北へ(7)枝幸の夜
枝幸に向かうバスは、暗闇の中を走っている。浮かび上がるのは、車線を示し点滅する赤矢印の看板のみ。
だんだん不安になってくる。本当にこの先に枝幸の街はあるのか。永遠に着かないのではないかという気さえしてくるような、暗闇。
天北峠を越えたころ、バスに放送が流れた。「ようこそ、中頓別町へ。ここはその昔、ゴールドラッシュに沸いた街ーーー」。どこの土地にも、想像もつかないような歴史があるものだ。
歌登で街の明かりが見え、少しホッとする。何人かが降り、家々に消えていく。
すぐにバスは暗闇へ戻り、また走り続ける。車内灯が照らす側道の雪を、ただ眺める。
ようやく枝幸の市街に差し掛かった。自動車工場の事務所の中にいるおじさんが、闇に浮かび上がっている。初めて見えた枝幸の景色。
どんな暗闇の先にも、どんな原野の果てにも、街があり、人の暮らしがある。それが、北海道。
枝幸バスターミナルで降りる。気温マイナス12℃。
宿に予約の電話を入れた時、居酒屋はいくらでもあるというような口ぶりだったが、静かな街に明かりを灯す居酒屋は数店ほど。想像以上にひっそりとした、夜の街。
小路に入り、店の暖簾をくぐった。中に入り、思った。僕は、ここに来たかったんだ。
北の街の酒場。決して広くはない店内に、ご主人と、おかみさん。
あたたかくどこか懐かしい、夢のような空間。
お店の右側はお寿司屋さん。左側は、おでん屋さんだ。よりどりみどり。
まずはおでんと熱燗を頼み、凍えた身体を温める。
「枝幸の人じゃないよね」。ご主人の一言から、お話が始まっていく。
ご主人のお母さんがおでん屋を始めて、70年。ご主人が寿司を始めて、50年。歴史を刻んだお店の空気と、ご主人のお話が、最高のお酒のアテ。
流氷を見に来た、と伝えると、ちょうどいい時に来た、と教えてくれた。
流氷は風向き次第では陸から遠く離れてしまい、シーズン中でも見られない時がある。
昨日まではしばらく離れていたが、ちょうどまた戻ってきたという。なんでも、昨日までは猛吹雪だったとか。
ホワイトアウトの中で運転する時、頼りになるのが、側道で点滅するあの赤矢印。赤矢印の真ん中を一定の速度で走り、対向車のランプが見えると左へ避ける。これが、事故を回避するコツ。聞くだけで恐ろしい。
度胸、自分に一番足りないもの。自覚はある。
この地で暮らす人々のしたたかさを感じる。
枝幸の歴史を聞く。バスの放送で驚いた「ゴールドラッシュ」。枝幸も、遠洋漁業だけでなく金鉱業で栄えた時代があった。昭和初期は、なんとこのお店の周辺が遊郭だったという。
一攫千金を狙った人々が集まり賑わった街。やがて人々が去っても、その歴史は、街の記憶に刻まれている。
枝幸の名産は、「越冬たらばガニ」。流氷(枝幸の人は「氷」と呼ぶ)が来る前に網をセットする独特の漁法だ。
かに祭りは、全国からファンが訪れる大人気イベント。祭りの賑わいと、おいしいかにに思いを馳せる。
「氷」は、昔は今よりももっと大きく、ご主人は上に乗って漕いで遊んでいたとか。危険な遊び。
優しい笑顔で、ワイルドな遊びを語るかっこよさ。
厳しい自然の中の、オアシスのような場所。あたたかいお店、あたたかい人。
明日はいよいよ、紋別で「氷」見物だ。きっといい日になるだろう。幸せで、なんだか気持ちが大きくなってくる。
宿へ戻る。記念にと、箸袋をポッケに入れたはずだが、夜道で落としてしまったようだ。
また枝幸に来い、というメッセージとして受け取り、眠りについた。