推しのいる生活
推しのいる生活が浸透している令和だと思っている。
そもそも『令和』という元号が、
発表当時の安倍首相の言葉そのままもってして、
という、個性礼賛宣言であるのだが、
本当に言葉には言霊が宿るもので、
面白いほど平成と令和の時代性は異なっていると感じる。
(話は逸れるが、どう見てもSMAP!とみんな思ったよね)
(一方作者のマッキーは逮捕されたのだった)(なんをかいわんや)
少し前から、「オタク」という言葉が市民権を勝ち得た。
クラスの端の方にいる日陰者を指す言葉ではなく、
自身の趣味や知識など、「趣向」の深さを表す言葉として自称している節があると感じる。
より何かを極めているものこそ礼賛される。
その礼賛を求めて、人は何かを極めていることを主張する。
いわゆる「承認欲求」である。
ただ、この世の全ての人間が、自身の力のみで何かを極めることが出来るわけではない。
褒められたいし注目されたいし認められたいが、
自身のなしえた何かで得られるそれは、だいたい僅かだ。
そこで、「推し」に期待し、推しを応援することで
自分の人生やお金を投資して、
何かを達成してもらおうとする人が急増している。
本当に爆増していると思う。
ファンであることが自身のアイデンティティを確立する手段になる時代。
きっと自分が「推した」おかげで、この人はこの地位にたどりついた、と自認することが、自己肯定につながっているのだ。
ところで、麻雀プロは、古くから一人ひとりが現場=雀荘でファンを集めて
人気プロになっていく流れがあった。
地道にファンを増やし、放送対局に呼ばれ、そこで活躍しさらにファンを増やし、というループは、アイドルのライブ活動とほぼ同じ。
違うところは、なんとライブをする=雀荘に出勤したら必ずお給料がもらえるということ。
アイドルよりよっぽど下積みがしやすい職業と言える。
時代が麻雀プロの生態系に追いついてきている。
むしろ最先端の職業だったのだ、とも言えそう。
実は何を言いたいのかメモせず、
下書きに保存したまま半年経ってしまっていたので
このノートの終わり方がわからない。
みんなに才能がある世界は、もちろん素晴らしい。
みんなが才能を目指して努力する世界も、とっても素晴らしい。
でも、みんながみんな、その努力を強要されなくても、
誰かに期待して(=推して)、その力で世界をよくできるなら、
それはそれで素晴らしい。
推しのいる生活は、人類の社会の進化形態のひとつだと思う。
みんな、気軽に推しを推そう。