肋骨蜜柑同好会『2020』感想
このnoteは本当に大好きな劇団である
肋骨蜜柑同好会の新作の感想です。
取り止めもなく思いの丈をつづっているので、
よくわからないかもしれません。
ただ、このnoteが誰かの胸ポケットに入って
ラブレターとして届いたらいいなと思うのです。
今回は役軸で感想を書いてみようと思います。
以下観劇直後のメモベースなのですが。役者は敬意を込めて敬称略。
あとメインで触れているのは肋骨蜜柑同好会のメンバーですが、
他の役者さんも全員好きだったよ。
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森かなみがあまりに「女」だった。
私が見た限りいつも中性的なカタブツの役が多かった彼女。
今回は服装も男女共に変わらず、髪も短く、化粧もそんなにしているわけではなく、胸も大きいわけではない彼女があまりにもセクシーで目を奪われた。
本物の役者だと思った。
室田渓人はいつも芝居の中で「フジタタイセイ」を演じていると感じているのだが、今回は特にそのままフジタさんだった。
劇団とはえてして宗教的になるものなのだろうが、総長は善人の顔をして全く無自覚に益を得ているという自虐的すぎる描写。あるいは他の劇団を揶揄しているのか。
藤本悠希は個人的に(松田龍平に似ていて)とても好きな役者なのだが今回も抜群だった。
世間の中で浮いてしまう、社会の端っこに引っかかった存在。宗教のかっこうのターゲットだ。彼は目の前の現実を「見たい」と思っていても、それを咀嚼し脳みそを介して「判断」することを無意識に拒んでいる。カメラマンらしい生き方だとも思う。
嶋谷佳恵は今回ヒール役だ。現実でもそこら辺にいるヒールだ。だからこそリアリティが求められ、やり過ぎれば「そんなやついない」と思われ、やらな過ぎれば印象に残らずヒールになれない。バランスが完璧だった。本人の苦悩も垣間見える。愛すに足る、実在しうる、私もなりうるヒールだった。
フジタタイセイはいつもいつも自身が完璧な役者でありながら劇作家としても天才という、分身しなければ本来生きていけない存在を何とか保とうとして生きているのだと思う。
今回も、大泉薔薇彦および会場洗浄係という、
物語の「輪郭」役を担っていた。
今回はパラレルワールドとしての、
肋骨蜜柑同好会がもし全く違う世界線で10周年を迎えていたら
(あるいは「フジタタイセイなしで」10周年を迎えていたら)
というお話だったが、その世界と本当の肋骨蜜柑同好会を繋いで
リアリティを持たせる役として存在するのが大泉薔薇彦と会場洗浄係だったのだと思う。
大泉薔薇彦はわかりやすい汚職政治家。
何故かオネエ風なのはフジタの遊び心だと思うが、
そうすることでより「キャラクター化」し、
頭身が2頭身くらいのパタリロ的なキャラクターを思わせる。
偶像であることを強調することで、物語のシリアス具合を緩和しているとも言える。
そしてこの手のキャラクターはありとあらゆる物語で割とこすられまくっており、パッと見て数言セリフを聞けば背景がわかってしまうため、「喋るモブ」としてとてもふさわしい。
大泉薔薇彦の存在は話の本筋にあまり関係ないことが、これらの演出で瞬間理解できるようになっているという訳だ。
会場洗浄係はテロリストだ。
私は最前席で鑑賞させてもらったのだが、あんなにアルコールでむせかえるほど会場を消毒する必要はないのだ。
それをここまでやることで、会場内外の「コロナがある世界」を攻撃している。
いちばん、素のフジタタイセイとしてやりたかったことなのではないかと思う。
そしてこの会場洗浄係も分かりやすい防護服で「動くモブ」として完璧な役割を果たしている。
物語の中ではコロナはないが、現実の私たちには存在する。
物語の中では消毒は必要ないが、現実の私たちには必要なのだが、あそこまでは必要ないという意味で、会場洗浄係は物語と現実の中間地点に位置する非常にニュートラルな存在で、なおかつテロリストなのだ。
