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携帯の画面を見つめながらタチバナくんは海沿いの道を歩いていた。
今日はタチバナくんにとって待ちに待った日だ。
登録者2000人をもつ女性配信者《サメ肌のはっちゃん》
彼女と今日、もしかしたら直接会えるかもしれないからだ。
色が落ちかけていた髪の毛は気合いを入れて染め直してきたし、駅前で買った大人っぽいジャケットとシャツはおろしたてだ。鼻毛はもちろん眉毛だってきっちり整えてきた。
肩から下げた移動に特化したサイドバックには充電切れを起さないようにモバイルバッテリーをしっかりと用意してある。これも昨日電気屋で買っておいたものだ。万が一の為にミントタブレットも二つポケットに入れてある。
我ながら抜かりなしの今日の準備とは裏腹にタチバナくんは胸の高鳴りを抑え切れなかった。いつも画面越しに観ている人と同じ土地に自分は居るのである。それだけでも彼にはどこか非現実的で信じられないことだった。
松島湾の潮風を感じながらタチバナくんは石造りの小さな堤防にもたれかかった。
「はっちゃんの配信、まだかな。」
タチバナくんはさっきからずっと見ていた【サメ肌のはっちゃん】の配信ページをもう一度見直す。
「☆遠征配信☆ はっちゃん松島へゆく!」
みんなー元気ー?
なんとなんと
はっちゃんの配信の登録者が2000人突破しましたぁ!
そんなわけで、今日ははっちゃんからお知らせがあるよ!
タイトルにも書いてあるけど
2000人突破記念で今度の週末、はっちゃん遠征配信します!
場所は宮城県の松島!海が綺麗な町よね☆
はっちゃん初めての宮城県でとっても楽しみ^^
当日はおいしいものとか綺麗な場所とか色々まわる予定!
配信が始まったら通知が届くので、みんな絶対みにきてね♪
画面に映し出されたポップな文字達は朝起きてからこの場所に到着するまでもう何十回も見返した内容だった。
「肝心の時間が分からないからなあ。」
タチバナくんは液晶画面を見ながら苦笑した。
この手の配信というものは、あらかじめ録画されたものを編集して流すものではなく、テレビの生放送のようにリアルタイムで動画が配信される。
動画の配信中、閲覧者は配信者に対して自由にコメントを送信することができ、送られてきたコメントを配信者が時折読み上げ、閲覧者とコミュニケーションをとりながら放送は進んで行く。
放送日時を告知して配信を開始する人もいるが、サメ肌のはっちゃんの配信はいつもゲリラ的に始まることで有名だった。
いつなんどき開始されるか分からないサプライズ感を、配信者であるはっちゃん自身が楽しんでいるようでもあったし、配信を閲覧している人の中には、誰が一番最初に配信に気付きコメントができるかが暗黙の内に争われているのだった。というのも、配信に一番に辿りつきコメントを送信した閲覧者には、はっちゃんが直接名前を呼んでくれるという待遇があり閲覧者はその自分だけに向けられた数秒間を目指し、こうして携帯と睨めっこをしているのだ。配信の閲覧者の数が多ければ多いほど一番に辿り着くことも、名前を呼んでもらえる倍率もあがるし、それ故にこうした些細なこともきっと特別に感じられるのだろう。少し不思議な世界だが、今まで高いお金をかけてきた芸能人のファンクラブやアイドルとの握手会よりも、身近に感じられるはっちゃんの配信にタチバナくんは惹かれているのだった。
液晶画面を見つめていた顔を上げると、タチバナくんは観光客で賑わう商店街を見渡した。
昨夜ネットで調べた情報によると、松島には観光名所が何箇所かある。
タチバナくんの予想ではそのいずれかの場所にはっちゃんが突然現れてゲリラ配信を開始するというものだったが、配信場所がどの場所であっても素早く移動ができるように、且つ電波状況が比較的落ち着いているこの商店街を拠点に時間を潰そうと決めていたのだ。老若男女が歩き回る道路の中にタチバナくんは彼女の姿を探した。
と、その時手にしていた携帯が鳴る。
通知だ!配信の通知がきた!
