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コンプレックスの取り扱い説明書

私はとても飽き性だ。日記をweb上で書いていたものの2週間でやめてしまった。
書くほどのネタが見つからず、最近はおじいちゃんのような生活を繰り返している。たまに神社へ行きお参りをして帰るだとか、昼夜のご飯の後にはあったかいお茶を飲んだりだとか。
スマホを触っている時間が1番多いし、それ以外はほぼ寝ている。意味もなくSNSを触る時間はほんとうに良くないと思う。
こんな生活でも、YouTubeで見た雑談配信や読んだ本の感想を日記に少しでもまとめておくことで、面白みのない1日に輪郭を与えられる気がしていた。でも私は続かなかった。このnoteも次いつ更新できるか分からない。

私はお昼寝をすると夜なかなか眠れなくなるタイプであり、すると眠れない夜に布団の中であれこれ考えてしまうことが多い。将来の不安とかいろいろと。

最近思ったことについて少しここで消化する。
私はコンプレックスを多く持っている。例えば性格や外見だったり。そして誰しもがそういうものを抱えているのではないかと思う。
そこで、よく「この自分の弱点がなければこうなれたかもしれないのに」とifの人生を想像してしまう。別にそのコンプレックスとは無縁な人生だとしても、幸せになれる確証なんてどこにもないのに。
けれどそのコンプレックスに縋り付くことで他の要因から目を逸らすことができ、さらに奥にある傷を守ってくれているのではないかと思う。
例えば私は社交性が無いことが自分の弱点のうみの1つだと思っているが、「そもそも他人にどう思われているのかが怖い」「他人を信じるのが苦手」という、より深い恐怖や痛みと直面する必要が少しは無くなる。
そのコンプレックスが、自分の心を守る盾のようになっているのかもしれない。


これがなければという発想自体、自分はもっと良い人生を送れる可能性もあったという考えからだとすれば、こうなれるかもしれないと自分自身にまだ期待している人のような気がする。

そして物事には必ず2つ以上の側面があり、考え方次第ではいくらでも長所になり得ると思っている。
初めに書いた飽き性のことについても、私自身悪いことだとは思っていないし、すぐにやめてしまってもそれがたまたま合わなかっただけだと捉えている。
また別の何かにハマるかもしれない、まだ出会っていない素敵なものがあるのかもしれない、その繰り返しでいろいろなものに触れることができるならそれでいい。
けれどそう考えることができない部分だってもちろんある。
嫌いなところも私の一部であると受け入れることが出来るようになりたい。私は私のことが好きと自信を持って言えるようになりたい。ではまた。

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