言葉とコミュニケーション
今、職場で外国人の従業員が増え、皆、日本語を勉強していて、
ある程度、日本語でのコミュニケーションは取れるのですが、
微妙なニュアンスが伝わらなかったり、
学校では習わない言葉をこちらが使ったりすると、
なかなか意思疎通が難しい場面があります。
彼らは全員懸命に日本語を学んでいるので、
外国旅行中は、英語や現地の言葉を覚えて使いたい派、だった僕も、
基本的に日本語だけで会話します。
母語ではないとは言え、東南アジアの国々の人達の方が、
日本人よりも、英語を理解し、話せることは、世界的な常識で、
今まで十人以上の外国人従業員と関わりましたが、
そのうち一人とは、英語でのコミュニケーションも取り入れていました。
その彼女は、職場へ入って来た時、まだ来日一ヶ月で、
日本語での簡単なコミュニケーションも難しく、
日本と日本語に対して戸惑いがあり、かつ、
タイの空港で働いていた経験があって、英語が堪能であったことから、
こちらも断った上で、日本語だと意思疎通が難しい場合は、
英語でのやりとりをしていました。
しかし、日本の日常の中で、英語その他の外国語を話すことは、
大変勇気のいることだと感じます。
日本語環境の中での仕事の用語など、
英語での直接的な単語が分からない場合の言い方の工夫など、
頭の切り替えが必要、かつ、相手に伝わるかどうかという心配、
さらに、回りから見られていると意識してしまう、ということもあります。
長い旅行への出発時点での自分の英語力は、ゼロに近いものでした。
それでも、宿を取ったり、列車やバスのチケットを買ったり、
食事をするために、最低限の英語は使う必要があったし、
そういう決まり文句はどうにかなるもので、
あとは、旅行したのが、デタラメな英語でも、臆さず話しかけてきて、
話が好きな人が多いインドだったことや、
ドミトリーなどで欧米人旅行者と会話したり、
行動をともにしたりする中で、
自然と、話せる、というよりは、話す、ようになっていきました。
その時身についたのは、単語や文法よりも、
リズム感に近いものだったように思います。
言葉としての正確さは二の次で、一番重要視していたのは、
その時の話し相手に、
身ぶりや表情を交えてでも、言いたいことを伝えることでした。
英語に関しては、習うより慣れろ、を地で行き、
知っている言葉、限られた語彙を使い回し、
初めて聞いた言葉や言い回しは、
相手に意味を尋ねたり、後から辞書で調べたりして語彙を増やし、
発音は、はじめはカタカナ、のちに、
相手の言い方を真似ることを繰り返し、徐々に、らしくなっていき、
たまに、暇な時、勉強、ではなく、テコ入れ、と称して、
常に持ち歩いていた英和と和英のポケット辞書で知らない言葉を調べたり、LとRの発音の練習をしたりしました。
現地語は、挨拶言葉や簡単なフレーズは、出来る限り覚えて、
使える機会があれば使うようにしていました。
習得した、と言える言葉は、英語を含めて、ないのですが、
少しでも、覚えよう、知ろう、とかじった言葉は、
ヒンディー語、ネパール語、ウルドゥー語、トルコ語、中国語、チベット語、ビルマ語、ラオ語、タイ語、ベンガル語、ペルシャ語、
といったところでしょうか。
ヒンディー語は、字も覚えようと、練習しました。
その時だけで、忘れましたが。
お互いに、意思疎通する意思があれば、
ある程度の、努力と言うか、調整で、
何とかコミュニケーションは取れるようになります。
文法や発音が怪しくても、伝える熱意とリズム感で補うことができます。
反対に、相手の話を聞く気がなければ、
ちょっとした発音、文法、言葉の使い方の間違いで引っ掛かり、
頭に入ってこない。
なので、独学独習には限界はありますが、
コミュニケーション、意思疎通、相互理解は、語学力だけではない、
とは実感します。
大切なのは、相手を理解する、知ろうとする心と、
こちらの意思を、言葉も含めたすべての手段で伝えようとする心であって、これはすべての人間関係や国際関係にも当てはまることだとは思います。
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