ニーアオートマタ感想文

半分くらい自分語り。

100%を吐き出すためにネタバレの躊躇無く駆け抜けるので、未履修の人はスルー推奨。

なお、長いので文中では作品名を「ニーア」と表現するが、全てニーアオートマタのことである。レプリカントはまだやっていない。


現状

・データ全削除→やり直して今に至る
・アーカイブなど読み物は基本100%(魚と敵機情報はスルー)
・サブクエはスピードスターと情報収集任務以外完遂
・DLC消化済

きっかけ

これ。
ミーム的に有名なキャラデザだけは知っていた程度で、シリーズ通して中身の知識は皆無。
信頼おける筋からの紹介だからという理由が9割、著名なスケベ人形を実作品で拝んでおくかという理由が1割。

とりあえずキャラデザ

なんにも性欲が湧かなくて驚いた。しっかりした性欲に限らず、スカートめくりみたいな子供のイタズラ的発想すら頭に浮かばない。

ここの理由は明確で、完全にゲームとして楽しみきってしまい、脳がそっちのモードになっていたから。かつ、後述するが道中は常に考え事やら心配やらで頭がいっぱいだったというのもある。

だからこそ、2周目で過去に何度も見たムービーを見る時なんかは、「何だこのスケベな女は…何が戦闘型だ…」と思ったりもした。

自分語り

感想ってのは感性と作品の掛け算なので。まずはこれ。

①:作品世界の現実として捉える

自分は、ゲームや映画などの作品に触れる時、観測者の目線で「その世界で実際に起きていること」として没入する癖があり、かつそれを好んでいる。
さらに言うと、その没入をさせてくれつつ、その見方をすることで素晴らしい体験をさせてくれる作品を好む傾向にある。

この没入は、いわゆる「現実と作品の混同」という方向性とは異なる。
あくまで、こちらの世界とは異なる作品側の世界の中で、実際にそれが起きているという認識。モニター越しに別の世界を見ている感覚、と言えば伝わりやすいだろうか。

そのため、「作り手の自我」や「(ゲームでは)システム仕様」が視界に入ることを嫌う。あくまで全てその世界の現実であると捉えたいので、その世界で完結させて欲しい。主人公の行動に関して、それは「この監督のこういう思いがあるから」ではなく、「ファンサービス」でもなく、主人公自身の思考の結果であると捉えたい。
キャラクターが死亡する際に「作品として死なせる必要があったのか」みたいな文句を言うタイプの人間とは真逆の立ち位置だ。作品としての理由や必要性なんて関係あってたまるか。

②:掘り下げ癖がある

普段から、なるべく色々な情報を拾って「つまり?」「どうして?」など思考を働かせる癖がある。こちらも①同様、癖でありつつ趣向でもある。

そのため、例えば歩き慣れた道を歩くときや、テレビCMなど、人によっては「何も無い時間」になる時間であっても、様々な情報を拾って頭を動かし続けている。他人や自分の考え方を深掘りしたがる癖も、この派生。
仕事においても、SEなので各レイヤーのバグ検出の役に立っている。

良く言えば「一を聞いて十を知る」とも言えるが、これは大きな枷でもある。得る情報量がX倍になるということは、それを処理する記憶容量や思考力もX倍求められるということだ。そんなものは持ち合わせていない。
そのため、例えば専門外の技術文書を読む時のように素で情報量が多すぎる状態に触れると、一瞬でパンクして眠くなってしまう。
逆に、得られる情報が全然無い講演などに出席すると、それはそれで「無の時間」への慣れが無いため眠くなったりもする。

だからこそ、旅行などにおいても、元から情報量が多い著名な観光スポットより、情報量が多すぎず自分で調整もできる散歩の方が好きだったりする。

③:持てる力で考える

②で思考そのものの話をしたが、いざ何かを考えるにあたり、その元手として情報を得ることよりも、持っている感性や知識だけで考えることを好む傾向がある。

これは、コンテンツへの向き合いにおいては甘えとも取られかねない危険な傾向であり、甘えの側面があること自体に100%の否定はできない。根底として自分に甘い人間ではある。
しかし、実は作品に対して①の捉え方をする自分にとっては、案外これで十分だったりもするのである。

