人生で「恩」を感じることが出来る瞬間は、本当にかけがえのないものだと思う。
「恩」というのは非常に儚く繊細で、少し踏み込み過ぎれば「おせっかい」になり、少し引き過ぎれば「無関心」または「イヤミ」となる。
信頼出来る人間関係の間で、いちばん尊い贈り物。
それが「恩」なのではないかと思う。
というのも、最近私が、本当に初めて心の底から「恩」を感じたからである。
正確に言うと昨晩のことだ。
だいぶ前に買って放置していた組み立て式パレット。
これをソファ代わりのマットレスの下に敷いて湿気対策とするつもりでいたのだが、木が乾燥して全然釘が打てず本当に途方に暮れていたところを、近所のバーのマスターと1.5ヶ月連勤中の友達が手伝って作ってくれたのだ。
なんだそんなことか、と他人事なら思うかもしれない。
しかしこの暑い中、仕事で疲れている中、私の家に収まる、彼らに何の恩恵ももたらさない家具を、労力を惜しまず作って運んでくれる。
これが「恩」でなくてなんだと言うのだろう。
とりあえずだいたいは1人で生きていけると思っていた。
家事も最低限できるし、働いてお金を稼いではいるし。
言ってしまえば今回のパレットづくりだって、放置せず作ればもう少し木が柔らかくて何とかなったかもしれない。
あるいは組み立てを諦めて捨てればなんとかなる話かもしれない。
ただ、あまりに重くて固くて手に負えなくて、物理的に挫折していたことは確かだ。
そんな窮地に立っている隣人のために、無償でこんな大変なことをやっていただいていいのだろうか。
(正確にはごはんやら差し入れやらは感謝の気持ちとして送りはしたが)
麻雀プロになってから、ようやく損得に敏感になった。
なにしろボケっとしてると延々と損をしかねない、お人好し家庭出身の私である。
(詳しくは過去記事を参照されたい。)
昨日2人がしてくれたことは、本当にありがたかったけど、損得で言うと私が得をし過ぎているように感じてしまう。
「御恩」とはこれほどまでに尊く、また埋め合わせようのない出来事なのだ。
思えば同じコミュニティの別のメンバーとキャンプに行った時も、私は与えられてばかりだった。
なにしろ運動神経マイナスの、脂肪大杉で死にかけている私である。
アウトドアのスキルなどあるはずもない。
しかし彼らは文句も言わず、全員自主的にテキパキと働いており、私は申し訳程度にお皿を並べたり飲み物をついだりなどしつつ、ぽやぽやしていただけであった。
あまりにデクっていたのでもしかしたら内心かなりおかんむりの方もいたかもしれないが、少なくともみな表面的には穏やかだった。
「与えよ、さらば与えられん」
というが、先に与えられた側はどうしたらいいのだりう。
私は何を与えられるのだろう。
私は、与え続けられる人でありたいなと、切に思う。
点棒以外を。