で、わたし達はみんな記憶喪失で、全部忘れて一から家族をやり直す、という夢を見る、と独白する。美奈子は、昏睡状態の翼にカレーを作って持っていき、話し掛ける。美奈子は、夢ばかり見て、その夢の中でも怒って、向き合ってあげられなかった、と翼に何度も謝り、いっそ死んでしまおうか、と病院の屋上へ行くと、翔が飛び降りようとしているところに出会す。美奈子は翔を引っ張り戻して怒るが翔は、ぼくは逃げてばかりで父親の資格も生きている資格もない、と言う。美奈子は翔の主張を、幼稚なものとして聞き捨て、帰るよ、と言って背を向ける。翔は更に、夢でまで現実逃避して、と言い、事故なんてなかったように翼がいて、全部忘れて楽しく笑う夢、と言う。美奈子は翔に向き直り、それって、と言い、一家全員、記憶喪失、と二人は同時に口にする。

・第19話(第3巻)

美奈子は過食症の療養日記を担当医師に提出し、問診から事故の話になり、あれ以来、家族はバラバラになり、特に暗くなった翔とは意思の疎通ができなくなった、と話す。

病院の屋上で夢のことを話し合った翔は美奈子に、ぼく達は同じ、翼が目覚める夢を見ている、これには意味あり、何かの予兆かも知れない、と訴える。美奈子は翔の言うことを本気にできないが、夢の話で翔との意思の疎通が回復したことから、口先だけで弱く翔に同意する。翔は、他の家族を夢を見ているかも知れない、と盛り上がり、翔に明るくなってほしい美奈子は、翼も同じ夢を見ているかも知れない、どうせ眠っているなら翼には楽しい夢を見ていてほしい、と翔の考えに乗る。昏睡状態でも夢を見ることはある、と医師から聞いた翔は、自分や美奈子が見ている夢は、翼の夢で、それを家族で共有している、と言い出す。美奈子は翔の考えに付いていけないが、翼の夢を希望に翔が生きていてくれるなら、と翔の考えを支持する振りをし、一時的に翔との関係は上向く。だが、翔が翼にサッカーのユニフォームを着せて、翼が目覚めるように応援しよう、などと言い出すと耐えられなくなり、翔を制止し、(精神疾患を治すために)一緒に病院に行って、と懇願する。翔は美奈子の言うことが分からない振りをする。美奈子が、夢なんてない、と言うと翔は、もう少しだけ縋っていたいんだ、自分のことを、父でよかった、と言ってくれた、夢の中の翼に会いたい、と夢の中で楽しい思いをしている翼を信じていたかった本心を吐露する。美奈子は翔と共に泣き、夢の中の翼を信じるなら、何も言わなくなったり、死のうとしたりしないで、そうしたら夢の中の翼とも話せなくなるから、と翔に伝える。二人は眠り続けている翼の傍に付き、一緒に話し掛ける。

夢の中の翼は、夢の外の声を聞いたような気がするが、颯太に遮られ、颯太を父と呼び、張り切っていた。耕三は、翼が美奈子やループのことを忘れていることを翼に注意するが翼は、美奈子はいなかった、という颯太の以前の説明を受け入れている。詩織と幸恵も、翼と颯太に同調する。颯太は夢の外に向かって、不適に笑う。

・第20話(第3巻)

翼は、颯太と詩織と幸恵に囲まれながら、張り切る振りをしている。そこへ耕三がアルバムを持ってきて、記憶を取り戻すように翼に促すが、翼はとぼける。もう一度大掃除をするか、と言う耕三に翼は、爺ちゃんの部屋は紙だらけで嫌、と返し、それを知っているなら、ループのことも覚えているはずだ、と翼の嘘を見破る。翼の苦し気な態度に、颯太に何か聞いたのか、と耕三は尋ね、それに翼は黙っている。耕三は翼の気を起こさせるために、この世界はおかしい、そもそも一家全員が記憶喪失なんてあり得ることではない、と颯太と同様の指摘をする。翼は、うるさい、と叫び、家を飛び出して走りながら、状況を分かっていながら、それに向き合えない自分を確認する。翼はベンチに座ると、そこが耕三から渡された写真と同じ場所であることに気付き、美奈子に怒られて家に帰れないところを耕三に励まされた過去の出来事を思い出す。翼は耕三の許へ帰り、ここが自分の夢の世界だ、と颯太に言われたことを話し、今までのことはただの自分の願望でしかなかったのか、と怯える。耕三は、ここが夢の世界であることを早速、検証しようとし始め、翼が戸惑っていると耕三は、感情的になって時間を無駄にすることに意味はない、と昔と同じような励ましを翼にする。昔は「感情的」の意味が分からなかった翼は、今は分かり、なぜそんなことを言うの、と耕三に抗議する。耕三はそれに答えず、レトルトのカレーを用意し、そうなるくらいなら早くおれに相談しろ、と言い、また昔と同じように、飯を食って元気を出せ、と言う。すると、詩織と幸恵が、颯太を騙すために同調する振りをしていた、として合流する。そして再び、翼は直接、颯太に事情を聞きに行き、その軽率さを非難される。

・第21話(第3巻)

颯太は恐らく、翼を夢の中に留まる気にさせられた、と思っていたが、翼が再び夢の外へ出る気を復活させ、動揺している。颯太は、夢から目覚められないのは過去を受け入れていないからで、どれだけ思い出しても無駄だ、と言い残して席を外す。翼は、過去を受け入れる、ということがどういうことか、よく分からない。しかし、それがどういうことであるにしても、先ずは全ての過去を思い出さなければ始まらない、と張り切る。

アルバムを調べていると病院の写真があった。それは福井県にあるものらしい、と分かり、事故との関連が疑われる。すると幸恵は、この病院に見覚えがある、と言い出す。幸恵はさっき茶を淹れて持ってきたにも拘らず、また茶を淹れに行く。病院はアルツハイマー病を専門としていた。

幸恵一人を部屋に置いて、耕三は翼と詩織にアルツハイマー病の解説をする。幸恵は自身がアルツハイマー病であることに納得するものの、何か違和を感じている。翼達は幸恵の部屋に入り、翼は、幸恵のことを知りたいから福井県にある病院に行ってみよう、とみんなに提案する。

翼達は新幹線で福井県に到着する。それには、翼の意向で颯太も付いてきていた。やはり翼には、颯太が悪人であると感じられない。一行は途中で東尋坊に寄り、そこで休憩を取る。崖先からの景色を眺めている翼に、幸恵が近付く。幸恵は、翼が家族を元気付けて明るくしてくれた、と感謝を伝えて、翼を崖先から突き落とす。幸恵は病的な表情で、家族のみんなが翼に感謝している、と繰り返す。

・第22話(第3巻)

翼はまた病院で目覚める。そこには翔と美奈子以外の家族がいて、前回の記憶を引き継いでいることが示され、なぜ時間が巻き戻ったのかが問われるが、幸恵はとぼけている。翼は退院して帰宅してからも、何も言えずに部屋に閉じ籠っている。耕三が強く問い質すと、翼は以前のように家から飛び出し、幸恵に突き落とされたことに混乱しながら走り、気付けば、小学生の頃に耕三に励まされた、児童向け施設に来ていた。翼は耕三とのやり取りを思い出し、怖くて悲しいがこのまま同じことを繰り返してはいけない、と覚悟を決めて耕三の許に帰り、時間が巻き戻ったのは自分が原因だ、と話す。耕三は以前と同じように、感情的になって時間を無駄にすることに意味はない、と翼に言い、レトルトのカレーを用意して、飯を食って元気を出せ、と言う。同じことを繰り返している、と翼は耕三に指摘するが、耕三は自覚がない。翼は深く気にすることなく、東尋坊で幸恵に突き落とされたことは、心の整理を付けてから話したい、と伝え、耕三に改めてアルツハイマー病の説明を聞き、幸恵のことを思って落ち込む。すると耕三は、またレトルトのカレーを用意し、飯を食って元気を出せ、と翼に言う。翼は耕三の異変に気付かず、幸恵の病気に向き合うことばかりを考えている。

幸恵は翼に、これ以上何も思い出さず、夢を見続け、忘れたままでいて、と懇願する。翼は幸恵の話を深く聞かず、幸恵の病気に向き合うことが家族に向き合うことだと信じ、耕三の部屋へ行くが、耕三はおらず、改めて見た、部屋の中に無数にある文字や文章が、出鱈目であることに気付く。異変に気付いて動揺する翼に、耕三はまたレトルトのカレーを用意し、また同じ励ましを翼にする。翼は繰り返される耕三の同じ励ましに感謝を伝えると、耕三は同じ励ましを繰り返していることに自覚がないことを、はっきりと表明する。幸恵は耕三の部屋で、出鱈目な文章が書かれているだろう紙を手に、まだわたし達は夢を見ていたい、と一人、懇願する。

・第23話(第3巻)

小学生の頃、翼は中嶋との遊びを断って、初めてのプラネタリウムに家族で来ていた。幸恵は、若い頃に耕三とよく来た、と言い、翔も、子供の頃に耕三に連れられて毎年来ていた、と言う。プラネタリウムを体験する前は不満を口にしていた翼は、体験した後は、中嶋との遊びと被らないなら来年も来てもいい、と思えるほどに感動を覚えた。しかし、それ以来、プラネタリウムへ家族で行くことはなかった。そんなことになるとは思わなかったよな、と記憶喪失以前の翼は、今の翼に語り掛ける。翼はその夢から覚める。

翼は、病気なのは幸恵ではなく耕三だ、と理解した。幸恵は、病気のことを耕三に話したら許さない、と翼に忠告する。話せば耕三は夢から覚めて現実を見てしまう。そうさせたくない。そう、幸恵は悲し気に言う。翼は、夢から覚めることが自分や家族のためになる、とこれまで思っていた。夢から覚めて前に進むことで本当に幸せになれるのか、と以前の翼が現れて、今の翼に問う。翔も耕三も、過去に向き合い、前を見ろ、と言っていた、と翼は答える。それは他人の受け売りで、おまえは本当に自分の意思がない、と以前の翼は言い、その何となくの行動のせいで、美奈子はいなくなり幸恵は悲しんだ、それがいいことか、と翼に問う。中嶋とも仲直りできたし、耕三の病気のことも理解できた、と翼は答えるが以前の翼は、病気のことはもともと気付いていたが見ない振りをしていた、それがおまえが本当にしたかったことだろう、と翼に問う。

小学生の頃、初めてのプラネタリウムの体験の翌年、翼はプラネタリウムへ家族と行った時のことを、学校で作文にして発表して褒められ、帰宅して、そのことを美奈子に報告するが、美奈子は関心が薄い。翼は、今年も家族みんなで行けるならサッカーを休んでもいい、と言うが美奈子は翼の方を向きもせず、行けるわけないでしょ、と冷たく却下し、翼は大人しく引き下がる。

翼が福井県に行きたがらないので、一同は近場の写真の場所へ行き、何かを思い出そうとしていた。その場所とは、小学生の頃に家族と行ったプラネタリウムだった。そこで耕三と幸恵は仲良く星の話をし、詩織は、アイスクリームを買って半分ずつ分け合おう、と翼に言う。それは、翔と美奈子がいないとはいえ、小学生の頃にプラネタリウムで家族と過ごした、楽しい時間と重なる。翼は涙を流す。何かを思い出したのか、と訊かれるが、何でもない、と翼は答える。幸恵も耕三に、何かを思い出したか、と尋ねるが、いや何も、と耕三は答え、幸恵は密かに安堵する。翼は、こんなふうに家族みんなで笑っていたかった、本当にそれだけでよかった、と思う。少し遅れて歩く自分を待っている家族に、翼は笑顔で駆け寄って合流する。その光景を別の次元から眺める翼は、だから夢から覚めないままでいいんだ、おやすみ、と告げる。

翼は突如、昏睡状態から目覚める。それまで4年の時が経っていた。翼は、おやすみ、と言ったのに、どういうことだ、と納得が行かない様子だ。

・第24話(第3巻)

目覚めた翼に、よかった、と言って翔と美奈子が抱き付く。が、ずっと夢の中でいいと思ったはずの翼は、夢が急に終わってしまい、それどころではない。翼は、脳や記憶に大きな異常はないが、事故の前のことだけはよく思い出せない。夢の中とは違って、翔と颯太を取り違えるようなこともなく、家族の顔ははっきりと覚えていて、だから4年振りに見る翔と美奈子の雰囲気が大きく変わっていることを、翼は意識する。翔と美奈子は翼のために色々と気を遣い、いい両親、いい夫婦として振る舞う。4年前の記憶で止まっている翼は、その変貌振りに耐えられず、嘘みたいで気持ち悪い、あれからどうなったか教えてほしい、と訴える。翔と美奈子は、色々あって仲直りした、と明るく言って退ける。美奈子は過食症の治療を受けていることを、翔は件の親子とはもう会わなくなったことを翼に話し、時間が解決することもある、つまり過去を忘れることで和解できた、と話す。今のような翔と美奈子をずっと望んでいたはずだったのに、それが眠っている間に勝手に叶ってしまうと、翼は拍子抜けする思いをし、自分が夢を見ていたのは、現実では何の役にも立てないはずの自分の活躍で家族が回復する物語の主人公になりたかったからだ、ともう一人の翼の指摘と共に、翼は理解する。中嶋からのいじめも、詩織との不和も、地味で決して映えるようなものではなかった。それ以前に、そもそも物語の主人公が務まるような活発さなど、翼は持ち合わせていなかった。だから夢の中では、派手な物語の主人公として振る舞いたかった。でもそれも、翔と美奈子が勝手に仲直りし、昏睡からも目覚めてしまったことで終わり、何の役にも立てない自分という現実を受け入れなければならない、と翼は観念する。

あのまま夢の中にいられたら幸せだったか、と思いながら翼は病院の屋上に上がる。夢は、上手く行かない現実からの逃避であり、しかしそれすら上手く行かなかった。惨めな現実をこれから生きなければならないなら、いっそのこと死んでしまおうか、と翼は考える。ところが、今にも飛び降りようとしている誰かが先にいることに気付いて、翼は慌てて相手を引き止める。よく見ると、その相手は中嶋だった。

・第25話(第3巻)

中嶋はしばしば、昏睡状態だった翼に会いに来ており、いつもの病室に翼がいなかったことから、翼が死んだものと思い込んでいた。夢から覚め、中嶋との仲直りも無に帰した翼は、目の前の中嶋に関心が薄く、さっさと帰ろうと中嶋に背を向ける。そんな翼に中嶋は、翼につらく当たった過去のことを謝り、翼が昏睡状態になったことでずっと後悔していた、と話す。中嶋の気持ちに戸惑いながら、もう気にしていない、と答える翼に中嶋は、許してくれなくてもしょうがない、翼の気が済むならここから飛び降りてもいい、とさえ言い出し、翼は慌てる。そして、夢の中の中嶋の悪意は自分が脚色して大袈裟にしたものだった、と気付く。中嶋は、翼に謝りたかったから、翼が目覚めてくれて本当によかった、と言う。翼は、壊れていく家族を見ていることしかできない、無力な子供だったが、それでも、家族と同じくらいに自分のことを気に掛けてくれる、大切な友人との関係を作れていたことに、翼は気付く。中嶋は、翼に謝りたくて話したくて、見舞いに行く度に目覚めてほしいと思っていた、と言い、ありがとう、また会えて嬉しい、と翼に伝える。翼は、胸が詰まって、中嶋に謝罪の言葉を言おうとしたが、中嶋がくしゃみをしたので、果たせなかった。中嶋は、何を言いかけたのか、翼に訊くが、翼は間を逃したので照れて言い直せない。けれど、二人の関係の修復は果たされた。

翼は中嶋に、夢のことや家族の事情について話し、それらはもう終わったこととして、これから新しく人生が始まるものと思っていたが、連日、まだあの夢を見る。中嶋は、同じ夢を繰り返し見るのは、それだけ強い願望があるからだろう、と言い、医師に相談するよう勧めるが、恥ずかしくて言い出せない。中嶋は、なら代わりに家族としっかり話してみたら、と言い、以前の翼の家族は仲がよさそうだったから、その分だけ気になっている、今になって向き合えばあっさり解決するかも知れない、と言う。翼は、考えてみる、と話し、事故のこともよく覚えていないからそれも聞きたい、と言うと、中嶋は何やら複雑な心境になる。

退院して帰宅した翼を、翔と美奈子が明るく歓迎する。家の中はすっかり綺麗になっている。翼は、今まで家族に向き合えずに夢を見ていたが、今なら向き合えるかも知れない、と希望を持ち、先ず翔と美奈子に感謝の言葉を言うが、そこへ詩織が、今更家族ごっこか、馬鹿みたい、と言って現れる。翼は詩織の名を呼び掛けるが、気安く呼ばないで、と撥ね付ける。そして、4年も眠っていた翼も、あんなにめちゃくちゃだった父も母も、今更仲良し振ったところで、一瞬しか持たない、もうこの家族は終わっているのだから、と言い放つ。詩織は翼の前に立ち、あなたのことが一番許せない、記憶喪失だなんて本当に都合がいい、と言って翼に軽蔑の眼差しを向ける。

・第26話(第4巻)

詩織は翼との会話を拒否して退室する。翔と美奈子は、気にするな、と口を揃える。翼は詩織の態度に腹を立て、詩織を抜きに家族を楽しむことを決める。翼は翔と美奈子と一緒に、ローストチキンを食べ、カレーを作り、テレビを観る。詩織は翼達に背を向け続ける。耐えられなくなった翼は詩織に、おまえがいないと締まらないから、いつまでも拗ねていないで早く来い、と呼び掛ける。詩織は、家族ごっこは長続きしない、と言い、事故の後にどれだけ家族が滅茶苦茶だったか何も知らないくせに兄貴振らないで、そういうところが大嫌い、と言って床に座り込んで顔を俯ける。そして、急にいなくなって、わたしを一人にしたくせに、兄貴振るくらいなら、あの時にさっさと目覚めてよ、わたしがどんなにつらい思いをしたか、と言う。翼は反省し、詩織に謝る。詩織は、今更謝られても嬉しくないし、全部、もう遅い、と言う。翼は詩織の隣に座り、互いに無言のまま、二人は時間を過ごす。それから翼は、でも詩織が無事でよかった、と言い、怪我をしたのがおれで、詩織に傷が残るようなことがなくて、よかった、と言い、また会えて嬉しい、ありがとう、と伝える。翼と詩織は、兄妹らしい喧嘩をするようになる。二人は一緒に出掛け、翼は、こうやってまた新しい人生が始まる、と意気込む。踏切の手前まで来ると詩織は、翼と違う目的地に向かうために別れて、踏切の向こうへ渡る。どこへ向かうか言わない詩織に翼は、穴水に会うのでは、と訊くが詩織は、なぜ穴水のことを知っているのか、と驚き、そのまま去る。翼は、穴水のことを知らなかったはずのに、なぜ夢に出てきたのか、と思い当たる。すると、どこかモニターだらけの場所で颯太が、モニター越しに、気を付けろ、おまえの夢はまだ終わっていない、と翼に忠告する。

・第27話(第4巻)

翼は知らないはずのことが夢に出てきていたことを中嶋に話し、夢について振り返る。中嶋は、医師か家族に相談しろ、と言う。

夢について悩む翼は、家で様子のおかしさを翔と美奈子に心配されるが、悩みを言い出せない。何よりもその日は、事故以来、病気が悪化して入院していた耕三が、幸恵と共に帰宅する日だった。翼は幸恵に会い、脳裏に、突き落とされた記憶が過るが、幸恵は優しい態度で、翼は安心する。翼は昏睡したような状態の耕三に会う。そして、この現実から逃げたくて夢を見ていた、と翼は理解し、夢のことなど気にしている場合ではない、と思うものの、相変わらず、夢は見続けてしまっている。翼はそのことを中嶋に話すと、中嶋は以前と同じように、医師に相談しろ、と言う。そこへ颯太が現れ、気を付けろ、夢が終わらないのには理由がある、あいつを信じるな、と忠告する。

翼は深夜に目が覚め、部屋から出ると、鍵がなくて長いこと開けられなかったはずの、耕三の部屋の扉が開いていることに気付く。翼は耕三の部屋に入ってみるが、中は暗く、持っていた携帯端末の明かりで前を照らすと、一家全員記憶喪失、と書かれた黒板が見えた。部屋は事故以来、開かなかったのだから、事故以前から耕三は、翼が見ている奇妙な夢のことを知っていたことになる。そう考え動揺する翼の肩に、誰かが背後から手を置く。

翼は朝遅く目覚める。部屋の外で美奈子が、扉を叩いて翼を起こそうと呼び掛けている。誰かに背後から手を肩に置かれてからの記憶が、翼にない。寝惚けていたのか、と起き上がると、床に紙切れが落ちていることに、翼は気付く。それを拾い上げて見てみると、そこには夢を詮索しないように警告する文が書かれていた。

・第28話(第4巻)

翼が部屋の扉を開けると、そこには翼を心配する美奈子がいた。居間に行くと翔がいて、朝食の用意がしてある。食卓に着いた翼は、中嶋にしか話していないはずの夢について警告する紙を置いていったのは誰か、耕三の部屋で肩に手を置いたのは誰か、と考え出す。考え事に耽る翼を、翔と美奈子が気遣う。この二人が何かするとは、翼は思えない。そこに幸恵がやって来て、耕三の具合について美奈子と話し出す。

翼は耕三の部屋の扉を開けようとするが、鍵が掛かっている。そのことを翔と美奈子に尋ねると、既に言った通り、鍵がなくて開かず、ずっと誰も入っていない、と答える。翼は、昨夜は確かに開いていたし、中には夢に関わることが書かれていた、と思い、あそこに夢の秘密があるなら、どうにかしてもう一度、確かめなければ、と考える。気を付けろ、また見られている、と颯太が翼に警告する。気付くと翼は自分の部屋で寝ており、起きると床には、また紙切れがあり、そこにはまた、夢を詮索しないように警告する文が書かれていた。翼はなぜ寝てしまったのか不思議がり、部屋に警告の紙切れを置いていくのは誰かを確かめようと、徹夜で見張ろうと決めるが、翼はいつの間にか夢の中にいて、不思議がっていると、夢の中の幸恵が、毎日来る約束でしょう、と翼に言う。翼が夢から起きると、また床に紙切れがあり、夢の詮索への警告が書かれていた。

翼は中嶋に、眠くないはずがいつの間にか眠ってしまい、起きると警告の紙切れがある、と実物を見せて話す。中嶋は、病院から処方された薬のせいで突然に眠ってしまうのではないか、と言うが、薬は処方されていない。ただ、何かを飲んだ後に突然に眠ってしまう感覚に、以前にも覚えがある、と翼は感じる。

翼は再び耕三の部屋の扉を開けようとするが、開かない。そこに幸恵が現れ、誰も部屋に入れるな、と耕三は言っていた、と翼を牽制する。幸恵の態度に、翼は危機感を募らせる。翼はまた寝てしまい、自分の部屋で起きると、誰かが部屋から出ていく気配があり、急いで後を追って、相手の腕を掴んで問い質すと、相手は詩織だった。詩織は無言で目を伏せ、去ろうとする。翼は、夢から覚めた自分は、今の家族のことを何も知っていない、と思い、そしてまた突然に眠気が襲ってきて、この感覚は事故の時と同じだ、と気付く。

美奈子は何かの錠剤を梱包から取り出し、食事の汁物に溶かし入れている。そして、大丈夫、これでわたし達、またいい家族になれるから、と呟き、その汁物を翼が明日も気付かずに食べてくれることを期待する。

・第29話(第4巻)

去ろうとする詩織を引き止める翼だが、頭痛を感じ、その場で眠ってしまい、自分の部屋で目を覚ます。布団の上にやはり警告の紙切れがある。翼は、紙切れをいつも置いていく犯人を詩織と断定し、急に眠くなるのも詩織の仕業だ、と考え、憤る。そのことを翼は中嶋に話し、中嶋を巻き込んで、また詩織への尾行を実行する。電車に乗った詩織を追って翼達も乗る。詩織は座って本を読んでいる。何の本を読んでいるか、近付いて探るように中嶋に頼みながら翼は、まるでスパイみたいだ、となどと言っている。詩織は夢に関する本を読んでいた。翼は益々、詩織への疑念を深める。詩織は病院に入っていき、翼達を担当する医師と何やら話している。それを覗き見る翼を見て中嶋は、翼はスパイ物が好きだった、と話し出し、映画の話になり、翼は誰かに中嶋と詩織と一緒に映画に連れていってもらった記憶を思い出しかける。映画の話に気を取られた翼達は、医師との話を終えて出てきた詩織と鉢合わせる。詩織は、翼が尾行をしていたことを、猛烈に詰る。翼は、詩織も昨日はおれの部屋に勝手に入っていただろう、と返すと、詩織は動揺する。詩織は、あれは夢の話を聞こうとしただけ、と言うので翼は、やはり警告の紙切れを置いていたのもおまえだろう、と実物を出して追及する。詩織は紙切れについて、知らない、と否認し、昨日は突然に眠り込んだ翼をそのまま放置した、と明かす。そして、誰かが眠った翼を起こしもせずに黙って部屋に運んだ、あの家はおかしい、と言い、わたしも事故の後に、一家全員記憶喪失の夢を見るようになり、医師に相談していた、と明かし、同じ夢を翼も見ていただろう、と言い、警告の紙切れへの危機感を口にする。それから詩織は、翼が目覚める前に翔と美奈子が急に明るくなった、二人は今までのことを全部忘れたかのように、不自然に笑っているように見えた、と証言し、だって颯くんのことも、と言うが、それ以降は黙ってしまう。翼は颯くんについて訊こうとするが頭痛を感じ、眠ってしまい、自分の部屋で目覚めると、目の前に幸恵がいて、翼くん、と呼び掛ける。翼は幸恵に、その呼び方は夢の中のものだ、紙切れの犯人は幸恵だろう、と告発し、あの夢は何なのか、と頭痛を感じながら訊く。幸恵は、颯太にでも訊けばいい、と答える。

翼は夢の中にいて、颯太の前で何を訊こうとしたか分からない。颯太は、もうこの夢は終わる、だからおまえはもう戻ってくるな、と翼に伝える。翼は、映画に連れていってくれたのも、中嶋や家族との写真を撮ってくれていたのも颯太だった、と思い出す。颯太は、楽しかった、と翼に言い、翼は、兄ちゃん、と叫ぶ。それ以来、あの夢は見なくなる。

・第30話(第4巻)

一ノ瀬家は誰もが颯太を頼りにしていた。翼にとって、そんな颯太は憧れだった。颯太はいつもカメラと一緒だったが、それで切り取ろうとする風景は少し独特だった。颯太は写真の練習も兼ねて、家族に見せるアルバムを用意する。颯太は写真に熱中しながらも、学業も優秀だった。耕三は大学進学間近の颯太を後継者にするつもりでいて、颯太の写真熱を遊びと呼び、控えるように言う。颯太は不本意そうに承諾する。それでも颯太は、耕三が入れた予定を変えさせ、家族全員で日曜の翼のサッカーの試合の応援に行く。試合後、颯太はカメラマンになる夢を、翼に話す。翼は、颯太は耕三の仕事を継ぐのではないのか、と訊く。颯太はそれに答えず、家族を撮り始めて写真が好きになり、いつか世界を回って色々なものを写真に撮りたい、と語る。翼は、颯太がいなくなったら詩織が悲しむ、と言うが、おれは颯太の写真が好きだから応援するし、家族だから他のみんなも応援するだろう、と続ける。だが後日、颯太のカメラは無惨に破壊され、家族の大人達の前で、こんなの家族じゃない、と吐き捨てる颯太を、翼は目撃する。翼はその時の夢から覚めて、颯太があれ以来、家に戻らなかったことを思い出し、今どこにいるのか、なぜ夢に出てきたのか、なぜ誰も颯太の話をしなかったのか、と疑問が湧き、堪らず翼は部屋を飛び出る。するとそこには幸恵がいて、颯太に会いたいなら会わせてあげる、と言い、翼が忘れていた、颯太の部屋へと翼を案内する。

・第31話(第4巻)

幸恵は一人でプラネタリウムに行き、初めて耕三と出会った頃のことを思い出している。

耕三は研究発表の準備で徹夜をし、研究発表の夢を見て居眠りしながら独りで話していたところを、幸恵に声を掛けられ、起こしてもらったことで、最終電車に乗り損ねずに済んだ。それが二人の交際の切っ掛けだった。耕三は幸恵と映画を観に来たが、途中で眠ってしまう。映画の終了後、そのことを詫びる耕三に幸恵は、今度はあそこへ行こう、とプラネタリウムを指し示す。プラネタリウムに幸恵と来た耕三は、映画の時と打って変わって伸び伸びと、館内の解説より先に、幸恵に星の解説をする。幸恵はそれが可笑しくて堪らない。恥じ入る耕三に幸恵は、あなたの話を聞くのが好き、と伝える。

幸恵は帰宅し、眠り続ける耕三に、プラネタリウムへ行ったことを伝えるが、耕三は当然、何も応えてくれない。そして、耕三が40年後にこのような状態になってしまうことを、あの頃の自分は思いもしなかった、と幸恵は振り返る。幸恵が眠る耕三の手を握ると、初めて互いに握り合った頃と同じように、その手はまだ温かい。幸恵はそのことが苦しくて堪らない。

颯太の部屋の扉の前に立った翼に幸恵は、開けてみなさい、と言う。翼は、開けてはいけない気がする、とためらう。幸恵は、あなたもそうなの、と言い、人は夢や幻をそうと知りながらも縋ってしまうものだ、と思う。幸恵は翼に、あの夢はもう見なくなったでしょう、と言い、もう気にしないで忘れなさい、と言う。幸恵は、止めたくても縋りたくても、どうすることもできなかった、ある日を境にあの夢を見なくなった、と一人、振り返る。翼は、元気がなさそうな幸恵を、家族なのだから、と心配する。幸恵は、耕三がいなくても家族がいなくなったわけではない、と思い、耕三は夢の研究をしていた、と言って翼に耕三の部屋の鍵を渡す。翼は、あの時に肩に手を置いたのも幸恵か、と言うが幸恵は、事故以来、耕三の部屋には入っていない、と不思議がる。

幸恵は翼の成長を耕三に伝え、茶を飲むが妙に甘く、しかしその味には覚えがあった。事故の当日に飲んだ飲料の味だ。

幸恵は病院で目を覚まし、目の前には耕三がいて、心配して色々と話し掛けてくれている。幸恵は、夢は終わったはず、という言葉を呑み込んで、出会った頃のように元気でお喋りな耕三の後に付いていく。