タチバナくんはすぐさま配信閲覧用のアプリを開く。
画面の中に映し出されたのは映像は青々とした海だった。
「みんなー、はっちゃんの配信、はじまるよー!」
甲高い声と共に画面が移り変わり、サメ肌のはっちゃんが枠の外から顔を出した。今日は可愛らしくデフォルメされたサメの被り物を被っている。ちょうどサメの口にあたる部分にはっちゃんの顔が収まっている形だ。少しサイズが小さいのかなんだか窮屈そうに見える。
タチバナくんは寄り掛かっていた堤防の背後に広がる松島湾を振り返った。島々の合間から何隻かの白い船が海上に浮かんでいる。
背景に少しだけ映った海の様子から見て、きっと配信者であるはっちゃんは今あそこの船の上にいる可能性が高い。船の上か、、。
タチバナくんは苦笑した。
はっちゃんのこれまでの配信を思い返し少し考えればこんなことはすぐ分かることだったからだ。
観光地の真ん中でゲリラ配信を始めてしまうと、近くで待ち構えていたファンが場所を特定して群がり、周りの無関係な一般人に迷惑がかかる可能性がある。都心など人が密集する場所で大手配信者がゲリラ配信をした時には警察が出動する騒ぎになった話をタチバナくんは聴いたことがあった。
しかし船上のような隔離された場所ならそのようなことになる可能性は極めて低くなるだろう。きっとはっちゃんはそこまで考慮した上で配信場所を船上に決めたのだとタチバナくんは解釈した。遠くの海に浮かぶ船を細い目で眺めていると手元の携帯から声が響く。
「みんなー、早速コメントありがとう!さあ、今日はっちゃんの配信に一番にコメントをくれた人は、、、」
言葉を耳にしたタチバナくんは仰け反って頭を押さえた。
画面に映された配信場所についてあれこれ考えているうちにコメントをすることを忘れてしまったのだ。自分の名前を呼んでもらえるチャンスを早々に逃したタチバナくんは体を垂直に直すと、改めて配信に集中する。
名前が呼ばれなかったのはもう仕方がない。手遅れだ。
頭を素早く切り替えたタチバナくんは松島へやってきたはっちゃんへ、歓迎の意を込めたコメントを送信した。
閲覧者の数はアクセルをベタ踏みした車のタコメーターの様に上り続けている。秒速だ。名前を呼ばれなかったのは悲しかったが、それら一喜一憂に浸るのが惜しいのはこのスピードの早さに付いていく為でもある。
あっというまにコメント欄は大勢の閲覧者からのコメントに埋め尽くされ、タチバナくんが送信したコメントは濁流に飲まれる様にすぐに見えなくなってしまった。無論、そのコメントがはっちゃんの目に止まることはなかった。はっちゃんは船の上で窮屈そうにしていたサメの被り物を直している。
船上にいたのでは冷たい海を泳いでいくほかに会いに行く方法はない。現実味を全く感じられない手段だが、どうしても会いたい気持ちというのは無謀な可能性や方法を片っ端からタチバナくんに提示してくる。今すぐにでも会いに行きたい気持ちはあるが、今はじっと我慢して待つほか無い。たぶん個人で予約した貸切の船だろう。どれくらい時間がかかるか分からないがそれまでタチバナくんはひとまず船上のこの放送を楽しむことにした。タチバナくんは再び堤防にもたれかかり、サメの被り物を誉める内容のコメントをはっちゃんに向け送信した。放送が始まったことに安堵したのかお腹が鳴る。はっちゃんに会いに行くという目的でやってきた松島だが、今は配信を見る以外特になにをすることもない。
