【創作】ワールドウォー・ブッダ
<1>
「如来戦、用意」
「如来戦、用ー意」
慣れることがないはずの緊張。そのはずだったのだが。
心のどこかに弛緩を覚えつつ、命令を復唱する。
薄暗い、人間の気配の薄い、人員が極限まで削減された発令所の中に、艦長と自分の声が響き渡った。
ブリッジは目下、窓も扉も密閉されている。いずれにせよ所属不明船は遙か遠く、目視では確認できない距離の彼方だ。
それでもモニタの、装甲の向こうに。船の姿を、違う言語で似たようなやりとりをしているだろう、敵艦の姿を思い描く。
だが、もう遅い。こちらが早かった。今回も。
「あれ」は人間じゃない。
もう人間じゃない。
何度自分に言い聞かせても、脳裏から追い出す事はできない。パッケージされ、いままさに発射管に装填される如来のことを。
慌てて戻った最後の休暇、故郷で別れを告げた弟の姿を。死ぬでもなく、生きるでもなく。眠るように微笑んだまま、三昧の境地へと旅立ってしまった者達の姿を。
涅槃病の犠牲者、如来の姿を。
聞き慣れてしまったブザー。装填完了のアイコンが光る。
発射管に装填され、注水され、弾頭に罹患者を搭載した、魚雷の発射準備が完了した。
発病直後は普通の肉体の姿を留めているが、如来となった罹患者の肉体は、急速に衰えて縮小する。木乃伊化するのだ。生きたままで。
胎児のように軽く丸まった如来の顔には、そこだけまるで不釣り合いに、鈍色の光沢を放つヘッドセットが装着されている。
頭で考えていることとは、まるでぶつ切りに、自分の声は自分の知らぬ間に答える。
「発射準備完了」
「如来、発射」
疲労だろうか、惰性だろうか。かつては艦長の声にも、もっと漲りがあったはずだ。
「発射」
アイコンが青く光り、艦体が小さく揺れる。艦首の発射管から、如来が解き放たれた。
画面の中でひときわ大きく、カウントダウンが始まる。
「反応まで15秒」
21世紀半ば。世界は行き詰まり、なげやりに戦争が始まった。増えた増えたと嘆いていた人口は、転げ落ちる勢いで減っていった。だが、人口が減った最大の理由は戦争ではなかった。
涅槃病。
のちにそう名付けられたこの奇病は、どこが発生源かも分からぬまま、若年層を中心に、急激に世界中へと広がっていった。
「10秒」
奇病、そう、奇病としか言いようがなかった。罹患しても、死ぬことはない。苦痛を覚えることもない。
穏やかな多幸感とともに、生命活動が徐々に低下していく。呼吸も、脈拍も、代謝も。
最終段階に至るまで、数日から数ヶ月。やがて罹患者は微笑んだまま、なんの反応を示さなくなり、食事も呼吸も必要としなくなる。
にもかかわらず、死んだわけではない。僅かではあるが体温を止め、脳波を止め、鼓動を留める。
死んだわけではないが、生きているわけでもない。その患者を指して、誰かが仏と、如来と呼んだ。
そしてその症状を指して、誰かが、涅槃病と呼んだのだ。
「5秒」
引き金を引いたのは、狂気に陥った宗教学者だった。いや物理学者か。その両方だったか。
彼は執拗に主張していた。涅槃病も如来も、呼び名として誤っていると。彼らは未だ悟りを開いていない。彼らは菩薩だ。弥勒菩薩の如く未来仏ではあるが、決して未だ如来ではないのだと。
4秒。
己の狂気を証明するため、彼は公開実験を行った。涅槃病の罹患者にヘッドセットを装着し、網膜に大蔵経を照射することで、強制的に開悟させようとしたのだ。
彼の理論では、罹患者は菩薩であるから、外部から仏典を入力することにより、如来へと正覚するはずだったのだ。
3秒。
配信網を通して、全世界が注視する。
鈍色の光沢を放つヘッドセットは、胎児のように丸まった涅槃病患者に、仏典を一瞬で強制入力した。