幸恵は耕三の傍で、昏睡する。

・第32話(第4巻)

幸恵は入院する。美奈子は家で、幸恵の入院準備に忙しそうだが、明るく笑顔で振る舞っている。翔と美奈子が急に不自然に明るくなった、という詩織の言葉が思い出され、翼が美奈子に呼び掛けると、美奈子は言葉は柔和なものの、表情と手元に苛立ちを露にしながら、後にして、と返す。そこへ翔が給料を持って帰宅する。美奈子は笑顔に戻るが、翔に再就職の進捗を尋ね、先月に落選の連絡があった、と翔が答えると、そういうことはすぐに伝えて、と言い、家庭の経済事情について話し出すと、翔は逃げるように退室する。その背中を美奈子は、失望の眼差しで見ている。

翼は家に帰らない詩織と会い、最近は家の中が緊張していることを伝え、たまには帰ってきて、と求める。詩織は、嫌だ、と強く言い、あの人達は事故の後は自分のことばかりで、誰もわたしのことを助けてくれなかった、それが今になって、わたし達が悪い、みたいに言うのは狡い、わたしは高校を終えたら家を出る、もうあの家には居たくない、と翼に答える。

家で美奈子は、笑顔で夕食を調えている。食卓には詩織もいて、美奈子はそのことを喜ぶが詩織は、こういう時だけ家族振るな、と言いに来ただけだから、と言う。美奈子は笑顔を崩さず、どうして、と詩織に尋ねる。詩織は、当時散々無視しておいて今更仲良くなんてできない、と答える。美奈子は入院した幸恵のことを持ち出す。詩織は、それが狡い、と言い、あなたも耕三に構い切りの幸恵に不満を言っていただろう、とその内容を挙げる。わたしはそんなことは言っていない、と美奈子は答えるが、笑顔は崩れている。詩織は、いや言った、と水掛け論になり始め、翼が止めに入ろうとするが、両者に撥ね返される。翼は翔に助けを求める。すると両者は翔を見て、どちらの肩を持つか、と迫る。翔は、耕三のことで苦しんでいた幸恵は、耕三と一緒に眠って楽しい夢を見ているなら幸せかも知れない、と言い出す。翼は、夢という発言に引っ掛かる。美奈子は、わたしがこんなに苦労しているのに、幸恵が眠ってよかったと言うのか、と激怒し、諸々の金銭の苦労を全部忘れて眠っていられるなら楽でしょう、そんな考えだからまともに金を稼げないのだろう、と翔に食って掛かる。翼は美奈子を宥めながらも、全部忘れて、という発言に引っ掛かる。美奈子は、あなた達も耕三のおむつを替えろ、と要求する。そして、当たり前のようにわたし一人にやらせて、文句を言えば狂った扱い、それで狂わないほうがどうかしている、と言い、詩織に、耕三の世話をしろ、と言い出し、詩織が困惑していると、子供のくせに口だけは大人並み、大人並みに口を叩くなら、大人並みの責任を果たせ、と言う。詩織は、狡い、と言って泣き出す。美奈子は、泣けば許される、と思うのは子供だ、と責める。翔は詩織を庇う。美奈子は、ならおまえがやれ、大人の責任を果たせ、充分な金を稼いでこい、と翔に当たる。そして、わたしだって普通に幸せなお母さんになりたかった、子供の素行に悩んだり、買い物で値引きシールが張られるまで待ったりしなくていい、たまに家族で旅行に行ける、そんなのがよかった、昔は楽しかったのに、どうしてこんなふうになってしまったのだろう、と嘆く。昔、と聞いた翼は、昔に撮った家族写真を思い出す。そこには颯太も写っている。翼は、誰も颯太の話をしない、颯太はどこへ行ったのか、と問い、これからも家族でいたいから、他の色々な分からないことも含めて、知りたい、と訴える。美奈子は翼の両肩を掴み、食卓の上に押し倒し、わたしの前で颯太の話をしないで、と力を込めて迫る。食卓は壊れ、翼は床に倒れ、割れた食器と共に無惨に夕食が散乱する。

・第33話(第4巻)

美奈子に止められても、翼は颯太について問い続ける。美奈子は、颯太にはもう会えない、と言う。翼は居間を飛び出し、颯太の部屋へ向かう。詩織が叫んで制止するが、翼は扉を開ける。

颯太は、もうあいつらとは家族でいられない、と翼に言って家を出ていこうとしている。詩織は激しく泣いている。颯太を見送った翼は、ゴミとして捨てられた、颯太の壊れたカメラとアルバムを拾って持ち帰る。あの日、家族は壊れた、と今の翼は回顧する。家の中はそれから、険悪になり始める。翔は休職することになり、耕三は体調を崩し、翔の収入について美奈子が詰る。詩織は家族への諦めを口にする。翼達はワゴン車の中で美奈子が用意した飲料を飲む。そこへ颯太が現れ、どういういきさつか、颯太が翔に代わって、何かを避けるように車を運転するが、事故は起き、血だらけになった颯太は翼を励まし続ける。

翼は、颯太がもういないことを、思い出す。

翼は、颯太がカメラマンになろうと思っていることを、他の家族に話す。しかし大人達は本気にしない。颯太は、アルバムを見て、と家族に促すが、家族は颯太の頼り甲斐や学業の優秀さにしか関心がなく、アルバムは顧みられない。翼はそれを寂しく思い、颯太の将来の夢を話したが、それが颯太の夢と笑顔を奪う結果になった、と感じている。

翼は街を歩きながら、颯太のことを思うが、好きだった笑顔より、壊れたカメラを見て子供のように悲しんでいる顔が思い出される。翼は颯太に謝る。その時、通り掛かった家電販売店の店頭に並んだ、たくさんのテレビに、見知らぬ女性と子供と共に、福井県の地元放送局の取材に家族として応じる、笑顔の颯太が映し出される。翼は酷く驚く。

・第34話(第4巻)

福井県の海辺の町で、見知らぬ女性と子供と共に、家族として暮らす颯太の許を、翼は訪ねる。颯太は、おれたちは恋人でも家族でもない、赤の他人、血は繋がっていないが、支え合って一緒に暮らしている、と説明する。翼は颯太達の住む家に招かれる。颯太は、帰宅後の手洗いを促す女性に従って手洗いをする子供に感激し、子供の教育をする女性に感謝する。女性の名前が文乃、子供の名前がけんたであることが示される。颯太達の日常の光景を前に、翼は戸惑う。文乃は手作りゼリーを皆に振る舞うが、砂糖を入れ忘れていて、ゼリーは味がしない。けんたに自己紹介された翼は、けんたとどこかであった気がする。けんたは翼の分のゼリーを勝手に一口食べ、味のなさを確認する。文乃はシロップを持ってこようとするが、切らしている。颯太は、知り合いから貰った「自然とふれあわない新感覚AI養蜂所の無添加はちみつ」なるものを取り出す。颯太達はとても楽しそうで、やはり翼は戸惑う。だが、その楽しそうな光景は、昔の楽しかった頃の一ノ瀬家を思い出させる。翼は颯太達と共に過ごし、夕食も一緒に頂く。翼は、赤の他人で集まっているのなら、それぞれに本当の家族と家があり、そこからここへ通って来ているのか、と尋ねる。文乃とけんたは静かになる。文乃は、わたしに家族はいない、と小さく答える。家族ではないのに一緒に暮らすことに、疑問を呈する翼を、颯太は制止し、外へ連れ出す。颯太は、おれたちは家族に傷付けられてここにいる、文乃には身寄りがないらしく、けんたは外で一人で座っていたのを見付けて連れてきた、と説明し、家族に傷付けられた、おれ達だから、人の痛みが分かり、家族よりも理解し合えるはず、夢の家族に拘るよりもいい、と自身の考えを話す。翼は颯太の考えを呑み込めず、美奈子も詩織も颯太に会いたがっている、と伝えるが颯太は、家には戻らない、と突っ撥ね、その気持ちはおまえも分かるはずだ、と言う。翼は、美奈子と衝突して散乱した夕食を思い出す。颯太達と一つの布団で寝ながら翼は、家族ではないのに一緒に暮らすのはおかしい、と思うが、一つの布団で家族が一緒に眠った昔が思い出される。翌日、その日が翼の誕生日だと颯太に聞かされた文乃は、祝いのケーキを手作りして振る舞うが、砂糖の入れ忘れをしていないか、気にしている。翼はケーキに刺さった蝋燭の火を吹き消すと、この暮らしはまるで家族だ、と感じる。その場面は、紙面では逆さまに描かれている。

・第35話(第5巻)

翼は颯太と同じバイト先で働き始め、とても血色がよくなっている。そこへ文乃とけんたが迎えに来ると、翼達は周囲に本当の家族として見られ、翼は悪い気がしない。

けんたは家の中で虫取りをする。家の中には四人お揃いで着ている服の、翼の分が干してあり、虫がそこに止まったのでけんたは網を構えるが、服を汚されたくない翼は、それを制止する。それから翼達は、安売りが始まる店へ買い物に出掛ける。買い物の後、文乃はこういう所へ来るのは初めてだった、と言い、文乃が値引きシールを知らなかったことが話題になり、文乃は、新鮮な物のほうがいいと思っていた、と話す。文乃は翼と颯太に、こういう所へはよく来たのか、と訊く。翼は、小さい頃に母達に付き合わされて家族でよく行った、と答え、文乃は翼達の母について訊こうとするが、颯太が文乃を制止する。その後、颯太は翼に、互いに家族に関する傷を掘り返すようなことをしないために、互いの過去には踏み込まない、というのが、一緒に暮らす内に出来た決まりだった、と話す。そして、他人同士だから互いに優しく尊重し合えて安心できる、血が繋がっているからこそ互いに縛り傷付け合うのを、おれ達は嫌になるくらいに見てきたはずだ、おれはおれ達の居場所をこのまま守りたい、と翼に語る。

翼達は四人で外出している。けんたは食べ物屋の前を通り掛かるとその食べ物を欲しがり、颯太はその度に買い与え、けんたの両手は、食べ物でいっぱいになる。颯太は途中で翼達と別れる。翼は、食べ切れずにアイスを溶かすけんたを見て、アイスを買ってもらった詩織を羨んで自分も欲しがるが、虫歯になるから、とか、ドーナツを食べたばかりであることを理由に、美奈子に買ってもらえなかった、昔の出来事を思い出す。けんたはまた、通り掛かった食べ物屋で、食べ物を欲しがる。財布は颯太が持ったままだったので、ここで買うことはできない。翼はけんたに、虫歯になるから、とか、手に持っているアイスを早く食べ、それで今日は我慢しろ、と言い聞かせる。けんたは承諾する。翼は、けんたはいい子で、颯太が頼りになる父で、文乃は優しい母で、自分は頼りないけどけんたの兄で、こんな家族みたいな暮らしがずっと続けばいい、と考える。

翼の干された服がいつの間にか地面に落ち、それを踏み付けてけんたは虫取をしていた。それを見付けた翼は、けんたを窘める。するとけんたは泣き出し、それを見付けた颯太はけんたを擁護し、翼を叱る。言い返そうとする翼に颯太は、傷付いた心は戻らない、服はまた洗えばいい、と言う。翼は、美奈子の言い付けに従わずに食べ過ぎて腹を壊し、美奈子に看病された昔の出来事を思い出し、踏み込まないことや怒らないことは、けんたの将来にとっていいことなのか、とけんたに対する颯太の態度に疑問を感じる。その夜、いつものように四人は一つの布団で一緒に寝るが、けんたは自身の頬をつねりながら翼に、おやすみ、と言う。翼は戸惑いながら、おやすみ、と返す。じつは翼の服は、けんたの意思と手によって落とされ、けんたの意思と足によって汚されたことが示される。一つの布団の中で、颯太も文乃も翼も眠っている。けんただけは一人、眠っていない。

・第36話(第5巻)

翼はけんたの遠慮のなさに手を焼き、颯太に訴えるが颯太は、傷付け合うような醜い関係にしたくない、と言ってけんたを怒ろうとしないし、翼にも怒らないように求める。颯太は用事があって文乃と共に家を留守にし、その間のけんたの世話を翼に任せる。けんたはいつにも増して家を散らかす。翼は片付けるように言うがけんたは、学校に行く時間だから、と嫌がる。翼が、わがままを言ったら駄目、と言うとけんたは、だって初めてなんだもん、と言う。翼は、けんたにアサガオを持たされ、一緒に学校まで行く。けんたは学校で上手くやれているのか、と心配する翼だが、教員に会うと、けんたについての話のついでに、兄として参観を許可される。翼は参観し、何も問題はないように思えたが、給食の時間に、余りのプリンを巡ってジャンケンが行われ、けんたは負けたが、けんたは母親にプリンを買ってもらえないから、と女子にプリンを譲ってもらう、奇妙な光景を目にする。教員達は、けんたの家庭の事情は学校も子供達も承知していて、かわいそうなけんたに少しでも楽しく学校生活を送ってもらおうとしている、と話す。子供達はけんたに同情し、けんたの母親への怒りを口にし、けんたへの連帯を表明する。教員達は、これが仲間外れを作らない新しい教育現場だ、と胸を張る。教員達は、颯太と文乃のことも承知しており、本当の家族ではないのに素敵だ、と持ち上げる。子供も教員も一緒になってけんたを応援し、けんたを持ち上げる。けんたは笑顔でそれに手を振って応える。翼はその光景に絶句する。

放課後、かずきという級友が、一緒に下校しよう、とけんたを誘う。かずきは、けんたに勉強を教えてあげる係だ、と自身の立場を翼に説明し、翼は困惑する。ドリルを取ってくる、というけんたに付いていきながら翼は、かわいそうと言われるとか、係を付けられるとか、嫌ではないのか、とけんたに問うが、けんたは答えない。けんたは、ここが自分の本当の家だ、と言って、あるアパートの一室を開けて入る。中は誰もおらず、ゴミやゴミ袋が溢れており、虫が涌いている。けんたはそれを背景にしながら、みんなに助けてもらって幸せ、こんなに優しくしてもらうのは初めて、颯太と文乃と翼と一緒に暮らせて楽しい、わがままを言ってごめんなさい、兄が出来たみたいで嬉しかった、これからはいい子になる、と翼に語る。翼は、けんたのことを何も分かっていなかった、と反省し、用を終えて外へ出たけんたを追って謝ろうとしたところで、昨日は母親の誕生日で宿題をやっていない(から答案を写させてあげられない)、と言うかずきを殴り付ける、豹変したけんたを目撃する。殴っていたことを問い質す翼にけんたはとぼけ、翼が引き下がりそうにないと見るや、かずきを先に行かせ、殴っていないことにしておけ、あいつは恵まれているから構わない、バカ颯太に告げ口して家族ごっこから外してやってもいいが、そうされたくなければ黙っていろ、おれは同情も親心も、貰えるものは全て利用する、邪魔をするな、助けてくれるよね? お兄ちゃん、と翼に邪悪な目付きで迫り、いや、翼、といつもの幼い笑顔と口調に戻って見せる。

颯太達は再び、地元放送局の取材を、家族として受ける。今回はそこに翼も加わっている。けんたは、翼の体調を気遣う、無邪気な振りをする。颯太は笑顔でけんたを褒める。その様子を、美奈子は一ノ瀬家のテレビで目撃する。

・第37話(第5巻)

ワゴン車の中から出てきた美奈子に縋り付かれる夢で、翼は目を覚ます。翼に来客がある、と文乃が告げる。翼は、美奈子が来たのではないか、と考えるが、来客は中嶋だった。中嶋は、色々と相談に乗らせておきながら急にいなくなった翼に、腹を立てている。そんな中嶋に翼が文乃達との関係を説明すると、驚き、問題はないのか、と訊く。翼は、問題ない、と答えつつ、前日の豹変したけんたとのことが思い浮かぶが、それを振り払って、上手く行っているし毎日が楽しい、と話し、おまえもゆっくりしていけ、と中嶋に言う。しかし中嶋は、本当の家や家族の問題や、夢のことをほうっておいて、こんなところにいていいのか、と翼に問い掛ける。翼の瞳の奥にワゴン車が浮かびながらも、翼は、何の話だ、ととぼける。文乃はけんたを連れて散歩に行き、翼と中嶋もそれに同行する。翼と中嶋は、けんたの通う小学校で、小学生の頃に戻ったようにサッカーに興じる。そして、休憩中にサッカーの話題から、サッカーの応援に来ていた家族の話題になり、あの頃はこんなことになるとは思いもしなかった、家族は仲がよくて、颯太が一人で悩んでいるとは考えられなかった、颯太がいなくなってから、以前のように戻れるように色々頑張った、でも美奈子との衝突で食卓が壊れてしまい、もうどうでもよくなった、と翼は話す。そして、一ノ瀬家が一家心中を図っていたことを中嶋に告白し、事故のことをもう全て思い出していて、それでも家族のことを、仲良くできるように考えたりすることがつらい、と言い、色々と相談に乗ってもらったのに、ごめん、ありがとう、と中嶋に伝える。その夜、中嶋がバスに乗って帰るのを、翼は見送る。その際、中嶋の両親によろしく、と言うついでに、中嶋の両親の仲がよかった記憶を話すと中嶋は、じつは仲はそれほどよくなく、自分がサッカーをやめた原因を巡ってよく口論になる、と話し、おれは家出をする度胸はないけど、こういうことはどうすればいいのだろうかと考えてしまう、と翼に言い残して去っていく。翼は、自分はどうすればいいのか、このまま逃げ続けているわけにもいかない、と考える。

一ノ瀬家では、美奈子がテレビで見た翼に会いに行こうとしている。翔はそれを引き止めている。そして、ぼくが何とかするから大丈夫、今度こそぼくらは理想の家族になれる、と美奈子に言う。

・第38話(第5巻)

颯太は、中嶋が訪ねてきていたことに触れて、気を付けなければ、と翼に言う。翼は、花火を楽しむけんたと文乃を見て、仲がよかった頃の家族を思い出す、と言い、家族なのになぜ今のように変わってしまったのか、と問う。颯太は、家族だから互いに甘え傷付け合い、尊重し合えずに醜い関係になった、と答え、おれ達は他人同士だから、互いに思い遣れて、優しく綺麗な関係でいられる、と言う。そして、けんたも文乃も本当の家でつらい目に遭い、その痛みを知っているから、人を傷付けようとは思わない、と言うが、けんたの豹変を知っている翼は同意できない。それを察したけんたは、それとなく翼に抱き付いて、何も言わせない。文乃は、翼達も大変な目に遭ったのに凄い、と言う。後でけんたは、颯太に余計なことを言うな、と翼に釘を指す。それでも翼は、やはり暴力はよくない、とけんたを窘めようとする。

けんたは昔から、母親について何かを言おうとした子を、我を忘れて思わず殴ってしまう、というようなことをしばしば起こし、その度に母親は悲しみながら叱った。けんたは、そんな母親とのことを、面倒だ、と感じていた。しかし母親がいなくなってみると、学校では異様に同情され、擁護され、好きとさえ言われた。けんたは、そんな状況を、馬鹿ばかりだ、と評する。その馬鹿の一人に、颯太もいる。けんたは、だから馬鹿を徹底して利用しようと決めた。

けんたがかずきと一緒に歩いていると、かずきはけんたに感謝し出し、ぼくは妹より勉強ができないから、けんたに優しくしていることを母親に報告したら、受験に有利になることをした、として久し振りに頭を撫でて褒めてもらえて、嬉しかった、と話す。けんたは我を忘れて、思わずかずきを殴る。かずきは、けんたに悪気はないか、あったとしてもそれは母親の愛情不足が原因だから、ぼくにできることがあったら何でもする、と言う。けんたはまた、かずきを殴る。かずきは、ぼくはけんたを嫌いなったりしないから大丈夫、と言う。けんたはもうかずきの発言の内容ではなく、かずきが自分に優しくあろうとする態度が気に入らなくなり、かずきが何を言おうと殴り続ける。けんたは自分の名前を呼ぶ声を聞く。けんたは母親を思い出すが、名前を呼んだのは、騒ぎになって駆け付けた颯太だった。

けんたは大人達に、どこかの室内に連れて来られ、颯太はけんたの起こした暴行の説明を受けている。けんたは、今回のように誰かを殴った後に母親から頬を引っ叩かれた時のことを、思い出す。

母親は、叩かれた子もこれくらい痛いのだから、誰かを叩いてはいけない、とけんたに教える。けんたは、分からない、と聞かない。母親は、これから同じことをしたら同じだけ叩き、何回でも怒る、と言うが、けんたは逆らう。母親がいなくなった後の家の中で、怒ってくれる人を失った、けんたは、嘘吐き、と呟く。

颯太はけんたに目線を合わせ、憔悴しながら、けんたの顔を見る。その姿はけんたにとって、かつての母親と重なる。母親はけんたと衝突しながらも、しかし最後には抱き締めてくれた。けんたは、母親に姿の重なる颯太に謝ろうとするが、颯太はそれを遮り、何かの間違いだよな、と怯えるように尋ね、どうにか衝突を避けようとする。そして、けんたは優しくていい子なんだから、と言う。かつて母親は、けんたがいい子だったらよかったのに、とけんたに言ったことがある。けんたは我を忘れて、颯太に掴み掛かる。謝りたかった、けんたの言葉は行き場を失う。

・第39話(第5巻)

6年前、颯太のカメラは家族によって壊された。大人達は色々なことを言うが、家族なのだから許せ、と結局は言っていて、それを拒絶して、颯太は家と家族から出ていく。颯太の携帯端末に美奈子からの着信があるが、颯太はそれに出ることなく、端末をゴミ箱へ捨てる。それから颯太は、簡易宿所と仕事を転々とする。ある年の元日、新しく手に入れた携帯端末には、誰からも着信は来ない。颯太は家族と過ごした元日を思い出しながら、年明けの挨拶を呟くと、同部屋の客に、うるさい、と怒鳴られる。福井県の海辺の町に流れ着いた颯太は、そこでも家族と過ごした日々を思い出してしまう。そこで、颯太とけんたは、互いを見付け合う。颯太はけんたと暮らすための家を借り、寝具を手に入れ、二人での生活を始める。そして二人は文乃と出会い、彼女を家に泊め、三人は一つの布団で一緒に寝る。けんたは、まるで父と母がいるようだ、と言う。文乃はそれで、颯太の妻としての自分を想像して照れるが颯太は、翔と美奈子に見守られて寝た、二人の子供としての自分を思い出し、涙を溢しながら眠る。

颯太はけんたを家に連れ帰り、なぜ友達を傷付けるようなことをしたのか、と問い詰め、けんたはいい子のはずだろう、と言うと、けんたは翼にだけ見せていたような邪悪な目付きになって、おまえがそう思いたいだけだろう、と返す。そして、親に捨てられた子供のことを、徹底して被害者や善人、何の責任もない、いい子としてのみ理解しようとするのは、自分自身をそういう無垢な存在と重ねたいからだ、と指摘する。颯太はたじろぎつつ、子供が悪いなんてことはなく、けんたが責任を感じているなら間違いだ、と言う。けんたは、ごめんね、という一言を母親から抱き締められながら聞いた夜のことを思い出し、知ったふうな口を利くな、と颯太を激しく非難する。そして、かわいそうな子は、いい子なわけではない、誰も本当のおれを見てはくれない、なれるのなら、おれもいい子になりたかった、と吐露する。

けんたは母親の手を握ることができなかった。けんたは颯太と文乃に囲まれても、眠ることができない。颯太は眠りながら、けんたの手を一方的に握っていた。

颯太はけんたに謝ろうとするが、けんたは手当たり次第に物を投げ付け、颯太の言葉を聞こうとしない。文乃が止めに入ろうとするとけんたは、あんたも本当は親がいるだろう、そんな綺麗な格好をしていて、貧しくて帰る家がないわけがない、と文乃の嘘を告発する。けんたは颯太に、気付いていなかったのか、と確認する。颯太は、気付いていた、と明かす。けんたは、都合のいい家族だけが欲しかったから文乃の嘘を黙認していた、と颯太を非難する。颯太は、違う、と釈明しようとするが、それを遮って文乃が颯太に、わたしは颯太達のような苦労をしたことがなく、恵まれているから、と嘘を吐いていたことの釈明を始める。それを遮ってけんたは、みんな嘘吐きだ、馬鹿野郎、と吐き捨てる。事態を見ているしかない翼は、どうしよう、と言って颯太を見る。颯太はかつて、家族ではないけど家族のように暮らそう、本当の家族と違って喧嘩もしないで優しく仲がいいままで、と文乃とけんたに語り掛けていた。まさに喧嘩の最中の状況に、こんなの家族ではないか、と颯太は落胆する。

・第40話(第5巻)

落胆する颯太と、泣く文乃とけんた。その光景は翼の目に、颯太を失って大騒ぎする一ノ瀬家と重なる。そう意識した時、翼は颯太達と不思議な距離が出来る。けんたは家を飛び出し、文乃は真っ先に追い掛ける。翼と颯太も後を追い、けんたを途中で見失った文乃と合流する。文乃は颯太に、嘘を吐いていたことを謝り、颯太は文乃に、嘘を吐かせてしまったことを謝る。文乃は、喧嘩になった先程の自分達が本当の家族みたいに思えた、と颯太とは違う形で家族を実感していたことを伝える。そして、わたしは喧嘩も不満も我慢も何もない、優しい家族の中で育った、と話し、それでは颯太達と一緒にいる資格がない、と思って嘘を吐いた、と明かす。続けて文乃は、本音を隠して互いに詮索を禁じ、不自然に笑い合っているより、本音をぶつけて喧嘩している時のほうが、颯太やけんたをずっと近くに感じた、と話す。そして、けんたの本音を知れたのが嬉しいし、颯太の本音も教えてもらえたら嬉しい、そうすればきっとわたし達はこれからも家族でいられる、と伝える。その瞬間、颯太達の後ろに、けんたを保護した警察と母親が見える。母親は颯太達に、けんたの母であることを告げ、けんたを今まで世話してもらったことへの謝意を伝える。けんたは母親に、なぜいなくなったの、と泣き付き、母親は、盲腸で長く入院することになるから隣家に行くように言ったでしょう、とけんたが孤立した事情を示す。翼は、けんたの母親に見覚えがある、と感じる。そこに文乃へ、文乃の父親からの電話があり、一度帰る、と文乃は約束する。本当の家族に帰っていく文乃とけんたに背を向け、颯太は翼のほうへ歩いていく。

けんたは颯太達とお揃いの服を手に抱き、別の服を着て、母親の膝の上で眠る。文乃はまだお揃いの服を着ながら、電車に乗って帰郷する。颯太は駅で、お揃いの服をゴミ箱に捨てようとする。それを翼は引き止め、おれのは踏まれてしまったけど、おれは取っておく、と言う。翼は一ノ瀬家に帰るつもりだが、颯太は福井から離れてどうするつもりか、と颯太に尋ねる。颯太は、血縁がある本当の家族が嫌で、血縁のない偽の家族を望んだが、そうして出来た家族は文乃やけんたに嘘を吐かせることで支えられていて、しかしその家族も、最後は本当の家族と同じくらいに滅茶苦茶になって壊れ、何も残らなかった、と振り返り、どうすればよかったのだろう、と翼に問い掛ける。翼は、おれも似たようなことを考えていたけど、颯太の失敗を前にして、色々と考えてもしょうがないと思った、だから一緒に一ノ瀬家へ帰ろう、と颯太に答える。颯太は、何のために、と訊くが翼は、分からない、けどそれを知るために帰るんだろう、と呑気に答える。颯太は、忘れていた翼の呑気さに呆れ、翼の誘いには気乗りしない。翼は、颯太も含めて一家全員問題有りだけど、そのみんながいるからこそ一ノ瀬家だ、と言い、渋る颯太の手を引っ張って、東京行きの電車に乗り込む。

・第41話(第5巻)

翼は帰りの電車に揺られながら、置き去りにしてきた一ノ瀬家の問題を思い出している。颯太は翼にアイスを買ってきて一緒に食べながら、やはり帰るのはやめよう、と言い、翼は一人でも帰る意思を示し、颯太は翼を放っておけず、悩む。翼は、飲んでいる無糖の茶が妙に甘く感じることを、気にする。颯太は翼に、最近の家の状況を尋ねる。翼から聞かさせる状況に、颯太は絶望的な気分になり、耕三に似た論調で、おまえにできることは何もない、と翼を引き止める。翼は、今はただ一ノ瀬家の全てを、みんなに会って確かめたい、と毅然とした態度で返答する。颯太の目に、翼の姿が耕三の姿と重なり、颯太は黙る。翼はまた呑気な態度に戻り、颯太は福井でも偽の父を頑張れていたから大丈夫だ、と言う。颯太は、それは嫌味か、と返し、翼と軽い口論になるが、却って二人は仲を深める。颯太は耕三と幸恵の状態を尋ね、翼は耕三の状態について答えながら、飲んでいる茶がやはり妙に甘く感じ、そのことが気になる。颯太は夢について話そうとするが、翼はまだ先程の話題を続けていて、福井に来る前に幸恵が突然昏睡したことを颯太に話すと颯太は、それは夢と関係しているのではないか、と言う。翼は、昏睡前の幸恵から耕三の部屋の鍵を渡されたことを思い出し、その鍵を取り出す。気付くと翼は自宅前に立っていた。颯太はいなくなっている。翼は呼び鈴を鳴らす。すると、見知らぬ女性が扉を開けて出てくる。翼は、ここは一ノ瀬家ですよね、と尋ねるが、ここに一ノ瀬という人は住んでいない、と言われてしまう。

翼は病院で目覚める。そこには翔と颯太もいて、家族が揃って翼を覗き込んでいる。翔と颯太以外は相変わらず、一家全員記憶喪失をやっている。翼は、これは夢だ、と理解しており、颯太も同じらしい。

翔はペットボトルを手に持ち、眠りながら床に転っている、翼達を見下ろしている。

・第42話(第5巻)

