旅で気付いたこと(3)~分かった気になる
(写真)ベトナム北部サパ郊外カットカット村の人達。1996年5月。
今はネットで検索すれば何でも知ることができる時代、
そんな時代にわざわざ現地へ赴く意味はあるのか。
僕が旅行していたのはネット普及前の90年代ですが、
今だと行く気になったか?
それでも、当時も本やテレビで世界中の情報は溢れていたし、
今もネット上の情報で現地の様子は分かるけれど、
やはり行くのと行かないのでは、決定的な違いがあります。
↑羊の群れと出会う。中国新彊ウィグル自治区カシュガル。1997年10月。
現地にただ居ることで得られる体感的な情報は、
現地に行かず、ただ調べるだけなのとは、
計り知れないぐらいに違う。
なので、行く意義は大いにあると思います。
現地に行くと、現地の会いたくないような人にも会い、
まずい物も食べなくてはならないようなこともあり、
不便を我慢しなくてはならないようなこともあり、
自分が見ているだけではなく、相手からも(現地の人から、外国人として)見られていることを意識せざるを得なかったり、
時間通りに来ないバスや列車を待ったり、
休憩時間に予告なく列車やバスが発車して置いて行かれそうになったり、
物がなくなったり、雨や雹に打たれたり、時には危ない目にも遭ったり、
高地では息苦しくなったり、悪路ではバスがジャンプして頭を打ったり、
あるいは、現地の人に意外な場所を教わったり、泊まって行け、と言われたり、日本の事やなぜ旅行してるか、と質問攻めに遭ったり、あるいは延々と話を聞かされたり、と
本当に色んなことがあり、
↑ボスニアヘルツェゴビナ・モスタール。1998年10月。内戦の爆撃跡がそのまま。
圧倒的な現地の現実の中に放り込まれて、自ら飛び込んで、
僕自身の体感では、期間的には、だいたい2週間、その国に滞在すると、
その国のことが体感的に分かった気になります。
↑バングラデシュ・ダッカ。1995年7月。
滞在2週間以上と未満で、体感が違う気がします。
滞在2週間未満の国は、ただ通り過ぎた、という印象があります。
僕にとっては、韓国や、西ヨーロッパのほとんどの国は、滞在2週間未満です。
それ以上は、中国、インドをはじめ、ネパール、パキスタン、タイ、ミャンマー、ラオス、イラン、トルコ、シリアなどで、これらの国でのことは、自分の意識の中に刻まれている気がします。
↑トルコ・サフランボル。1999年3月。
何が、と言われると、何だろう、という気もしますが。
かと言って、その国のことが分かったか、と言われると、それは、分かるわけがない。
いや、ある意味「分かる」(体感的に)ようにはなるのだが、その国の文化的なこと歴史的なことなど分かったのかと言われると、それは全く違う、そういう理解の仕方なら、現地に行く行かない別にしてその国の事について調べ続け勉強し続けることが必要でしょう。
そうなってくると、日本のことも分かっているとは言えません。
ただ、長期旅行者の悪い癖と言うか、僕の悪い癖と言うか、
そこへ行くと「制覇」した気になってしまう、というのは、あったように思います。
↑インドのヒマラヤ四大聖地のひとつヤムノートリーへの参道。1998年5月。四大聖地(ガンゴートリー、ヤムノートリー、ケダルナート、バドリナート)は全て訪れた。
今、旅行した日々から20年以上が経過してみると、あほらしい限りですが、
当時は、そこへちょっと行ったら、分かった気になっていたものです。
確かに、ちょっと行くと、必ずちょっとした体験談ができるようになりますので。
でも、実際にはそこへ行っただけで、その地のことが分かったわけではない、という現実は意識しなくてはならないと思います。
それでも、そこへ行くと、必ず何かが意識に刻まれて、それが消えることはない、ように思います。
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