とてもオシャレだ。
もう1人物語と現実の狭間にいるのがクロミだ。
時間も場所も関係なく移動出来る。
演劇を愛し、演劇を作れなくて悩んでいる劇作家を憂い、
人間を見るのが好きで、面白がることと面白くないことがはっきりしているカフェ店員。
彼女は観客の代表だ。と同時に「観客としてのフジタタイセイ」でもあると思う。
私はあなたの新作が見たい、と彼は全ての同業者を鼓舞している。
応援している。
インフルエンサーみたいな見た目をしているのは、「声を大にして世界中に言いたい」という気持ちの現れだろうか。
個人的に一番好きだったのは吉田覚の公衆電話。
おかきを食べるのも最高だった。
こういう話の本筋に関係ないところで遊べるのが劇団としての底力を感じる。
そして八村勇亡き後は久石智聡に入れ替わりそのまま登場するという、完璧なギミック。
黒子がかける黒いサングラスもオシャレだし使い勝手がいいし頭いいなぁすげえなぁと感心した。
明確にアダムとイブである鈴海友一と小鳥遊愛。
鈴海が八村からもらった林檎は腐ってしまった。
知恵の実を食べ損ねた人類は、拷問の憂き目に合う。
だから鈴海は蛇が苦手なのだ。
2人は男と女の代表で、その描かれ方はこの物語が伝えたい「男」と「女」であると言える。
男は自身をおじさんと思っており、臆病で妄想にとりつかれており、貞操観念が強く弱虫。
女は若く開放的で勇気があり、全ての現実をしかと受け止め、しかし問題意識もあり、気に入った男を射止めて2人だけの楽園を作ろうとする。
その2人が、まだお互いのことを何も知らないうちに交す言葉が、
自分の悪いところ、付き合わない方がいい理由というのが、
本当に愛の本質を描いていて天才すぎる。
男が思うより女の方があくどく、男が絞り出した最後の理由に「私もです」と応える女。
こんなに端的に、ありきたりな言葉を使わず、愛を描ききってしまうのだから恐ろしい。
聖書に書いても差し支えない名シーンだと思う。
そしてお互い「林檎」をかじり(あるいは林檎にかじられ)二人の間には見えない壁ができてしまう。
それでも女は心の奥底で気づいている。
「私があ、と吐き出した空気を、あなたがうん、と飲み込むことを望む」
さきほどのシーンで出来たこと。どんな「あ」でも「うん」と飲み込んでくれることこそが「愛」であるということ。
iとuの間には、あい、とう、の間には宇宙ほどの空間があるけれども、その空間を言葉を介してやり取りすることこそが、「愛」であるということ。
どんな言葉よりも「あいしています」の七文字の方が強いということ。
しかし、いつでも肋骨蜜柑同好会の物語は女は全て知っていて、男は何も知らないと描かれがちだな。
女は知っていると言うより、そう信じているという気もするけれど。
そして最後に黒子と化した、鈴海友一ではなくなったアダムが「聞こえているよ」と飲み込んで、この物語は終わる。
あー、美しい。
コロナ下で言われた「不要不急」
演劇界は改めて自分たちが「不要不急」であることを突きつけられたのだろう。
それはしかも「自己判断」で、自らに「不要」であることを自覚させるという、毒そのものだったのだと思う。
何故そのようなものに人生をかけているのか、関係者全員が苦しんだだろう。
そのうえで今回の物語のテーマが「演劇」であるという答えは、肋骨蜜柑同好会がいかにまともな劇団であるかということを示していると思う。
そもそも「不要不急」でないことなどこの世にないと思うのだが、衣食住を最低限繋ぐもの以外は全て「不要」とされた我々の現実。
そこに、それでもその「不要不急」側として抗うには、どうしたらいいのか。
そもそも抗うとして相手は見えない「世の中の流れ」そのものであり、誰かをやっつけたら終わるものではない。
一生やっつけられないかもしれない。
でも、肋骨蜜柑同好会なら、いつか物語の中でだけでも、やっつけてくれるのではないかと期待している。