翼はまた夢を見ていることの原因を考え、事故の前と同じく味のおかしい茶を飲んだ、ということに思い当たる。颯太は翼を呼び止め、おれ達は家に帰る途中のどこかで眠らされた、他の家族も全てを忘れた振りをするために眠っている、おれ達を夢の中に引き摺り込んだやつがいる、その目星は付いている、と話し、翼を連れて翔に会いに行き、夢のことと耕三の研究のことを把握できるのはあなたしかいない、こんなくだらないことはやめて、おれ達を目覚めさせろ、と迫る。翔は、目覚めたいならすぐにでもできる、必要なのはきみ達の意思だ、でも他のみんなは現実の家族を生きたいとは望んでいない、この夢はみんなが望んだ理想だ、と言う。続けて翔は、ぼくは家族に笑顔と幸せでいてほしい、家族が苦しみたくないなら、その夢を叶えたい、ようやく一家全員が揃ったのだから邪魔はさせない、と言う。颯太は、そんなのは逃げだ、と翔を非難する。翔は、きみには分からないだろう、と小さく言い、逃げ、と言うけど、福井に行って偽の家族を作って楽しむのは逃げではないのか、きみ達の母親は泣いていた、きみ達がしていたことに比べて、全部忘れてやり直そうとするのは、そんなに悪いことか、と言い残して席を立って去る。

翼と颯太は病院の屋上で、どうにか目覚める相談をしている。翼は、夢がみんなの理想、という翔の言葉の意味を掴みかねている。そこへ詩織が、食事の時間だから早く行こう、と呼びに来る。そして、兄弟がたくさんいて、わたしは凄く嬉しい、と話し、お兄ちゃんと呼ぶと颯太のことか翼のことか判らないから、颯太のことは颯くんと呼びたい、とこれまでにない笑顔で言う。その内側には、全部忘れてやり直せたら、という情念が貼り付いている。

一ノ瀬家が出掛けたある日、翼はかき氷を食べたばかりなのにアイスをねだり、美奈子はそれを叱り、しかし翔は、アイスをダブルで頼むと得だ、と安さに気を取られて余計なことを言い、それをまた美奈子は叱り、耕三はひたすらアイスの起源と歴史を独りで喋り、それを幸恵は惚れ惚れと聞いている。詩織は便所に行きたいが言い出せず、誰にも気付いてもらえない。だが颯太だけは詩織の異変に気付いて、詩織に声を掛けて、詩織を便所に連れていってくれた。詩織は颯太がいつも自分を見てくれていることが嬉しく、それがいつまでも続くと思っていた。しかし颯太はカメラを壊され、家族も壊れていく中、詩織は泣くことしかできず、颯太が家を出て行くことを止められなかった。詩織は、颯太の代わりとして穴水と付き合うようになる。美奈子は詩織の素行の異変に気付きかけるが、関心は薄い。詩織は、全部忘れてやり直せたら、颯太がいなくても、みんなと楽しく話せて、注目してもらえて心配してもらえて、迷子になったらすぐに気付いてもらえるような自分になりたい。いや、それより、自分を優しく助けてくれる颯太が家を出て行ってしまうことがないように、言いたいことを言えなかった颯太を守ってあげられる自分になりたい。詩織は自室の寝台の上で、颯太を演じながら、颯太を守ってあげる想像をする。そして、颯太に最初は守ってもらわなければならない自分ではなく、そもそも颯太を最初から守ってあげられる自分を望む。翔は詩織に、それが可能であることを仄めかした。詩織は頭痛を感じながら、全部忘れてやり直せたら、今度こそ颯太を守る、と心に決めている。

・第43話(第5巻)

翼達は退院し、帰宅する。颯太は翼に、今回の夢はおかしい、と言い、全員を夢から抜け出させよう、と相談する。翼は、今回は颯太が味方だから上手く行く気がする、と意気込み、笑顔を見せる。相変わらず呑気そうな翼に颯太は、おれ達だって全部忘れたい欲求に負けるかも知れない、と注意を促す。二人は颯太の部屋で話し合っていたが、鍵が開いていた、と言って美奈子が入り込み、何を話してたのか、と聞いてくる。翼は警戒もせず、これまでにもしてきたように、美奈子に直接、疑問をぶつける。美奈子は二人を居間に連れて席に着き、牛乳を加えたココアを淹れ、家族なのだから何でも聞く、だから何があったのか言え、と言ってくる。颯太は昔のことを思い出す。

颯太は昔から、家族全員の話の聞き役だった。それが楽しくて好きで得意だった。だがそれは、颯太が自分の話を家族に聞いてもらうことが、得意でないことの裏返しでもあった。颯太はどうでもいいことも大事なことも、家族に聞いてもらえない。いつか聞いてもらえたらそれでいい、と辛抱して待っている内に、颯太のカメラは壊されてしまう。颯太は傷付き、家族に失望し家を出て行こうとする。それを引き止めようとする美奈子は、カメラのことは事情があったから話を聞いて、と訴える。颯太は、おれの話は何も聞いてくれないくせに、と恨めしそうに振り返る。

美奈子との話を終えた翼と颯太は、居間を出る。翼はこれからの作戦を練ろう、と颯太に言うが、颯太は頭痛を感じながら、まだ美奈子に話がある、と言って翼と別れ、一人で美奈子に会いに行く。何でも聞く、という美奈子の発言が、颯太は許せない。美奈子は一人で来た颯太の体調を気遣う言葉を掛ける。颯太は美奈子を警戒し、話を逸らすな、と頑なな態度を取る。美奈子は、なぜ颯太が警戒するのか分からない振りをしながら、何でも話して、と言う。颯太は、いい母親振るな、と言い、今更、と心の中で何度も繰り返しながらも、美奈子に言いたいことを、まとまりなく言っていく。美奈子はそれを、落ち着いた態度で聞き続ける。颯太はかつての恨めしさを抱き続けて、今更分かったような口を利くな、興味がある振りをするな、と思っているが、美奈子が颯太のアルバムを取り出し、カメラが好きなのかな、と訊いてきて、颯太がアルバムについて話し出すと、颯太の態度は変わってくる。アルバムを始めた理由、写真が好きなこと、将来はカメラマンになりたいこと、その夢は耕三に反対されると思っていることを、颯太は美奈子に促されるままに話していき、美奈子はその夢を支えてもいい意思を表明する。颯太はもはや警戒を忘れる。美奈子は颯太に、今まで話を聞いてあげられなかったことを謝り、これからは何でも言っていい、と言い、颯太の頭を撫で、何でも聞く、と再び颯太に囁く。颯太の心は大人から子供に戻る。美奈子の目は、颯太を冷徹に見詰める。

詩織は翼の部屋で、翼に、ここでは何回でもやり直せる、わたしもみんなも、ずっとこのままがいいと思っている、と語り掛ける。そして、家族は笑顔じゃないと、と翼も言っていた、と翼を説得する。翼は、目を一度伏せた後、詩織をしっかりと見据え、それでも、と言い出し、詩織達の考えに逆らう姿勢を示す。

美奈子の前に、颯太は眠りに落ちた。

・第44話(第6巻)

颯太は一家全員記憶喪失に加わり、翼によそよそしい態度を取る。翼は颯太に、夢から抜け出すのではなかったのか、と話し掛けるが、颯太はそれを聞かず、自分の話を誰かに聞いてほしがっていて、美奈子に笑顔で、犬のどうでもいい話をし始める。翼は颯太と話すことを諦め、自室に戻る。すると詩織がやって来て、あんなに楽しそうな颯太は初めてではないか、颯太はいつも無理して笑顔でいたようだったが、今は本心を隠すこともなく話し、素直に笑えている、わたしはあの笑顔を守りたい、颯太もみんなも幸せなのに、それをぶち壊す権利など、あなたにだってない、そう思わないか、と翼に問い掛ける。

食事中、相変わらず颯太は犬のどうでもいい話をし続け、耕三はその話に乗り、幸恵は楽しそうで、詩織は、記憶喪失の前からわたし達はこんなふうに楽しく食事をしていたのだろう、と言い出し、美奈子は、わたし達は最強で最高の一ノ瀬家なんだから、と始めの頃に翼が言っていたことを口にして、詩織に同調する。ついでに美奈子は翼に、醤油を取って、と頼むが、翼は醤油の容れ物を受け取ろうとしている美奈子の手に、醤油を注ぐ。美奈子が翼の奇行に硬直する中、颯太は詩織と犬のどうでもいい話を続けている。翼は、あんたが食卓を壊したくせに、と言い、全部忘れたところでおれ達はまた嫌い合う、だから夢の中に逃げ込んだって無駄だ、と続ける。それが聞こえないかのように、颯太と詩織は犬のどうでもいい話を続ける。翼は皿の上の餃子を手掴みで食べ出す。容器の中の飲み物をコップに注がず、口に注いで飲み干し、空になった容器を放り投げる。美奈子も耕三も幸恵も、翼に注目する。翼は、おれは分かった、どんなに綺麗な他人同士でも一緒に暮らしていれば、いつか必ず汚くなる、家族になる、取り替えたって無駄だ、なら現実でもう一度、と語るが、颯太と詩織は翼を無視するように、なおも犬のどうでもいい話を続ける。翼は食卓を倒し、食事をぶち壊す。これには颯太も詩織も話をやめて、翼を見る。翼は、今は仲良くても、美奈子は苛立つようになって、詩織と言い争うようになり、幸恵は耕三のことしか興味がなくなり、耕三は認知症が悪化する、その度に全部忘れてやり直す気なら、おれが滅茶苦茶をやって思い出させてやる、と言う。それから、颯太の話はつまらないし、すぐに飽きられる、それでいつか必ず誰かが、こうやってあんたのカメラを壊すんだよ、と言い、いつか翼が拾ってテープで繋ぎ合わせた颯太の壊れたカメラを、いつの間にか翼は手に持ち、それを振り上げる。颯太は、やめろ、と叫ぶ。詩織はそれを見て、翼がどういう人だったかを思い出す。詩織は颯太がいなくなってから、昔に颯太がくれた、大きいぬいぐるみに縋り付き、泣いてばかりだった。翼は詩織のために、小さいぬいぐるみを、いくつも取ってきてくれた。しかし詩織は、颯太のくれたぬいぐるみとは違うから嫌だ、と愚図った。家族の中で翼だけは、颯太がいた過去に執着するのではなく、真っ直ぐに前を見て、颯太がいなくなった後、家族の幸せを守るために行動し続けていた。そして今、翼は、翔に話を付けてくる、と言って居間を後にしようとしている。

・第45話(第6巻)

翼は翔の部屋に入るが、翔はいない。

翔が子供の頃、翔は学校で描いた鳥の絵を耕三と幸恵に見せた。あまり振るわない試験の点数も報告するが、耕三はにこやかに家族を外食に連れて行った。翔は、自分は父に優しくされ甘やかされて育った、と思っていた。しかし、大人になり、美奈子との間に颯太が生まれ、耕三が学業について、颯太に念入りに指導をし出す様子を見て、自分は耕三に期待されていなかっただけだった、と思い直した。

翔は自室で、床に家族が眠って倒れている中、モニターに向かいながら、大丈夫、今度こそぼくが上手くやるから、と耕三に語り掛ける。

翼が食卓を倒して翔に会いに居間から退出した後、詩織と美奈子だけがそこに残っていた。詩織は美奈子に、わたし達は颯太に助けてもらうばかりではなく、自分から家族を助けるために、何かしたことがあったか、と問い掛ける。詩織は、わたしはいつも颯太と翼に助けられるばかりで、二人がいなくなっても家のことには向き合わなかった、自分では何もしなかったのに、二人のしようとしたことを、家族ごっこだ、と馬鹿にしていた、と涙を溢して反省する。そして、幸せにしてもらうのを待っているだけではなく、幸せになるためにわたし達自身が頑張らないと、と言う。美奈子は、颯太が生まれて翔と共に涙し合った日のことを思い出す。

翔は、床に眠って倒れている三人の子供達を見下ろしながら、全部忘れてやり直せたら、という、みんなの願いを思い返す。幸せな母親になりたい美奈子、腕白なヒーローになりたい翼、しっかり者になりたい詩織。そして、家族を助けたい颯太。耕三と幸恵の本当の願いは、翔は分からない。かつて翔は、生まれた颯太を手に抱き、必ずいい父親になってきみを愛する、と誓った。美奈子は、頑張ろう、わたし達は幸せになろう、と翔と颯太を抱き締めた。颯太は順調に成長していき、やがて父親である翔の背を追い越し、翔と違って耕三に期待されるまでになる。全部忘れてやり直せたら、翔は、生まれた頃からずっと変わらずに颯太を愛せるような父親になりたい。翔の背後に美奈子が立ち、翔は振り返る。美奈子は、目が覚めてしまった、と言い、戸惑う翔と見詰め合う。

・第46話(第6巻)

翔は、薬の量が足りなかったか、と言って、液体の入ったペットボトルを取り出し、大丈夫、上手くいくよ、今度こそぼくが、と美奈子に向かって言うが、美奈子は翔に慈しむような眼差しで、もういい、理想の家族になれるという言葉に縋ってしまったけど、わたし達は母親や父親として立派ではなかったけど、あの子達を見ていて、それでもあの子達の親なのだ、と思えたから、と言う。翔は美奈子の眼差しに見覚えがあり、待って、ぼくへの期待を捨てないで、と心の中で唱え、怯える。美奈子の眼差しは、翔が幼い頃に、誕生日のプレゼントの希望を訊かれた耕三が、翔に向けたものと似ていた。

耕三は、翔と幸恵さえいれば、それだけで幸せだから、プレゼントは必要ない、と答えた。翔はその言葉を素直に受け取り、自分は無条件に愛される子供だ、と思っていた。だが、大人になり、颯太が生まれ、幼い颯太がかつての翔と同じことを耕三に聞いた時、耕三は同じく、プレゼントは必要ない、と答え、しかし翔の時とは違って、そんなことより課題でも進めておけ、と加えて言った。颯太が、もう終わらせた、と答えると耕三は驚きながら中学生用の問題を与える。渋る颯太を美奈子は煽てる。耕三の態度が自分の時と違う、と感じた翔は、耕三は颯太に期待している、という幸恵の言葉で、自分は耕三に期待されていないだけだった、と理解する。もし仕事で成果を上げれば、と翔は思うが、耕三達は颯太の学業の好調さに関心を向けていて、翔のことには関心が薄い。もし翼や詩織を上手に育てれば、と翔は思うが、その役も颯太に持っていかれてしまった。もし颯太がいなくなれば、と翔は思ってしまい、それは現実になり、それが祟って美奈子にも翼にも詩織にも話をしてもらえなくなり、仕事は失い、耕三にも背を向けられるようになる。そのことから逃げるように、翔は父のいない母子と関係するようになり、その行動が美奈子を傷付け、病ませ、やがて一家心中の企図と、車の事故を招くことになる。翔は事故後に、耕三の部屋で、夢の研究と夢を見させる薬を見付ける。

この夢の薬があれば、と言う翔の頬を、目覚めた幸恵が引っ叩く。翔は、大丈夫、と繰り返し、これは耕三の研究で、またすぐに夢の中に戻れて、みんなの理想が叶うから、と幸恵に訴える。幸恵は、現実から逃げて夢に縋っていてはいけない、前に進まなければいけない、あなたの子供達はもう前を向いている、大人であるわたし達がいつまでもこうしていてはいけない、と翔に語り掛ける。翔はそれを正論だと思うが、耕三と幸恵にぼくだけがしてあげられる唯一のプレゼントが、夢の中でならできる、と言いたい。しかし幸恵は、素敵な夢を見せてくれてありがとう、もう充分、とても幸せだったから、と翔に伝える。翔はその場に泣き崩れる。

幸恵は眠る耕三の隣で、翔が学校で描いた鳥の絵を見せてくれた時に、とても上手で本当に驚いた、絵心はわたし達に似なくてよかった、耕三はあの絵を研究室にずっと飾っていた、翔は優しくて、わたし達にはない才能がある、それでいい、と翔にもっと言ってあげればよかった、と言う。そして、でも翔は優しい子だからきっと颯太と和解できるだろう、と言う。

翼も詩織ももう目覚め、最後に颯太も目を覚ます。不安そうに翔が、おはよう、と颯太に呼び掛ける。颯太もまた不安そうに、父さん、と口にする。

・第47話(第6巻)

颯太は翔に、おはよう、と返す。そうして夢は終わった。一ノ瀬家には日常が戻り、耕三と幸恵も帰宅し、眠っていた間に溜まってしまっていたことの処理に、しばし追われる。翔は、美奈子が用意した飲料には一家心中のための睡眠薬が入っていたが、耕三がそれを、夢を見させる薬が入ったものにすり替えていたのだろう、翼だけは全部を飲む前に颯太に阻止され、不完全な状態で夢が始まった、と事態の推測を述べる。翔は耕三の部屋で研究と薬を見付けただけなので、それ以上のことは言えない。翼は、なぜ耕三が夢を見せようとしたのか、と思う。翔の話を聞いた幸恵は、耕三の部屋に行き、耕三は頑固で研究について何も話してくれなかったから、と言って中を片付け出す。翼は戸惑うが幸恵は、耕三が目覚めたら、楽しかった、ありがとう、と言ってあげるつもりだ、と言うと、翼も翔も部屋の片付けに加わる。

翔と美奈子は颯太に、これまで家族として傷付けていたことを詫びる。翔は颯太に、家に残ってほしい、と思っていることを伝え、美奈子は、これからは颯太が望むお母さんになれるように一から向き合うから、と訴える。颯太は心苦しそうに席を立ち、来週になったら家を出るつもりであることを伝える。颯太の意思を聞かされた翼は、夢が終わって家族がまた離れていくのを感じながら、家族旅行をすることを提案する。

翼達は、事故で行けなかった福井県の東尋坊に、電車に乗って旅行に来る。夢の中で翼を崖から突き落とした幸恵は、ここでは翼が崖から落ちないように心配する。翼は、夢の中でも現実でも一ノ瀬家は喧嘩ばかりだったが、今は不思議なくらいに穏やかだ、と感じる。翼達の団欒を、颯太は一人、離れて眺めている。その夜、颯太は翼と話しながら、昼間のような家族の穏やかさをずっと望んでいた気がするが、ではなぜ家から出ていこうとするのか、と考える。答えは出ないままに颯太は、この後に一人で抜け出すつもりだった、と翼に明かし、しかし考えを変え、電車で帰宅するのがつらそうな耕三のために車を借り、免許を失効している翔に代わって、帰りの運転を最後に引き受ける。道中、翔の経済力の不安定さについての話題になるが、これまでと違って険悪な雰囲気にはならずに終わる。翼は、今のおれ達なら大丈夫だ、と言い、詩織はその自信振りを囃し立てる。翼は、あの夢の経験が家族を変えた、と感じる。そして颯太に、家を出ても、たまには帰ってきて一緒に旅行に行こう、と言う。颯太は、たまになら構わない、と答える。翼は、おれ達は最高で最強の一ノ瀬家なのだから、きっとまたやり直せる、と思いを新たにする。そして、暇潰しにしりとりを始める。しりとりの答えがサルになった時、車の前方に親子連れのサルが現れる。颯太はサルを避けようとして運転を誤り、事故を起こす。

翼は病院で目を覚ます。他の家族が心配そうに翼を覗き込んでいる。

・最終話(第6巻)

翼は、これまでのことを全部忘れたかのような振りをしてから、それが芝居だったことを笑って明かし、目の前の家族に、自分が夢の中にいないことを確認する。家族は誰も笑っていないどころか不愉快そうだ。詩織はむくれて、翼に背を向けて去る。翼は、記憶喪失なんてそう簡単になるものではない、という常識を確認しつつ、詩織を追って病院の屋上に来て、詩織に謝る。そして、夢と違って何もなかったからよかった、と言う。詩織は、こんなことなら全部忘れたほうがよかったかも知れない、と翼に否定的な意見を返す。

翼達は病院内で一緒に食事をするが、雰囲気は重苦しい。雰囲気を変えるために翼は、旅行が楽しかったことを話題にするが、家族の反応は薄い。それに構わず翼は、アクシデントもあったけど、帰りにかわいいサルを見られた、と言う。すると美奈子は、事故で壊れた車の修理代が高く付いたことに言及し、運転を担った颯太を非難する。颯太は翼に、みんなのために運転したのに詰られるなんて最悪だよな、と同意を求める。美奈子は、サルだの犬だのと話題が子供だ、と更に颯太を非難する。すると詩織が間に入って、颯太を擁護する。美奈子は、詩織の経済観念の幼さを指摘する。翔は、美奈子と詩織を仲裁しようとするが美奈子は、自家用車を手放したことがそもそもの原因だ、と翔を非難し出し、詩織も、翔が免許を失効したから運転が下手な颯太に任せることになってしまった、と翔を非難する。翼は、旅行の時は上手く行っていたのだから、また仲良くしよう、とみんなを窘める。すると、いつも綺麗事ばかり、正論だけでは解決しない、夢のことも納得していない、と美奈子と詩織と颯太から、翼は非難を向けられる。それに腹を立てた翼は机を叩き、ではあんたらは何をした、いつも自分のことばかり言って、おれはいつだって家族のことを考えていた、と非難し返して主張する。翼達は激しく衝突する。そして険悪になったまま退院し帰宅する。

翼は、おれ達は夢から覚めても事故に遭っても、何も変わらないし、都合よく忘れることもできない、と無力感に打たれながら自室に入ると、机の上に耕三からの手紙が置かれていた。耕三はその手紙を、全てが終わったら渡すように、幸恵に頼んでいた、と手紙の中で明かす。それから、翼には家族仲に拘り過ぎる面がある、と指摘し、家族仲はずっと冷え切ったままだろう、と予測し、家族仲が冷えた原因を、耕三が颯太に厳しくし過ぎたからだ、と翼は考えているだろう、と言ってそのことへの言い訳をしつつ、仲が冷えるのは家族であれば自然に起きることだ、と言い、だが一つだけ、家族旅行に行かなかったことが心残りだった、と明かす。翼は手紙の中の耕三に、そんなことは小学4年生の時に翔達ともう行ったことがある、と反論する。手紙の中の耕三は、旅行は「そんなこと」ではないし、七人全員揃って、という意味だ、と翼に返答する。そして、七人での旅の記憶を作ってやりたかった、この先に翼達が一家離散しようが泥沼のように一緒にい続けようが、切れない、家族の縁を憎らしく思った時に、思い出してしまうような旅になれば嬉しい、とあの夢を見させた意図を語る。翼は手紙を持って居間に行き、眠ったままの耕三に文句を言う。続いて他の家族も手紙を持って居間に来て、みんなで耕三を囲む。

後日の朝、中嶋は片側の頬を赤く張らした翼に会って驚く。翼は、詩織にビンタを喰らった、と話し、旅の思い出くらいでは変わらない、と漏らす。中嶋は、その言葉の意味が分からない。翼は、それでもきっと、旅の思い出、あの夢のことを自分はこの先も何度も思い出すだろう、何も変わらないけど、そうして一ノ瀬家という家族は続いていく、と予感している。翼の携帯端末に着信があり、その画面には、一ノ瀬家の日常の揉め事の痕跡と共に、最新の出来事として、颯太が家族共有のアルバムを作成したことが表示されていて、翼は、遅い、と言う。それを隣で見ていた中嶋は、翼の家は大丈夫か、と訊く。翼は、いつも通りだ、と答える。一ノ瀬家は相変わらず、仲がよくはなく、騒々しい。

・おまけ(第6巻)

翼は中嶋に、一ノ瀬家には色々あったが、その後に何もなくてつまらないし、食べたいから、といった理由で、家族でカレーを作ることを思い付いた、と話す。

カレー作りを提案された美奈子は、承諾するものの、準備も調理も自分でやれ、わたしがやると思ったら大間違いだ、と翼に答える。翼は笑顔で了解し、明日に実施することを伝える。美奈子は現状への苛立ちを、翔のせいだ、と考えながら、出来上がったカレーを思い浮かべる。翼の提案を聞いた幸恵は好意的で、出来上がったカレーを思い浮かべながら、わたしも気付いたものを買っておく、と言う。

翼は詩織をカレーの材料の買い出しに誘うが、詩織は嫌がり、小学生か、一人でやれ、店で食え、とつれない。翼は、家で作ったカレーの味が食べたいだろう、と訴えると、詩織は出来上がったカレーを思い浮かべる。更に翼は、夢のことで色々と世話になったのだから恩返してもいいだろう、と詩織に要求する。詩織は、あの家で食事なんて嫌、と拒むが翼は、たまにはいいだろう、社会人と付き合っていることをばらすぞ、と詩織の弱みを突く。

詩織は渋々、翼の買い出しに付き合う。しかし七人分の食材を二人では持ち切れないことに気付いた翼は、颯太も呼び、買い出しを手伝わせる。颯太は、考えなく先走る癖を翼が懲りずに繰り返していることに呆れ、詩織はそれに同調する。颯太も、あの家で食事は嫌、という詩織に同調する。翼は颯太にも、家で作ったカレーの味が食べたいだろう、と訴える。颯太は、出来上がったカレーを思い浮かべ、了解し、翔にも手伝ってもらうことを提案する。翼は翔に連絡し、帰りにカレーっぽいものを適当に買ってくるように頼み、翔はすんなり了解する。買い物を終えた翼達三人は、買った物を確認すると肝心のルウを買っていないことに気付くが、さすがに他の家族が買ってきているだろう、と考える。

家族が家に揃ってみると、誰もルウを買ってきていなかった。翼達がそのことに気取られて調理を疎かにしているのを見かねて、調理はしない、と言っていた美奈子もカレー作りに加わる。ルウのないカレー作りに、一ノ瀬家はやはり騒々しくぶつかり合う、その様子を前に、眠ったままの耕三は笑っているような表情でいる。幸恵は、カレーをやめてスープのようなものに変えようか、と提案するが、家族はそれぞれ同じ、出来上がったカレーを思い浮かべていて、カレーは変えたくないことで一致する。

翼は、一ノ瀬家がカレーを食べようとしている様子を写真に撮り、それをSNSに投稿する。結局、翼達はカレー作りを中止し、店のカレーを買って済ませることにしていた。その投稿を見た中嶋は、カレーを作るのではなかったのか、と訝る。

・第1巻

詩織の涙の願いを受けて翼は目覚め、全部忘れた家族をまとめようとするが、その方法論を巡って、他ならぬ詩織に抗われる。詩織を説得し、得意気に家に帰り着くと、その酷い有り様に、翼はこれからの困難を予感する。翼は家や家族の問題を保留し、先ずは学校の問題に向き合う。翼は中嶋との衝突で、過去を理解する必要性を感じ、中嶋との関係を回復し、それが詩織の隠された部分を知るための力になる。詩織は穴水との関係と、ぬいぐるみへの執着を、翼に暴かれる。

・第2巻

翼は、詩織が兄である自分を差し置いて他の年上男性に頼ろうとすることが、面白くない。その態度が却って詩織の反発を招く。翔に諭された翼は、穴水と直談判することで、穴水との関係を終わらせたいがそのことを言い出せなかった詩織の信頼を勝ち取り、詩織との関係を回復する。翼は翔を信頼するが、翔が変に行きたがらない旅行に行くと、翔は家族に薬を飲ませ、中嶋との過去だけでなく家族の過去も理解する必要があることを翼に仄めかし、事故を起こして家族をやり直す。家族から翔は消え、颯太が父に成り代わる。颯太は、前回で翼が中嶋らとの関係を回復できた要因を、先回りして潰して回るが、翔への信頼を忘れ切らなかった翼は、颯太が父ではないと気付き、家族から離れた翔を取り戻そうとする。翔の裏切りを思い出したくない美奈子は、翼を引き止めようとするが、翼に影響されて翔を思い出し、翔に執着するようになる。颯太は美奈子と翼に、翔を忘れるように迫るが、美奈子は拒み、翼は却って翔との同調を強め、美奈子を助けようとする。美奈子はけんたを殺せば翔を取り戻せると考えるができず、翔のことを忘れはしないが諦める。そして翼との関係を回復するが、颯太の意思により、家族から美奈子も消える。危機感を募らせる翼に耕三が味方し、これまでのことを時間のループであると明かし、詩織と幸恵も味方に付け、翼はループを脱するべく、颯太に立ち向かう。

・第3巻

翼達は颯太のアルバムを発見し、それを手掛かりに、ループを抜け出すべく、家族の過去を探っていく。颯太は翼にカメラを捨てるように言うが、翼は拒む。すると颯太は自分の名を明かし、現実の翼の状況を教え、ここが夢の中であることを告げ、アルバムを見ることを無駄と言い、現実では全部忘れることなどできず、家族もやり直せなかった、と言う。翼は家族を取り戻す意欲を打ち砕かれる。現実の美奈子は、事故以来、全部忘れて家族をやり直す夢を見るようになっていた。そして、颯太を失い、翼が目覚めないことに絶望して死を考えるが、同じく死を考えていた翔が同じ夢を見ていたことを知り、翔と話し合い、関係を回復する。夢の中の翼は、颯太が操作した夢の家族に埋没しかけるが、耕三の手助けにより脱し、家族を取り戻す意欲を回復し、颯太による夢の操作を解く。翼達はアルバムから福井県の病院を知り、幸恵の病気を知り、その病院を目指す途中で、翼は幸恵に突き落とされ、また家族をやり直すことになる。怯える翼を再び耕三は支えるが、幸恵によって翼は、耕三の異常性を意識するようになり、夢の中の行動で中嶋と耕三との関係は深まったが、代わりに美奈子と幸恵との関係が壊れることに、翼は煩悶する。翼は福井県に行けなくなり、代わりにプラネタリウムに行き、そこで家族と過ごすような時間を自分は望んでいた、と理解して夢に埋没することを決めるが、現実に復帰してしまう。現実の翔と美奈子の、事故を経て過去を克服した振る舞いは、嘘のようで、翼は気持ち悪く感じる。夢が終わった、と思った翼は死を考えるが、翼が死んだ、と思って死を考えていた中嶋に会い、終わった、と思っていた中嶋との関係がずっと生きていたことを知る。そして、夢がまだ終わっていなかったことも判る。中嶋は、夢の話を医師に言えないなら、家族に向き合え、と翼に勧める。翼は翔と美奈子に倣って、綺麗な家族として振る舞おうとするが、詩織が現れ、翼を強く軽蔑する。