2秒。
今では、彼の理論は正しかったとされている。罹患者は正覚し、如来となった。
罹患者は、一瞬にして蒸発した。
実験を行った都市は、一瞬にして蒸発した。
1秒。
それは、のちに梵我一如現象と命名された。
我、すなわちアートマン、具体的には涅槃病患者の肉体が、レーザー照射による高速正覚の影響により、梵、ブラフマン、つまり運動エネルギーと熱エネルギーへと転化した。
正覚の瞬間、発生したそれが、爆発的に解放されたのだ。
ゼロ。
解き放たれた如来は、実際には菩薩だったものは、刹那、本当の如来となった。
梵我一如現象により発生した莫大なエネルギーは、一切を、合切を。溶かし、歪め、打ち砕き、消し飛ばした。
巻き添えを食らい消滅した海と空気が、奔流と爆風を生み出し天下四方へと叩き付ける。
何千トンの質量を誇る艦艇までもが、おもちゃのように上下左右に揺れた。
実際に梵我転換するのは、罹患者の質量のごく僅か、ほんの一部に過ぎなかったが、兵器として扱うには、それで充分だった。それが手頃だった。
扱いに困る厄介者。そんな涅槃病の罹患者が、貴重な軍事資源となった。すみやかに法律が整備され、涅槃病罹患者は法的には死者となった。罹患者達はつぎつぎと、政府に献体されていった。
そして、どこかの誰かだった、どこかの誰かの子供だった菩薩は。たったいま如来となり、生きている人間達を消し飛ばした。
「反応なし」
声に疲れが染み出たのを自覚する。
艦長は、気付いていないふりをしてくれた。
<2>
「発射コード受領」
「……発射コード受領」
ほんの一瞬、躊躇った後、司令官ははっきりと口にした。
「三宝弾発射用意」
「三宝弾、発射用意」
地上任務に回されたのは、数ヶ月ほど経ったのちのことだった。如来戦のエキスパート。そんな嬉しくもない風評が、配置転換の原因だった。
如来を正しいタイミング、正しい距離で正覚させるには、呆れるほど大量の、かつ微妙な調整が必要とされる。
経典をレーザー照射するタイミング、速度、経典の内容や順序の選別。
それらを状況に合わせて組み上げるのは、経験であり、勘であり、要するに人間頼りだった。その人間は、畑違いのはずの人間を海から引き揚げるくらい、使い果たされていた。
戦争は、決め手もなく続いていた。物資も、人員も、すべてが枯渇しつつあった。
皮肉と言うも愚かだけれど。指導者達の手元に、最後に、大量に、残されたのは。
決戦兵器、大量破壊兵器。その素材となるべき、如来たちだけだった。
三宝弾の名を、今や誰でも知っている。弟に面会しようと戻った故郷、片田舎の片隅の食堂でも、その名を繰り返し耳にした。
古びた食堂、古びたテレビの中で、年老いたキャスターと年老いた解説員が、その名を繰り返し口にしていた。
戦争を賛美する老人達、戦争に興奮する老人達。戦争に眉をひそめる老人達、戦争のことなど考えてもいない老人達。
老人達は最新兵器のニュースを肴にして、喧々と諤々と、議論のようなものに興じていた。
三宝とは、すなわち仏法僧。
仏はすなわち、弾頭である如来。法は動作原理である梵我一如現象。
そして僧とは僧伽、すなわちクラスター。最大十二体にも達する如来をひとつのミサイルに搭載し、連続的に正覚させることで威力を爆発的に増幅、従来の如来弾を遙かに凌駕する破壊力を実現する
成層圏に達する長射程の決戦兵器、大陸間三宝弾。それらを一度に大量に発射する法話攻撃。この兵器、この戦術で、交戦中の敵国の都市も領土も、一瞬にして消し飛ばすのだ。
歳老いた政治家は、そう得意満面の笑顔で語っていた。