目の前の商店街まで歩いて何か食べ物を探そうと思ったが、なんだか海辺のこの場所がタチバナくんはいつの間にか心地良くなってしまっていた。
なんとなく周りを見渡すと数メートル先、丁度いいところに玉こんにゃくの屋台が見えた。配信に集中するあまり気付けなかったが意識を屋台に向けてみると途端に玉こんにゃくの暖かな煮汁の香りが鼻を刺激してくる。香ばしい匂いに反応するように再びお腹が鳴った。
タチバナくんは堤防から体を起こしジャケットを正すと、屋台へ向けて颯爽と駆けていった。
■
天井の高い黒々とした狭い通路が目の前に現れる。
通路の向こうから僅かに差し込む光以外明かりは無く、間接照明なども設置されていない。
大人二人が並んでやっと歩ける程度の道幅、壁や床は一面黒く塗装はされているがコンクリート製ではないようで暗くモダンな印象でありながらも微かに温かみを感じられた。
通路の先にはたぶんダイニングが広がっているようだが、その部屋と通路の境界にはのれんのようなものが天井から下がっていて空間としての全容は掴めない。
陽菜は奥で聴こえる男女の話し声を辿るように通路をゆっくり進み、シルクのような生地ののれんをくぐった。
すると一気に眼前の空間は広がり、先ほどまでの閉塞間はたちまちに消え失せる。
開放感というものがそのメインダイニングには満ち満ちていて、広々とした空間の中央にはコの字型の大テーブルが置かれ、なだらかな形の黒い背もたれの椅子が整然と並べられていた。両側の壁面には装飾などは無かったが、真正面の壁は大胆に大きく刳り貫かれ、そこに嵌められた天井まで伸びたガラス越しには手入れされた大小の木々が木漏れ日の中で緑の色彩を放っていた。
まるでひとつの大きな芸術作品を観ている気分だ。
ここからは陽菜の空想でしかないが、きっと世界でも名の知れた建築士がデザインしたのだろう。先ほどまでの細い通路もこのメインダイニングとのコントラストを力強いものにするための演出にすら思えてくる。いや、たぶんきっとそうなのだろう。陽菜はGOISHIの店内から溢れる気品に文字通り呆気に取られていた。
「本当はこういうの苦手なんだよなあ。」
いつの間にか陽菜の傍らに長身の男性が立っていた。
深海を連想させる様な低くトーンを落とした青いダークスーツが目を引く。見上げた男性の顔からは少年の様な純真さが感じられた。幼いとも大人っぽいとも違う、この表現が自分でも正しいかは分からないが陽菜は彼の横顔から強くそういう印象を感じていた。男性はポケットに手を突っ込みながら黙っている。
声をかけた陽菜の反応を待っているのだろうか、それとも男性は単に独り言を呟いただけで陽菜が声をかけられたと勘違いしてしまったのか、いずれにしても男性はじっと黙りながら泰然自若とした雰囲気で窓の外の木々を眺めている。
ダイニングの中央に置かれた巨大な木製テーブルの横で男性と会話していた中崎が陽菜に気づいて二人の方へ駆け寄ってきた。
「あぁ水無月くん、一体どこ行ってたの、もう皆さん集まられてますよ。露木さんもさあこっちへ。」
水無月くん??