・第4巻

翼は家族に背を向け続ける詩織に怒るが、詩織はこれまで感じてきたつらさを翼にぶつける。翼は詩織に寄り添い、身体的傷を負ったのが詩織でなく自分でよかった、と言い、詩織とまた会えた喜びを伝え、詩織と和解する。しかし、夢の影が相変わらず、二人の間には横たわる。翼は昏睡状態の耕三に会って、この現実から逃げたくて夢を見ていた、と理解する。そして深夜、入れないはずの耕三の部屋で、耕三が夢と深く関わっているらしいことを知るが、何者かに肩に手を置かれて以降、不可解な眠気と、夢の詮索への警告に脅かされるようになる。美奈子は、ずっと翼の食事に何かの薬を入れ続けていた。翼は警告の犯人を詩織と断定し、中嶋と再び詩織を尾行して見付かり、詩織は警告の容疑を否認し、詩織も翼と同じく夢を見ていたことが判る。詩織は颯太のことを言いかけるが、翼は眠ってしまい、幸恵の前で目覚め、幸恵の言動から、翼が幸恵を警告の犯人と告発すると、幸恵は颯太の名を出し、夢の中で颯太は夢の終わりを告げ、翼は颯太が兄であることを思い出し、もう記憶喪失の夢を見なくなる。翼は颯太が家を出ていくまでのことを夢に見て、颯太のことを知りたくなると幸恵が現れて、忘れていた颯太の部屋の前へ翼を導くが、翼は部屋の扉を開けることをためらう。幸恵は、元気だった頃の耕三と会える、翼と同じ夢を見ていて、もうそれを見なくなった。翼も同じと感付いた幸恵は、夢のことも颯太のことも忘れろ、と翼に言うが、家族を気遣う翼に、耕三の研究を引き継げる可能性を感じて、耕三の部屋の鍵を託し、その後に夢の薬を何者かに盛られ、幸恵は夢の中に落ちる。幸恵が入院したことで、美奈子も翔も、綺麗な家族を続ける余裕を失っていく。詩織も、家を出る意思を固め出す。美奈子と詩織は幸恵のことで言い争い、翔は、幸恵が幸せならいい、と言い、美奈子は激怒する。翼は颯太が家族から消えていることを問い、美奈子を激昂させ、一ノ瀬家を象徴する食卓は壊れる。翼は颯太の部屋の扉を開け、家族が壊れて颯太が家を出た過去を思い出し、颯太の笑顔の喪失を嘆くが、颯太は福井県の海辺の町で偽の家族を作って笑顔でいるのを、テレビで晒していた。翼は颯太を追って海辺の町に行き、颯太の考えに疑問を持ちながらも、翔が不倫で関わった子供がいる、その偽の家族に加わり、馴染み始める。

・第5巻

翼は偽の家族に悪い気はしないが、それはそれぞれの家族の過去を持ち込ませないことで成り立っていた。颯太はけんたに、翼が過去に聞いてもらえなかった我儘を聞いて甘やかすが、颯太がその場を離れると、翼は過去の美奈子のように、けんたの我儘を窘める。翼はそういう関係を、望ましい家族と感じるが、けんたは翼の家族観に悪意を向け、颯太はけんたを擁護する。けんたは家族という夢には落ちない。けんたは翼の家族観に挑戦するように、翼に絡む。翼はけんたと一緒に学校に行き、そこでけんたが奇妙な保護を受けていることを知る。そのことに翼は疑問を抱くが、けんたは、母がいない、荒れた本当の自宅に翼を招き、翼にしおらしい言葉を連ねる。その直後にけんたは、邪悪な本性を翼に見せ、邪悪な言葉を連ねた後、いつもの無邪気な子供に戻って見せる。翼は偽の家族の一員として、颯太達と共にテレビに映り、美奈子と中嶋に発見される。中嶋が翼を訪ねてきて、一ノ瀬家の問題と向き合うことに疲れている翼に心の整理を付けさせ、帰っていく。翼は、颯太が擁護する、けんたとの偽の家族について、よく思っていないが、何もできない。けんたは、颯太や周囲の同情を上手く利用しているようで、家族のいない哀れさを家族のいる者から利用されている側でもあることに耐えられなくなり、暴行事件を起こす。けんたは颯太に、かつての母のいい面の再現を期待するが、悪い面を再現したので激昂する。颯太は偽の家族に、望ましい親像の模索ではなく、自身の望ましい子供時代の再現を求めていた。けんたは偽の家族を支えていた嘘を暴く。颯太は、嫌っていた家族の部分を結局は自分の手で再現してしまったことに、落胆する。翼は颯太達から一歩引いた立場で、颯太達を見守る。文乃は颯太に、家族のいい面と悪い面との表裏一体性を伝える。けんたと文乃は、本当の家族の許へ帰っていき、颯太も翼に引っ張られて一ノ瀬家に帰ることにする。翼は耕三の部屋の鍵を取り出した後、翔によって、颯太と共に夢の中に落とされ、病院で目を覚ます。颯太は翼と共に、夢の首謀者である翔に会って、目覚めさせろ、と要求する。翔は、二人の目覚めたい意思次第、と伝え、夢の家族も偽の家族も変わらない、と言って去る。詩織は、自分を守ってくれた颯太を、今度は自分が守るために、夢が続くことを望んでいる。一ノ瀬家は退院して帰宅し、翼と颯太は全員を夢から目覚めさせる気だったが、美奈子は颯太の願望を突き、颯太は夢の側に落ちる。一方で、翼は詩織からの、夢を続ける説得に屈しない。

・第6巻

颯太は素直に話をできるようになり、楽しそうに笑えている。詩織はそのことを翼に誇る。美奈子はかつて翼が言った、一ノ瀬家を誇る文句を口にする。翼は次々と奇行を繰り出しながら、現実には美奈子が家族の食卓を壊したことに触れ、夢だろうと偽だろうと家族を演じていれば、結局は本当の家族と同じになる、と言い、それでも翼の言葉に耳を貸そうとしない颯太と詩織を、最後は食卓を倒して振り向かせる。そして、全部忘れて変わらずやり直すことを否定し、自ら拾って直したはずの颯太のカメラを、壊して見せる。詩織は、颯太がいなくなった後の家族を、颯太を取り戻すことではなく、その空白をどう埋めていくかを考え実践していたのが翼だった、と気付く。詩織に、翼がしようとしたようにわたし達もするべきだった、と言われた美奈子は、颯太が生まれ、翔と共に涙し合った日のことを思い出し、夢から覚める。そして、颯太を愛せる父親でいられるように、耕三や幸恵の期待に応えられる子供でいられるように、家族を夢の中に閉じ込めておこう、と藻掻く翔の前に立ち、慈しむような目で、もう夢を終わらせるように言う。翔はその目に耕三の目を重ね、怯える。翔は、颯太の存在によって、両親に期待されていなかった、と思い込み、颯太の不在を願い、それから家族は壊れていった。それをやり直すべく夢に執着する翔の頬を、目覚めた幸恵が叩く。幸恵は翔への信頼を胸に秘めながら、自分の子供達を信じろ、と翔を諭す。翔は目覚めた颯太と、目覚めの挨拶を交わし、夢は終わる。幸恵は耕三の部屋を片付け始め、翼と翔が手伝う。翔と美奈子は颯太に詫びるが、颯太は家を出ていく意思を固めている。翼の提案で一ノ瀬家は家族旅行をし、颯太は穏やかな一ノ瀬家を眺め、一ノ瀬家との関係を続ける気になる。翼は、夢が家族を変えたことを思い、家族が変わっていくためのやり直しを肯定する。颯太の運転する車は事故を起こし、また話は病院に戻る。そこで翼は、記憶喪失を演じてから、すぐにその嘘を明かし、一家全員記憶喪失の終わりを告げる。詩織達は不機嫌になり、食事中に喧嘩が始まる。険悪なまま、一ノ瀬家は退院し帰宅する。翼達は手紙で、なぜ憎らしくとも家族の縁が切れないのか、それを身に染みて感じさせるため、という、耕三が仕掛けた一連の夢の騒動の意図を知る。翼は、詩織にビンタを喰らう日常を中嶋に見せ、その頬の痛みの意味を、夢の思い出と共に噛み締める。傍で一ノ瀬家を心配する中嶋に翼は、いつも通りだ、と言う。

・全体

翼は泣く詩織のために、記憶喪失の家族をまとめる、という大変で困難なことを始める。過去に色々とあった中嶋と協力し、翼は詩織の秘密の一端を知るが、詩織は翼を兄として認めない。翔の言葉で翼は、詩織に兄として認められるが、翔はそれだけでは不充分として、家族をやり直させ、夢から消え、代わりに颯太が現れ、翼の邪魔をする。翼は翔を信じて、美奈子と共に、翔の不倫やその相手と関わり、家族を忘れた翔と適度な距離を置くようになるが、美奈子は消され、耕三らと共に颯太に抗おうとする。颯太は翼にカメラを捨てるように言い、夢と現実の所在を示し、翼の意欲を挫く。家族がバラバラになり、死を考え夢を見るようになった現実の美奈子は、翔も死を考え夢を見ていたことを知り、再び結び付く。翼は夢の中で、颯太と幸恵に夢に落ちるように工作され、夢に閉じ籠る気になったが、現実に復帰してしまう。翼は過去を克服したつもりの翔と美奈子が気持ち悪く、夢の終わりに殉じて死を考えるが、翼に殉じて死を考えていた中嶋に会い、中嶋との望ましい関係に復帰する。未だ夢は終わらず、翼は翔と美奈子の気持ち悪さを真似るが、詩織に強く軽蔑される。翼は、身体が傷付いたのが詩織でなく自分でよかった、と伝え、詩織との関係を回復するが、帰宅した昏睡状態の耕三を見て、これから逃げるための夢だった、と理解し、深夜の耕三の部屋に入り込んで以降、不可解な眠気と何者かからの監視と警告に悩まされるようになり、詩織を疑って中嶋と尾行し、詩織も夢を見ていたことが判り、詩織と幸恵に颯太の存在を思い出させられる。翼は夢を見なくなり、同じく夢を見、もう見なくなった幸恵は、夢や颯太のことを忘れろ、と言うが、耕三の研究の引き継げる可能性を感じ、翼に鍵を託すが、薬で夢に戻される。幸恵の入院で、翔と美奈子の仲は再び悪化し、幸恵のことで翔は美奈子を怒らせる。翼は颯太のことを美奈子に問い、一ノ瀬家の食卓は壊れる。翼は、翔の不倫相手であるけんたと偽の家族を作って笑っている颯太を見付けて、一ノ瀬家を離れて、颯太の家に加わる。颯太はけんたに、自分達の子供の頃の欲求を叶えてあげたがるが、翼はそれに逆らうように振る舞う。けんたは翼を睨みつつ、颯太を蔑みながら、家族のない者への同情を利用してやるつもりが、家族のある者からの憐れみに耐えられなくなり、家の外で問題を起こす。けんたは颯太の作った偽の家族を壊そうとし、颯太達はぶつかり合うが、後に文乃は、あのぶつかり合いにこそ家族らしさを感じた、と颯太に言い、偽の家族は解消する。翼は颯太を引っ張って、夢の家族に決着を付けるため、一ノ瀬家へ帰ろうとし、翔の手で夢の中に戻される。翔は、夢の家族も偽の家族も変わらない、と言い、詩織は颯太を守ってあげられる夢の継続を願う。美奈子の手によって颯太も夢の側へ寝返るが、翼は一人、食卓を囲う家族の中で次々と奇行を繰り出し、夢の家族も偽の家族も、結局は本当の家族に行き着く、と結論し、かつて拾って直した颯太のカメラを、自ら再び壊す。詩織は、翼の行動こそが家族のために必要だった、と美奈子に話し、美奈子は颯太が生まれた頃を思い出し、夢から目覚めて、翔に慈しみの眼差しで、夢を終えるように言う。翔はまたも慈しみの眼差しの意味を取り違え、夢への期待を強めるが、目覚めた幸恵に、子供達を信じろ、と頬を叩いて叱られ、目覚めた颯太と挨拶を交わし、夢を終える。耕三の仕組んだ夢は片付けられ、颯太は家を出ていこうとするが、翼の仲介で、家との関係を続ける気になる。翼は、本当の家族が変わっていくために夢の家族の経験はあった、と総括し、颯太は事故を起こして話を始まりに戻す。翼は一家全員記憶喪失を、夢であり偽だった、と示し、詩織は誰よりも不満そうで、家族は喧嘩しながら家に戻る。翼は詩織に叩かれて腫れた頬を中嶋に見せ、これが一ノ瀬家のいつもだ、と報告する。

この作品は詩織の涙で始まり、詩織のビンタで終わる。詩織は、便意を催しても誰かに言い出せないし自分一人で用を済ますこともできない、泣いてばかりの、気弱な少女だった。それを助けてくれたのが颯太という、素敵な兄だった。

冒頭で詩織は兄を呼んでいるが、これは颯太のことだ。しかし同時に翼のことでもある。詩織は、気弱な自分を助けてくれる、年上の男性を求めている。だから、詩織はここで穴水をも呼んでいる、と言えるが、穴水は下心が強く、あまり優先されない。颯太がいてくれるのであれば、できれば縁を切りたい男性だ。

颯太は詩織に大きなぬいぐるみを与えた。ぬいぐるみとは、子供にとっての安心を象徴する。しかし、その大きな安心を与えてくれた颯太はいなくなってしまった。颯太に代わって、小さいながらもぬいぐるみを与え続けてくれたのが、もう一人の兄である翼だ。

しかし詩織は翼を、颯太に相当する安心を与えてくれる兄とは認めず、颯太の帰還を待ち望んでいる。それが、詩織が翼に、何も知らないくせに、と言ってしばしば強く当たる理由だ。何も知らない、とは颯太と比べてのことだ。颯太は詩織が困っていれば、そのことを速やかに察知し、適切な助けの手を差し伸べてくれる。翼にはそれが足りない。

翼は中嶋と連れ立って、尾行という、配慮に欠ける手段で詩織の困り事に迫ろうとする。それで詩織を泣かせたり怒らせたりするものの、翔の助けもあって翼は、詩織の困り事を解決し、穴水を越えるお兄ちゃんにはなる。そして、そのまま二人がぶつかり合いながら、ちょっとずつ翼が颯太に相当するお兄ちゃんになっていく、という物語もあり得たが、それは翔の手によって引っくり返される。

一ノ瀬家は欠落を抱えている。それは、颯太の不在だ。翼と詩織にとって、颯太の不在を克服さえできれば、それで一ノ瀬家は立ち直るのかも知れない。しかし、それでは立ち直れない、一ノ瀬家の家族がいた。翔と美奈子だ。

翼と詩織にとって颯太は兄だが、翔と美奈子にとっては息子だ。兄を失うことと息子を失うことの、立場と重みの違いが、夢に期待することの違いとなる。

家族がやり直されると翔が消えて、代わりに颯太が父を演じるようになる。颯太は前回で翼が達成したことを潰していくが、結果は悪いものではない。翼は中嶋との関係を失うが、学校生活の問題はなくなる。詩織も穴水との関係を切ることができる。何よりも、颯太がいてくれることが安心だ。

颯太がいなくなる代わりに、翔がいなくなればよかったのではないか。颯太さえいれば何も問題はなかった。だが、そうはいかない。一ノ瀬家は七人いてこそであり、誰かが欠けていては、一ノ瀬家ではない。そもそも、颯太は翔の息子であり、翔なしに颯太は存在し得ない。翔なしの、颯太が父である、六人の一ノ瀬家は、夢の中でもなければ存在し得ない。

一ノ瀬家の抱える問題は、颯太の不在だが、そこには翔の願望が強く影響している。翔は、詩織とは反対に、颯太の不在を願ってしまっていた。それが実現すると、一ノ瀬家は壊れてバラバラになっていく。一ノ瀬家を壊すのは美奈子だ。

翔と颯太を愛する美奈子は、翔が颯太を愛し続けることが難しくなり、颯太の不在を実現してしまった時、狂い、翔を愛せなくなった。狂った美奈子は、翔や子供達につらく当たるようになり、その結果、翔は一ノ瀬家の外に別の家族を作ってしまうようになる。それが美奈子に、一家心中を企図させるに至る。

ここで注目すべきは、翔が別の家族では良き父でいられていることだ。それはけんたがまだ幼いこともあるだろうが、恐らく、けんたが大学進学を考えるくらいの年齢になっても、翔はけんたを問題なく愛し続けることができる。けんたは颯太と違って、いい子ではいられない子供だからだ。

颯太は、その過剰ないい子さによって、翔に愛されなくなり、一ノ瀬家を壊す原因にもなっている。美奈子は、颯太ではなくけんたの父となった翔と、その家族の順調さを見て、それを壊したくなる。その手段はけんたを奪うことだ。一ノ瀬家の崩壊は、颯太の不在、子供を剥奪されることによって起こったからだ。

だが美奈子は何となく、それができないまま、けんたを翔に返還し、翔を許し、翔と距離を置く。良き父たる翔は、美奈子の望んだ、美奈子が愛していた、翔の姿だったからだ。そしてやはり、子供の剥奪を自ら繰り返してしまうことはできなかったのだろう。

ここには、望まれないものの剥奪ないし消去、という問題がある。颯太は過剰ないい子さで、翔に望まれなかった。けんたは、いい子でいられなさが翔に望まれ、その翔に望まれたがために、美奈子に望まれなかった。いい子だろうが、いい子でいられなかろうが、望まれたり、望まれなかったりする。

望まれないものの消去で家族は崩壊する。美奈子は自分の家族の崩壊を望んでいなかった。だとすれば、望まれないものの消去を肯定することはできない。繰り返してはいけない。本当の家族のことを忘れた翔も、その翔に望まれたけんたも、消去してはいけない。

その結論に至った美奈子を、しかし颯太は消去してしまう。望まれず、消去されてしまった側の家族だからだ。颯太は翔の願望を引き継ぎ、望まれないものの消去を肯定している。それが本当の家族を崩壊させるとしても、構わない。望まれないものの消去は、代わりに夢の家族や偽の家族を成立させるからだ。

そして颯太は、美奈子を消去することで、より深く夢の力に入り込むことになる。一ノ瀬家は一人が欠けた状態だった。夢の力は、その状態を変えずに、欠けた人物を入れ換えることに使われた。それは、現実との整合性をできる限り保とうとしていた、と言える。

翔に加えて美奈子も消去することは、現実に対する明確な反逆だ。そしてその先にある力は、幸恵を誘惑することになる。望まれないものの消去は、家を追い出す、家を出ていく、殺してしまうなど、現実にも可能な架空だ。一方で、望まれながら失われてしまったものの復活、とりわけ、死者の復活は夢の中でのみ可能な架空だ。

死者とは耕三のことだ。耕三は正確には、まだ死者ではないものの、回復する望みは薄く、何も聞けず何も言えないのは死者に等しい。一ノ瀬家の抱える問題にはもう一つ、耕三の昏睡がある。これは誰が願ったものでもない。いや、強いて言えば、颯太が願っただろうか。

家を出ていった颯太を取り戻すことはできる。それは人間関係、家族関係の問題だからだ。生きて無事でさえいてくれたなら取り返しは付く。美奈子が翔に言っていた通りだ。しかし、昏睡した耕三を取り戻すことは極めて難しい。耕三は健康を失っている。それは命よりは取り返しが付く可能性があるものの、その困難さは人間関係の修復とは比べ物にならない。

夢が美奈子を消した後、耕三は活発に動き、喋り、翼を支援するようになる。望まれない病魔は消され、死者のようだった耕三は復活した。夢にしかできないことが行われ、幸恵は失われたものを夢によって取り戻し、夢の継続を願う側になる。

しかしそれは一時的なものだった。幸恵はすぐに夢を見なくなり、翼に、夢を忘れろ、というようになる。夢を詮索するな、という警告の犯人は明示されていないが、これが幸恵だとすれば、この警告の意味は、夢に意味などないから忘れろ、ということになるだろう。

だが幸恵は、もう死者に等しくなってしまった耕三ではあるが、その耕三の意思を引き継いでくれる人がいれば救いになる、と家族を心配する翼を見て感じ、耕三の部屋の鍵を翼に託す。幸恵はそれまで、夢に意味などない、と思っていた。少なくとも、虚しいものだ、と感じていた。

だとすれば幸恵は、翼が夢の意味を発見し、それを、決して虚しいものではない、と証明してくれることを期待したのだろう。そのために耕三の部屋の鍵を託したのなら、耕三の研究とは夢の意味の追究だったかも知れない。

翼は夢の中で幸恵に、崖から突き落とされ、夢から目覚める意思を潰される。それ以前にも翼は颯太に、同じく夢から目覚める意思を挫かれている。だがその度に、耕三は翼を支えた。耕三は、翼達に夢を仕組みながら、夢から目覚めるようにも促している。

幸恵が夢を見なくなったのは、夢から目覚めることが耕三の意思ではあったからだろう。だが、ではなぜ耕三が夢を仕組んだのかが分からない。幸恵は、耕三は夢の虚しさを伝えたかった、と一旦は理解したのかも知れない。でも、翼を見ていると、そう思えなくなった。そして幸恵は鍵を翼に託し、薬を飲まされ、夢の中で翼の助けを待つことになる。

幸恵に薬を飲ませたのは誰か。薬について知っているのは翔と、翔に唆された美奈子だろう。しかし美奈子は、幸恵が眠ってしまったことを全く快く思っていなかったし、幸恵が眠ったことに好意的な見解を示した翔を罵倒している。明らかに美奈子の犯行ではない。従って幸恵に薬を飲ませたのは翔であり、それは美奈子の了承を得ない、独断の行動だった、と考えられる。

翔は颯太の不在を願って叶え、それが美奈子を狂わせ、耕三を失った幸恵に幸せになってほしくて幸恵を眠らせ、それが美奈子を怒らせている。颯太の不在を願うのも、幸恵を眠らせるのも、両親の期待に応えたいからだ。それが美奈子を狂わせ、怒らせる。

だがそれは、両親の期待に応えたがることが悪いのではなく、美奈子に何も言わず、黙って家族に何かをしようとして美奈子を失望させることが悪いのであって、それが家族を壊すことに繋がるのではないか。翔は美奈子に心を完全には開いていない。

幸恵が薬で眠った後、美奈子は翔に、話すべきことを話してほしい、と訴え、翔はそれに背を向けている。翔もまた詩織のように、言いたいことを言えない人で、だから家族から逃げ、けんたの母と関係した。けんたもまた言いたいことを言えない、代わりに暴力に訴えてしまう子で、けんたにその母は辛抱強く付き合っていた。翔はそういう妻をも望んでしまった。

だがそれが、美奈子を致命的に傷付け、美奈子に一家心中を企図させ、それが翼に死んだかも知れない大怪我を負わせ、長い間眠り続けさせる結果を招いた。自分の悪い癖が、一度ならず二度も、自分の子供を失わせるところだった。自分に失望した翔は死を考え、それが、同じ精神状態にある美奈子との和解に繋がった。

翼は夢の中の颯太と幸恵の工作で、夢の中に埋没することを決心する。ところがその直後に、昏睡から目覚めてしまった。翔はこの辺りについて、翼だけ薬を飲み切る前に颯太に阻止され、不完全な状態で夢が始まった、と推測を述べている。

翼の状態が不完全だったら、他の家族の状態が完全だった、ということになる。昏睡はせず、繰り返し、家族をやり直す同じ夢を、家族で見る。それが夢の薬の正常な効果だった。なら、翼の昏睡は大怪我によるものなのか、薬の不正量の摂取によるものなのか。

幸恵は翔に薬を飲まされ、昏睡した。翼達もどういう方法か経緯か、翔に薬を飲まされ、昏睡したようだ。耕三にせよ翔にせよ、相手の加減で飲まれる薬の摂取量をどう調節したのか。ここで厳密な論理的考察に耽ることは無意味だろう。耕三の手による夢か、翔の手による夢か、それが物語としての意味を持つはずだ。

そして、翼の夢には颯太の手が加わっている。翼は一人、昏睡した。颯太が、夢に関しては翔寄りの人物だからだろう。しかし翼は目覚め、耕三の手による夢の効果に合流した。何が起こったのか。

耕三の手による正常な夢は、現実を普通に生きながら、眠っている時間に奇妙な架空の経験を繰り返すことだ。そしてその経験は、最初は自分だけのものだ、と思っている。またそれを、とても異常なことだ、とも思っている。そしてその異常な経験を告白することで、同じ異常な経験をしている者同士が、過去のことを忘れて親密になる効果がある。翔と美奈子が、その例だ。

そして、夢は繰り返すが、その度に現実に復帰する。その度に現実を思い出すことになる。それは現実を生きながら、夢を繰り返し思い出すことでもある。自分は何を望んでいたのか、ということを。そして、それはいつか現実を変える手掛かりになる。

夢を思い出すために現実を忘れ、現実を思い出すために、夢は終わる。現実を変えるために一旦、現実は忘れられる。夢を思い出し、それを互いに話し合い、現実の家族の関係を変えるために、耕三の手による夢はある。

一方で、翔あるいは颯太の手による夢は、どんなものか。耕三の手による夢との何より大きな違いは、昏睡だ。昏睡とは、現実と関わらなくなり、現実から切り離されることだ。現実を忘れる、と言ってもいい。そして夢は現実の誰にも話すことができない。

それは変えるべき現実を忘れ、関係を断つための夢であり、翼は夢を繰り返す内に、現実との接点を失い、忘れていく。そして、翼が自分の願望を知った時、昏睡から覚めて現実に復帰する。しかし、夢は終わっていない。翼は、翔的な夢から耕三的な夢に、移行する。

翔的な夢は、耕三的な夢の不完全版であり、だとすれば、その不完全さとは、自分の願望を自分に分からせない、ということになる。翔的な夢は、望まれないものを消去していくものだ。それは願望そのものの消去ないし忘却にもなる。

家族にどう変わってほしかったのか。いや、そもそも変わってほしい家族など、最初から、いはしなかった。そんな願望はなかった。翔的な夢は、孤独を助長しつつ、その孤独こそが本来の自分だった、と家族ではなく自分を変え、しかも孤独に自分を適合させていくような、寂しくも悲しい、現実も夢も忘れていくための夢であるように思われる。

翼が自分の願望を知った時、自分を上位の次元から見ていた翼は自分に、おやすみ、と言っている。つまり、自分の願望を知ることが、現実への復帰、耕三的な夢への移行ではなく、翔的な夢の完成だと考え、それをずっと望んでいたようだ。物語の序盤から時々、現れていた、この翼は何者だろう。

当初は、事故による分断で成立した、事故前の翼の心と思われたが、どうも少し違うのではないか。この翼は、事故後の翼から同情されつつも、事故後の翼の言動に干渉し、詫びる中嶋に対して冷酷な態度を取らせている。他にも事故後の翼に、本来のおまえはそうではないだろう、ということを言っている。

この翼は、事故後の翼を支配しようとしているし、夢を自覚するように促している。父を演じていた颯太も、翼をやんわり脅しつつ、翼にあっさりと夢と現実の所在を明かしていた。この態度は、上位の次元の翼と一致する。

この翼が颯太と結託して、事故後の翼を夢の中に閉じ込めようとしていることは、間違いないだろう。そのために、事故後の翼に現実の嫌さを仄めかしつつ、夢の自覚も促している。事故後の翼に、夢が続くことが必要だ、と思わせようとしている。

ここで、美奈子や翔、他の家族が現実で奇妙な夢を繰り返し見ていることを自覚していたのを思い起こそう。夢を見ている者は、夢の外=現実=覚醒している時には、夢を見ていることを自覚し、それをおかしいと感じたり、夢を続けられていたらと考えたりする。

自分におやすみと言った直後に目覚めて驚く翼は、眠りながら夢を自覚していたことになる。あの翼は、事故前の翼ではあるが、事故後の翼でもある。事故とは夢の薬の摂取のことでもあり、事故後の翼は、夢の自覚ありとなしの二人に分裂していた。

事故前と事故後でも、翼は分断せず一貫していた。そして、事故後は眠りながら夢を自覚していた。その一方で事故は、夢を自覚しない翼を、夢の中に生み出した。その翼に、冷酷な態度を取らせたり、本来の自分というものの自覚を促したりしていた翼こそ、現実の、本当の翼だ。

本当の翼が目論んでいるのは、自覚のない翼に自覚を促し、同化させ、一つになることだ。自覚のない翼の消去、とも言える。本当の翼は自覚のない翼を支配しようとしていた。であれば、本当の翼にとって、自覚のない翼は、自分の支配が及び切らない自分、ということになる。

自分の支配が及び切らない自分を、本当の翼は怖れている。その自分は、自分を夢から目覚めさせよう、と考えているからだ。問いは、翼を支配しようとする翼は何者か、だったが今やそれは、翼が支配したい、新たに生まれた翼とは何者か、という問いへと変わる。

新たに生まれた翼とは、夢の作用によって生まれた、嘘の翼だ。そして、それは本当の翼とは特異な関係にある。

嘘の翼は夢の自覚がなかったが、これは翼に限らない。他の家族も夢の中では、自分が夢を見ている自覚はなかった。だから本来なら一家全員が夢の自覚なく、夢の家族を演じ、そして翼以外の家族は一旦、目覚め、翼だけはそのまま次の夢に入り、再び一家全員が記憶を喪失して家族を演じる。それをずっと繰り返すはずだった。

特異というのは、翼だけが目覚めないことだが、そこには他の家族との重要な違いが生じる。翼は眠りながら夢を自覚している。夢の自覚とは覚醒した状態のことであり、現実のことでもあった。翼は覚醒しながら夢を見ている。夢を見ていることが、翼にとっての現実であり、夢の自覚ありとなしの自分が、同じ夢の領域に同時に成立している。

夢が同時に現実でもある。すると何が起こるか。夢を見始めると全員の記憶は消され、現実を忘れることになるが、夢を見終わると、全員は現実の記憶を回復する。それには今まで見ていた夢の内容も含む。しかしまた夢を見始めると、再び記憶は消される。こうして、現実と夢は交わらないようになっている。

だが翼だけは、現実が夢の領域にある状態だ。なので、現実に持ち越された夢の記憶を、再び夢に持ち込むことができ、かつ夢に干渉することができてしまう。いや、翼だけだったか。翼と同じように、現実が夢の領域にある家族がもう一人いるが、今は措いておく。

本当の翼は嘘の翼に、夢を自覚させようとしていた。嘘の翼は現実の記憶を持たないので、夢の必要性を知らず、夢から目覚めようとするからだ。しかし嘘の翼は、最初から夢から目覚めようとしていたわけではない。嘘の翼は夢を本当の現実と思い、詩織に抗われながらも、そこに新しい家族を成立させようとしていた。

それは詩織と和解した辺りで、翔によって引っくり返され、翔と颯太が入れ替わり、それが嘘の翼に前回との違いを気付かせる。前回との違いに気付くには、前回の記憶が持ち込まれていなければならない。