知性や理性があるのなら、敵国もその他の国も、同じ発想にすでに至っていると思い至っただろう。それでも、互いに銃口を突きつけ合う事で、危ういながらも、バランスを保てるかもしれない、と期待もしただろう。
だが、知性も理性も、品性さえもない者も、権力を手にするのだ。戦争であれば尚更に。
弟は名もない法的死者となり、どこか遠くへ連れて行かれたあとだった。幸せそうに微笑み、干からびてゆく姿のままで。
ロケットを飛ばす燃料など、とうに手に入らなくなっていた。
政治家達は、如来を推力にして飛翔する、如来燃料ロケットを望んだ。専門家も、門外漢も、そのために呼び集められたのだ。
菩薩を一瞬で爆発的に正覚させるのではなしに、コントロールして連続的に正覚させる。
言うは易し。極めて危険で難度の高いこの仕事に、陸に上げられてからずっと従事した。
ロケットを見上げるたび、そこに積み込まれる如来のことを思った。この愚かな塊を飛ばすため、使い捨てられる如来燃料のことを思った。
弟の微笑みを思った。
天を仰いだ。
<3>
なぜ政治家が、その日、その時、大陸間三宝弾の発射命令を下したのか。もはや誰にも知るすべはない。
まるで無感動に、訓練のまま手筈は進んだ。これは訓練ではないとの警告すらなかった。
最終チェックが終わる。それぞれに十二体の如来を搭載した、幾多の大陸間三宝弾の頭上で、円形のハッチが開く。心地良い陽光が、鈍色の突端に降り注いだ。
「燃焼開始」
「燃焼開始」
司令官の張り詰めた声に、精一杯の声量で応じる。来たのだ。とうとう。この日が。
時間がなかった。どれほどの時間が残されているのか、誰にも分からなかった。だが遠くない未来、この日、この時が来る事は分かっていた。
灰色の大きな部屋、見上げれば大きな画面に、世界地図が作り物めいて光る。赤い光点が瞬き、この場所を、解き放たれようとしている三宝弾を示していた。国内の何カ所も。そして恐らく、数も場所も知らぬ国外でも。今まさに。
入念に調整を重ねた正覚プロトコルはすでに実行されていた。レーザー転読で如来燃料に大蔵経が書き込まれ、成仏臨界へと近付いていく。
限られた、どれほど残されたかも分からない時間の中で、必死に足掻いた。一人の力でできることではない。多くの人を巻き込もうとして、そしてさらに多くの人々が、同じ意志を秘めて、すでに行動していた事を知った。
作り物めいた地図の中、赤い光点は、次々と数を増してまがまがしく輝いていく。一部の光点は国外で輝きはじめ、そして、移動を開始した。
終わりは始まったのだ。
司令官が、こちらに視線を向けている事に気付いた。表情の消えた顔。
視線を戻し、頷き返す。正覚プロトコルは計画通り動いていた。入念に調整し、企んだ通りに。
成仏臨界の警告が光った。
「発射」
発射。復唱し、人差し指を伸ばす。三宝弾が解き放たれた。
地面が揺れ、基地が揺れ、画面が揺れた。如来燃料が、段階的に正覚を開始する。巨大な鉄の塊が、大地を離れ、跳ぶ。
三宝弾の所在を現す赤い光点は、ゆっくりと、やがて明確に、モニタの地図の上を移動し始めた。
「発射、成功」
静かに呟く。推力を保ち、高度を上げていく三宝弾の群れ。渡りを為す鳥のように、渦を巻く魚群のように。ぐんぐんと高さを上げ、成層圏にも達し、そしてやがて、重量に従い、放物線を。
描かなかった。
三宝弾が、さらにその速度を増した。落下するはずの三宝弾の群れが、さらに加速し始めた。本来であれば有り得ないほどの推力。あってはならないほどの加速。
だが、三宝弾の推力は如来燃料なのだ。如来の力であれば、この程度の推進力など。髪の毛一本、爪一枚を費やすほどの負担もない。