陽菜は頭の中で中崎の言葉を租借した後に隣の男性を凝視した。
「中崎さん、私は松島での食事は希望したけど、こんなに洒落た店を選ぶなんて。」
男性は整った顔立ちを少ししかめると訝しげに顎を触った。
「あはは、そういや水無月くんは苦手だったなあ。まあ、でもせっかく予約したんだし今日だけ我慢してくださいよ。」
中崎は頭をかきながら言った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」
陽菜が突然声をあげたので二人は不思議そうに陽菜を見つめた
「あの、、中崎さん今水無月さんって、、」
中崎は陽菜の言葉に思い出したような反応をしてから笑った。
「あっ、いやあ、すまない!露木さん、彼があの水無月コウタロウくん!紹介が遅れてしまったね。水無月くん、こちらお電話でお話しした私の友人の露木陽菜さん。」
「ああ、君か。中崎さんの友人の若手小説家って。はじめまして、水無月です。今日はありがとう。」
水無月は淡々とした声で話してから、陽菜の前へ片手をすっと差し出した。
「あ、は、は、はじめまして、露木陽菜です。今日は、ありがとうございます!」
陽菜は大きく頭を振ってお辞儀をすると水無月の片手を両手で強く握った。暖かで艶のある手肌の感触は何処か女性らしく陽菜に感じさせた。
生まれて初めて他人と会話するような話し方の陽菜に水無月は先ほどまで硬くしていた表情を幾分か崩して微笑んだ。
「短い時間かもしれませんが今日は楽しんでくださいね」
水無月はそう言い残すと奥の大テーブルへ一人ゆっくりと歩いていった。
陽菜は「ふぅ」と息を吐いて肩を撫で下ろすと横に居た中崎に向き直った。
「中崎さん、わたし大丈夫でしたか。」
水無月への紹介が遅れた事を責められるのかと思っていた中崎は少し意外そうな顔をした。
「ん?、んー、どうだろう。彼って少しユニークな所があるからね。さっきの取り乱したような露木さんの挙動ももしかしたら面白がってくれてるかもしれないし。私も彼の事をちゃんと理解できているかは疑わしいですからねえ。」
中崎は腕組をしながら微生物を観察するように水無月コウタロウを眺めながら言った。癖なのだろうか。中崎は眉間に皺を寄せて必要以上に目を見開き顎を前に突き出している。本人にふざけているつもりは無いようだが強張っている顔のせいで陽菜には中崎が考え事をするマンドリルのように見えてきてしまう。このままじっと見ていると笑いがこみ上げてきそうだったので陽菜は中崎を置いて奥のテーブルに向かって歩き出した。
コの字型のテーブルのそばに集まっている人々は皆カジュアルでありながらも落ち着いた格好をしていた。なんとなく見た目から漂うオーラから皆それぞれ何かしら才を秘めた人々のように陽菜には感じられた。
食前酒なのか透明の澄んだ液体が注がれた細身のグラスを皆片手に持っており、落ち着いた店内のトーンを崩すことなく粛々とそれぞれに会話を楽しんでいた。
水無月は細身のデニムを履いた髪の長い女性と会話しながら時折何か難しい顔をしていた。と、何処かの新聞社の記者なのだろうか、大きなカメラを持った男性が水無月と肩を並べた女性に近づき声をかけると、すぐさま何枚か写真を撮影し始めた。先ほどまで険しい顔をしていた水無月とその女性は切り替える様に表情を崩すとカメラに微笑んで見せた。
「やあ、みなさん、今日は当店のご利用誠にありがとうございます。揃われましたか?」
ダイニングの左手側の押し扉が開き中から黒い前掛けをした男性が現れた。
デザインパーマがかけられて方々へ散った髪の毛と昆虫博士の様な丸眼鏡が印象的なその男性は微笑を切らすことなくカメラを向けられていた水無月のそばまで歩み寄るとぐっと手を取って握手をした。
「先生、新作ほんとうに待ち遠しかった。おめでとうございます。」
「ありがとう呉石くん。しかし見事な店だね。都内じゃ飽きたらずに地元にも立派な城を建てるなんて。流石二年連続ミシュランに認められた男は違う。」