前回で本当の翼は、嘘の翼に干渉している。嘘の翼も、本当の翼に語り掛けるなどしている。ここが、本来は交わらないはずの現実と夢の接点だが、それに加えて翼が翔に強く関心を持ち、その翔が夢を引っくり返すことで、嘘の翼は本当の家族への関心を深め、それが他の家族へも波及していき、夢を揺るがすことになる。

ここで一つ、疑問が生じる。翔は夢から現実を排し、夢だけの世界の完成を目論んでいた。現実を排するために、時間の流れを一定の範囲に限定し、あるところで夢を引っくり返してやり直すことは、その目論みに合致する。

だが翔は、夢を引っくり返す直前に、翼に、笑っていられるだけでは駄目だ、と言っている。過去を知らなければならない、ということも言っていて、この時点での嘘の翼の考えは、どちらかと言えば翔寄りであり、わざわざ現実について注意を向けさせるようなことをする必要はないどころか、これこそが翔の目論んだ夢に致命的な穴を開けてしまっている。なぜ翔はここでこのようなことをしたのだろうか。

翔は、最初は翼以外の他の家族と同じく、耕三の手による夢の純粋な体験者の一人だったが、その後、耕三の部屋で夢の研究と薬を発見し、耕三とは違う夢の使い方を考えるようになる。それまでの翔は、終盤の翼のような、夢を都合よく家族をやり直すためだけのものにしてはならない、という考えがあった。

翔はその考えを翼に託しながら、薬を手にしたことで、かつての自分の考えを持つ翼を否定する者になる。翔はいつこのような転向をしたのか。翔はいつ薬を手にしたのか。

翔は夢の中で翼に、翔が父でよかった、と言われたことに感動し、夢の中の翼に会いたい、と翼が目覚めることを欲していた。この時点で翔はまだ、現実から切り離されて夢だけを見る昏睡を、否定する側だ。

昏睡から目覚めた後に翼は、中嶋と和解し、次に詩織とぶつかり合うものの和解し、夢に知らないはずの穴水が出てきたことに気付くと、颯太に、まだ夢は終わっていない、と忠告される。それから、耕三と幸恵が病院から家に戻り、夢がまだ続いていることが判り、颯太は、あいつを信じるな、と忠告する。

そして深夜に、開かないはずの耕三の部屋が開いていることに気付いた翼は、その部屋に入って、夢に関することを目撃し、不可解な眠気と夢を詮索することへの警告が始まり、美奈子が翼に何かの薬を飲ませていることが示され、幸恵に夢と警告について問い質すと、翼は颯太のことを思い出し、夢を見なくなる。

その後に幸恵は、耕三の部屋の鍵を翼に託して、薬を飲まされ昏睡する。ここまでで怪しいのは、深夜になぜか耕三の部屋が開いていた箇所だろう。

ところで、美奈子が薬を翼に飲ませる辺り、美奈子が翼に再び昏睡するように願いだしていることが窺える。しかしこの時の薬は錠剤であり、翔が扱っていたような液体とは違うようだ。恐らく、これは耕三の夢の薬ではなく、過食症の治療に通っていた美奈子に処方されていた、ただの睡眠薬ではないか。

そうなると、この時点では翔は夢の薬を手にしていたが、美奈子を唆してはいなかった、と考えられる。翔は美奈子には何も言わず、まだ翼を昏睡させるつもりもなく、ただ耕三を失って苦しむ幸恵を救うために、夢の薬を飲ませて幸恵を昏睡させた。

美奈子が眠ってほしいのは翼であって、幸恵ではない。家の経済事情を狂わす、突然の幸恵の昏睡に美奈子は苛立ち、翔は自分の手で実現した幸恵の昏睡を肯定し、それに対して美奈子は怒った。

もしかしたら翔は、この時に美奈子を怒らせたことの詫びとして、美奈子の願望を、夢の薬で叶えようとしたのかも知れない。

それはともかく、翔は颯太の不在を願い、美奈子とは違う妻を求め、幸恵を想って昏睡させた。翔は自分を承認されたいために、自分ではなく他人を変えたがってしまうようだ。それが家族を何度も壊す。そして、とうとう一ノ瀬家の食卓は壊れる。

この後、翼は一ノ瀬家を出て颯太のところで暮らし始めるが、残された美奈子はどんな心境だったか。一度は一家心中を企図した身だ。相当に弱っていたのではないか。それとも、悩みの種がいなくなって清々していたのか。恐らく、両方だ。

美奈子は良き家族を求めながら、家族を手に入れ、その関係が上手く回らなくなると、不機嫌になり、家族に無関心になる。しかしそれで家族が失われそうになると、途端にそれを回復したくなる。

美奈子は美奈子で、家族に対して、翔とは別の不器用さがあるようだ。そして、当人もそれは自覚していて、内心は自分自身に失望しかけていたのではないか。

一ノ瀬家の食卓が壊れて以降に、翔は美奈子を唆した。美奈子は一度は一家心中を企図し、そして事故後に翔と話し合い、死んでしまうのは間違いだ、と一家心中に対する答えを出している。でも、一緒に生きると家族は上手くいかない。一緒に生きられなければ家族の意味がない。どうしたらいいのか。

耕三は美奈子の一家心中への願望を察知して、美奈子の仕込んだ睡眠薬を夢の薬にすり替えた。美奈子にとって睡眠は、死を暗示するもののようだ。死を夢に。そう耕三は指し示している。しかし美奈子は、再び睡眠薬に頼りだした。翔は耕三の後を継いで、迷える美奈子を夢に導く。だがそれは、耕三が家族を導きたかった場所とは、少し違ったようだ。

死の代わりに、死んだように夢を見よう。現実の代わりに、夢の中で生きよう。夢は何度でもやり直せるから。自身の悪い癖で何度も家族を壊してきてしまった翔にとっては、それが家族の生きるべき正しい場所に思えてしまったのだろう。

話を翼に戻そう。翼は昏睡から目覚めた後、過去の関係に蓋をして仲のいい両親として振る舞う、翔と美奈子に馴染めず、かといって一人で夢だけを見てもいられなくなり、死を考える。そこへ同じく死を考える中嶋と再会し、二人は死を回避し、和解する。

ここは、翼が目覚める前の翔と美奈子の和解と、明らかに似せられている。そして、翔と美奈子の関係は、終盤での翼が克服すべき敵となっていた。終盤では、翼と中嶋ではなく、翼と颯太の組み合わせにはなっているが、翔と美奈子の関係を乗り越える何かが、ここには示されているはずだ。翼と中嶋、あるいは翼と颯太の関係は、翔と美奈子の関係とは何が違うのか。

子供同士と大人同士。同性同士と異性同士。取り敢えず思い浮かぶのはそれくらいだが、これらは関係がなくはないだろうが、あまり重要ではないように思われる。中嶋は翼と家族ではないから、夢を見ていない。颯太は翼と家族で、翼の夢にも出てきたが、颯太自身は夢を見ていたのか。颯太は事故前には薬を飲んでいないはずだ。

そういえば、事故は颯太の運転時に起きたようだが、なら颯太は一ノ瀬家と一緒に同じ病院に搬送されたのか。その辺りの一ノ瀬家と颯太の具体的な関係が作中で示されておらず、不明だ。これはこの作品の弱点だろう。

ついでに言うと、夢の中に出てきた颯太は翼を夢に閉じ込めようとしていたが、昏睡から目覚めた翼にどこからか忠告をする颯太は、夢に気を付けろ、ということを言っている。これらの颯太は海辺の町にいるあの颯太と同一なのだろうか。どうもこの作品の颯太の設定は、はっきりとしないところがある。

それは、設定が読者にはっきり示されない、ということではなく、そもそも作者の中で設定がはっきり定まっておらず、作品の連載中に揺らいでしまっているからであるように思われる。前半を見るに、颯太はじつは既に死亡しているような感じだが、後半では翼は家族外の複数の人々と共に、生きている颯太に接し、その後に一ノ瀬家に連れ帰っている。

翔は夢の薬で耕三を、夢の中で甦らせたが、翼はそれ以上の掟破りを犯して、颯太を現世に呼び戻しはしなかったか(まあ、死亡と明示した部分はないのでギリ、セーフではあるけども)。

颯太はその生死が、読者の観点からは曖昧な存在だ。しかしその曖昧さこそが、途中から中嶋に代わって翼の相棒となり、一ノ瀬家の核心部に共に潜って、翼が物語を閉じる役目を果たせるように支えられた、要因かも知れない。一ノ瀬家というもの自体が、何やら曖昧なもののようだからだ。

話を戻す。翔と美奈子、翼と中嶋あるいは颯太、そのどちらの組みも死の結論を却下し、そのためには夢に決着を付ける必要がある、というところまでは共通していて、そこまでは正しかったが、その後の結論が違ってしまった。なぜだろう。

中嶋は家族外の人物で、夢には関わっておらず、颯太も夢の家族に関わるよりは偽の家族を、海辺の町で独自に営んでいた。両者とも夢とは距離があり、翼も含めた三人がそれぞれの家族観に距離がある。そこでできるのが、客観的な評価であり、それでいいのか、という冷静な突っ込みだ。

颯太の営む偽の家族に翼は、それでいいのか、と思い、本当の家族の問題をほうって偽の家族の問題に構う翼に中嶋は、それでいいのか、と言う。何のために偽の家族の問題の周辺にいるのか。本当の家族の問題に向き合うためではないのか。

翔と美奈子は、同じ一つの夢を見ていた。家族だからだ。それは、同じ話をできるようにしてはくれるが、違う話は却ってできなくしてしまう。それでいいのか、と言ってくれる人がいなくなる。すると、どんどん悪いほうへと流れていってしまう。悪いほうとは、死のような夢のことだ。

終盤、夢の中で翼は、夢を繰り返して同じ家族をやり直すようなら滅茶苦茶をやって思い出させてやる、と宣言している。滅茶苦茶をやる、とは、それでいいのか、という突っ込みだ。それは、海辺の町で中嶋が翼にしてくれたことだし、翼が颯太やけんたにしたかったことだ。海辺の町でのことは、翼が一ノ瀬家に、それでいいのか、と言えるようになるための準備だった。

翼が一ノ瀬家に、それでいいのか、と言ってどうなったかを語る前に、颯太と偽の家族について語っておこう。夢の家族も偽の家族も、本当の家族に連なるものであり、偽の家族が何だったのかを語ることは、夢の家族や本当の家族とは何だったのかを語ることにも、繋がってくるだろうからだ。

偽の家族は、嘘の家族でもあった。嘘とは、本当の家族がいるにも関わらず、それとの関係を隠し偽り、本当の家族を装い合うことだ。血縁のない男女が一緒に暮らすことは、本当の家族の始まりでもあるはずだが、この偽の家族は本当の家族を否定するためにあるので、本当の家族にはなれず、しかし家族を演じていれば本当になっていくので、この偽の家族はやがて崩壊する運命にある。

偽の家族は、一ノ瀬家に失望して家を出て放浪しながら、家族への未練を捨て切れない颯太が、母の望むようないい子になれないことから母との関係の消去を願う、けんたを見付けることから始まる。血縁のない男女から始まるのではなく、血縁のない父子ないし兄弟から、この家族は始まっている。

颯太とけんたは、妻ないし母のいない偽の家族を始め、二人は文乃と出会う。文乃は、不満がなさ過ぎる家が不満だった、という奇妙な家出の理由を隠し、不幸な生い立ちを装って偽の家族に加わる。またこの文乃は、しばしば料理に甘味を加え忘れる、という奇妙な癖を持っている。

甘味といえば、この作品を読み通していれば、ただちに夢の薬のことが思い出される。けんたの母を演じる文乃は、甘味への意識が足りないが、けんたの父を演じる颯太は、「自然とふれあわない新感覚AI養蜂所の無添加はちみつ」なる奇妙な品を持ってきて、その不備を補う。颯太は颯太で、甘味への意識が変な方向に高い。

二人の甘味への意識は、どちらも極端で奇妙なものだ。甘味とは、一方でけんたや幼い頃の翼と、詩織がねだった、食べ物とも結び付いている。甘味は子供達が欲しがるもので、親が子供達に与えるべきものだ。そしてその味は、夢の薬の味と通じる。また、夢は死に近い、危ういものでもあった。

美奈子は、子供達のことを考えながら、子供達に甘い食べ物を与えてきた。父母を演じる颯太と文乃は、甘い食べ物で家族らしさを維持しようとしていた。甘い食べ物の管理と配分こそが家族の機能であり、親の機能であり、その苦労だ。

甘い食べ物は子供達を喜ばせるが、与え過ぎれば子供達の健康を損なうこともある。それは、後に文乃が感じ、颯太に伝えた、家族のよさと悪さの両面性ではないか。その結論に達した時、偽の家族は解消した。

偽の家族は、本当の家族からの避難所でありながら、家族とは何かを、本当の家族とは違う立場を経験することで考える場だった。また偽の家族は、夢の家族と違って実態があり、外部から客観的な評価を受けるものでもあった。

颯太の家族は、嘘で固められ、不安定で、最後は喧嘩を起こすことにはなるが、バイト先の人達や、けんたの学校の教員達からの評価は高かった。颯太は偽の家族の解消に失意し、偽の家族の象徴であるお揃いの服を捨てようとするが、翼はそれを引き止めている。

颯太の偽の家族は解消したが、それは偽の家族を正しくやり遂げたからだ。だから、それでよかったんだ、と翼は颯太に言っている。これもまた客観的な評価、冷静な突っ込みの一つだ。

翼は一ノ瀬家に、それでいいのか、と言える力を身に付けた。そして、かつては翼の憧れであり、一ノ瀬家を支えていた颯太を、すっかり成長した翼が引っ張って、一ノ瀬家に帰還しようとしている。だが、まだ偽の家族について話すことが残っている。けんたのことだ。

けんたはその母と共に、翔や美奈子と関わった、重要な子供だ。まさか作者は颯太の偽の家族を描くに当たって、前半にちょっと出した登場人物を、そのまま手抜きで後半に流用して持ってきたわけではあるまい。

翔は美奈子に拒まれた後、一ノ瀬家から距離を置き、けんたの家族に浮気し、事故後に反省し、けんたの家族から離れて一ノ瀬家に回帰している。その過程は、まるで颯太や翼のようだ。そうすると、事故とは偽の家族での喧嘩に相当するだろうか。

何にしても、翔はこの時、けんたの家族の中で何かを見付けてちゃんと一ノ瀬家に持ち帰ることができなかったために、美奈子と共に死のような夢に流れていくことになる。翔の失敗を繰り返さないために、颯太と翼は、翔が関わった、けんたの家族に再び関わることをやり直す。けんたや、けんたの家族とは何だったのか。

けんたの家族は、けんたの他に、けんたの母しかなく、その名字も名前も示されない。だから、けんたの家族としか呼びようがない。翔は事故前にけんたの家族と関わり、そのことが美奈子に知れて、事故の要因となる。事故後に翔はけんたの家族と決別するが、翼達の夢の中では、翔は一ノ瀬家から抜けて、一ノ瀬家のことを忘れて、けんたの家族の良き夫や父の位置に収まっている。

夢の中の美奈子はそれが許せないが、けんたを犠牲にしようと思うものの、それはできないまま諦め、翔を許して距離を置くことにする。けんたという存在があったことで、美奈子の、翔への許せなさは解消している。もしけんたという存在がなかったら、美奈子は翔を許せただろうか。美奈子が許せなかったのは、翔の何だったろうか。

美奈子は颯太を愛せなかった翔を嫌った。翔はけんたを愛せた。美奈子にとって、翔がけんたを愛せたことは、翔が颯太を愛せなかったことの確認でありながら、翔が血縁がなくても子供を愛せることの確認でもあった。

血縁がなくても翔がけんたを愛せたことは、逆に言えば、血縁があったから翔が颯太を愛せなかったことを、示しているのではないか。もし颯太が美奈子の連れ子だったら、どうだったろうか。颯太が優秀さを発揮し、一ノ瀬家の中心になったとしても、それは美奈子の、あるいは見知らぬ誰かの血の輝きであり、耕三の息子としての自分の血が否定された、とは感じず、颯太に嫉妬してその不在を願うこともなかったのではないか。

なぜ翔は、ああも颯太の優秀さを妬み、その不在を願わずにはいられなかったのか。翔はけんたの家族の家で、ここに来ると落ち着く、と言っていた。この翔は、夢の中の、もう一ノ瀬家から抜けた翔だが、この言葉は一ノ瀬家との対比として読める。翔は一ノ瀬家にいては、落ち着くことができなかった。

一ノ瀬家には、今や翔を嫌う、美奈子がいる。だからか? いや、そうかも知れないが、その前になぜ美奈子が翔を嫌いだしたのか、といえば、一ノ瀬家の中心となっていた颯太を愛せず、颯太が家を出ていくような事態を、翔が願ったからだ。

颯太が一ノ瀬家の中心になるまでは、翔は美奈子と上手くいっていて、何も問題はなかった。翔の一ノ瀬家での落ち着けなさは、颯太が一ノ瀬家の中心となっていたことと関わる。その落ち着けなさは、颯太の不在への願いになり、それが叶うと美奈子からの嫌悪が始まった。

美奈子は颯太がいなくなってから、翔の経済力の低さを詰るようになる。それは颯太の喪失以降に翔が失職したからではあるが、そもそも美奈子は翔の頼りない面をこそ愛しく感じていたはずだ。美奈子は心変わりしたのか。

翔は、耕三や美奈子が自分に向ける慈しみの眼差しの意味を取り違える一方で、耕三や美奈子が颯太に向ける眼差しに、自分には寄せられない期待を感じ取った。いや、正確に言えば、慈しみの眼差しの意味を変えられてしまった。

一ノ瀬家には慈しみの眼差ししかなかったが、颯太の出現によって、慈しみとは異質な眼差しが一ノ瀬家に持ち込まれた。それが実際には何であれ、翔はそれを欲してしまった。その異質な眼差しは、慈しみの眼差しの意味を、存分に浴びるべきものから、浴びることが惨めで恥ずかしいものへと転落させたからだ。

その異質な眼差しは、慈しみの眼差しの価値を下した。翔は、眼差しには価値の上下がある、と知ってしまった。それは競争と評価の原理であり、これまでの翔とは無縁のものであり、それと無縁でいた翔を美奈子は愛していたが、翔はそこから逸脱していくことになる。心変わりをしたのは美奈子ではなく、翔のほうだ。

だが慈しみの中で生きてきた翔に、競争と評価を勝ち抜く力はなく、焦りばかりを募らせ、最後には実力ではなく、競争の外で競争相手たる颯太の心を挫くことで、競争から降りさせ、翔は虚しい勝利を収める。そしてその代償として、一ノ瀬家の人々からの嫌悪を浴びることになる。

翔が一ノ瀬家で感じていた落ち着けなさとは、颯太の出現で知り、覚えてしまった、競争と評価の眼差しの中で勝利することへの焦燥と、卑劣な手段を使って勝利したことの代償と、様々な意味で美奈子を裏切ったことへの疚しさだ。

そうして翔は一ノ瀬家から離れて、けんたの家族と交わるようになる。そこには優秀な父も息子もなく、競争も評価もなく、慈しみの眼差しだけがある。そこでなら翔は、昔の翔に戻れる。落ち着くことができる。

翔が陥ったのは、血縁と優秀さの結び付きの呪いだ。翔が耕三の一人息子としてだけあった頃は、優秀でなくとも血縁の価値、家族であることを信じていられた。しかし優秀な颯太が出現すると、血縁と優秀さの結び付きの呪いに罹り、優秀であることが家族であることと結び付いてしまった。その中で翔はなおも家族であろうとし、一ノ瀬家を壊すことになった。

翔が一ノ瀬家から離れて、血縁のないけんたを愛するのは、優秀さからの逃走であり、競争と評価から降りることであり、血縁と優秀さと家族の結び付きを否定することだ。血縁がなくとも家族でいられるなら、優秀でなくとも家族でいられる。

翔は昔の頃の家庭を、一ノ瀬家の外にやり直し始めた。それは美奈子にとって、途方もない裏切りでありながら、美奈子と築いた従来の関係と似たものへの回帰でもあり、だから美奈子は翔を忘れたいけど忘れられないし、その家庭を壊したいけど壊せない。

チキンナゲットは、昔の頃の頼りない翔との関係を象徴する。美奈子は、それをどれだけ買って貪り食べても満たされない。翔がやり直した家庭に、美奈子が入る隙はないからだ。美奈子は翔を諦めて距離を取る。すると、家で待つ家族と共にチキンナゲットを楽しく食べられるようになる。

チキンナゲットは、昔の一ノ瀬家を忘れ、今の新しい一ノ瀬家を楽しく過ごすためのものに変わり、美奈子は翼に対し、改めて母らしさを獲得する。だが、その物語は夢の中の出来事だ。夢だから、それは容易に、なかったことになってしまう。

翔も美奈子も、夢の中では、互いにそれなりに良い結論に辿り着いている。けれども二人は、それを現実に生かせていない。互いに距離を置く、という夢の結論とは反対に、現実の二人は復縁し、一旦は仲が上向いたりするものの、一緒に悪い方向へと転がり落ちていくことになる。

夢と違って復縁し家族をやり直すなら、夢とは違った物語、違った結論が必要になる。だが二人が揃って夢から抜けてしまったために、これ以上は夢の中で、翼達だけで何かを見付けることは難しい。そしてここに夢の限界がある。

なぜ翔と美奈子が夢から抜けたのか。それは現実の時間が進み、それに伴って事情が変わり、夢が無効になりつつあったからだ。夢は事故の後の時間ではあるが、実態としては事故の前の時間であり、それを繰り返している。この夢の中で見付けたことは、進みゆく現実といずれ合わなくなる。

けんたの家族との関わりは、翔と美奈子の関係の問題に関わる。翔と美奈子は、夢でけんたの家族と関わり、一定の良い結論に辿り着いたが、現実の進展によって、その結論は古びる。夢も古びる。新たな結論を得るには、新しい現実に同期した、新たな夢が必要であり、古い夢からは目覚めなければならない。

夢は現実を変えるための手掛かりだが、現実の複製でもあるために、夢が古びようがそこに留まろうと願えば留まれてしまう。留まろうとしてしまったのが、昏睡によって現実から切り離されていた翼だった。

耕三の夢は必ず目覚めるもので、自分の願望を知った翼は夢の終わりに辿り着いてしまい、目覚めた。翼が眠り続け、夢に留まり続けるには、自分の欲望を知ろうとせず、何も知ってはいけなかったのだろう。夢の中の颯太が言っていた通りだ。

目覚めた翼は馴れない現実に億劫になるが、中嶋の助力に支えられながら、一ノ瀬家の問題が翔と美奈子の関係に根差していることを感じ取り、他ならぬ翔と美奈子の関係に振り回された颯太の営む、偽の家族に合流する。

偽の家族には、成長した、けんたがいる。それは、古い夢の家族が現実の時間の流れを受けて更新された、新しい夢の家族に相当する。翔と美奈子は、家族が別れる結論を採用しなくなった。颯太と翼は、翔と美奈子のために、家族が共に暮らし続ける理由を、見付けなければならない。それは、家を出てきた颯太と翼自身が、再び家に帰るための理由でもあるかも知れない。

古い、夢の家族から、新しい、偽の家族へ。そこでは何が更新されているのか。偽の家族は、颯太やけんたが自身の家族を否定しようとしたことで成立した、本当の家族の代わりであり、かつて翔が一ノ瀬家を離れて望んだものの、再現だ。颯太とけんたがしているのは、翔がしたことのやり直しだ。

夢の家族は一家全員記憶喪失だった。偽の家族は一家全員記憶封印だ。喪失はしていない。喪失した振りをしている。何もなくなってしまったことに向き合うのではなく、消し去りようもなく何かがあってしまうことに、どう向き合うのかが問われる。

何かがあることで、颯太達は嘘を吐く。けんたと文乃は、本当の家族はいない、と申告し、颯太は、けんたと文乃のその嘘を信じる振りをする。翼は颯太達の嘘に疑問を抱きながらも、嘘が作り出すものに居心地のよさを感じるようになっていく。

ところで、翔はけんたの家族と関係しようとした時、正直に、本当は妻子がある、と申告しただろうか。読者が見るのは、翔の浮気を目撃した美奈子の回想と、翔に妻子がないことになっている夢だけだ。現実でけんたの母が、翔に妻子があったことを知っていたかは不明だ。

妻子があるか、とは普通は尋ねるものでもない。翔はけんたの母と関係するに当たって、本当のことを言う必要も、嘘を言う必要もない。翔は、妻である美奈子に本当のことを言いにくい男だった。夢の中でも、美奈子にけんたの母との関係を訊かれて、うろたえるばかりだった。翔はけんたの母には何も伝えずに関係していた可能性が高い。

偽の家族を成立させる中核は、けんたの嘘だ。颯太の嘘は、けんたと文乃の嘘に依存しているし、文乃の嘘は、他人の同情を引ける程度で、自分のために家族を作らせるほどの強さはない。けんたの、母は自分を捨てていなくなった、という嘘は、緊急の保護を要請する。その強さに颯太が乗り、颯太にときめく文乃も乗った。

けんたと母と翔の家族の関係は、翔単独の不義理で成立していた、と思われる。一方で、けんたと文乃と颯太の家族の関係は、けんたと颯太の共犯で成立している。本当の家族を否定し、代理の家族を作るに当たって、翔は単に黙っていたが、けんたは積極的に嘘を言い、颯太はその嘘に乗って黙っていた。

けんたも颯太も翔化しており、けんたは翔より悪質になり、颯太はそのけんたに乗る形だ。颯太がけんたに強く出られないのは、けんたに嘘を言うことの罪を問えば、自身が黙っていることの罪も自分で問わなければならなくなるからだ。

颯太は聞き上手ではあっても話し上手ではなかった。颯太は表向きは大人として振る舞い、何も言えない子供を守る役割を果たしてきたが、颯太自身が何も言えない子供の一人であり、自分で自分を守ることは果たせていなかった。

翔は美奈子に対して詩織を庇ったが、自分を庇うことはできなかった。翔と颯太は似ているし、詩織と颯太も似ている。何も言えないことが、家族を不安定にし、壊す。家族が壊れてしまったことの原因は、自分が黙っていたことにもあったのではないか。

自身を免罪するために、颯太はけんたを免罪し、それを通じて、翔を免罪せざるを得ない。それは翔の失敗を見過ごすことだし、颯太自身の失敗を見過ごすことだ。それでは家族の回復は果たせない。颯太は大人として、家族を回復し、そこへ帰るために、けんたの嘘に何らかの決着を付けなければならない。

けんたはなぜ嘘を吐くようになったのか。けんたはどうやら、家族に関することになると、我を忘れて暴力に頼る癖があるようだ。それには、家族に父がおらず、母しかいないことが関わるのかも知れない。

母がいた頃は、まだ嘘を吐くようなことはなく、代わりに人に暴力を振るった。嘘よりは寧ろ自身の感情に正直過ぎるからこその暴力だった。そのことをけんたは、母に言葉で正直に伝えている。けんたは、単純に何も言えないような子供ではなかったようだ。

母はけんたの暴力を悲しみ、言葉を以てけんたを教えようとするが、けんたは聞けなかった。すると母は、暴力を以てけんたを教えるようになった。けんたはそれを疎んだ。けんたの嘘はここから始まった、と思われる。

けんたの嘘は、事実の誇張と演技で出来ている。けんたの母は病気の治療で家を空けたが、けんたを見捨ててはいなかった。母は家から出ていった、という事実を誇張しつつ、それを背景に、無垢で可弱い、しかし健気そうな児童を、けんたは演じだす。けんたが学校で異様に応援されるのは、誇張された事実よりは、演技ないし自己演出の成果だろう。

けんたは、表向きは暴力もなく、プリンを譲ってもらえ、裏では一方的に暴力を振るい、ありふれた家族を持つ者から搾取ができる、甘いと同時に黒い環境を作り上げた。それを支えるのが颯太と文乃だ。

けんたは母との暮らしを抜け出して、颯太と文乃との暮らしに移った。それは母の入院が契機になっている。入院によって、それまでの暮らしをなかったことにして、新しい暮らしを始める、というと、まるで一ノ瀬家の夢の家族だ。ならそこには、家族に対する、けんたの願望が見えるはずだ。けんたは何を願っていたのか。

けんたは暴力を振るってしまう子だった。母はそれには甘さではなく、暴力を返すことで向き合おうとした。そんな母から逃げ出し、嘘を吐き、颯太と文乃と暮らすようになると、暴力を振るっても怒られないどころか、プリンのような甘い報酬が貰えるようになった。けんたは、暴力を振るってしまう自分を、母にそのまま甘く受け入れてほしかったのだろう。

けんたは嘘の力で、その環境を手に入れ、しばらく享受していたものの、やがて自らそれを壊し始める。けんたはかずきに暴力を振るうが当初、それは宿題の答えを写させる用意をしていなかったことへの懲罰だった。しかしいつの間にか、それは理由なき暴力へと変わっていった。

貰えるプリンが多くなるわけでもないし、宿題も関係がないのに、けんたはかずきに暴力を振るう。理由がない、と言ったが正確には、けんたは家族絡みのことで暴力を振るっている。母がいた頃のように。

けんたは、なぜ家族絡みになると我を忘れて暴力を振るってしまうか、今も昔も、その理由が自分でも整理できていないはずだ。けんたは、暴力を甘く許してもらえる環境を手に入れても、暴力を振るってしまう苦しみから解放されない。

本当は暴力など振るいたくない。母を悲しませるから。しかし振るわずにはいられない。そうすることでしか表現できない心情があるから。けんたは単純に何も言えない子ではなかった。だが、言えない何かを確実に抱え込んでおり、その何かを言わない代わりに、暴力という形で発散している。

けんたは暴力を好きに振るえる環境を手に入れた。しかしそれでけんたは、却って苦しみを増してしまっている。その環境を手に入れる代わりに捨ててしまったものがあるからだ。それは母だ。けんたが言えない何かを言いたい相手とは母であり、その母がいなくなってしまっては、けんたはいくら暴力を振るえようが、満たされない。

母から逃げてきた、けんたの目の前には、母の代わりに颯太がいる。颯太は、けんたの暴力を、何かの間違い、で済まそうとしている。母はかつて、けんたがいい子だったらよかったのに、と言った。暴力を振るうけんたが何かの間違いだったらよかったのに、と。それは、いい子でない、けんたなんていなければよかったのに、と言っているに等しい。

けんたは母の望むいい子になれない。けんたは母の願いを聞くなら、母の許からいなくなるしかない。それがけんたなりの、少しでもいい子になるための決断だった。けんたは母から逃げたが、それは同時に、母の願いを成就させることでもあった。それで母の願いは叶い、けんたは、少しだけいい子になれたはずだった。

