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「盗撮の元小学校教諭に有罪判決」(和歌山県)と「いきづらさ」について

「盗撮の元小学校教諭に有罪判決」と聞いて、頭にきますか?どうですか?

https://www.tv-wakayama.co.jp/smp/news/detail.php?keyword&page=3&fbclid=IwAR0lf6PbYXOHQoDri0tApFdId1TPYmVusg8YcU0uEUclS5xtJi3fIEwpAG4https://www.tv-wakayama.co.jp/smp/news/detail.php?keyword&page=3&fbclid=IwAR0lf6PbYXOHQoDri0tApFdId1TPYmVusg8YcU0uEUclS5xtJi3fIEwpAG4

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◆永山則夫さん(連続射殺事件,1997,死刑執行)の場合、幼少期からネグレクトを受けており、母親が失踪してからは兄弟間の暴力も増す。青年となった彼は当時の多くの人々がそうであったように東京に集団就職しましたが、彼の故郷は(兄弟のうち誰1人も残らない)脱農農家の拡大も相まって事実上消滅する。重要なのは、この時点で彼にとって、

「逃げ場や避難場所が無くなった」

という現実です。しかもそれは家(イエ)というインフラだけではなく、家族という人的支援も含めて。東京に出た彼への周囲のまなざしは「労働力」「生産力」で占められ、地頭の良さもあってか彼自身も、過去を含めた現状の「自己」「他者」という存在の耐えられない軽さを肌身で感じ取ったに違いない。

◆Aさん(大阪2児餓死事件,2013,懲役30年確定)の場合、彼女が当時6歳の時に母親が出奔・離婚。父は再婚するが再度離婚。Aさんは実母と義母から虐待も受けていた。21歳になったAさんは当時大学生だった男性と子どもを授かって結婚するが離婚。内容は双方の家族会議で決定され、Aさんの浮気や借金等の要因も重なって養育費などの話は出てこなかった。重要なのは、21歳や大学生などガキであって、それを考慮せずに大人な事情を貫通して話し合いと決定が持たれてしまったことだ。この時点で彼女にとって、

「逃げ場や避難場所がなくなった」

という現実です。だから、彼女は愛情に恵まれなかった自分自身の幼少期をトレースし、顧みながら「良い母親」に「ならなければならない」という義務感を背負ったまま2人の子供を連れて大阪で風俗嬢として働き始める。
※この「良い母親」に係る義務感はまさにジェンダーに起因しますね。

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で、今回の「盗撮の元小学校教諭に有罪判決」に戻りますが、現代社会において持続的かつ潜在的に流行語大賞を受賞し続けているのは、「いきづらさ」です。「3密」でも「ONE TEAM」でもない。

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少しだけ想像力を働かせてみると、加害者である教諭の性指向や性自認はゲイあるいはXかもしれない。ただ、問題なのは「彼が教諭を目指したこと」では決してなく、彼自身が周囲に対してカミングアウトどころか、相談をする人物さえ居なかったということではないでしょうか。そこには恐らく彼の保護者である家族や親族も含まれます。

実際、裁判を傍聴した僕の友人の話では、

「記者たちと県教委職員と母親がいて法廷は満員、しかし父親は裁判所の駐車場で待機」していた。 つまり「彼の周りに友達や同僚はいなかった」。

これは僕の個人的な意見ですが、

「彼、めちゃめちゃ、いきづらかったんちゃうの?」

とも思う訳です。

恐らくですが、彼はこれまでの26年という人生の中で、先に挙げた2つの出来事と同様に、自分が備え持つ「いきづらさ」について誰にも相談できなかった。ここで提起できる問題は、「いきづらさ」は決して「マイノリティと括られる人々に対してだけ存在するものではない」という共通性です。この視点があって初めて見えるマイノリティ問題というのもあるでしょう。

しかし多くの場合、私たちは感情が安直に動かされる見たいものだけを見て、見たくないものからは目を背ける。そのような人間関係の希薄化や個人化の進展の結果として、個々人は承認されず、存在価値を見出せない。しかもあくまで結論じみた話として、このような出来事が生じた際には直ぐに「自己責任」が持ち出される。

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僕ら、もう少し、出来事の向こうにあるものについて目を向ける必要があのではないでしょうか。

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