水無月は呉石と呼んだ男性をからかうように笑いながら言った。
男性は握っていた片手を水無月の手から話すと眼鏡を直した。
「ありがとうございます。今日は料理を通してお祝いさせていただきますので、楽しんでください。皆さんも、改めて今日は御臨席ありがとうございます。席についてもうしばらくお待ちください。間もなくアミューズをお持ちしますので。」
そう言って踵を返した彼はすぐさま何かを思い出したように踏み出しかけた足を止めた。胸ポケットから銀色のケースを取り出すと、テーブルのそばに集まっていた男性の一人に歩み寄った。
「自己紹介が遅れました。わたくしGOISHIにてオーナーシェフをしております、呉石光成といいます。この度はありがとうございます。」
彼はそう言うと銀色のケースから名刺を差し出した。
なにが起こっているのか察知した他の参加者が皆引き寄せられるように呉石の周りに集まっていく。
一通り名刺交換を済ませた呉石は参加者の輪から少し離れた場所にいた陽菜と中崎に気づき近付いてきた。
「中崎さん、今日はうちの店を選んでくれてありがとうございます。」水無月と同じく中崎は彼と面識があるのだろう。呉石は名刺を渡すことはなかった。
「いやいや、いいんだ。私は君の作る料理をいつか水無月くんにも食べてもらいたくてね。だから、いい機会だよ今日は。」
中崎はそう言ってから呉石の肩を叩いた。
「ありがとうございます。中崎さん、こちらの方は東北大の?」
「ああ、いや違うんだ。彼女は私の友人でね。露木陽菜さん。彼女は水無月くんに憧れて今小説を執筆中なんだ。」
「あぁ、そうなんですか。素敵ですね。露木さん始めまして、呉石と申します。今日は来てくれてありがとう。」
呉石が差し出した名刺を陽菜は受けとる。身長の高い彼は近い距離でよく見ると若々しく陽菜と年齢もさほど変わらないように見えた。丸眼鏡の奥の彼の瞳は、今日という日を迎えた事を喜ぶ純粋な輝きに満ちていた。
「は、始めまして、今日はありがとうございます。わたし、こんな立派なお店に来たことがなくて、、ちょっとびっくりしてます。」
陽菜は肩にかけていたトートバックを直しながら言った。揺れたバックの中からペンやテープケースの混ざった音が鳴る。
「あはは、大丈夫。水無月さんも露木さんと一緒でこういう場所、苦手だから。付き合いがあるから僕には気を使って言ってないみたいだけど。」
呉石は陽菜の横に居た中崎に軽く目配せをして少し自嘲するように言った。
「今日の主役は水無月さんだから普段出さないフランクな料理を出そうと考えているんだ。格式に囚われない食べやすいものを作る様にするから心配しないで。」
呉石はそう言って微笑み、陽菜を励ます様に軽く肩を叩くと中崎に会釈してダイニングの奥の方へ戻っていった。
巨大な芸術作品の様な店内の雰囲気や、お店の外で聴いた出店に至るまでの話などから気付かぬ内に体が強張っていた陽菜は、呉石の言葉や振る舞いに暖かな安心感を感じた。
少しだけ落ち着いた気持ちになった陽菜は改めて目の前で談笑する大人たちを見る。緊張が緩和された故か先ほどまで感じていた彼らとの距離感は不思議と薄くなっているように思えた。
「さぁ、露木さん、席につきましょう。彼の料理が間もなく到着するはずです。」
陽菜の表情を見て取った中崎が頃合を見計らったように隣から声をかけた。
■
数時間の後、会食を終えた陽菜は食事会の散会を前にした会話を楽しんでいる参加者を離れ、整然とした店内を眺めながら歩き回っていた。
僅かにグラスに残ったワインを片手で揺らしながら、赤らんだ顔の中崎は少し大きな声で相手と会話をしている。ちょっと飲みすぎている様だ。
今日参加していた水無月の友人達は会話を聴いていると総じて一般的な常識に囚われていない考え方の持ち主ばかりだった。
世間のセオリーに固執した考え方というものを異質なもの、不要なものというような言葉が反芻してある種の烙印めいた印象で彼らの会話の中に出てきたからだ。