だが母の代わりに手に入れた颯太は、母と一緒に暮らすことを諦め、母を手放した、けんたになおも、いなくなれ、と言っていることになる。颯太に対する、けんたの怒りは、これ以上に何を捨てろと言うのか、という怒りだ。

けんたはいい子になれないが、いい子になりたい子だった。それを母は上手く理解してくれなかった。それで母は、一度はけんたがいなくなることを望むものの、後にけんたの暴力に、きちんと向き合うことを決め、暴力で応えたりした。

その応え方が正しいかどうかは置いておくとして、いい子になれないけんたを、どうにか抱き止めようとしてくれたのは母だけであり、颯太は母の間違いを繰り返そうとしただけだった。嘘の家族は、本当の家族に劣る。けんたはそのことに、気付いた。嘘の家族に意味があるとすれば、そう気付かせてくれることだ。

けんたは嘘の家族を引っくり返して、本当の家族に帰っていく。そして母に、なんでいなくなっちゃうの、と泣いて言う。その言葉は、翼達に見せた、邪悪で計算高い一面ではなく、翼達を騙すために見せていた幼さに近い。どちらがけんたの素顔か。どちらも素顔だろう。

けんたは母と衝突していた時、幼さよりは邪悪さに近いものを見せていた。この邪悪さに近いものは言い換えれば、素直になれなさであり、母から逃げた、けんたは、その素直になれなさの上に、過剰な素直さを作り上げ、演じ続けていた。そして今、母の許に帰り、素直になれている。

けんたが抱えていた問題とは、母に対して素直になれないことであり、そんな自分を意識しながら、暴力や邪悪さに走ってみたり、不自然で過剰な素直さを演じるしかないことだった。けんたは不器用だ。なぜ不器用か。幼いながら感性が鋭く、しかし幼いために、それを適切に表出する経験や技術を、まだ持たないからだ。

けんたは母が自分のことを持て余していることに、感付いていた。それが母個人の性質の問題ではなく、自分の性質の問題であることも分かっていた。しかしそれが分かっていたところで、けんたは自分をどうすることもできない。かといって、そのことを母に伝えて和解できるほどに成熟できてはいない。

けんたは、これ以上、自分も母も傷付けまいと、母から逃げた後で、生き延びるために嘘の力に頼った。けんたには嘘の才覚があり、嘘の力を支持する大人である颯太達と組んで、学校や世間の大人達を騙すことに成功する。

けんたは嘘の力で、子供ながらに大人の世界に繋がることができ、それがけんたを成長させた。裏で暴力を使って好きにやっていた、けんただったが、颯太への怒りを表出した後、暴力ではなく言葉で、大人である颯太と文乃を鋭く批判して、たじろがせている。

けんたは感性の成熟度に比して表現力が未熟だったために、暴力にしばしば走り、それが母も自分も傷付け、けんたは母から離れるしかなかった。誰かに離されるのではなく、自らの判断で離れようとしていた。

大人に匹敵する表現力を身に付けた、けんたは、もう暴力に走る必要はなく、だから母と離れる必要もなくなった。そして、その表現力で伝えた、母への素直な感情が、なんでいなくなっちゃうの、だ。とても子供らしい。感性だけが妙に大人びていたからこそ、子供らしいその言葉が、母に言えなかったのだろう。

けんたは母と和解し、嘘で生き延びる必要もなくなったために、颯太達と作り上げた嘘の家族も必要なくなる。颯太はそこで、いやに落胆する。颯太は嘘の家族に、本当の家族に代わる希望を見ていたからだ。

本当の家族を失った者のために、嘘の家族はあった。だがそれは、本当の家族を取り戻すための一時的な場所、という意味だった。

颯太は嘘の家族を続けようにも続けられない。嘘の家族は、けんたの嘘を柱にして成立していたからだ。文乃が残ってくれたとしても、続けられないだろう。血縁のない大人の男女が一緒に暮らしても、それは嘘の家族ではなく、新しい本当の家族でしかない。そこに嘘はなくなってしまう。

もしかしたら、文乃が颯太の姉か妹、あるいは母か娘になれば、嘘の家族は続けられるかも知れない。しかし文乃は、颯太に異性としての関心が強かったので、妻に相当する立場で、嘘の家族に参加していた。颯太と血縁があるように振る舞う、という嘘を吐く気は、文乃にはないだろう。颯太と性的な接触をすることができなくなってしまうからだ。

なぜ颯太は嘘の家族に執着するのか。文乃と二人で、新しい本当の家族を作ってもいいではないか。そこだって、古い本当の家族からの避難所にはなるはずだ。

颯太は血縁こそが家族の残酷さの根源と考え、血縁を排除したかった。であれば当然、妻に相当する文乃と、子供を作る気はないだろう。文乃は颯太に異性としての関心が強かった。しかし、けんたが抜けた後、新たに家族を続けようとする気も見せず、文乃は颯太から離れる。

それは、本当の家族に顔を見せに一旦、帰るだけのようで、第5巻のおまけ漫画を見ると、文乃は颯太との連絡手段を消そうとしている。文乃は颯太と、もうあまり付き合う気がない。けんたが抜けたところで、颯太の異性としての魅力は、陰のある部分も含めて変わりはしないだろうに、なぜだろう。

颯太は子供を作る気はなかった、と思われる。では、文乃は子供が欲しかったのか。しかし文乃は、甘味への意識が低かった。甘味とは親の、子供への意識を象徴していた。文乃は子供が欲しかったわけではない。颯太と性的な関係を結びたかっただけだ。

颯太は、血縁の発生を怖れて、文乃の性的な要求に応じたがらなかったのではないか。颯太は父ないし母の代わりを務めることに熱心だったが、夫を務めることには関心がなかった。颯太は今も、頼りになる兄の域を出ていない。親の代わりにはなっても、父そのものや夫といった大人にはなれない。颯太はまだ、精神的に、誰かの子供のままでいる。

嘘の家族とは、夢の家族と同じく、颯太が父という大人になれる場所だ。言い換えれば颯太は、夢か嘘の中でしか大人になれない。颯太が大人になれないのは、自分を傷付けた何かに執着しながらも、それに向き合うのを躊躇しているからだ。

颯太は詩織やけんたがいれば、彼女らに代わって大人を務めることができる。大人とは、自分が言いたいこと、言うべきことを言い、状況を変えていけることだ。颯太は年少者のために大人を務める間は、自分が子供のままである問題から目を逸らすことができる。

けんたは嘘の力で大人達と渡り合い、自身のための表現力を身に付けて、嘘の家族から出ていった。颯太はけんたの表現力を支えていただけなので、颯太自身のための表現力は何も変わっていない。一ノ瀬家を出た時のまま、あまり変わっていないだろう。

颯太は自分の表現力の未熟さを放置して、同じく表現力の未熟な年少者を利用し、大人の代わりを務め、本当の大人になることを先送りにしていた。颯太は嘘の大人でいたい。嘘の大人でいれば、本当の大人にならなければいけないことを誤魔化せるからだ。

本当の大人になることとは、本当の家族と向き合えることだ。颯太はそうしたくない。大人になりたくない。いつまでも、嘘の大人のまま、子供のままでいたい。

けんたを失ったことで颯太は、嘘の大人を続けられなくなり、夫など務まらない、ただの子供に戻らざるを得ない。だから大人の異性を求めていた文乃は、颯太に、言いたいことを言えるようになったらいい、大人になったらいい、と伝えて、颯太の許から去るのだ。

文乃とは何者だったろう。文乃は、何の不満もない家族が不満で嘘の家族に加わる、という奇妙さと、甘味を加え忘れる癖、という奇妙さを持っていた。甘味を加え忘れるのは、親になることの意識の低さを象徴しており、そう考えればそちらの奇妙さは解消する。

問題は、何の不満もない家族が不満、という奇妙さだ。この作品の登場人物は、翼達は言うに及ばず、中嶋もけんたも、文乃の友人も、家族に何らかの問題を抱えている。家族という問題こそが問題であり、しかし作品の外の、現実にある、どの家族も、一ノ瀬家ほどではないにしても、多少は何かしらの問題を抱えているのが普通だ。

作品内に照らしても、作品外に照らしても、文乃の家族は異常だ。しかしそれは文乃の家族の情報が、主に文乃の証言によってのみ語られるからで、本当は何かしらの問題を、ちゃんと抱えているのかも知れない。

そうだとすれば、文乃の感覚だけが異常で奇妙ということになる。あるいは文乃が家族のことで何かしらの嘘を吐いているか、だ。

文乃は嘘の家族に必要だっただろうか。嘘の家族は、颯太とけんたの二人で始められた。そして、けんたが持っていなかった父の代わりも、けんたが手放した母の代わりも、それを務めているのは颯太だ。文乃が必要と思われるところは、とくには見当たらない。

では、文乃なしに嘘の家族は成立したか。嘘の家族とは、本当の家族の代わりであり、本当とは、血縁を意味していた。血縁がなくても家族らしさは作れる、と誇示するのが、嘘の家族の目的でもある。疑似の父子だけでも一応、それは可能だが、疑似の母がいれば、より強固に示せる。

家族らしさの演出のために、父と母が揃っている必要があったし、学校や世間からの信用という点でも、文乃は必要だった。

もう一つ、嘘の家族はけんたが文乃の嘘を暴くことで、崩壊を早める。嘘の家族は嘘で結び付いていると同時に、それが家族を解消するための材料となっている。けんたが自らの口で嘘を暴いていくことが、けんたが成長し、表現力を身に付け、嘘が必要なくなったことの実演となる。

そして、嘘を利用して大人になれた、けんたの手前で、嘘に縋って大人になれず、まだ子供のままだ、と颯太を振って宣告するのが、文乃の最後の務めだ。

文乃は最終的な家族らしさを司り、男だけの嘘の家族に、それをもたらしたり、それを取り上げたりする神秘的存在で、だからその出自も神秘的であり、文乃がしているのは、男達が大人になれたか否かの裁定であり、その裁定に叶った男は性的な相手として認められ、それは本当の血縁の始まりとなる。

文乃は母以前の女を象徴する。これから母になる女と言ってもいい。だが女は、一人では母になれない。自分を母にすることのできる、異性が要る。文乃が甘味を加え忘れ、親としての意識が低いのは当然だ。彼女はまだ誰の本当の親でもないからだ。

一方で、甘味に対して妙に意識だけが高い颯太がいた。彼もまた誰の本当の親でもない。親にならない内から意識だけが高い颯太を批判する存在としても、文乃はいる。親を気取るには先ず大人になれ。そして、嘘は大人になるためにあるのであって、子供のままでいるためにあるのではない。そう文乃は、颯太に突き付けている。

女は男を大人にする。あるいは大人かどうかを裁定する。女は母となって血縁の源となり、男に父の立場を与え得る。文乃は母になり得る女として、颯太に、父になり得る大人の男としての資格を、認めなかった。

この作品は、というより作者がこれまで描いてきた作品の多くは、しばしば家族の問題を扱っている。だがそこには、性的な問題も隠されていたように思われる。性的というのは、性行為に関することよりは、性的な存在になることのほうであり、つまり、子供から大人になることだ。

「家族とは何なのか」という問いは、「家族から生まれ、やがて家族を作るかもしれない、自分とは何なのか」という問いや、「いつから自分は家族を作れる大人になるのか」という問いに繋がる。翔も颯太も翼も、「家族を作れる、大人になることとは何か」という問題を与えられて、それぞれにあれこれ振り回されている。

誰に振り回されているのか。この作品の女達に、あるいは、この作品を作る者に、ではないだろうか。

颯太は大人にはなれなかった。そんな颯太を引っ張って翼は一ノ瀬家に帰還しようとしている。颯太はそれを渋っている。翼も詩織もそれなりに成長していて、颯太が二人を引っ張る大人として振る舞える余地は、狭くなっているだろうからだ。まるで翔のような恐怖に、颯太も陥っている。

翼は颯太を今や引っ張るまでになっている。だが翼にだって、とくに何か策があるわけではない。大人になれたというわけでもない。なぜ颯太と違って翼は、一ノ瀬家への帰還を怖れないのか。颯太は大人になれなかったことから、帰還を渋っている。翼は、大人になれなかったからこそ帰還することに、希望を感じている、と思われる。

翼と颯太はいつの間にか、翔の夢の支配下に落ちる。そこでは美奈子と共に、新たに詩織も、翼と颯太を夢の中に留めようとするようになっている。翔は女達に、夢があれば理想の家族になれる、と唆していた。ここで言われる、理想の家族とは何なのか。

互いに傷付け合うことなく、笑顔を交わし合う関係、というのが、大体の共通の理想像だろう。そして、それを叶えた時、翔は大人になれたと思える。女達の理想が叶えられることが、翔にとっての大人だ。女達の理想とは、幸恵にとっては耕三の帰還、美奈子と詩織にとっては颯太の帰還だ。それはどちらも、失われた理想の男の帰還だ。

一ノ瀬家は、理想の男の喪失で、壊れていった。家を壊すのは主に美奈子だ。美奈子は頼りない男である翔を愛することができた。そして、頼れる男である颯太も愛していた。しかし翔と颯太の相性が悪かったために、どちらかが家を出なければならず、颯太が出ていって、美奈子は狂いだした。そうして美奈子は、詩織や幸恵にも苛立つようになる。

一ノ瀬家には理想の男が複数いる。というより、一人の理想の男と、彼を継承しようとする男達がいる。耕三と、翔、颯太、翼だ。理想の男は、夢を見させる力を持っている。一ノ瀬家で起きたのは、理想の男が持つ、夢の力の継承を巡る事故だ。

夢は家族と結び付いている。夢の力を持つ耕三は、幸恵に理想的な家族を作ってあげることができた。その息子である翔も、頼りなくありながら、美奈子に理想的な家族を作ってあげることができた。しかし更にその息子である颯太が、大人の年齢に達しようという時、不具合が起きた。

翔は夢の力を耕三から受け継ぎながらも、その性質が違った。耕三は話の才能があったが、翔は話の才能がなく、その代わりに絵の才能があった。この話や絵の才能こそ夢の力であり、表現の力でもあり、想像の力のことでもある。

美奈子が話下手な翔を愛し、家族になろうと思えたのは、作中には出てこないが、恐らくは翔の絵の才能に惚れたからだ。まるで耕三の喋りに惚れ惚れする幸恵のように、だ。

颯太は、耕三と翔から、話の得意不得意、絵の得意不得意を全て同時に受け継いでしまった。前者は、自分のことは上手く話せないが家族のことは上手く話せる才能として。後者は、写真は上手くないが写真によって家族を上手くまとめられる才能として。

翔にとって颯太は、耕三にあって自分にはない才能と、耕三になくて自分にはある才能の、両方を備えているように感じられた。耕三が颯太の写真を趣味として軽んじるのは、翔の絵の才能と対比しているからだ。そして翔は颯太の写真の力を、自分の才能を脅かすものとして怖れ、その二つが合わさって颯太のカメラを壊すことになった。

なぜ翔は颯太の才能が自分と被ることを怖れるのか。才能とは夢の力であり、夢の力が理想の家族を作るからだ。夢の力が失墜すれば、家族も失われる。颯太の才能の出現は、自身の才能の価値を低下させ、家族を失わせかねない。

男達の夢の力は均衡でなければならない。翔の目には颯太の才能は過剰に映った。話の才能があり、絵の才能もある。実際にそれらはそれぞれ半分欠点を含むので、総量としては同程度なのだが、その欠点は本人以外は気付きにくい。

耕三も翔も颯太も、夢の力は均衡しており、本当は何も問題ないはずが、耕三の態度と翔の疑心暗鬼が、先立って颯太の才能を壊し、それが実際の夢の力の不均衡を招き、家族を崩壊させた。

夢の力の一部を失った颯太は、家族から出ていかなければならず、颯太の夢の力を失わせた翔は、夢の負の力を帯びることになり、翔が家にいる限り、颯太が夢の力を取り戻そうが家には帰れず、家族は復活しない。

こうして翔は夢と家族を壊す者となって、家族から、特に美奈子から嫌悪を向けられるようになった。それで翔も家を出るが、それが家の崩壊を更に促し、家族は一家心中へと向かうが、そこに原始の理想の男である耕三の、夢の力が発揮される。

夢が壊れることで、家族は死へ向かいだした。だから夢とは死を遠ざける力だ。死を死ではなくす力、死を別の何かに変える力と言ってもいい。家族は壊れ、みんな死ぬところだった。その死は耕三の夢の力で遅延され、家族をやり直すための不思議な時間の始まりになった。

ここで残っていた、夢の力の継承者である、翼が重要になる。翼も夢の力の継承者なら、耕三達のような才能があるはずだ。翼には何があるか。

翼には絵の才能はなさそうだが、カメラに関心がある。そして颯太の壊れたカメラを拾って修復してみるものの、機能は回復しない。だが翼には耕三のような、プラネタリウムへの関心と、中嶋と関係を積極的に結んでいける話の才能がある。幸恵の感じる通り、耕三に一番近いのは翼だ。

だが翼にも、不可抗力ではあるが、欠点があった。翼が話の才能を発揮できていたのは、小学生の頃までだ。中学生に上がる頃には颯太はカメラを壊されて家から出ていき、家から夢の力が失われ始め、翼は家族と話ができなくなっていき、中嶋との仲も拗れていく。

翔も颯太も夢の力を失いだしたのは、身体の性的な成長を済ませた年齢からだ。しかし翼は、これから身体が性的に成長しようという年齢で、夢の力を失った。翼だけは身体が子供だった時代と、夢の力があった時代が結び付いている。

翔も颯太も身体は大人だが、心は子供のままだった。それはそれぞれの夢の才能が、心の幼さを保存したままに大人になることを可能にしたからだ。だが翼だけは大人になるに当たって、夢の才能に頼れず、心が幼いままであることを許されない。

夢の力の継承者達は、心が幼いことが宿命付けられている。だから大人になるに当たって、彼らは夢の力を必要とする。翼は一人、夢の力なしに、幼い心を剥き出しにしたまま、大人になっていかなければならず、それを怖れて翼は、耕三の夢の中にずっと留まっていた。

だが翼は夢の終わりに辿り着き、耕三の夢から覚めてしまう。夢の力がないまま、成長しつつある身体に翼は戸惑い、死を考えるが、中嶋の存在がそれを止めさせる。夢は死を遠ざける力でもあった。だから中嶋の存在は翼にとって、夢に相当する。

理想の男達にとって夢の力は先ず、家族を作る力だった。家族とは、血縁を生み出すこと、男女が性的に結び付くことが始まりになる。だから夢の力とは、女達を夢中にさせる、男達の性的な魅力のことを言ってもいる。

耕三は話の才能で幸恵を夢中にさせ、翔は絵の才能で美奈子を夢中にさせたと思われ、それぞれ家族を作った。颯太は詩織を夢中にさせたが、詩織が妹であることに加え、詩織の年齢が幼過ぎたために、これは新しい家族を作らなかった。もし颯太と詩織が、翼と詩織のような年齢差だったなら、ちょっと危うい関係になっていたかも知れない。

颯太はカメラの才能を壊されて家を出て、文乃と出会って夢中にさせ、偽だが家族を作った。だが颯太は夢の力の一部を奪われている。颯太は文乃を何によって夢中にさせたのか。

本来であれば文乃が颯太に夢中になった結果として家族が作られるはずが、ここで颯太は先に、文乃なしに、けんたの嘘の力を借りて、けんたと家族を作ってしまっている。

文乃は自分の出自を恥じていた。颯太の偽の家族に加わるために、出自を偽り、密かに望んでいた別人生の人間を、文乃は演じることができるようになった。言い換えれば、そこには文乃の望む役が用意されていた。文乃はそれに、夢中にさせられた。

颯太が文乃に用意したのは、母役が欠けた、不完全な家族だ。母なしに家族を作る力、そういう家族を作れるほどの、嘘を上手く取り扱う力が、失ったカメラの才能に代わって、颯太が身に付けたものだ。そしてそれはモニターと結び付いている。

颯太はしばしば、モニターだらけの場所から翼に語り掛けた。翼が颯太の行方を知って会いに行く切っ掛けも、家電販売店の店頭に並んだテレビ、つまりモニターだった。颯太はカメラに代わってモニターを手にした。カメラからモニターへ。それが何を意味するか。

カメラとは私的なメディアで、家族の中で撮り、主に家族だけが観るものだ。テレビとしてのモニターは私的範囲、家族の範囲を越え、家族の外に映像を届けるメディアだ。そしてそれは、ありもしない家族をまるで本当にあるかのように、写真より強い説得力を伴って、世の中に流布する装置でもある。

颯太はモニターの中に収まる家族を作って、その理想的な像を、外に向かって流布した。それは学校や世間に届いて承認され、遠くなった一ノ瀬家にまでも届いた。颯太はそうして、夢の力の在り方を変えてしまおうとした。

夢の力は本来、女を夢中にさせ、男女を結び付け、血縁を作り、本当の家族を作る力だった。颯太はそれに逆らい、血縁を含まない、偽の家族を先に作り、それを以て女を夢中にさせた。そこでは男女は性的に結び付かない。ただ父母という親の役としてのみ結び付く。颯太はこうして、家族から身体的な性という要件を排除して見せた。

なぜ颯太はそんなことをするのか。それは颯太が夢の力を奪われ、女を夢中にさせることができなくなり、そのままでは家族を作れない存在になってしまったからだ。

夢の力の継承者達は、心が幼いままに、いかに大人として振る舞い、家族を作れるかを試されている。そして、そこから逃げ出すことはできない。彼らこそは、彼らが夢中にさせなければならない、女の願望が生み出した存在であり、彼らの夢の力は、女から託されたものだ。

耕三は幸恵を夢中にさせ、翔が生まれた。翔は成長して美奈子を夢中にさせ、颯太が生まれた。颯太が成長した時、問題が起こった。もし颯太が子供のままか、翔が子供のままで物語が終わっていたなら、問題は起こっていない。

この作品は、物語が度を越えて続けられ場合の、女が夢の力を託して生み出した理想の男が、女の身体によって再生産されることの問題を描こうとしている。男達はそれぞれ夢の力を持って生まれてくるが、それぞれの夢の力は少しずつ違っている。というより、以前の男と夢の力が被らないようになっている。被るにしても力は調整され、段々と制限されていっている。

翼は耕三と似た夢の力を持っていたが、それは小学生時代までのものに制限されてしまっている。なぜ男達の夢の力は、被ってはいけないようになっているのか。夢の力とは女を夢中にさせるネタであり、ネタが被ることは許されないからだ。

男性向けにせよ、女性向けにせよ、ある性別向けに制作された作品には、複数の異性が登場するのが常だが、その複数の異性にはそれぞれ特徴的な何かが持たされていて、それが被っていないのが常でもある。

登場する男子が全員、お兄ちゃん属性、というのはあり得ない。そういう企画としてなら、もしかしたらあるかも知れないが、それ自体が一つのネタであり、そういう企画が連続して世に出ることはないだろう。まあ、そこら辺はその時代の消費者の要望次第だろうが。

何にせよ、一ノ瀬家とは、消費者としての女の願望の連続体でありながら、同時に、その女の願望の結実たる、夢男子の連続体でもある。そこで翔が颯太に嫉妬するのは、颯太が被った属性を持ち、更には被らない属性をも持ち合わせていて、なおかつ若い、最新のコンテンツだからだ。

一ノ瀬家は女の願望を表しているが、女の願望の事故も表している。一ノ瀬家に、颯太という、万能に見える最新の夢男子が現れたとしても、一ノ瀬家の女達は古い夢男子である翔を捨てるようなことはなかった。古いのは古いの、新しいのは新しいので、個別に愛し、楽しみ続けることができた。

だが、女を夢中にさせるために、女から生まれてきた、夢男子からすれば、それは気が気でない。女に捨てられる恐怖に駆られた翔は、自分と被る颯太の夢を壊し、夢を壊された颯太は颯太で、一ノ瀬家にいられなくなり、家の外でどうにか夢の力の代わりを手に入れようとする。

女から生まれてきた夢男子は、夢の力を失えば女との接点を失い、女との接点を失えば生きてはいけない。そういう夢男子達が一つの家に住めば、夢の力とその価値を維持するために争いだす。夢男子を望む、世代の違う女達だけが一つの家に住むのはいい。彼女らが世代の違う夢男子達と共に、一つの家に住んではならなかった。

家に住むこととは、家族を作ることで、家族を作ることとは、女が子を生むことだ。ここには女性向けコンテンツの限界が示されてもいる。男性向けコンテンツの男性主人公は複数の異性に、同時に自分の子を生んでもらうことができる。女性向けコンテンツの女性主人公は複数の異性との子を、同時に妊娠して生むことはできない。

しかし時期をずらせば、一人で複数の異性との子を生むことは、できないこともない。が、それは相当の無茶だ。一ノ瀬家とは、複数の夢男子と同時に家族を作るために、女性主人公も複数に分割し、世代をずらして一つの家族とし、一つの家に住まわせ、一つの物語とし、その無茶を実現しようとしたものだ。

一ノ瀬家の「大罪」とは、その無茶を実現したがった女の願望のことを言っている。一ノ瀬家は、一つの女の身体であり、幸恵が居眠りする耕三を拾い上げることから始まった、一つの身体の中に、複数の想像的な身体を分割して持ち、その身体それぞれで夢男子と交わって新たな夢男子を生み出し、そうすることで複数の夢男子と同時に家族を作る、という女の無茶な願望を成就させる、壮大な計画だった。

だがそれは当然のように破綻する。複数の夢男子の間で、夢の力、女を夢中にさせるネタの、被りを巡って争いが起き、夢男子が夢の力を喪失してしまう事態になり、女は夢男子に夢中になることができなくなり、一ノ瀬家という計画は頓挫する。

美奈子は一家心中によって、全てを諦めて無に帰そうとしたが、原始の夢男子である耕三は、夢の頓挫の物語を、夢の力で、家族の再生の物語に変えようとした。それに呼応して、他の夢男子も、どうにか家族を再生させよう、とそれぞれが動きだす。夢男子の根底の役割は、女の願望を擁護することだからだ。

だいぶ遠回りをしたが、話はまた翼に戻る。夢男子達は心が幼いままであることを定められていた。夢男子は女にとって常に、夫でありながら、息子でもあるからだ。彼らは子供のままに成熟するために夢の力が、女から与えられていた。翼はその夢の力を剥奪された状態で、大人になろうとしている。

そこで翼を支えるのが中嶋だ。翼は、中嶋とは夢の力がまだあった時代に関係を築き、夢の力を失うと関係が拗れ、一家心中未遂を経て、夢から覚めて成長した身体になって中嶋と再会し、関係を回復する。

夢の力とは、女を夢中にさせる力だった。翼のそれは、本来は詩織のためにあった。詩織との間に次世代の夢男子を作るためだ。しかし詩織には、翼より大きい存在としての颯太がいた。だから翼の夢の力は、全てが詩織だけに向かわず、中嶋にも向いた。

ここで夢の力の一部が、性に限定されない、家族にも限定されない形に変わって、中嶋の中に温存された。成長して夢から覚めた翼はそれを回収し、それで詩織との関係を回復することで、夢の力の意味を、性や家族とは異なるものに書き換え始めた。

その後、翼は颯太のことを巡って美奈子と衝突し、一ノ瀬家の食卓が壊れる。これは、女の無茶な願望の成就のための、一ノ瀬家という計画の、破綻であると同時に、翼が持ち帰った、一ノ瀬家を新た意味に書き換える可能性の表れでもある。

翼は颯太を追って福井に向かう。颯太は颯太で、血縁や性を抜きに成立する家族を模索していた。それは、翼の得た新たな一ノ瀬家の回答に近い。だがそれは破綻してしまった。結局、颯太は夢と家族を結び付けようとしてしまったからだ。

夢とは、夢男子を子供のままにしておく力でもあった。精神的に大人になったけんたと、颯太に大人の男になることを求める文乃に、それは否定された。落胆する颯太を引っ張って、翼は一ノ瀬家への帰還を進める。一方で、一ノ瀬家では、幸恵も美奈子も詩織も、翔の唆しに落ちていた。

女の無茶な願望を成就するための一ノ瀬家は、既に破綻しており、それを全てご破算にしようとする美奈子を留まらせたのが耕三の夢の力だが、それは一ノ瀬家の死を遅延させただけで、根本の解決にはなっていない。解決には、一ノ瀬家の新たな意味が必要だ。

翔は耕三の夢の力を利用して、一ノ瀬家の死の遅延を無限に延長する、という結論を出した。死の遅延が無限に延長されるなら、一ノ瀬家の新たな意味も必要なくなる。そして、その無限の繰り返しの中では、一ノ瀬家がどんなに破綻しようがやり直してしまえる。

そこで詩織は颯太との関係の書き換えを目論んでいる。詩織は颯太の代わりに穴水と付き合ったが、それは、頼りになる兄のいない寂しさを埋める行為よりは、詩織が本当は颯太に何を望んでいたかを象徴する行為だったように思われる。

詩織は異性としての颯太を求めていたのではないか。颯太という夢男子と交わるために。颯太との間に新たな夢男子を生むために。

詩織の願望を、美奈子は補助する。颯太を巧妙に口説き、子供の心を剥き出しにさせる。詩織は颯太と年齢差があるために、性的関係に発展することは難しかった。颯太はもう大人を装うことをやめている。兄妹だから、と常識を踏まえて拒むこともないだろう。そして、兄妹で交わることがどんなに無茶で背徳的であっても、それはいくらでも、なかったことにできる。

一ノ瀬家は無茶を内包していた。複数の夢男子と、同時に結ばれて子を生み、同時にその妻になり母になる。美奈子が終わらせかけた、無茶な一ノ瀬家を耕三は延命し、翔は強化した。何でもありの夢の中なら、一ノ瀬家の無茶も、ありになる。だがそれは、不毛な結論だ。

夢とは、翼の言う通り、現実逃避の手段だった。何のためにそれがあるのか、といえば、現実と上手く折り合いを付けるためだ。現実にきちんと帰るからこそ、夢に価値はある。しかし翔と女達は、破綻した夢を延命させるために、現実から撤退しだした。それは一時的な逃避ではなく、永久的な逃避だ。それは死と変わらない。

性と家族とは異なる夢の力を身に付けた翼は、詩織と颯太が交わろうとする無茶な夢の中で、それとは異質の無茶を始める。それは詩織と颯太を振り向かせる。夢の中で無茶が許されるなら、無茶勝負で、女の無茶な願望のほうを負かして引っくり返し壊してやろう、と翼はしている。

