見出し画像

「ALS安楽死事件」についての速攻雑文

うちの元気なオヤジが皮肉めいて言うわけです。

「後期高齢者に仲間入りしました!アッハー!!」

と。彼は表面的に言葉を羅列しているのではなく、「オイ、誰が後期高齢者やねん?」「後期ってどういうことやねん?ジュラ紀か?恐竜か?」と続く含みを持って話している。そもそも、「子ども」~「老人(高齢者)」と名指ししたのは誰か、何のためか。

「老人(高齢者)」とは?

答えのひとつは「定年年齢」「年金の給付開始年齢」「医療支給対象年齢」など、社会の仕組みとして定められたからと言えます。その意味では、そういった仕組みがない社会にはそもそも「子ども」も「老人」も存在しない(区分がない)。そもそも今でこそ一般化されている「子ども」概念が誕生したのなんて、17世紀前後のヨーロッパです。加えていえば「子どもらしい」以前に、「女らしい」「男らしい」といったジェンダー観なんてその程度の歴史しかない訳です(誤解されたくないのは歴史があるから是とする風潮ですが)。だから我々が考え、企図する「老人(高齢者)」も、社会的なシステムのなかで人為的に区分化されただけの同じ人間、これがまず大前提です

じゃ、「死体」はどうか?

死体が動き出すというのは民間伝承や呪術として世界中で散見されますが、映画などの影響もあって、持続的に人気があるのは「ゾンビ」「グール」でしょうか。大抵、ショットガンで頭が吹き飛ばされます(たまに木製バット)。ただ、それらはあくまで想像の世界の住人でしかない。じゃあ我々日本人は死体をどのように認識し扱ってきたか?世俗人として仏教的な見方からすれば、人間が亡くなって荼毘に伏せられた。しかしそこから拾骨が始まり、遺骨(の一部)を墓石の直下に納める。その後、法事という宗教儀礼があって、期間ごとに親族が集まって故人を想い出す。

僕自身はそのような場面に列席させて頂くことで、久しぶりに親族とも会えるし、それによって故人を想い出す契機ともなる。つまり故人はある意味で(少なくともボクの中では)「死んでいない」訳です。生きている我々をこうやって動かしてくれて、かつ「冠婚"葬祭"」の賑やかささえ創出してくれるのですから。生物的・医科学的には死亡と断定された人間でさえ、人格や思い出を認めるというのは、「死者でさえ「モノ」ではない」ということを如実に物語っています。​


今回の出来事で刑事事件の被害者となったALSの方は「脳死状態」でも「植物状態」でもありません。ましてや死者でもない。

安楽死について真面目に議論する時期が来ているのは確かです。一体何十年放置されているのか。

ただ、逮捕された医師の方がSNS上で発したと報道される「高齢者は見るからにゾンビ」という言葉は、ALS以前の話として、「老人≒モノ」+「老人ALS≒ゴミ」あるいはどこかの政治家がセクシャルマイノリティに対して発言した「生産性」といった用語が見え隠れしてしょうがありません。そもそもそのようなカテゴライズ自体が社会的・人為的に創られたものであるにも関わらず、偏見的な思想を持っていたと言わざるを得ない。というか、少し考えればそれらが如何に人為的な区分であるかわかると思うのですが、彼らはそうではなかった。

画像1


もちろん、本人としてのボク自身は、ALSとは無縁な人生を今のところ生きています。だから彼女の苦悩などわかるはずもないし、そもそも論として、他者の苦しみを完全に理解することなど難しいと考えています。だからこそ、僕自身は彼女とは違う立場から、自分自身を白線で囲って語る必要があると考えます。難しい問題です。安楽死の是非にまで繋がる法律以前の人間的な話になるのですから。ボクが最初にニュースを聞いた時も正直な話、出生前診断や死刑制度と同じレベルぐらい「難しい問題」と思いました。ただし、容疑者の思想が断片的であれ明らかになるにつれて、難病患者の方々以前の話ではないかと考え始めています。

問題は、

「老人」「子ども」「難病患者」「ジェンダー」「外国人」「移民」「難民」「セクシャルマイノリティ」…etc

など、社会的に創り上げられた諸事象と問題についての我々の無関心さ。実際に周囲いないと決め付けるどころか、想像さえしないまま、個人的な目先の損得勘定を "ものさし" としたときに生じる歪なまなざし。

多くの人には対岸の火事と思われるかもしれませんが、決して他人事ではない。明日は我が身、あるいは愛する人かもしれない。僕の周囲には実際にALSの方もいます。それと、これが大切かと思いますが、仮に身近にいなくとも「見ようとする」、「想像しようとする」という試みこそが重要かつ我々現代人に欠落している部分かと思います。現場は決して遠くないはずです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?