それらに縛れた人々を軽蔑するような言葉は決してなかったものの距離をとったり関わり合いをもたないという結論を共通して皆もっていた。
互いの為のベストな選択というのが答えだ。
年齢は水無月を含む全員30代半ばが中心で会話の中で使う言葉達は若々しくはあったが、陽菜には年齢という数字を上回る彼らの深みのある話題達が今日まで過ごしてきた日々や経験に裏打ちされたものであって、同じ席を囲んだ近しい距離感がありながらも、普段は自分の想像を超えた世界の住人である事を同時に認識させていた。
しかしながら冗談を言い合って笑いあう顔を見ていると再びそういうことを忘れて遠くの親戚と一緒にいるような穏やかで不思議な感覚があった。
中崎はそんな参加者の中でも年長者らしく、皆口々に中崎には整った言葉を崩さずに声をかけていた。
中崎はそれに対して偉ぶる様子も無くあくまで控えめな言葉数で彼らの話題に耳を傾けていた。
ほとんどの事は笑顔で流してはいたが時折真剣な顔で彼らの導き出した答えに補足をするような言葉をかけていた。
それが食事会全体のアクセントとなり、また調和となり彼ら全員の長きにわたる繋がりを淑やかに立証していた。
「露木さん。」
天井まで伸びたガラス越しの植物を眺めていた陽菜に声をかけたのは今日の席に同席していたカメラマンだった。会の最初に水無月の写真を撮っていた事を思い出す。
「あっ、ちょっと動かないで。そのまま、そのままで。」
動き出そうとした陽菜を制するように彼は素早く声をかけた。
「この光の具合と今の露木さんの表情、すごくいい。」
うわ言の様にうとうとと言葉をもらした彼の方から連続したシャッター音が無機質に響く。
「うん、よし、そう。もうすこしそのままで。」
彼はその場に腰を落として今度は低い位置から陽菜の事を撮影しだした。
シャッター音に混じって背後で中崎の笑い声がまた聴こえる。
「んー、よしっ。オッケー。ありがとう。やあ、急にごめんね。」
男性は満足したのか眼前からカメラを放すと改めて挨拶をした。
「そうそう、ちゃんと挨拶してなかったね。俺、仙台でフリーカメラマンしてる北多川っていいます。よろしく。」
そういえば、と陽菜は思った。
席で各々の自己紹介をしていた際、順の最後だった彼の自己紹介と最初の料理のタイミングが被ってしまいそのまま流される形で食事会がスタートし、陽菜は彼の名前を聴いていなかったのだ。
その場の全員が多分すでに名前を知り合っていたか、もしくは細かい事をあまり気にしない性格の為か再び彼の自己紹介に話しが移る事はその後なかった。
「今日は俺、中崎さんの厚意で呼んでもらってなんとか参加できたんだ。水無月さん、協力的な態度で接してくれて助かったよ。巷じゃ写真嫌いだって聴いてたから。」
窓辺の陽菜の隣で同じ様にガラス越しに植物を眺めながら北多川は言った。
それにしても中崎さんは知り合いの幅が広いな、と陽菜は思う。
「北多川さんは皆さんとお知り合いじゃないんですか。」
「俺は今日撮った写真を市内の新聞社に回したりしてるだけ。本当だったら公式じゃないこんな個人的な会には絶対呼んでもらえないよ。」
中崎のおかげで今日の会に参加できた陽菜は、北多川の言葉に改めて自分は特別な場所にいるということを感慨深く思った。青葉祭りにまゆと出かける事を躊躇していたらきっと永遠にこんな機会には巡りあえなかっただろう。
「あ、そうだ。写真、撮らせてもらったけど、もし個人的に使用する事があれば話し合いたいから連絡先教えてもらってもいいかな。」
北多川がそういってポケットから何かを取り出そうとしたので、陽菜は体を彼の方へ向けた。その時だ。
窓の外で何かが素早く動いた気がした。
視界の外でなんとなく感じた気配を確認するように陽菜は再びガラスの向こうへ目をやる。北多川も後を追うように顔をそちらへ向けた。
