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今おもうことなど
愛探しに疲れた。
愛してほしい人はいつも私を愛してくれない。
何度も痛感して、のたうち回って苦しんで、心も身体も疲れてしまったみたい。
仕事はつらい。
遠回りしたけれど、一応、やりたかった仕事に就いた。
「転職してから、仕事で面白いと感じるのは全体の3%くらい」
というと、人はいつも失笑する。
「やりたかった仕事に就いたくせに贅沢を言わないでよ。」
「3%って。本当にやりたかった仕事なの?」
「○○に合う仕事なんか無いんじゃない。」
1年前の私からすれば、3%も面白いと感じられるなら上々なのだが。
この頃は、手探り感から来る自身の煩雑な忙しさと企画の難航具合、立場上生じる理不尽な重圧、叱責、最盛期に伴う周囲の緊迫感とで、押し潰されそうになっている。根性と馬力だけで日々を乗り越えている。トイレで泣くことが増えた。若いってつらい、女ってつらい、この性格ってつらい。いつも弱いものは虐げられる。苦しさも悔しさも不安も、全部仕舞って賢く振る舞うことを、社会は無言で要求してくる。
けれども、形に残る仕事をするのが好きだという気持ちは強い。形として残れば、これまでの辛苦は無駄ではなかったと少しばかり思えるから。自分のやってきたことを肯定できるような気がする。転職して良かったと思う。知らない世界を知った。色んな場所に行って、色んな人に出会った。自分が夢中になれること、面白いと感じることをほんの少し見つけた。遠回りしたけれど、きっとこれでも良かったのだと思うようにしている。学生時代、「徒労」と呼ばれたことがあるが、徒労には徒労にしか見えない世界があった。これで良かったんだよと、頭を撫でてあげたい。自分に優しくしてあげたい。
人間は本質的に産まれた瞬間からひとりぼっち。だから、こんな自分も認めてあげたいという気持ちと、育ちから来る、こんな自分は認められないという気持ちとで、心が痛む。自分の中に船を浮かべて、収まらない波の上で必死に耐えているような気分。どうして自分の心なのに上手にコントロールできないんだろう。褒めてくれる人、可愛がってくれる人、優しさを千切って分けてくれる人。そういう存在がいる人をみると、心底羨ましい。私は不良品で欠陥品。私は馬鹿で変。おつとめ品になってようやく誰かの視界に入れてもらえる。
「自分を安売りしないで」
と言われたことがある。
悲しかった。安売りしなければ見向きもされない人間の、痛みと悲しみと絶望を知らない人の眩しさに目を焼かれた。