例えば何かの映画において、「このシーンは〇〇のオマージュ」とか、「〇〇監督の作品はこういう流れを踏んでいる」とか、「〇〇教の宗教観を踏まえたつくりになっている」とか、そういった話。もっとライトなので言えば、アニメの話題で出されがちな声優の知識なんかも同様だ。
これらは全て、それぞれの分野の知見を得てこそ気付ける話であり、ここの自分の考え方では辿り着けず味わえない部分だ。

しかし、ここで①の価値観に立ち戻ると、上記は全て、忌むべき「外野の自我」に気付いて理解するための情報であることが伝わるのではないだろうか。
勿論、上記はあくまで意図的に並べた例であり、作品内の現実を理解するために知識が必要な場合というのも無いことはない。例えば主人公が敬虔なキリスト教徒であり、その主人公の思考について想像を働かせたいなら、キリスト教への知見が必要になる。

ただし傾向として、「こっちの世界の知識」が役に立つのは「作品世界側への理解」ではなく「作品世界に手を出す製作者サイドへの理解」であることが大半である、というのはあると思う。その意味で、①③の思考軸は割と噛み合っている。というか、それらの知識が足りないおかげで製作側の存在が目に触れず、①の楽しみ方をできているとすら言える。

前提おわり

そろそろ本題に入ろう。

あとは感性と作品の掛け算の答え合わせだ。書くことはあまり多くない。

世界の拡張

ゲームをプレイする中で、プレイヤーが作品世界の外に弾き出されてしまう要因の一つが、メニュー画面などシステム画面の類。

ニーアはここを、メニュー画面すら「主人公からも見えている、自分自身のメニュー画面である」として扱い、その中での各種設定もゲームとしてのシステム設定ではなく「アンドロイド機体の設定をしている」という立て付けにすることで、作品世界の中に捻じ込んでいる

地味ながら、世界への没入を力強く補助してくれたポイントだと思う。

※そういう意味では、BシナリオでAシナリオの所持品やレベルなど諸々引き継がれていることに気付いた時や、当然Aシナリオと比べて敵のレベルも上がっていることに気付いた時など、単なるシステム仕様だとは露程も思わず「時間が戻っているようで、戻っていない…?全ての生命が記憶だけリセットされて同じことを繰り返し続けている…?」と、不必要に悩まされたりもした。好きなものに対して思い悩むことは好きなので、これはこれで楽しい思い出。

情報量のちょうどよさ

ニーアは、何かしらの真相が隠されていることは序盤から匂わされつつ、話や画面演出の節々に「もしかしたら真実に辿り着く手掛かりかもしれない」情報が散りばめられている。

その情報には大まかに二通りある。
一つは、主人公と共に体験できる部分。目の前の世界や登場人物の会話、発見時に画面前面に出されて主人公が感想を述べるアーカイブなど。
もう一つは、主人公はおそらく見ていない部分。つまり、発見時に画面前面に出されず主人公が何も言わないアーカイブや、ウェポンストーリーなどなど。

初回プレイ時点の自分は、後者はあまり読まずに進めていた。その選択が結果的に大変良く、自分にとって"ちょうど気持ち良く思考し続けられる"塩梅だった。

焦燥、9Sとの同期

初回プレイ時に後者をほぼ拾わなかった話の深掘り。

単純なゲーム品質の良さによる作品世界への没入を前提としつつ、ニーアは「プレイヤーを焦らせる展開が、途中から一気に襲い来る」流れとなっている。

具体的には、ABルートでの水没都市防衛以降、Cルートを含む全体だ。
(序盤にバンカー指示から逆らってH直行した経験もあり)バンカーからの指示に逆らうことのハードルは高い。大好きな相棒やパスカルが困っているなら即座に助けに行くに決まっている。世界の脅威を放置して他のことをするわけがない。Cルート全体は荒れ狂う9Sを横目に「武器集めるか〜」とはならない。
没入の結果として、常に焦って目の前のタスクに追われる形になった。

そして、その楽しみ方をした結果として、情報を追いながら真実を探る9Sの情報がプレイヤーと同期し、2Bの相棒としてだけでなく、「プレイヤーの相棒」としての地位も確立するに至る。そして、これにより更に愛着が増し、更に焦燥に追われ…という繰り返しだった。

テーマの適合

シンプルな「主人公は今どうすべきか」という直接的な課題だけでなく、プレイヤーの価値観に問いかけるような、哲学的な投げかけが多々ある作品だと思う。

全編を通して描かれる「心とは」に関わる諸問題や、トロッコ問題、罪との向き合い方、自由と責任、各人の存在意義、復讐、差別など。プレイヤーと主人公は、常にこういった正解のない課題に晒され続ける。

