世界の見方①:知覚世界(前編)
私が子供の頃からよく言われた言葉の一つに「現実をみろ」というフレーズがあります。
いつも訳のわからない未来設計を話す人間に周りはさぞ手を焼いたかもしれません。
でもそう言われるたび、心の中でたくさんの反論をしていました。
私は私で現実をみているつもりだからです。
しかし、周りからすると「いつも寝ぼけたことをいっている奴」扱いをされるのです。
どうして、こんなすれ違いが生じるのでしょう?
もしかしたら、
「現実」のとらえ方が私と周りで違っているのかもしれません。
環世界
ドイツの生物学者ユクスキュルは、生き物がそれぞれの感性で作り上げる「環世界」という概念を発見しました。
私たちは世界は一つだと思っていて、みんな同じ現実を共有していると思っています。
でも目の前の世界は誰に対しても同じように存在するのではありません。
生き物は持っている眼の形も違えば、鼻の形も、耳の形も違うのだから、ハエや犬やヒトで感じている世界の姿はまるで違うでしょう。
著書の『生物からみた世界』ではマダニの環世界が描像されています。
マダニは動物の血を吸う吸血動物です。
一度、動物の身体に寄生すると一週間くらいかけて血を吸いお腹をパンパンに満たします。
なので的確に寄生先を見つけなければならないのですが、ヒトのような立派な眼や鼻や耳を持っている訳ではありません。
ごく限られた感覚器で獲物を見つけなければなりません。
マダニには眼はありませんが、光を察知する受容器は持っています。
光のあたる方向を頼りに、背の低い木の枝先に進みます。
そこで寄生する温血動物を待つのですが、どうすれば獲物が近づいたことが分かるのでしょう?
彼らは動物の汗に含まれる酪酸(らくさん)を嗅ぎ分けます。
もちろん、そんなに都合よく獲物が通りかかってくれることもないので、時には数週間も待つことになります。
運よく標的となる動物が通りかかると、汗から発する酪酸の香りにめがけて飛び移ります。
そうして寄生先の動物へ飛び移ったら体毛のない部分を探し、そこから何日も血を吸う事になります。
マダニは生涯で3回血を吸います。成虫になったマダニは血を吸い終わった後、宿主から離れ産卵へと向かいます。そして何千個もの卵を産み終わった後、力尽きて死んでしまいます。
マダニが感じている世界は、光の明か暗。酪酸の香り、吸い込む体液の温もりで成り立っています。
春の桜の色も、聞こえてくる音楽もマダニには分かりえません。
それどころか飛び移った先がなんの動物なのかさえも、彼らの世界には関係のないことでしょう。
ユクスキュルはこの環世界を知覚でできたシャボン玉と表現しました。
そのシャボン玉は外から見るのと、内から見るのとでは見え方がぜんぜん違うのです。
世界の一部分しかみていない
確かにヒトと他の動物とでは感じている世界のありようは違うでしょう。
目の見えないマダニや、暗闇に住むコウモリが、私たちヒトと同じ世界観をもっているはずがないからです。
でも、人間と人間とではどうでしょう。
同じものをみて、まったく同じように感じているでしょうか?
初対面で会った人に対して、あなたと友人で違う印象を持つという経験は誰にでもある事だと思います。
その人がメガネをつけていて、あなたは「頭が良さそう」と思うかもしれませんし、友人は「ダサい」と思うかもしれません。
人間の印象なんて、その人のどこに注目するかですぐに変わってしまうからです。
職場では「嫌な上司」という人が、家に帰れば「優しいお父さん」に変わる場合だってあるでしょう。
目の前の世界にも同じことが起きています。
同じものを見ていても、見る生き物や人間によって受け取り方には必ず差ができます。
ある人のすべての顔を見ることが難しいように、世界に存在するたくさんの情報を正確にすべてを把握することはできないからです。
普段私たちは気がついていないだけで、目の前の自然世界にはたくさんの情報があります。
音、におい、味、光、重力、気圧、物質の質感など、一度には全部把握しきれないほどの情報であふれています。
地球に住む生き物たちは、それらの情報から自分が生きていくのに必要な情報だけを切り取っています。
違う世界が生まれる理由
生き物がそれぞれに違うように世界を認識することには2つ理由が考えられます。
理由1:もっている感覚器が違うこと
理由2:同じ感覚器をもっていても、浮かび上がってくる現実が違うこ
と
理由1:もっている感覚器がちがうこと
感覚器とは眼や鼻や耳や皮ふなど、流れてくる情報を受容する器官のことです。もちろん、その情報は外から流れてくるものだけではありません。空腹や頭痛など身体内部の状態変化も教えてくれます。
感覚器は動物ごとによって感度に差があります。
例えばヒトは「赤」「青」「緑」の3種類見分けることができますが、犬は「青」と「緑」の2種類しか見分けることができません。
テーブルの上に赤いリンゴがあったとします。
私たちヒトは赤色のリンゴと認識できますが、犬は赤を知覚できないので緑色っぽく見えるかもしれません。
ですがこのことは必ずしも、ヒトが犬よりも正しく世界を知覚していることとは言えません。
もし、仮にテーブルの上のリンゴが良くできた作り物であったとしましょう。
私たちはそれを手に取るまで作り物と気づくことはありませんが、犬は視覚よりも嗅覚でモノを認知するため、リンゴと(少なくとも食べ物とは)認識することはないでしょう。
同じものに触れていても、感覚器の差は違う現実を生み出してしまいます。
理由2:同じ感覚器をもっていても、浮かび上がってくる現実が違うこと
でも同じ感覚器を持っていても、感じ取り方は違うかもしれません。いわゆる「クオリア」とよばれるもので、「私が見ている赤色は他人が見ている赤色と同じだろうか?」という哲学的な問いにつながります。
こんな問いがなぜ生まれるかというと、目の前の自然には「赤色」というものがないからです。
太陽光から反射した光を私たちの眼が受け止めて脳内で「赤色」と認識しているにすぎないからです。
だから実際のところ、自分が見た色が、他人にはどう見えているかはわかりようがありません。
実際にみているもの
では私たちはいったい何をみているのでしょう?
世界は無色かもしれませんが、その代わり太陽から放出された電磁波であふれています。
電磁波は持つエネルギーの違いによって名前が変わります。
エネルギーが高いほど波長が短くなって、身体に害を与えるようになります。
エックス線(レントゲン)や紫外線が危ないのは、光のもつエネルギーが強く、身体の組織や遺伝子を傷つけてしまうからです。
この中で私たちが色や明るさと認識するのは、可視光と呼ばれる範囲です。
もちろんこの波長の光に色がついている訳ではありません。
紫外線と同じで、本来であれば見えなくとも不思議ではありません。
では可視光が見えている理由は、なんなのでしょう。
それは単純に、
見えている方が生きやすいからです。
太陽から放出される電磁波には、いくつもの波長の光が含まれています。
ですが地球には地磁気によるバリアやオゾン層があるため、強い波長の光は地表にはかなり弱まって届きます。
そうした中で、モノにあたって反射するのは可視光か赤外線の波長がメインになるのですが、赤外線は熱があるものすべてから放出されるため情報としてはなかなか役にたちません(眼自体からも赤外線が出るからです)。
そうなると、モノの区別をつけるときに可視光の波長を読み取れた方が優位に働きます。
地球の生き物は長い年月をかけて、この微妙な波長の差を「色」というものを作り出すことによって読み取ってきたのです。
(後半に続きます)