颯太は翼の憧れだった。だから颯太の後を引き継いで、壊れて捨てられたカメラとアルバムを拾って修理し、泣いてばかりの詩織にぬいぐるみを与え続けた。だがそれは間違いだった、と翼は今や考えている。それは詩織の、颯太への無茶な恋慕を温存するだけだったからだ。

詩織に必要なのは颯太ではない。颯太の話はつまらないからだ。颯太は大人の男にはなれないし、だから夫にもなれなければ、父にもなれない。父になれないのなら、夢は続かない。颯太との関係は、熱に浮かされて見た、夢に過ぎない。夢を見終わったら目覚めなければならない。また新しい夢を見られるために。

新しい夢を見続けられるのは、現実と上手く折り合いが付いている、ということだ。古くて破綻した夢は、それが楽しかったのだとしても、潔く決別しなければならない。翼はカメラを壊し、文乃のように颯太の不能を、文乃とは違って颯太だけでなく、一ノ瀬家の女達に向けても告げる。

颯太とは、一ノ瀬家が内包していた無茶、かつては楽しかったが今は破綻した、もう目覚めるべき夢の、象徴だ。

女に夢を見させるのは夢男子の役目だった。だが、迷い込んだ夢から女をきちんと目覚めさせるのも、古典的な夢男子、王子様の役目でもある。しかし翼は、性と家族から離れているから、女達にキスはしない。しないが翼の振る舞いは、女達を夢から目覚めさせていく。

先ず詩織が目覚め、目覚めた詩織が美奈子と話して目覚めさせ、目覚めた美奈子が翔と話す。もうこの夢は必要ない、と。だが女達が夢を必要としなくなったら、夢男子はどうすればいいのか。翔は怯え、まだ夢を続けようと訴える。その頬を、原始の夢見る女だった幸恵が引っ叩く。

夢から覚めても現実があるのだから、夢が必要なくなっても、翔達が必要なくなるわけではない。夢が終わったら、夢男子は現実男子として、女達と関わればいい。女達は現実の伴侶としても、男達を必要としているのだから。

夢から目覚めた女達が、夢を片付け、まだ少し夢を引き摺る男達を現実に呼び戻す。夢の力の被りを巡って争った翔と颯太は、現実の男子同士、あるいはただの父子同士として再会し、目覚めの挨拶を交わす。

その後、颯太は再び一ノ瀬家を出ていこうとするが、翼は旅行を提案して一ノ瀬家をまとめ、颯太と一ノ瀬家の距離を適切にする。耕三が望み、翔も颯太もできなかったことを、翼は果たした。しかしそれで綺麗には終わらず、颯太に帰りの車の運転を託したことで、事態は最初に戻ったようになる。

翼はここで、事態が最初とは確実に違っていることを示す。詩織はそれに強く不満を示し、否定的な意見を翼に伝えている。最初と違って、颯太は取り戻され、退院後も颯太は一ノ瀬家に留まるようになっている。詩織は何が不満あるいは不安なのか。

この作品は、詩織が涙と共に兄を呼ぶことから始まった。詩織は兄に何を呼び掛けたかったのか。詩織は兄である颯太がいなくなったことで家族が壊れてしまったから、残ったもう一人の兄に助けを求めたように思われる。詩織は、颯太を取り戻して家族を元通りにしてほしかったのではないのか。

一ノ瀬家が、女と夢男子を結び付け、女が新しく自ら夢男子を生み出す場であるなら、詩織は特異な存在であるように思われる。美奈子は一ノ瀬家の外から来た女なので、翔と交わっても問題ない。だが詩織は夢男子の妹であり、交わると問題がある。もし一ノ瀬家を繰り返し続けていくなら、詩織は一ノ瀬家の娘として生まれてはいけなかった。

颯太を取り戻し、家族を元通りにしても、詩織は颯太と交わることはできない。勿論、翼とも、だ。従って、詩織にとって一ノ瀬家の問題は解決していない。

べつに兄妹間で交わったとて、それ自体は罪とは言えない。互いに愛し合っているなら、家の中で好きにすればいいのだが、問題は一ノ瀬家が、夢男子を求める女が夢男子と交わって、新しい夢男子を生み出すことが定められた場だ、ということだ。

もし血縁同士で交わることを許せば、兄妹間どころか母子間での交わりに発展する。実際、颯太と美奈子は夢の中ではあるが、夫婦になった。二人はまさか交わってはいないだろうが、そこに近付きつつあった。

一人の女が夢男子と交わり、夢男子を生み出し、その夢男子とまた交わる。そしてまた夢男子を生み出す。母子間での交わりも、それ自体は罪とは言えない。だが、それが一ノ瀬家のような宿命なのだとすれば、話は違ってくる。

近親交配は、現実には遺伝学上の危険が伴う。だが夢男子との関わりが本質である一ノ瀬家の近親交配は、現実ではなく、空想の領域の問題だ。夢男子は女を夢中にするコンテンツだった。一ノ瀬家の近親交配は、そこで生み出されるコンテンツの品質劣化の問題だ。

幸恵は耕三を拾って、一ノ瀬家を作った。それは夢男子と交わって夢男子を生み出すシステムだ。そこには近親交配の願望と危険が待ち受けていた。夢男子を求める女が、自ら夢男子を作り出せる時、いずれ自ら生み出した夢男子と交わりたくなる。

それは夢男子の品質を損なっていくことになる。そこには自分の血縁、自分の願望しかなく、自分の願望と夢を再生産していくことに陥る。新しい要素が入らなくなる。自分の内なる時代を繰り返し、自分の外の時代に遅れていく。それはコンテンツとしては致命的だ。

一ノ瀬家に生まれた女である詩織とは、幸恵が進展した形での再生産であり、幸恵を批評の対象とするための存在でもある。詩織は幸恵のように、夢男子と交わりたいと願いながら、しかしその進展した事態として、今や一ノ瀬家が近親交配に向かいつつあり、それが一ノ瀬家というコンテンツ産出システムを衰退させ、破滅を招きつつあると予感している。

かといって詩織は、まだ大人ではない、泣くか不機嫌になることしかできない子供だ。夢男子を拾ったり、育てたり、はっきりと願ったりすることはできない。ただ、夢男子のほうがそれとなく気付いてくれて、どうにかしてくれるのを待つしかない。

詩織の願いは、破滅が近付いている一ノ瀬家をどうにかしてくれ、というものだ。これには二通りの方向がある。一つは、一ノ瀬家をコンテンツ産出システムとして、これまでと同じように使い続けられるようにしてほしい。もう一つは、これまでとは違った形に転換ないし更新してほしい。

翼は一ノ瀬家の夢の力から、性と家族を取り除いて、更新した。一ノ瀬家の夢の力を、夢男子と交わり夢男子を生み出すものとは異なるものへ変えた。壊れかけた異常な家族を、かつて異常なこともあった普通の家族にまとめるための、力にした。

ところが颯太はそれを引っくり返し、その引っくり返されたものを翼は肯定した。なぜか。詩織の願いは結局のところ、颯太(という夢男子)と交わりたい、というのが根本にあり、それこそが一ノ瀬家を作ってしまう原因だからだ。

一ノ瀬家が普通の家族として安定を取り戻しつつ、颯太だけがそこから絶妙な距離を取ることは、詩織に颯太と交わらせる余地を残す。それでは詩織は新たな幸恵となって、颯太と新しく、かつての一ノ瀬家と同じものを、より悪い形で始めてしまうだろう。翼(と颯太)は、一ノ瀬家というコンテンツ産出システムを更新するのと同時に、新たな一ノ瀬家産出の萌芽をも先回りして壊した。

詩織から颯太を遠ざけるのではなく、詩織の傍に颯太を置きつつ、家族のギスギスも残す。一ノ瀬家は、コンテンツ産出システムの側面があったため、家族としては歪んでいった。だから颯太は出ていった。この颯太は、新たな一ノ瀬家を作る核になる。だから颯太を一ノ瀬家の外に出してはならないし、家族仲も必要以上に良好になってはならない。

一ノ瀬家が壊れそうだったら、さっさと壊して、別の一ノ瀬家を作ればいいじゃない。しかし一ノ瀬家は壊れず、翼の活躍で修復されて生まれ変わった。しかし生まれ変わった一ノ瀬家は、以前の、コンテンツ産出システムではなくなった、という点で、壊れたに等しい。

詩織は一ノ瀬家にあまり未練はなく、颯太さえ手に入ればよかった。翼は詩織の願いを叶えつつ、詩織および一ノ瀬家の女達の無茶な願望の繰り返しを封じた。一ノ瀬家は単なるギスギスした普通の家族になり、詩織はその一員の普通の妹になった。

普通の妹は、普通の女のことだ。夢男子の妻にも母にもならない。夢男子が夫や父として大人になるのと同じく、女は妻や母となって大人になる。一ノ瀬家はコンテンツ産出システムであるのと同時に、女が夢を通じて大人になることを保障するシステムでもあった。

これが壊れたために、詩織は大人になる方法を失ってしまった。それが詩織が不機嫌になる理由だ。詩織は泣くことしかできない子供から、夢を通じて大人になりたかった。そして詩織は、颯太と交わらない代わりに、翼にビンタをするようになる。

ビンタは幸恵が翔にしたことであり、けんたの母がけんたにしたことだ。ビンタは男を夢から目覚めさせる行為であると同時に、間違った子供を叱る行為だ。翔や颯太が一ノ瀬家に持ち帰れず、翼が持ち帰れたのは、このビンタだ。

ビンタとは、言葉がどうしても相手に届かない時の、肉体的なコミュニケーションであり、その意味ではセックスに似る。詩織は颯太とセックスせずに、翼にビンタをして、物語は終わる。セックスあるいは出産による成熟から、ビンタによる成熟へ。

性と夢の結び付きなしに、詩織は成熟を始めた。一ノ瀬家は、性と夢と成熟が一体になっていた。それが解体された。そのことを翼は、中嶋に報告する。それは翼と中嶋の、同性同士、性愛のない(?)不器用な衝突がビンタの原形であり、性や夢や家族を越えるものだったからだ。

翼と中嶋との関係が、けんたとけんたの母の関係の手掛かりになり、それが一ノ瀬家を変え、幸恵、美奈子、詩織を変えた。幸恵は最後の場面で、耕三が話せなくなってしまったことを嘆くばかりではなく、自分から耕三に宇宙の話をするようになっている。夢を異性に頼るのではなく、自分で引き受けることもできる。原始の夢見る女子だった幸恵も前進している。

詩織はビンタをすることで、誰とも交わらないながら、誰も産まないながら、翼と母子のような関係に入ることになるだろう。旧来の一ノ瀬家では、そこに性愛が発生する危険があった。母子は、大人と子供の関係でありながら、女と男の関係でもあったからだ。

ビンタは母子の間の、女と男としての関係性を後退させ、大人と子供としての関係性を強調するものだ。詩織は夢男子を、交わる相手でもなく、自ら産み出す相手でもなく、教え見守る相手として接するようになった。その意味では、夢男子は相変わらず、女にとってのコンテンツではある。だが、そのコンテンツとの接し方が変化している。

産んではいないが、まるで産んだかのような関係へ。母ではないが、まるで母のような関係へ。本当は産んでいないし、本当は母ではないが、というところが重要だ。

夢、写真、映画。この作品に登場する、それらの要素は現実でも、過去を甦らせて人に何らかの感情を想起させる装置だ。そして、プラネタリウムと海辺の町。宇宙ないし星々と海は、未知で広大な、人間の想像力を暗示するものとして、他の様々な作品に登場してきた。

写真や映画は、基本は目の前にある景色をそのまま写し取って残し、再生させるものだ。そこに夢や想像力を加わえてみよう。すると、目の前にあった実際の景色を材料に、目の前にはなかった、実際にはない景色が生まれだす。景色だけでなく、人や物語も。

ある女は泣くことしかできず、それが悔しくて、立派な大人になりたかった。女は、新しく自分だけの何かを産み出せたら大人になれる、と信じ、それを可能としてくれる男を、想像的に、産み出した。

ある女とは幸恵であり詩織だ。幸恵は耕三と出会って交際している間は、とくに泣いたりはしていないが、話せなくなった耕三を前にしては泣いている。恐らく幸恵は詩織と同じく、泣くことしかできない女であり、想像的な男と関係する時、泣くことをせず、何かを産み出せる。そして想像的な男を喪失した時、再び、泣くことしかできない女に戻る。

幸恵は耕三を生み出し、耕三との間に何かを産み出すことで大人になり、泣くことがなくなった。だがその果てに、近親交配的願望を持つ詩織が現れる。幸恵が始めた、自分を大人にしてくれる何かを自分で作ってそれで大人になったつもりになる、というのは、近親交配のような、あまりよろしくないことではないのか。詩織の出現は、それを問うている。

目の前にあった実際の景色に想像力を加えて、目の前にはない景色を生み出す。それは漫画の技術だ。大人になれない、という感覚を埋め合わせるために、漫画の技術で人や物語を生み出し、それに囲まれて満たされたとして、それは大人になれたことになるのだろうか。

それらを踏まえて、作品を改めて最初から読んでみよう。詩織は泣きながら兄を呼び、兄である翼はそれに応えて、記憶喪失の一ノ瀬家をまとめようとする。一ノ瀬家という家族は、女達にとって大人になるための回路であり、しかし破綻が予感されているものでもある。

ここで詩織が不安がっているのは、一ノ瀬家の破綻によって大人になれないかも知れないことに対してであって、家族そのものはあまりどうでもいい。なぜなら立て直されて破綻の心配のなくなった一ノ瀬家は、もはや大人になる回路ではなくなっているはずだからだ。

そんな詩織の不安を余所に、翼は家族の物語を、一家記憶喪失の真っ更な上に、出鱈目でもいいから作ろうとする。詩織の不安は、漫画や物語の力への不安であり、漫画や物語を作ることへの不安だ。そんなものは、破綻が約束された、無意味なことかも知れない。もし無意味だとしたら、どうすればいいのか。

無意味かも知れなかろうと、漫画の主人公を任された翼は、物語を放り出すわけにはいかない。翼はとにかくも、学校で派手ないじめに立ち向かいつつ中嶋との関係を回復し、中嶋と共に、詩織の隠された秘密に迫り、詩織に怪しい大人との関係を終わらせる。

詩織の中で、大人との性的な経験をすることが、大人になることと結び付いている。それは本来、颯太という信頼できる大人と遂げることになるはずだったが、颯太はいなくなってしまった。そして、颯太の代わりになれそうな、もう一人の兄である翼は、まだ子供だ。詩織は仕方なく、穴水という信頼できない大人を相手に選ぶことになった。

詩織は本心では嫌そうだが、大人になる手掛かりが穴水しかいない。そこに、翔に励まされた翼が駆けつけ、精一杯に大人びて穴水と交渉し、詩織を取り戻す。翼はここで性的な経験で尚早に大人になろうとしている詩織を止めたのだが、翼が大人びれば颯太に近付くことになるので、兄と交わって大人になろうとしている詩織を後押しすることになりかねない。

翼が順調に頼もしくなり、そのまま時間と物語が進んでいけば、大人になった翼と詩織はやがて交わっていたかも知れない。翔は事故を起こして、その物語の可能性を取り消す。翔は、翼を励まして颯太に近付けながら、翼が完全に颯太のようになることにも慎重だ。

かといって翔は、事故の発端である社員旅行には後ろ向きだった。そして翔は後に、詩織を夢の側に唆すこともしている。翔は詩織を、誤った方向へ進ませたくないのか、導きたいのか、よく分からない。颯太と同じく、翔もまたこの時点では、役割が明確に定まっていなかったように思われる。

翔が事故を起こした後に、翼は、翔、美奈子、颯太、大人達の事情に翻弄されることになる。それは翔の不倫騒動に基づく物語であり、大人であることと性的執着は強く関わることだ、と示されている。そして、大人の性的執着にはしばしば、子供が巻き込まれる、ということも。

結局、美奈子は翔から距離を置き、性的執着から離れ、そうすることで翼に対して母親らしくなる。大人になることと、性的であることを切り離し、そして母親らしくなる、というのはこの作品の結末の詩織を先取りしている。

その後、美奈子は消され、一ノ瀬家には敵対者としての颯太の他は、老人と子供しかいなくなる。そこで翼と耕三は、現状をループと認識して、そこからの脱出を図ろうとしだす。詩織と幸恵は男達に、ただ大人しく付いていくだけ、に見える。

詩織が幸恵の発展版であるなら、翼も耕三の発展版としてある。そして、夢男子と交わり夢男子を産む、という繰り返しのシステムから、耕三が、翼を支援しつつ脱出しようとしていることは、詩織や幸恵、女達の願望が矛盾を抱えたものであることを表している。

女達は大人になりたがっていた。そのために幸恵は、まるで颯太がけんたを拾ったように、耕三を拾って一ノ瀬家を始めたが、その一ノ瀬家は、それが自作自演かつ空想的な手段であることから、女を想像的に大人にする回路でありながら、そのことで女を現実的に大人になることを、保留させる回路でもあった。

女達は大人になりたいが、ならなくていいものなら、なりたくなかった。大人にならなければならないのは、なりたくない、と思っていたところで身体は成長し、性的存在にならざるを得ないからだ。身体は大人だが心は子供、という事態は危うい。性的に。それだけは、動かしがたく、はっきりしている。

詩織と幸恵は、女達の私的な心情を、翼と耕三は、女達の社会的な心情を、ここではそれぞれ表している。本当は大人になんかなりたくない。だから一ノ瀬家を始めた。けど、そんなことはやっていられるはずがない。だから一ノ瀬家を脱出したい。

詩織と幸恵は、翼と耕三のすることを見守り、付いていく。だが、夢の中、漫画の中では、私的な心情が勝ってしまう。想像力は、私的な心情を母体とするからだろう。幸恵は社会へ向かおうとする翼を、崖から突き落とし、恐怖を植え付けると共に、振り出しに戻す。

翼は、本当は大人になりたくない、女達の私的な心情に屈し、社会に向かう意欲、大人になろうとする意欲を喪失する。これは翼の敗北、夢男子の敗北であるが、夢男子に何もかも託してしまった、女達の敗北でもある。

だが、敗北したとて、それで終わるわけではない。それどころか、敗北は夢の終わりであり、夢の終わりは、大人になりたくない、大人になれない、しかし大人にならなければならない、現実への復帰だった。

もし翼が夢の中で勝利していたら、つまり「夢の中で目覚め」、大人になれたつもりになっていたとしたら、どうだったろう。それは、「現実に大人になれた」夢を見る、という、より深い夢への転落であり、より無惨な形での敗北に他ならなかったのではないか。

一ノ瀬家は破綻が予感されている。翼は、そこから女達を救うためにいる。だから女達に代わって、その一歩先を行って、一ノ瀬家の夢の歪みを身に受け、夢の誘いに応じて敗北して見せる。すぐ後ろから付いてきている女達自身がその敗北に陥らないように。

翼は女達の大罪を背負って、犠牲を演じ、復活する。といっても、本家の救い主とは違って、何もかも予定通り、という風情ではなく、ただの迷える子供という風情で。それは作り主が、自らに似せて、その救い主を作ったからだ。

翼が目覚めた現実では、一足先に夢から退場した翔と美奈子の物語が動いていた。この時、夢の中に残っているのは老人と子供、つまり既に性愛から引退したか、まだ性愛するに達していない者達だ。

性愛とは子供が生まれる可能性のことであり、また、子供が生まれるまでの物語のことであり、子供が生まれることで人が大人になるまでの物語のことだ。ここでは、性愛と大人になることが、更に現実と結び付けて示されている。

翔と美奈子は現役で性愛を交わせる者で、一度は大人になれはしたものの失敗した者だ。二人は失敗した物語を、過去の出来事として忘れたことにして、性愛をやり直そうとしている。その結果、翼は復活した、とも言える。

復活した翼は、夢と現実の狭間で迷う。夢の中で築いた物語は、現実には持ち込めない。夢の中の物語で大人になっても、
意味はないのではないか。夢とは精々、過去を忘れるためにあるのではないか。現実の中に夢をどう位置付けていいか分からない翼は、現実を受け止められず、現実を放り出したくなる。

翼にとっての現実は、二つある。夢の力と融合していた小学生時代。夢の力が消えてしまった、中学生以降の時代。翼は中嶋に会い、今はもう夢の力を失ったが、かつて夢の力で手に入れたものが今も生きている、と知る。

過去や夢は、それを失った今も何らかの形で生きている。それらとの関係は忘れるべきものではなく、適切に思い出すべきものではないのか。過去や夢は、現在に物語を与えてくれるからだ。そしてそれは、大人になるための手掛かりになる。性愛とは違う物語の可能性に、翼は触れる。

翼は退院後、過去を忘れようとする翔と美奈子に同調しかけ、それを軽蔑した詩織に寄り添う。詩織は、過去を忘れるべきではない、という立場だ。しかし、だからといって、翔と美奈子が象徴する性愛に代わる、物語はまだ持っていない。ここでの翼と詩織の関係はまだ、兄妹愛よりは異性愛に近いように思える。

そして翼は昏睡した耕三に会い、これが自分が夢に閉じ籠っていた原因だ、と自覚する。幸恵の問題を発展させた人物が詩織だったように、耕三の問題を発展させた人物が翼だ。耕三は幸恵の想像力で生み出されたが、いつまでも変わらずに幸恵を夢見させられはしない。夢は劣化し衰える。幸恵のために生まれた耕三にとっては、それが何よりの問題だ。

それから翼に対し、夢を詮索するな、という何者かからの警告と、美奈子の手による、夢への引き留めが始まる。幸恵は耕三の昏睡を目の前にし、いつまでも夢を見てはいられない、と理解し、夢を早く忘れるべきだ、という立場にある。それは、翔と美奈子の立場と似る。

この作品では、薬によって夢がもたらされる。それは、夢とは、いい意味でも悪い意味でも、気分を高揚させ、何かを忘れるための薬物あることを、暗示している。幸恵は夢を、現実を忘れさせて現実を生きにくくする、危険なものとしてやめることを考えているが、翔と美奈子は、現実を忘れさせてくれるからこそ現実を生き易くする、不可欠なものとして利用し続けることを考えている。

夢を見続けると現実が嫌になってずっと夢の中に留まりたくなる、と考えるか、夢を見ることで現実の嫌な部分を忘れられるなら現実が嫌ではなくなる、と考えるか、だ。翔は後者を主張し、そのために幸恵に薬を飲ませた。その結果、幸恵は昏睡し、現実に戻れなくなる。

現実に戻れなくなった女(幸恵)を現実に生かしておく負担は、女(美奈子)自身が負うことになる。夢と家族は結び付いている。美奈子はここで、こんなはずではなかった、と家族の現状を嘆くが、これは夢が思ったように上手く作用してくれないことについても、嘆いている。

だがそのこと自体では、一ノ瀬家は壊れない。ここで翼が颯太の話をすることで、一ノ瀬家は壊れる。一ノ瀬家は颯太の存在を忘れたように消し去っていた。それは一ノ瀬家が颯太を忘れたかったからではなく、颯太が一ノ瀬家を忘れたがっていたからだ。

颯太と一ノ瀬家は、相性が悪い。そして颯太に嫌悪されたままでは一ノ瀬家は成立しない。だから颯太など最初からいなかったかのように、一ノ瀬家は振る舞わなければならなかった。一ノ瀬家は夢男子を産出するシステムであり、夢男子を体内に包み込む、母体であり女体だ。最上の夢男子たる颯太を女の中に包み込んでおくために、一ノ瀬家はある。

颯太は一ノ瀬家を嫌悪した。否定した、と言ってもいい。そして、それを埋め合わせるように、一ノ瀬家を根拠なく愛し肯定しようとする翼が、一ノ瀬家に生まれている。

なぜ颯太は一ノ瀬家を否定しているのか。それは、一ノ瀬家は颯太のカメラを壊すからだ。だが、なぜ一ノ瀬家が颯太のカメラを壊すのか、その詳細は作中では、はっきりとしない。ただ、カメラは壊れてしまうことだけが、はっきりとしている。

この詳細の不明さは、颯太が出ていくことに対する詩織の無力さと、家族と颯太に対する翼の根拠なき肯定とに繋がっている。

颯太と一ノ瀬家は相性が悪い。なぜそうなのかは、よく分からない。颯太という存在が、先ずよく分からないからだ。そして颯太がいないと一ノ瀬家は成立しない。厳密に言えば、有力な夢男子がいないと成立しない。颯太が一ノ瀬家と相性悪く、出ていかなければならない。なら、代わりの有力な夢男子が必要となる。それが翼だ。

一ノ瀬家は夢男子産出システムだったが、颯太が出ていかなければならない、という緊急事態に対し、翼を代替の夢男子に据え、別の態勢に移行した。その目標の一つは、颯太が不在でも一ノ瀬家を維持し続けること。もう一つは、颯太とは何者なのかを明かし、一ノ瀬家との相性の悪さを解決し、颯太を連れ戻して再び統合すること。

重要なのは、この二つのどちらかが果たされればいい、ということだ。颯太は一ノ瀬家を成立させる、有力な夢男子だが、颯太でなければならないことはない。翼が有力な夢男子に成長し、一ノ瀬家を成立させられるなら、颯太のことは諦め、詩織は翼と交わればいい。

翼は夢の中で成長し、詩織を夢中にさせることに成功する。だがそれは飽くまでも仮想訓練の結果でしかなく、同時に颯太の正体の詮索も平行して進められていく。だが、正体の詮索、と言っても、以前に言ったように、この作品での颯太の設定は揺れ動いているように思える。

颯太の夢男子としての有力さは、じつはこの設定の曖昧さに依拠していたのだろう。颯太はまさに夢の如く、設定ないし正体が定まっていなかったからこそ、一ノ瀬家随一の有力な夢男子として、詩織達の思い出の中で異様に輝き、彼女達を夢中にさせることができた。

しかし、夢男子として(女を大人にする)物語を動かしていくなら、きちんと現実的な正体を定めなければならない。夢が過ぎる夢男子は、物語を動かそうとすると、その輝きを失わざるを得ない。一ノ瀬家は物語の場でもあり、物語を要求された颯太は最上の夢の位置から転落し、惨めに地面に叩き付けられることになる。壊されたカメラとは、それを象徴している。

幸恵が始めた夢男子産出システムは、近親交配的願望を持つ詩織と、物語の主役に不適格なほどの夢の輝きを持たされた颯太と、これらを調停するために夢の輝きを与えられたり奪われたりと大変な翼、この三人を生み出した。

詩織はかつて自分を救ってくれた颯太を理想としつつ、それより劣り、劣っているからこそ物語を担える翼に、自分を大人にしてもらうつもりだった。だが、翼もまた颯太を理想としているために、颯太を目指して成長することになり、颯太の正体の曖昧さにぶつかって迷走し、頓挫する。

翼が颯太の名を出し、それで一ノ瀬家の食卓が壊れたのは、颯太の正体を明確にしなければ何も解決しない、と一ノ瀬家に突き付けたからで、一ノ瀬家は颯太が出ていって以降、脱颯太の態勢になり、そのために翼の颯太化計画が発動していたが、当の翼が計画の進行不能を、ここで表明したのだ。

幸恵が始めた一ノ瀬家は、いずれ颯太を産出する定めにあり、同時にその颯太と齟齬を起こす定めにもあった。それを予感していた幸恵は、夢を忘れろ、颯太のことを求めてはならないし、颯太の複製を求めてはならない、と忠告していた。だが、颯太の複製である翼自身が、それを乗り越える。

一ノ瀬家は、一ノ瀬家だけでは破綻する。颯太は女達の理想や願望を過剰に引き受けている存在であり、女達と物語を営むことができないからだ。物語を営むこととは、成長だったり破滅だったり、人の何らかの変化を追っていくことだ。

颯太が引き受けさせられている過剰な願望とは、物心付いた時から女を夢見させ、ずっと変わらず、それを永久に続けてくれることだ。颯太が一ノ瀬家を出ていく原因は、カメラが壊れることだったが、カメラとは、翼を除く一ノ瀬家の人々に支持されない、格好が付かない側面のことだ。

颯太は女達を永久に夢見させてあげるために、格好が付かない側面を持つことが、永久に許されない。この側面とは、人間らしさや、普通の男の子らしさのことであり、颯太は人間らしさ、普通の男の子らしさを望み、過剰な願望を引き受けるのをやめ、格好の付かないことが許される場所を求めて、一ノ瀬家を出た。

それ自体が一種の成長の物語であり、颯太は女達を夢見させるために凍結させられていた物語を、女達に逆らって、進め始めた。その物語に、一ノ瀬家の女達は付いていくことができない。彼女らのことをこそ、颯太は拒絶したからだ。

そして、拒絶された女達に代わって颯太に付いていくことができるのが、颯太の複製である翼だ。女達は颯太との関係の調停を求めている。それを叶えるために、翼は颯太を追う。

夢と物語は、それまで、内側へ閉じた、一体のものだった。それがここからは、内側へ閉じた夢と、外へ開かれた物語とに分離しようとする。

颯太は一ノ瀬家から離れ、そこで一ノ瀬家とは全く違う家族を作ろうとする。そこで颯太は、一ノ瀬家の女達とは違う、文乃と出会う。文乃は一ノ瀬家の女達と何が違うか。それは何よりも、颯太を振ってしまえたことだろう。

颯太は、一ノ瀬家とは違う理想の家族を作ろうとした。一ノ瀬家の女達に求められたように、颯太はまだ理想というものに縛られていた。その後、颯太の近くで理想の破綻に付き合った文乃は、颯太に、今までと変わるように告げる。ずっと変わらないで、ではなく、ちゃんと変わりなよ、と。

これは、一ノ瀬家の女達の影響に縛られていた颯太への衝撃であると共に、一ノ瀬家とは別の女像を示すことで、一ノ瀬家の女達へも衝撃を与えている。そして、衝撃を与えたのは、文乃だけではない。けんたの母もだ。

けんたの母は、颯太と直接には深い関わりを持ってはいなかったが、けんたへの態度を巡っては颯太を敗北させている。より正確に言えば、颯太はけんたの母がかつて犯してしまった失敗を再現してしまい、一方でけんたの母はその失敗を乗り越え、けんたとの信頼を取り戻している。

けんたの母のかつての失敗とは、けんたがいい子ならよかったのに、と口に出して願ってしまったことだが、それは後の、ビンタをしてでもけんたの問題と粘り強く付きあっていこうとする態度と、対照的なものとして提示されている。

