'90年代の青春を生きてきた諸君!都市化・グローバル化にみるアイデンティティの揺らぎ
いきなりですが僕にとって高校時代は「東京」で頭が充填されていました。進学したい大学も全部「東京」。当時ミスチルの『抱きしめたい』が流行っていましたが、それを聴いて「純朴な少年」(念のため括弧)が妄想した場所も「東京」。
東京とは僕にとって憧れであり目指すべき場所でした。苦学生として上京して十数年を過ごした父親の影響もあるでしょう。今40代を越えて当時の想いとは裏腹にアメリカのNew EnglandやNZで(完全な自給自足など現代社会では不可能ですが)生活のための最低限の身銭を稼ぎつつ自然の中でレインボーやブラウントラウトを釣りながら生活(移住)したいと、当時と間逆のことを考えている自分が可笑しくなります(僕の場合はダウンシフター的性質が強いですが)。
しかし、いわゆる「ロスジェネ世代」を真正面から生きてきた僕、しかも2年間の"素晴らしき浪人生活"(これ本気、美化していません)を経たのに、社会の向かい風は強くなる一方でした。就職も超超超×100000000ぐらいの厳しさ。僕にとってはそもそも「新卒」という言葉など虚しく、本来的に「社会」や「よのなか」に疑念を持っていた僕は、他の学生が100社以上を受ける中、2社(笑)だけ受けました。結果は最終面接に残ったもののあまりにも質問内容や態度が失礼だろコノヤローという企業もあり、ざまぁみろの木っ端微塵の0/2でした。まぁ、あのとき合格していたとしても、今は同じ場所にいないでしょう。ざまぁみろです(2回目)。
そもそも論として、
「中学卒業→受験(なんで?)→高校進学(なんで?)→受験(なんで?)→大学進学(なんで?)→就活と試験(なんで?面接でええやん)→就職(なんで?)→結婚(なんで?)→家庭(なんで?)→死(これ確実)」
という『決められたリズム』に疑念を抱き続けて生きてきた訳ですから。
結局、大学院に行く金がなく、フリーター兼研究生という立場で大学に所属しました。良い意味での僕のしぶとさ・諦めの良さ/悪さだと思います。彼女には振られました(※ちなみに今の嫁)。
"チョー・ボンビー" 生活。カネがねー、ゴキブリが米袋の中でレースしてるぅぅぅぅぅぅっ!しかし当時、僕と同じような感覚を持つ人はいわゆるマイノリティで、多くの学生は就職活動に現実的でした。クレバー&スマートです。
その状況下で僕が強く感じたのが「東京」を志向する学生の多さでした。確かに「東京」には多くの企業が存在していて、当時冷え切っていた関西より就職先が多いということも事実だったかもしれない。ただ、東京には「夢がある」「知の90%が集まっている」という文句と「モンゴルには何かがある」って言葉と何が違うねんと、とても違和感を感じたことを憶えています(未だに)。この虚構性。
「関西はもうダメ・・・」「故郷など関係もしたくない・・・」
もちろん、就職活動の結果として東京や関東に移住する他大学の学生も多くいらしゃいます。それはまた別の話として、そうではなく、僕の眼に映ったのは、そもそも就職先を内容よりも先に場所に求めるという「東志向性」を持つ人々の多さでした。言ってみれば場所・場所性を求めた先に自分の存在が其処にある、というものです。これは「伝統的」な「宗教」や自然に対するアニミズム的感性とは別に、社会的な意味こそが際立った結果だと考えます。社会的な枠組みの安全圏≒ステータスとしての場所性。
正直言えば僕の場合は「人生の順序」じゃあるまいし、大学3年時から就職活動に力を入れるという大学のあり方、学生のあり方に「ハァ?」という違和感を感じていたのも事実です。眠れないのに無理矢理ベッドに入れられた挙句「どうしますか?」とAndroidに催促されるようなもんです。
ネット環境が整備され、地方でも首都と同様に情報の送受ができる現在(2020,7,14)になって思うのは、当時における彼らの熱烈な東京志向は、メディアに映される東京を含み込んだ主観的な妄想の瞬発的発露であり、決して根拠付けられるものではなかったと思います。簡単に言えば冒頭で書いたような僕の『抱きしめたい』への妄想にちかい。現代を生きる日本人が未だに欧米に対して根拠なき憧憬を抱くような、ユートピア的理想の範疇を超えるものではなかったんじゃないかと思います。「東京問題」なんて安易に言う政権もどうかと思いますが、そういった用語の積み重ねが創る世界観のインパクトは、特に若者に対しては他のメディアと融合した結果、決して脆弱なものではなく、語理、言語化するほどにむしろ再構築されていく。
特に個人化が進展する社会においては、「グローバル化」・「脱地域化」といった概念が現実味を帯びてきた現代では、個人のアイデンティティがこれまで以上に揺らぐだろうということです。
グローバル化が進展する今日では更に複雑な感性が生まれていると思います。少し乱暴に言えば、何処にだって行けるんですから。
グローバル化の一般的感覚としては、
「お前ら、大抵の場所なら、どこでも行けるべ!!!」
「お前ら、外国人さ、いっぱいくるべ!!」
という1~2世代前なら考えもできなかったこと(近代期の官制移民は含めない)が現実化した結果、イエ観念・地縁・血縁の脆弱化も後押しした結果、「じゃあ、私の帰属場所とはどこなのか?」という問いが選択肢と共に強く押し出されてくる訳です。
「遠くへ行ける(はず)だろ?」
でも、
「自分の足場を確かめる必要もある」
結婚もしたい?可能なら子どもが欲しい?じゃあ何処に居住地にすべきか、帰属すべきか?その拮抗状態がもたらす先は、
「メディアが発信する情報」=「より華やかな場所」
でしょう(今のところ超不景気で都市部にも仕事がないスペインでは逆転現象が起きています)。あの頃、就職という竹の節目において、自分のアイデンティティを突き動かれ、揺らされていた人たちは今になってどのような気持ちでいるのか。当事者の思いとして変化はないか、若気だったのか、それとも子どもの将来を考えた結果なのか。良い悪いではなく「今」の意見を聞いてみたい。僕個人の経験則に基づく見方ですが、居住地に対外的な価値を見出そうとする人間は、基本的に自分自身の中身を鍛えることにあまり関心を持たない人が多いように思います。
いわばボードリヤール(Jean Baudrillard)が指摘するところの自己ブランディングとしての「記号的な消費」(消費記号論)が「居住地」にまで及び始めた結果です。
そんな風に考えつつも、いまだに大好きな曲は、
くるり『東京』
https://youtu.be/bmSlaXAbbas
ですが(笑)。