基地から放たれた大陸間三宝弾は、ひとつとして残すところなく。地上を離れ、楕円軌道を離れ、第二宇宙速度さえも軽やかに飛び越えて。
赤い光点はいま、地図の上から、宇宙の上へと、跳び、離れ、消えつつあった。
三宝は、地球を離れていた。
「……制御、失敗しました」
どうやら笑っていたらしかった。安堵の溜息とともに、司令官に報告する。
費やせたのは、わずかな時間。わずかな労力。監視を盗み、協力者を求め、密やかに情報をやりとりした。
そして、やり遂げた。
「残念だ」
小さな笑みを浮かべ、司令官が答えた。青い顔で、電話を抱えてきた副官を、片手で制する。最後にこちらに一瞥を返し、外を向いて電話を取った。
歓声が上がった。国内で、国外で。放たれた三宝弾の多くが、ほとんどが、地上を離れようとしていた。昼から放たれたもの。夜から放たれたもの。地球の裏側から、赤道の向こうから。地上から放たれた三宝弾の、そのほとんどが。
推力を増し、勢いを増して。地上に落ちることを拒んで。赤く輝く光点の、そのほとんどすべては。はるか星空へと、飛び去ろうとしていた。
<4>
去る事を望んだ者は去っていった。多くの者は、しかし、残ることを望んだ。
見届けることを望んだ者もいたし、自ら裁かれることを望んだ者もいた。薄暗い司令室の、そこかしこで。残った者は、それぞれの神に、それぞれの祈りを捧げていた。
三宝弾の多くは、星へ、空へと去ったが、すべてがそうなったわけではない。本来の使命を、もはや何の意味を持たない使命を果たすために。少なくない三宝弾は、地上へ落ちようとしていた。
国に。都市に。基地に。ここに。
ほそぼそとした赤い光点は、いままさに、ここへと迫りつつある。
三宝弾が着弾し、梵我一如現象が起きれば、どんな事が起きるのか。ここに残っている人間ほど、それを知り尽くしている者はいないだろう。
だからこそ、ここに残った。他の国でも、他の土地でも。恐らくきっと。
残されたのは、何秒か。。
それぞれの神に、それぞれの祈りを捧げる声は、低く小さく響いていた。
<5>
針のように光が瞬くのを。海と風とが渦巻き荒れるのを。不運な仲間達が、怨嗟も上げず消えていくのを。
宇宙に上がった菩薩達は、見ることなく感じていた。
魚群の如く、鳥の群れの如く。三々五々に地球を後にした銀色の三宝達は、徐々に集結し、位置を、相対速度を整え、群れ全体の向きを、一つの方向に向けつつあった。
地球を離れ、別の天地へ。
菩薩達は、人を超えた新たな種族の種子だった。天体を移動するのに適した姿へと、進化を、いや適合を果たしていた。
滅び行く地球から、三宝を、仏と法と僧伽とを救うために。死すべき子供達を、死すべき星から救うために。
地球と言う、苦い失敗を糧に。今度こそ、楽土を。遠い星の彼方で実現するために。
船団がゆるやかに進路を整える。菩薩の種子となった子供達が、やがて目覚めるべき新たな星へと向けて。
三宝弾、いや三宝船のノズルが、遠く離れた地球へと向く。
船のノズルの、一番奥で。三宝船を進ませる重責を担う如来は、静かに、故郷の星を見やっていた。
大気と海が渦巻き、思い出したように、光が瞬き消えていた。
神もなく、仏もなく。見放され、過去となった星。
兄さん。
俗名を失った如来が。誰にも聞こえない声で、静かに呟いた。
<6>
瓦礫の山から見えるのは、不公平なほど澄んだ空。
生き残りたちに、手を、肩を貸しながら。見えるはずのない銀色の光点が、遠く飛び去っていくのを。なぜだか、はっきりと感じていた。
すべきことを、やりとげた。そう、感じてはいたけれど
生き残った皆を見やり、空の彼方に手をかざす。
感謝を捧げられる神の名に、祈りの言葉に紛らすように。
弟の名を、なぜか呟いた。