続・ゆっくりいそげを読んだときのメモ
ゆっくりいそげという本を人にすすめられて先日読んで、そしたら、その本をすすめてくれた人が「続・ゆっくりいそげ」を貸してくれたので急いで読んだ。「続・ゆっくりいそげ」はアマゾンでは買えないようなので、クルミドコーヒーに訪問したときに買おうとおもうものの、借りた本に付箋を付けてしまったので、まずその付箋とそれにまつわる感じたことをメモして残しておきたい。
当事者 P43
大手企業の経営する温泉施設を不満なく楽しみ、帰りに敬意と感謝を伝えようと思ったときにそれを伝えるべきスタッフが見当たらなかったという流れから、以下のような表現がでてくる。
「この場所で起こるあらゆることを、私は当事者として引き受けます」という健やかな覚悟みたいなもの
当事者という表現は、責任者という意味ではないのだろうが、引き受けますという「覚悟」と責任感は非常に近いところにあるように思う。この「覚悟みたいなもの」は人にどのように生まれるのだろうか。人は、どうしたら自分が当事者だとおもうのだろうか、どうしたら自分が責任をもっているようにうごけるのだろうか、なにがあると覚悟をすることができるんだろうか。
一つは、「期待を受け取ったこと」。自分が当事者であるということを誰かに期待されているというなにかを自分が他から受け取って自分の感覚として「感じた」経験が必要そうだ(しかし、当事者だという覚悟をしている場合、相手がそのことについて自分が当事者出ないかのように振る舞うことに対していらだちを覚えたりする。その時に受け取っていることではなくて、受け取った経験があればそれで良さそう)。そして、やってはならないと「感じた」経験が少ないことということもありそうだ。例えば「お前の施設みたいな顔をするんじゃない」といった言葉を上司からたびたび言われていたら、当事者としての意識はもてなくなるだろう。
もう一つは、「コントロール感があること」。自分が何かの影響をおよぼせる、できる存在であるということを感じている。しかし、良い仕組みを作って今後は影響を及ぼさない場合はどうか、当事者だと思う人もいれば、引退したのでそれは次の世代のものだと思う人もいるかも知れない。
それぞれについて、それがどうしたら生まれるかというブレイクダウンがまだまだありそう。
目的と目標 P50
目的と目標という言葉は、使い分けが重要だ。
目的は、疑問詞でいうならwhyに対応するもので...目標はhow muchに対応
目標は計測可能にすることという話はよく目にする。しかしこの項目は
事業体や組織の成長であり、その秘めた力は、測ろうとするのではなく、感じること。
という文のあとに登場する。
目標は手段である、目的にむかうための。目標をもち、自分の活動を計測することで、目的に向かっていくことができたり、目的から外れたときに気がついたりする。
ボウリングの2投目を考えてみる。奥の方に2本ピンがのこっている。ボウリングのレーンにはスパッドという(らしい、調べてみた)三角形のマークが入っている。ボウリングでの投げることの目的はピンを倒すことである。ピンを倒すという目的をただ投げることで達成できるなら、スパッドはいらないかもしれない、でも、スパッドをつかって中間の目標を決めるとピンは倒しやすくなる。やってるうちに、スパッドをねらうことが目的になるとよくない。あるときには姿勢をまっすぐにすることを目標にすることがあるかもしれない。
目的と目標はその相互を本人が理解して、その上で「目標を選ぶ」ということが大切であるように思う。同じこと目的に同じことをする場合であっても、人によって目標が違うのが当然と考えておいたほうが、多様性があって強靭な組織をつくれるのではないか。
あなたの中に種のあることをやりなさい P58
その人が意識しているその人の特徴よりも、深いところにある何か、それがこの文脈で「種」と呼ばれているのだろう。「やりたいこと」とか「価値観」とか呼ぶこともできるかもしれない。「性格」と呼ぶ場合もあるだろう。ぼくは「心の形」みたいな言い方が好きだ。「種」という表現のうまいところは、自分で認識してるとは限らないという点をうまく表現していて、そして伸びていくことを連想させるところ。
「種」がないことは、続けていくことができない。
でも、どうしたら「種」をみつけることができるんだろう。本では
「好きな食べ物はなに?」
「他にはなんかないの?」
という問いかけからお店のコンセプトがきまっていく様子が描かれている。自分は普段どうやって人の「種」をさがしているだろうか。ひとにあわせたいろんな質問の仕方がある気がする。「何が好きなんですか?」「どんな仕事をしているの?」「なんでそれをやりたいと思ったの?」「もしこうだったらどう?」最後の質問は「種」にいきつくために大事なスコップのようなものだ。相手が答えたものが「種」であることはまれで、角度を変えて相手が答えられる質問をして、そしてその答えのぶつかるところに「種」がある気がする。
種があることをやりなさいは、ずっと続けられることをやりなさい、っていいかえることができるのではないか。
場が力を持つための五つの条件 P118
目的がなくてもふらっと行ける場であること。
居続けられる
多様な人が参加できる場であること。
内輪でなくなんでもありをめざす
"主"の存在。
人と人をつなぐ人がいる
主客同一の要素があること。
ホスト感覚をお客さんも持てる
楽しくて、遊びの要素があること。
「楽しかった」といってもらえる。
ここはだいぶ整理されていないように感じた。これを満たしている場として、そしてこういう場をつくりたいとぼくが思ったきっかけの場は、西荻の素敵な個人店の飲み屋だった。順番としてはこの抜粋と逆の順番で強い気がする。楽しい場をつくることで、楽しい場を他の人も作れるようになって、楽しいことを紹介したくなって他の人に伝えるようになったりする。多様性については多様とあろうとしなくても、楽しいでつなでいくと自然と多様性は増える。一方で営業時間、お酒を飲む飲まない、金銭感覚などで、人間的な要素ではふやせない多様性の限界がでてくる。目的は、楽しいことでよい。
でも、楽しいにはいろいろな温度感があって、ある人の楽しいがある人の不快になってしまったりする。大きな声で笑っている人は、楽しんでいるのだろう、そのときに疲れている人が同じ空間にいたら楽しくなくて居づらくなってしまう。
ぷれまという西荻での活動で気にしているのは1.安心 2.おだやか 3.楽しい の優先順位で楽しさを目指すこと。内輪であるは、ある人の楽しいが他の人の安心感を奪ってしまう。この、安心を作るという点に注力すると、多様性は自然に解決される。
本は1時間でよめても、そのときにちょっとおもったことをまとめるだけで10倍くらい時間がかかりそうだ。つかれてしまったので今日はここまで。