自分は元々、哲学的な思考を煮詰める機会は大変多い。単にそういう機会が多い人生経験だった(中高:ぼっち、大学:心理学部、社会人:色々)というのもあるが、②で書いた様々な思考の中で、感情・価値観・倫理観などと向き合う際、哲学的思考はどうしても通るというのもある。

結果、こういったニーアで突きつけられる課題に向き合うことには個人的に慣れており、作品としての問いかけ全体が③の趣向に噛み合う形となった。

なお話題は少し戻るが、こういった課題に自分と共に向き合い続けた9Sが、(内心色々わかっているだろうに)これらの思考を捨て去って復讐と八つ当たりに振り切るというCDルートの展開は、同じ課題に向き合って来たプレイヤー目線であまりに重く、前項で書いた焦燥を加速させる一要素となった。

想像の自由

そういった問題を投げかけて来つつ、結局のところメインシナリオは(最後を除いて)一本道となる。

諸問題に対してプレイヤーが内心でどんな思いを持とうが世界には関係ない。登場人物たちは勝手に決断し、世界はその結果をプレイヤーに見せつけてくるだけだ。チャプターセレクトで過去に戻ろうが、分岐なんてものはない。

この自由の無さが、前項の哲学的諸問題に対する想像の自由を担保してくれていると考える。

「ここでこうしていたら、結末はどうなっていたのかな」というプレイヤーの思考に対して、「あっ、その場合はこうなります!」という正解を提示するのがマルチエンディングなゲーム。これは優しい仕様ではあるが、裏を返すとプレイヤーの想像の余地を潰す仕様でもある。 

ニーアは(実質ほぼ)シングルエンディングなので、正解を提示されることがなく、プレイヤーの想像に委ねられる。
今回の自分のプレイ体験においては、余白を多々残してくれるこの侘び寂び形式が噛み合っていたように思える。

おまけ

以下は、②を書いたときに「そういえば出したことなかったな」と思ったオマケの話。ニーアは全然関係ない。

常に情報を拾って考える癖の有無は、普段の所作に常々現れてくるものであり、自分が街中などで日々人々を見る中での思考の種にもなっている。

例えば、駅の改札。
Suicaのエラーか何かで閉まってしまった時、一歩も引かずに開くのを待ち続けたりその場でバンバン連打したりして、結局諦めたイライラ顔で下がって隣の改札に行く人を見たことはあるはずだ。

しかし本来、少し考えれば以下には気付けるだろう。
・素で両面開いてる改札なら、待つだけでエラー解除される(=開く)なら、閉まる意味がないのでは?
・片面閉まってる改札だとしても、奥の方に人がいるのにエラー解除してしまうと、後ろの人が開けてしまう(あげく前の人が抜けて後ろの人が引っかかる)リスクがあるのでは?

勿論、上記は単なる自分の推論であり、全然正しくないかもしれない。しかし重要なのはここの正しい解答が何かではなく、一歩下がる試みもしていない、つまり上記の考えに至ってもいない可能性が高いことだ。
電車乗りたての学生なら急なトラブルに立ち往生するのもわかるが、日頃から電車の乗り降りをしていれば、誰かがそうなっているのを見たことはあるはず。見た時に頭を働かせていれば、一歩下がる選択肢を得ているはずだ。

他にも、エレベーター内のドア前で、ボタンが点灯している階に止まったのに後ろから押されるまで気付かず退かない人。物をよく落とす人(物理演算的な予測をしない人)。人とよくぶつかる・ぶつかられる人(周囲の動線を予測しない人)。
情報そのものへのアンテナか、その先の思考かという区分けはそれぞれあるにせよ、「日頃から周りを見て頭を働かせているか」に左右される部分だと思う。よく「察しの良さ」「要領の良さ」と言われる能力の根幹がここにある…と考えている。

そんなことを考えながら生きている。

※なお、考えないより考える方が良いかのような言い回しになっているが、前述した枷の話はここにも響く。上の例の一つで言えば、例えば自分は、物理演算や動線予測の癖がそれなりにある人間だが、そのぶん人混み疲れが凄い。雨の日の傘や、大きい荷物・割れ物の荷物などで管理する情報量が増えると、その疲れだけですぐ体調を崩したりする。考えることが全面的に良いわけではなく、そのあたりはバランスが大事だ。


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