颯太はけんたとの衝突を怖れ、けんたを甘やかし、けんたはいい子のはずだ、と目の前のけんたから、現実から、目を逸らした。けんたも一度は母の態度を疎み、颯太の態度を歓迎した。けれど、それでは本当に欲しいものを手に入れることはできない、と思い知った。

颯太は親として、けんたの母に敗北したが、同じ迷える子の側としても、けんたに敗北している。けんたは颯太と、嘘で出来た偽の家族を作り上げたが、その限界にぶつかり、それがかつて母が犯した、現実から目を逸らす、という失敗と同じであることに気付いて、共犯者だった颯太を批判し、偽の家族をぶち壊すことで、大人になった。

けんたは、母を批判できたに等しい。また、けんたはここで同様に、颯太を支えてきた文乃をも批判していた。けんたは女を、それも夢男子に夢中になっていた女を、ここで批判したに等しい。それによって文乃は、夢から覚め、颯太を振った。

けんたは、颯太を縛る一ノ瀬家の限界を乗り越える可能性を持つまでに成長している。けんたにその成長をもたらしたのは誰か。それは、けんたの振る舞いに疑問を持ち、颯太とは違って、けんたを甘やかすことを良しとしなかった、翼だ。

翼は、かつての美奈子の、母親としての振る舞いが正しかった、という思いを根拠に、けんたに批判的な態度で向き合った。一ノ瀬家の何もかもを否定し忘れようとしている颯太とは、その点でも対立する。

一ノ瀬家は颯太に理想を負わせて、縛った。颯太はそれに耐えかねて、一ノ瀬家を出た。その先で颯太が始めたのは、一ノ瀬家の歪みの再現だった。颯太は一ノ瀬家に反抗する者でありながら、誰よりも一ノ瀬家の歪みが染み付いてもいる。

一ノ瀬家の歪みとは、一ノ瀬家の女達が颯太に向ける期待のことで、それが、颯太がけんたに向ける期待として繰り返されている。おまえはいい子のはずだ。けんたは颯太の期待に応え、けんた自身もそれが最善と考えて、いい子を演じるが、そこには裏の顔が不可欠だった。

世間的な好評の裏には、邪悪で計算高く暴力的な一面が隠されていた。颯太にも似たような一面があったが、颯太の場合、それは下手なカメラだった。その下手なカメラは、家族に理解されず、誰にも顧みてもらえなかった。まるでけんたの、つい暴力で伝えてしまいがちな、言葉にできなかった心情のように。

颯太は一ノ瀬家にいては、表現したいことを表現できなかった。そこで一ノ瀬家を出て、自由に表現ができるようになったはずだが、颯太がしたのは、裏の顔を持つけんたを、そのままにして生活し続けることだった。

颯太もけんたも、そして、かつてのけんたの母も、一ノ瀬家の女達も、あるいは文乃も、目の前の家族、現実と衝突することを怖れて、あなたはいい子のはずだ、という、期待の形をした呪いの力に頼ろうとした。

裏の顔は裏のまま、隠していたほうがいい。カメラのことを表に出したらどうなったか。けんたに対する颯太の態度が表しているのは、カメラのこと、裏の顔、言葉にできない本心があることを、表に出してしまったことへの後悔だ。

翼は颯太の家に居着き、颯太とけんたの問題を傍観し、裏の顔の所在に気付き、それを表に出さないことの歪さに気付いた。翼は颯太の甘やかしも、けんたの裏の顔も、良しとしない。颯太とけんたは、家族との軋轢、現実の酷薄さに、すっかり疑心暗鬼に陥っている。

翼はそこへ割って入り、家族との軋轢は、現実の酷薄さは、後に必要なことだった、と理解する時が来る、という信念を持ってけんたを叱り、それがけんたを変えていき、けんたは颯太達との軋轢の中で大人並みの表現力を獲得し、颯太を敗北させる。

それまで翼は、家族に対する無根拠な信頼を語るだけだった。ここで翼は、家族を信頼するべきなのはなぜか、という根拠をようやく言語化し得ている。家族を信頼することとは、家族との軋轢に意味を見出だすことであり、それは、その場その時では理解されないかも知れないけど、それでも本心を表に出すことに挑む必要性を、理解していることだ。

表現には二つの段階がある。思い感じることと、それを適切に表に出せることだ。前者は黙っていても上達し得るが、後者は黙っていては上達しない。そして、後者は下手な内は、それを
実践すれば確実に傷付く。だが、実践すればするほどに、それは上達してもいく。充分に上達した時、それは人を変え得る。

翼はけんたを変えた。けんたを叱れた時、翼は大人になり、颯太を超えた、と言える。勝利者となった翼は、かつては憧れのヒーローであり、今や敗北者となった颯太を、一ノ瀬家に連れ戻す。何のためにか。翼はそれに明確に答えられないが、迷いはしない。それは、たとえその場その時で傷付くことに終わったとしても、その経験は、いずれ一ノ瀬家を変えてくれるだろう、と確信しているからだ。

颯太は一ノ瀬家に戻ってきた。しかし、それは家を出ていった時と違って、頼れるヒーローではなく、言いたいことを上手く言えない、迷える子供として。いや、カメラを表に出し、それを壊された時点で、颯太は頼れるヒーローではなくなっていたのだろう。

一ノ瀬家はもはや普通の家の体ではなく、異常な夢という性格を剥き出しにして、翼と颯太を出迎える。颯太は始めは翼を前に、まだ頼れるヒーローを演じているが、颯太にはヒーローとしての強さはもうない。無力になった颯太は、一ノ瀬家の女達の願望に包み込まれてしまう。

ここで翼は、一ノ瀬家への反抗心を明確に持つことになる。本来は相性が悪く、離れるしかなかった颯太と一ノ瀬家が合わさり、一ノ瀬家が真の姿を表したからだ。一ノ瀬家とは女達の願望であり、夢男子を包み込む、母体であり、女体だった。颯太を包み込んだ今、翼の前には、母体や女体としての性格が明からさまになった、一ノ瀬家がある。

颯太と一ノ瀬家は、一つになってはいけなかった。翼はそう感じているのか。しかし、颯太を一ノ瀬家に連れ戻したのは、他ならない翼だ。翼は、現実から目を逸らし続けようとした颯太に勝利して今、ここにいる。

颯太と一ノ瀬家が合わさった状態は、今まで目を逸らすしかなかったが、成長して直視できるようになった、打ち克たなければならない、現実を意味している。逆に言えば、颯太と一ノ瀬家の離反は、まだ現実に打ち克つ力を持たない翼を敗北させてしまわないための、現実逃避を意味している。

では、翼が打ち克つべき、その現実とは何なのか。

一ノ瀬家の女達は、子供のようになった颯太を甘やかし、その時間に夢中になっている。翼はその時間に異物として割り込み、けんたがしたように、颯太と颯太が中心になっている作り物の家族への批判を、明瞭な表現で行い、その仕上げに、かつて拾って直そうとした、颯太のカメラを自らの手で再び壊す。

その行動は詩織を変え、詩織は美奈子を変え、美奈子は翔を説得し、それを援護するように幸恵が翔の頬を打つ。ビンタだ。翼が一ノ瀬家の女達を目覚めさせ、それが、彼女らのために夢を続けようとする翔を目覚めさせた。それは、翼が拾って直そうとした、颯太のカメラを手放すことから始まり、波及していった。

目覚めが目覚めを呼んでいることから、翼がカメラを手放すことが目覚めの始まりであり、もう壊れているカメラを拾って直そうとしていたことが、そもそもの夢の始まりだったことが示されている。

颯太のカメラは壊れた。颯太のカメラは、まだ直せるかも知れない。いや、決して直せない。颯太と一ノ瀬家は、一つになれるかも知れない。いや、決してなれない。それが夢の始まりと、その終わりであり、壊れた颯太のカメラこそが、翼が打ち克つべき現実だ。

そうであれば、さらに、壊れた颯太のカメラとは何なのか、と問わなければならない。颯太のカメラとは、家族に顧みられない、未熟であるために表に出すことがためらわれる、子供としての裏の顔のことだった。それに付いた、壊れた、とは何なのか。

それは、時間の流れによって失われ、もう取り戻せないものを、意味する。カメラは、表現が下手な子供時代のことで、それはもう取り戻せない。一ノ瀬家は、夢の力を借りて、子供だった女が大人になっていくための場所だった。颯太はそこから出ていかなければならなかった。

颯太は裏の顔を持ちつつ、年齢を重ね、大人にならなければならない。心は幼いままでも、身体は勝手に成長する。社会的身分も、自分が望もうが望むまいが勝手に上げられていく。子供のままでいさせてはもらえない。そして、カメラは壊れる。

年齢が幼い内は、下手なカメラ、下手な表現も許された。誰も真剣にそれを顧みることはない。所詮、子供の表現だからだ。だが、大人の年齢になれば、もう子供の表現は許されない。そして大抵の人はカメラを、誰かに壊される前にさっさと自分から手離し、そのまま忘れていってしまうのだろう。

壊れたカメラとは、子供の時代なら許されたが、大人になってはもう許されない、幼い表現のことだ。この「表現」には二つの意味がある。

表現には二つの段階があった。思い感じることと、それを適切に表にできることだ。人は子供時代に、幼いながらに何かを思い感じ、しかしながらそれを上手く表に出せないことが多々ある。それが年齢を重ねて成長し、相応の表現力を獲得した時、大抵の人は、幼い頃に思い感じたことを、今になって表にしようとはせず、心の中に仕舞い込み、なかったことにして忘れていく。そうして大人になっていく。

颯太は大人になれず、一ノ瀬家を出なければならなかったが、それは幼い頃に表現したかった思いを、颯太が忘れることを拒んでいたからだ。颯太のカメラを壊したのが誰かが作中で明確に表されないのは、幼い表現を許さないのが特定の大人や誰かではなく、年齢を重ね、社会的な身分に馴れて生きている内に誰もが何となく、大人になったらそれは表に出さないまま忘れていくもの、と思っていってしまうからだ。

カメラは、気付けば使えないものになる。使ってはいけないものになる。物語上、颯太はそれを捨てて一ノ瀬家を出ていくが、翼がそれを拾って引き継ぐ。カメラを抱えた翼は、色々と一ノ瀬家で迷走するが、カメラと颯太の関係に何らかの決着を付けなければ収まらないと感じ、颯太を追った。

翼は大人になり、幼さを抱えたままの颯太を一ノ瀬家に連れ戻し、使えないカメラを葬った。その際、颯太はつまらない話をし続けていて、それを翼が断罪する形だ。つまらない話は、幼い表現のことだ。一ノ瀬家の女達はそれを甘やかしていた。

颯太と一ノ瀬家が一つになってはいけなかったのは、幼い表現を甘やかしてしまうからだ。そしてそれは、覚めたくない夢になる。颯太は一ノ瀬家と離反はしたが、新たに一ノ瀬家に似た夢を作って見ようとしてしまう。だが、それは一ノ瀬家とは似ながらも結局は別物で、甘やかしは拒否される。

颯太が求める甘やかしを拒否したのは、けんたであり、けんたに影響を与えた翼だ。翼はカメラを拾い、幼い表現を擁護していたが、それを許さなくなった。しかし、だからといって、それを忘れたりはしない。そして、それをなかったことにもしない。

翼は一ノ瀬家に颯太を連れ戻し、一ノ瀬家の女達に颯太を甘やかさせ、壊れたカメラと共に、それを断罪することで、女達を夢から目覚めさせ、その女達はビンタを身に付けた。ビンタは子へ大人になることを促すものであると共に、女が母としてあること、子の前では女として振る舞わないことの強調だ。

一ノ瀬家は夢男子産出システムだった。そこで女は夢を産んで、その母にはなるが、その妻にはならない。夢を自分で消費せず、甘やかさない。夢とは幼い表現のことでもある。夢を消費するのは自分ではなく、家の外の誰かだ。ちゃんと家の外の人達に届き、夢中にさせられるように、表現を幼いままにはしない。

一ノ瀬家およびその女達は、そのように変わる。ただ、そこにはまだ、ためらいが見られる。翼が一ノ瀬家に持ち帰ったビンタは、翔を説得する美奈子を援護する形で、幸恵が振るう。ビンタは、幸恵、翔、美奈子の三人、大人の問題であるように示され、まだ子供である詩織はそこから除外されている。

詩織は、子供であることを理由に、大人達の変化から除外されており、そこにまだ、幼い表現を甘やかしていく余地が残されている。その後、一ノ瀬家は普通の家、普通の家族へと向かっていくが、颯太はそこに改めて合流するのでもなく、かといって完全に縁を切るのでもない、曖昧な立場を選ぶ。

颯太にはまだ、普通の一ノ瀬家に馴染めない部分があり、詩織は普通の一ノ瀬家になるための変化を経ていない。以前にも主張したように、このままでは詩織は、普通の一ノ瀬家を抜け出して颯太と逢い、そこで以前のような一ノ瀬家をまた作り始めてしまうことになるだろう。

その可能性を潰すように、一ノ瀬家の乗った車は事故を起こし、物語は最初のような状況に戻る。しかし翼は、最初とは確実に状況が変化していることを、そこで明示する。事故の発生自体は不慮のものであり、誰が意図したものでもないが、事故が翼の意図と合致していることが窺える。詩織はそれに強い不満を表明している。

翼は普通の一ノ瀬家から距離を取ろうとする颯太を、強引に引き戻した。一ノ瀬家に颯太が戻ってくることが、詩織の表向きの願いだったが、それは以前の一ノ瀬家が前提だった。普通の一ノ瀬家には、寧ろ颯太にいてもらっては困る、と詩織は感じている。

一ノ瀬家が以前とは変わったのと同じく、颯太も以前とは変わっている。というより、颯太と一ノ瀬家との関係が変化している。颯太は幼い表現を隠していた。それが、最後の夢の中で、一家全員に知れ渡った。そして、今の一ノ瀬家は、幼い表現を許さない。かといって、それを忘れたり、なかったことにはしない。

一ノ瀬家は事故を巡って、食事中に口論を始める。その原因が颯太の、車の運転の下手さにあることが、颯太寄りの詩織の口からすらも出てくる。颯太の、車の運転の下手さは、表現の幼さと重ねられている。新しい一ノ瀬家は、以降はこれを問題として、紛糾していくことが示されている。

そして、詩織が不満がった通り、一家は疲弊することになる。そして、退院して帰宅し、翼はそこで、やはり何も変わらない、と嘆く。一ノ瀬家は、颯太と一つになるべきかどうかで紛糾していた。関係を変えた上で颯太と一つになってやっていく、と覚悟を決めた後も、変わらず紛糾は続いていくことを、翼は思い知った。

翼は一ノ瀬家の、颯太とその幼い表現を巡る紛糾を調停するために、長い時間を掛けてきた。けれど、紛糾自体はどうしても残ることが分かった。では、何のための調停だったのか。最後に、一連の騒動の黒幕としての耕三が、手紙でそれを説明する。

一ノ瀬家は、一ノ瀬家が生み出した、颯太とその幼い表現に、どういう態度で向き合うべきか、を問う旅だった。そして、一ノ瀬家のことがいずれ嫌になってやめるにしても、嫌なことは尽きないが何となく、それを続けられるだけ続けるにしても、一ノ瀬家という旅は挑戦しておく価値がある。

一ノ瀬家は、表現への態度を問う表現であり、それは大人数かつ世代を跨ぐ、大掛かりで長い時間を要する表現だった。それは、作者が初めて手掛ける、「一ノ瀬家の大罪」という、作品の長期連載のことだ。

この作品は幸恵から始まり、その幸恵を批判するために詩織が現れた、と以前に書いた。ここにはもっと複雑な由来が隠れている。正確に言えば、幸恵は一ノ瀬家の始まりなのであって、作品の始まりではない。

作品の始まりには、泣くことしかできない、言いたいことを上手く言えない、少女がいる。しかし、それは詩織のことではない。それは誰のことなのか。少なくとも、それは作品「中」の誰かのことではない。

その少女は、幼く弱い自分を支えてくれる表現と出会った。それは颯太のことのようで、正確には颯太のことではない。少女はその表現に支えられ、年齢を重ねた。しかしその表現は、その少女と同じようには、年齢を重ねてはくれなかった。表現は夢のようなものであり、少女と同次元の現実ではなかったからだ。

大人になった少女はやがて、かつて自分を支えてくれた表現を自ら生み出し、かつての自分と表現の関係を再現したい、と願った。そうして生まれたのが、幸恵と耕三だ。二人は交わって新たな表現が生まれた。翔だ。少女は翔と結ばれるのに相応しい大人の女性を生み出した。美奈子だ。

翔と美奈子は交わって新たな表現が生まれた。少女は、その表現に、颯太、翼、詩織と名付けたが、それだけでは済まなかった。少女は颯太に、かつて自分を支えてくれた表現に期待したのと同じ思いを込め、その颯太に愛され、その颯太を愛する、詩織として、自らの表現の中に、自ら生まれ出てしまった。

それはとても罪深い行為だ、と少女自身も感じてはいた。しかし、その表現はもう始まってしまった。表現を生んだ者として、表現の母として、それを取り消すことはできない。始まった表現は、表現自ら動くに任せて終わらせるべきだ。

詩織は少女自らの分身だが、それゆえに、その使命を任せるには不適当だ。そこで、その役に翼が抜擢された。

少女は颯太に、かつての思いを込めたつもりだった。しかしそれは思わぬ作用を起こした。詩織が幼い頃は、少女が表現に支えられたように、颯太は詩織を支えることができた。だが、詩織が成長していくと、それが不可能になっていった。少女には、大人になった「颯太」に支えられた経験がないからだ。

その結果、ある時期から颯太は、詩織を支える力を失っていくのと入れ替わって、表現に対する、少女の困惑や劣等感と同じものを背負っていくことになる。やがて颯太は、表現の現場でもある一ノ瀬家から遁走し(それは、一ノ瀬家を離れ、他人を意識した表現への挑戦でもあったが)、翼は颯太を失った詩織を慰めつつ、思わぬ形で表現への劣等感が現れ開けられた、一ノ瀬家の穴に対処しつつ、その原因である颯太を追うことになる。

この時の颯太が、大人になれない颯太であり、大人になった「颯太」がどんなものか分からない、表現の母としての少女の欠落であり、颯太に代わってその欠落を塞ぐために翼は、大人になる、とはどういうことかを、颯太を追う物語を走ることで築いていく。

そうして翼は、颯太とビンタを一ノ瀬家に持ち帰り、一ノ瀬家を変えた。自分やその周辺の人達にだけ向いているような、閉じた表現ではなく、それ以外の人達も意識した、開いた表現へ。詩織はそれを怖れ、以前の颯太との関係を温存してほしかった。

閉じた表現をしていては多くの人に伝わらないが、開いた表現を目指すとなれば、多くの人にちゃんと伝わらなければならないし、伝えなければならない。そのために紛糾と疲弊は避けられない。

一ノ瀬家の問題は、どうしたら大人の表現ができるのか、大人の表現をする必要なんてないんじゃないか、というものから、大人の表現ができるようになったのだから、しっかりしなきゃ、というものへ。大人の表現は、プロの表現と言ってもいい。終盤の病院内での喧嘩は、プロとしての表現を巡っての紛糾であり、病院とは表現のプロの場を暗示している。そうであれば、中嶋が翼に、夢について医師に相談しろ、と重ねて言っていた意味が理解できよう。

プロになりたいとは願っていたけど、なれたらなれたで、それはもう大変。こんなことなら、プロになりたいなんて願いは忘れていたほうがよかったかも、と詩織の口を借りて、表現の母である作者は言っている。

そして、そういう愚痴を表現にできるのがプロだ。そういう愚痴が表現になって読者に届いているのが、かつての少女が今はプロになったことの証左だ。成長したものだな(後方昏睡耕三ヅラ)。

この作品は、表現といえば泣くことしかできなかったような少女が、大人達の表現に支えられて大人になり、自らも大人の表現を志し、しっかりした表現の母になるまでを、夢と嘘と家と家族の物語として表現したものだ。

がしかし、それが最初から計画されていた、この作品の意図だったかは疑わしい、と最後のおまけ漫画を見ると思える。

翼達はカレーを作り始めたものの、肝心な部分に手が回っておらず、カレー作りは行き詰まる。しかしカレーは諦められず、急遽、別の手段でカレーが調達される。耕三の手紙は、この間に合わせを思わせる。カレー作りとは、本編にも出てきた、家族がまとまっていくための作業であり、家族とは物語のことだ。

当初まとめようと考えていた方向では物語がまとまらず、急遽、長期連載は大変だよ、という、作品と作者がまさに直面していた状況を取り入れて、どうにか物語は終えられたのではないだろうか。

真相は不明だ。しかしこの作品が、少し不安な手付きの運転で走っていたことは確かだろう。まあ何しても、運転は果たされ、物語と連載は終わった。プロであっても、完璧な運転など、できはしない。必ず、何かしらの失敗や不備にぶち当たるのが当然だ。

ああこれは打ち切りを喰らったな、と誰もが察する作品もある中で、これは打ち切りによる終了なのか、予定通りの終了なのか、よく判らない。というのは、連載としては成功の部類に入るはずだ。

そして、それが成功寄りだろうが失敗寄りだろうが、創作志望者が一つの作品を完成させることが重要であるように、一つの連載を完結させることは、プロになった後でも重要だろう。いつまでも成長は続く。それに終わりはないだろう。それが、プロになる、ということだ。大変だ。

翼は連載を通して、颯太とビンタを持ち帰ったが、作者は連載を通して、長期連載の厳しさ大変さの経験と、もう一つ、適切な母像を持ち帰ったように思われる。

これまで作者はしばしば、母の不在あるいは狂った母を描いてきた。そして、その母の不在や狂った母は回復しないまま、傷付いた子供達がどうにか強く生きていく、という結末が描かれてきた。

今作でも、母の不在や狂った母が描かれる。美奈子、幸恵、けんたの母。だがそれらの母達は、いずれも回復している。これまでとは違っている。何がその違いをもたらしたのか。それはやはり、ビンタではないだろうか。

作者がこれまで描いてきた、母の不在や狂った母には、いつも付随している要素がある。性的な何かを思わせるほどに、母に愛されたいと願いながら、それを果たせない息子だ。

「讃歌」の教師(これは正確には息子ではないが、詳しくは別記の読解に目を通してほしい)。「キスしたい男」のレオ。「タコピーの原罪」の東。

彼らは母を求め過ぎて、苦しんでいる。ビンタは母と息子の関係ないし距離を、甘いものから厳しいものへ、大人らしいものへと変化させるものだった。そうして母の不在や狂った母が回復したのなら、母を不在にさせ、狂わせていたのは、母に対する息子達の欲望だった、ということになる。

悪いのは息子達だったのか。いや、確かに息子達は悪かったのだが、そこにビンタをできなかったのは母の罪であり、そもそもその悪い息子達を生み出したのは、表現の母たる作者であり、それもまた、母の罪だ。

母と息子は交わってはならない。にも拘わらず、母は息子達に罪深い欲望を植え付けてしまい、それを果たさせないためには、不在になるか、狂ってしまうしかなかった。

今作でも母は、息子達に罪深い欲望を植え付けてしまった(懲りないなあ)。恐らくは母の側に、その罪深い欲望の根源となる何かがあるからだ。しかし今作では、けんたの母がビンタを決行し、翼がその価値を見届け、それを持ち帰った。それで母と息子達は、互いに罪深い欲望から解放された。

息子達の罪深い欲望も、それを制するビンタも、母からもたらされている。それは言い換えれば、母が母自身の、作者が作者自身の欲望を制することに、今作で成功した、ということだ。これは連載経験よりは、一作の完成の積み重ねによるものだろうか。

いずれにしても作者は、今作で、これまで描き続けてきたことに対し、一つの決着を付けていることになる。しかしそれで本当によかったか、と詩織のように問うこともできる。というのも、母に愛されずに苦しむ息子という主題は、作者の作品をこれまで一定度、特徴付け、読者もそれを支持し求めていたように思われるからだ。

ある主題に決着を付けたとて、それ限りで、もう二度と同じ主題を描いてはならない道理はない。繰り返し、同じような主題を描き続ける作家はいるだろう。作者もそうなるのか。そうならないなら、新しい主題を用意しなければならない。

ある主題の決着が新たな主題を生むこともあるが、そうなる保証はどこにもない。それに、どうにか新しく用意した主題が読者に支持されるかの保証もない。表現の母になることはともかく、表現の母であり続けることは、不安が尽きない。

美奈子は、幸せなお母さんになりたかった、と嘆いていた。幸せな、とは、頭がおかしくならない、不在にならず、狂いもしない母のことであるなら、それは叶いつつある。相変わらず、母と子供達とのぶつかり合いはあるが、いつも通りだ、と家の外に向かって言えるくらいの余裕はある。母と息子を引き離さなければならないような欲望は、もうない。

だが、それで本当にいいのか。この作品を含め、これまでのいくつかの作品は、狂った母を根底にして動いていた。これは、言い換えれば、狂った母はいくつもの作品を生み得る、ということでもある。表現の母であり続けるには、表現を生み続けなければならない。それには、多少なりとも、母は狂っている必要があるのではないか。

狂った母をそのまま放置するのでは、表現は生まれない。狂った母をどうにかしよう、というところに、表現の生まれる余地がある。だがそうすると、やがて表現は狂った母を回復させるに至ってしまう。それは母としては、嬉しいやら困るやら、だ。

今作で、狂った母は回復してしまった。同じ狂いを繰り返すことだって、できはするだろうが、読者が飽きてしまう危険が高い。作者自身だって、飽きるかも知れない。ではどうするべきか。母は再び、どう狂うべきか。

狂った母は、母が息子に罪深い欲望を植え付けながら、それを果たさせないために息子を拒絶する、という振る舞いをしていた。こう言ってしまうと、うんまあ狂っている。自分が原因だろうに、何やってんの。ということは置いておいて、ここでは、なぜそれを果たさせてはいけないのか、と問いたい。

母と息子は交わってはならない、とは現実の社会通念でもあるが、べつによくないか? 表現の母が生むものは現実に縛られる必要はないし、見たいものを見せてくれるのが表現ないし夢だ。見たくはないだろうか? オカモチ・ユカ(少女に戻った母)と交わる教師、アンジェリーナ・ジョリー(死んだ母の亡霊)と交わるレオ、しずか(母に似た少女)と交わる東、詩織(兄を求める妹として、作品外から越境してきた母)と交わる颯太、そうした先の物語を。

狂ってしまってはいけない、という方向性もあれば、とことんまで狂ってしまえ、という方向性もあるはずだ。後者はまだ見られていない。しずかと東は後者に進みかけたが、結局は取り消され、前者に進んでいった。これまでの狂った母は、狂ってしまってはいけない、の中に収まっている。狂ってしまってはいけない、の最終形がビンタではないか。

作者は、狂った母と悩める息子の関係を、魅力的な物語として描ける。なので作者には、意地が悪い、狂っているような印象を持つ人もいるかも知れないが、実際には作者の中には、狂ってしまってはいけない、という、極めてお堅い、常識を遵守する感覚があるように思われる。

とことんまで狂ってしまった先にあるのは、恐らくは母と息子の破滅だ。そこで、自分はともかく、息子を破滅させるわけにはいかない。そういう母の愛があり、だから母は息子に、甘くではなく、厳しく接さなければならない。母の愛ゆえに、息子は生まれ、しかし罪深い欲望も同時にそこに植え付けられ、それを果たさせない禁忌と苦悩が生まれる。

母になることとは狂うことだった。狂うから、そこに物語が生まれる。通常の母であれば子供を一度、産めば、ずっと母でいられる。しかし表現の母は、子供を繰り返し生まなければ、母ではなくなってしまう。子供が生まれてしばらくの間だけ母であると認められ、それが過ぎると世間から忘れ去られてしまう。表現の子は、夢のようなものだからだ。

表現の母として、狂い続けることは殆ど宿命だ。そうであるなら、狂うことを突き詰めるべきではないか。狂ってしまってはいけない、は一定の達成を見た。なら次は、とことんまで狂ってしまえ、だ。

狂ってしまってはいけない、の達成は表現の母、作者自身の欲望の制御として表れた。だとすれば、とことんまで狂ってしまえ、の達成は、作者自身の欲望の意識的な暴走として表れるだろう。そうなると本当に、息子だけでなく、その母、作者自身を破滅させる予感がしないでもない。

だが、恐らく、本当に狂ってしまった人には、表現はできない。狂った母はいくつもの表現を生める、と言ったが、そこには嘘や誇張が含まれる。狂った母とは、作者自身の欲望を想像力で膨らませた存在であり、機械か何かで脳内イメージを直接、外に出力できるのでもなければ、表現は冷静に狂いなく手を動かして地道に作り込んでいく他ない。

表現を続けることには、狂気を修正、回復させるような性質がある。もし、とことんまで狂ってしまえ、から新しく表現が生まれたとしても、そこにあるのは、今までとあまり変わらない、狂った母と悩める息子と、その破滅、という嘘と誇張だろう。

それは多分、これまでの狂った母が生んだ物語の、最後に配置された、救済や希望が抜け落ちたようなものにしかならないのではないか。そんなものか。いや、もしかしたら思いも寄らない発見があるかも知れない。表現は最後まで、何が出てくるか、何に化けるか、分からない。それはきっと、表現を生んだことのある誰もが、同意するところではなかろうか。

何にせよ、母はこれからも狂い続けながら、それを源として、冷静に表現や物語を生み出していくだろう。生み出された子供達は読者の目の前を駆け抜け、その内に忘れられていく。まるで夢のように。しかし、夢で感じた楽しさはどこかで残る。夢だから記憶に残ることもある。そうなることは、母にとっても読者にとっても幸せなことだろう。

作品冒頭から、何かを忘れてしまうための手段として、夢は描かれている。しかし、夢の騒動を仕掛けた耕三は、夢こそ何かを忘れがたく心に刻むための手段だ、と最後に伝えている。それは、表現を生むことの意味、表現を楽しむことの意味、その前向きな面と、後ろ向きな面の両方を示している。

表現の母であり続けることは常に、読者から忘れ去られてしまうことに怯え続けなければならなくなることでもある。もし忘れ去られたとしても、何か残っているものも、きっとある。どんな表現も、生んだ意味はある。楽しんだ意味もある。表現の母は、この作品で、表現に何かしら関わる人々に向けて、そういう結論を出したのではないだろうか。