立派に手入れされた木々が生い茂るハーバリウムの様な箱庭空間。
よく見ると松の木の下に生えた茂みの中でなにかが蠢いている。
「おいなんだアレ。呉石くん、外、外!」
会に参加していた男性の一人が後ろから声をあげる。
声を聴いた呉石を含む参加者が陽菜と北多川のそばに集まる。
ガラス越しに大挙して箱庭を眺める大人達の光景は動物園に新しくやってきた獣を見るような奇妙なものだった。
そうこうしている内に目の前の茂みから何かが飛び出してきた。
人だ。窓側に背中を向けている為に顔が見えない。しかしなんだか変な頭の形をしている。ここから観ているとまるでツクシの様だ。
細い棒の様なものに固定された物に向かってなにか喋りかけているようだ。
GOISHIの窓辺に集まった面々は、皆目の前のその珍妙な光景を固唾を呑んで見つめていた。
やがて、何かの意思を受け取ったかのようにその人物はゆっくりとこちらへ振り返った。
陽菜の目に映ったその人物はサメの被り物をした若い女性だった。
振り向いた場所に窓があったということも、そして陽菜たちの注目の的になっていたということもサメの女性にとって全てが意識の外にあったようで、陽菜達とガラス越しに目が合うや否や漫画の様に飛び跳ねて驚くと両手にもっていた何かを目の前に放り投げた。
と、その時、彼女の背後に人影が見える。
店内全員の視線の移り変わりにサメの女性も気付いたのか後ろを振り向いた。
窓辺の騒ぎを聴きつけたGOISHIの調理スタッフだろうか、いつの間にか店を飛び出していたのだろう彼らはサメの被り物をした彼女の傍に近寄っていく。
しかし何か様子がおかしい。陽菜は異変に気付く。箱庭に侵入した彼女に対し、彼らは何故か握手を求めていた。相手の女性も旧知の友と再会したように声を上げて握手に応じている。完全に店内の彼らを置いてけぼりにして盛り上がっている様子だった。
「呉石くん、なんだか分からないが面白そうだ。私達も外に出てみないか。」
陽菜の真後ろから声が聴こえる。信じられないくらい近い距離で陽菜の耳元で聴こえたのは水無月の声だった。陽菜は驚いて振り向いた衝撃で水無月の顎におでこをぶつけてしまう。
「いたっ。」
「あっ、す、すみません。水無月さん大丈夫ですか。」
二人の小さなやり取りの間にもなにやら箱庭が騒がしくなっている。財宝を見つけた盗賊の様にサメの女性の周りには続々と人が集まっていた。
「呉石さん、店の外が騒ぎになってます」
外に出たと思われた調理スタッフが厨房から飛び出してきて声を上げた。
「今日は貸切にしていて助かった。僕らもちょっと外に出ましょう。」
スタッフに対して呉石はあくまで冷静な口調であったが店の敷地内での騒ぎとあってエプロンを乱暴に剥がすと誰よりも早く外へ駆けていった。
ぶつかった顎をさすっていた水無月はその様子を見て表情を変えると呉石達の後を追った。離れ際、陽菜にはなんだか水無月の顔が喜んでいる様に見えた。
「中崎さん、わたしもちょっと行ってきます。」
グラスワインを持ったまま赤ら顔で目をぱちくりさせていた中崎へ言葉を投げると陽菜はその返事を待つことなく場を離れた。
GOISHIを飛び出した陽菜の目の前には信じられない光景が待っていた。
サメの被り物をかぶった男女が皆携帯電話を片手にひしめきあっている。
それぞれが距離をとってまばらに立ってはいるが全員なにか共通の目的でこの場所に居る事は明白で、陽菜には同じ様な格好をした集団がなんだか少し不気味に見えた。
瞬間呆気にとられていた陽菜だったがすぐに目の前の事を後回しにすると店裏に位置する箱庭スペースへ駆けた。
「生はっちゃんだー、やったー」
歓喜の声をあげながら走る男性とすれ違う。彼は被り物をしてはいなかったが先ほどの集団の仲間だろうか。
店の裏には店舗の外と同様に人だかりができており水無月と呉石達はその輪の中に居た。
「呉石さんこれって。。」
陽菜はサメの集団の中に居た呉石のそばへ駆け寄ると声かけた。
「わからない。あの子はきっと有名人かなにかなんだろう。けど、この状況はちょっと困ったな。」
すいません。すいません。ちょっとどいて。と若い男女の波を押し分けて渦の中へ入っていった呉石は騒動の中心に居たサメの女性のそばまで行くと声をあげた。
「ちょっと皆さん聴いてください。いいですか。ここはうちの店の敷地内です。こういう騒ぎは非常に迷惑なので今すぐに出て行ってください。警察を呼びますよ。」
呉石の突然の大声に一瞬彼らはひるんだように見えたが、集団の誰か一人が声をあげたかと思うと共鳴する形で彼らはすぐにその威勢を取り戻した。警察を呼ぶなら呼んでみろと言わんばかりだ。
呉石がもう一度声を上げようとしたその時だ。
「みんなー、はっちゃん人に迷惑かけちゃったのでここから離れます。後でちゃんとみんなと握手するから皆もここから一回離れよー」
サメの女性が山びこへ呼びかけるような大袈裟な姿勢で大勢の人に向けて声をあげたのだ。
サメの女性からの呼びかけに対し集団からは口々に残念がるような声も聴こえたがそれもすぐに止み、先ほどの呉石の時とは違いゆっくりではあるが箱庭の敷地から一人、また一人と出て行った。
勢いをつけた発言をしてしまった呉石はなんだか少し拍子抜けしてしまった。
やがて人で溢れていた箱庭のスペースにはサメの女性と呉石達だけが残った。
落ち着いた頃合を見て取ったのかサメの被り物をした女性が口を開いた。
「あのー。さっきはすいませんでした。ここの場所。カエルが冬眠してそうだから興味が湧いちゃって。ちょっとほじくっちゃった。」
サメの女性は照れるような仕草で舌を出すと意味不明な事を突然に言い出した。呉石は呆れたような顔をしている。
「あのねぇ、君。どういう人か知らないけど無許可でこういう所に立ち入るのは好ましくないね。今日はうちの店で貸切の食事会を開いていたんだ。とっても特別なね。その雰囲気を君の勝手な好奇心で壊したんだからちゃんと謝ってもらわないと。」
呉石は少しだけ語気を強めて言った。傍らに立っていた水無月を陽菜がちらと見ると彼は隣の呉石と違い、捜し求めていた珍獣をやっと見つけた冒険家のような誇らしい顔でニコニコしている。
「はーい。わかりましたー。」
小学生の様な間延びした声を不機嫌そうにあげると彼女はその場にいた一人一人に謝ろうと近づいていった。被り物のサメはよほど大事な物なのか外す素振りを彼女は全く見せない。
「この度はお騒がせして申し訳ありませんでした。」
GOISHIの店内に残ったままの参加者を除いてその場に居た中崎、北多川、呉石、水無月の順に謝り彼女は最後に陽菜の前にやってくる。
「この度わぁ、お騒がせ、し、て、、って。。え?」
しおらしい顔で謝りつつ何気なく陽菜と目が合ったサメの女性は急に言葉に詰まったかと思うと目を丸くして二度三度と陽菜の顔を見つめた。
「。。もしかして、、陽菜ちゃん?」
目をしっかり見つめて離さないまま彼女は言った。
「。。え?」
陽菜は状況が理解できずにいた。何故この人は私の名前を知っているのだろう。急いで頭の中を探してみてもこんな女性の知り合いは身に覚えが無い。
サメの被り物をした女性は陽菜のきょとんとした顔を見てムゥっと眉間に皺を寄せたかと思うと鰐皮の主張が激しいショルダーバックをごそごそとやって何かを取り出した。
「これならどう?」
女性が取り出したのはまるで玩具みたいな大きなレンズの小汚い丸眼鏡だった。それをいそいそと顔の前に持ってきて陽菜に何か主張するように付けてみせた。
何処か懐かしい風が吹いて陽菜の中の記憶が一気に蘇る。
「。。。。え。。うそ、、もしかして、、丸子ちゃん?」
まさか。陽菜は驚いて口元を両手で覆った。
「あったりー!わー!陽菜ちゃん久しぶり!!」
サメの被り物をつけた妙な女性は大声を上げると勢いよく陽菜に抱きついた。
水無月らに囲まれた陽菜は思わぬ形で旧友との再会を果たしたのだった。
☆