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悟りへの行程 『十牛図』の話

『十牛図』は、京都・相国寺の「承天閣美術館」に重要文化財として所蔵されているもので、文(十牛頌)は臨済宗の禅僧、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)が書き、絵(十牛図)は相国寺の画僧であった周文(しゅうぶん)が描いたものです。

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『十牛図』とは、人間が本来生まれながらにして持っている仏性・真如・法性などを自覚し、悟りに至るまでの行程を”牧童””牛”にたとえて著したものです。

初祖である達磨大師がインドから伝えた「禅」は唐の時代、中国に土着し発展していきました。

白隠の描いた「達磨大師」を模写

の生活では、自給自足による作務(日常の作業)も大事な修行の一つであり、その自給自足の農耕生活に欠かせないのが「牛」でした。

『十牛図』は、その実生活からの発想とされています。

では、悟りへのステップアップがどういったものなのかを見ていきたいと思います。


1・牛を尋ねる

一人の童子が「牛」を探している場面から、悟りの行程はスタートします。
その探している「牛」こそ仏性真我であり、「本当の自分」そのもの。

はじめから失ってもいないのに、どうしてさがす必要があろう。

本来目覚めている目を覆うからへだてが生じるのであり、目を覆った塵を払おうという在りかたが牛を見失うことになる。

故郷はますます遠く、分れ路を間違えたとたんに、得ると失うの感情が盛んに燃え、是と非の思いが、鋒(きっさき)のように心を突き刺す。


2・足跡を見つける

経典から得た知的理解のみでは真理への道は開けません。

経典をたよりに道理を解し、祖師方の教えを読んで「足跡」を知る。

色々な器も皆金(かね)であることを見てとり、万物が自分と同一であると実感する。

正か邪かを判断できないのに、なんで本物と偽物との区別ができよう。

まだそうした教えの門には入らないけれど、仮に足跡を見つけたとしておこう。


3・牛を見つける

牛の尻尾は真理の片鱗。童子は真理を追いかけ突き進んでいきます。
見つけたその牛こそ描きようのない荘厳さよ。

声をたよりに入り口を見つけ、眼をやればその場が根源と知る。

六根の動き一つ一つがたがうことなく、日常の一つ一つが見事にそれを現わす。

あたかも水に含まれる塩分や、絵具の膠(にかわ)のように。

眼を見開けば、これこそまさにそのものだ。


4・牛を手に入れる

童子はついに牛を捕まえました!
しかし強情でにわかには手におえません。

久しく野外にかくれていたその牛に、今日やっとめぐり逢う。

あたりの景色に見惚れ、肝心の牛を追うのをためらう。

牛も美しい草原に未練あり。

頑な心が依然として強く、まだまだ野生が抜けきれぬ。

従順さを得たいなら、どこまでも鞭打つことだ。


5・牛をかいならす

童子が鞭と手綱をしっかりと握っているのは牛が勝手に歩き出して塵埃(じんあい)の中に入ってしまう恐れがあるから。

塵埃(じんあい)とは「世俗」の意味であり、真理を得ても気を抜くとすぐに「俗」に染まってしまいます。

妄念が少しでも起これば、また次の妄念がついてくる。

本心本性に目覚めることによって真理が完成するのであって、それを見失っているから心が迷うのだ。

他のせいでそうなるのではなく、自分自身がそうしているにすぎない。

だから手綱を強くしっかりと引け。もたついてはならぬぞ。


6・牛にまたがり家に帰る

童子は牛に乗り、笛を吹く。
本当の自分との分裂や葛藤が次第になくなってきている様子です。

人と牛の争いは既にやみ、捕えることも逃すこともさらさらなくなった。

木樵(きこり)は村の歌をうたい、牧童は笛を吹く。

牛の背中に身を横たえ、目は大空のかなたを見る。

その人を呼べども返らず、引き止めようとしても無駄なこと。


7・牛を忘れて人のみが残る

童子は牛の存在さえ感じなくなりました。
日は高々と昇っても、彼はまだ夢心地。
鞭と手綱は藁屋に置き去りだ。

「真理」は二つある訳ではないが、仮に「牛」を論題にしたのだ。

それは、蹄(ひづめ)と兎が別のものであり、筌(ふせご:魚をとる竹製の道具)と魚は別であるかのようなものだ。

真理とは、金が金鑛(鉱石)から選別され、月が雲間を出たのに似ている。

一すじの真実の光は、この世界のはじめ以前から変わらない。


8・人も牛も忘れる

鞭も手綱も人も牛も、みんな姿を消し、青空は広々として消息も届きません。

迷いは抜け落ち、悟りもすべてなくなる。

仏界に遊ぶこともなく、魔界もさっさと走り去る。

凡にも聖にもとらわれなければ、観音様の千眼でもこのありさまは見てとれまい。

百鳥が花をくわえて来て供養するなど、とんだ恥さらしの一幕だ。


9・はじめに返り、源にたち還る

本源にたち還ってみると、花は紅々と咲き乱れていて、自然のありのままの風景です。

本来は清らかで塵一つ受けはしない。

現実の姿を観察しながら、無作為の境地にいる。これは空虚なまぼろしではない。

なんでとりつくろうことがあろうか。水は緑にして山あくまでも青い。

居ながらにして世の移り変わりを観ているのだ。


10・町に出かけ、手を垂れる

胸をはだけ、腹を出し、滑稽な姿で布袋様(かつての牧童)は町へやってきます。
悟りを得て、また「日常」の中に。

柴の門を閉ざしてしまい、どんな聖人でも彼の境地を知ることはできぬ。

自身の輝きをもくらまし、昔の祖師の道を歩むこともしない。

瓢箪徳利をさげて町へ行き、杖をついて隠れ家へ還るのみ。

酒屋や魚屋のおやじたちも感化されて佛(ほとけ)にしてしまうのである。



というお話です。

『十牛図』、皆さんはどのように感じましたか?

こういうお話を読んだ後、あれこれ語るのは気がひけますね。

人それぞれ感じ方も違うし、「解説」とか野暮ったいことはしたくないです…。

それにしても「仏性」や「真我」など、元々自分の中に持っているものに出会うのは大変なんですね。

こういうのが私の中にもあるのでしょうか?

いくら「経典」を読んで知識だけをため込んでも、それだけでは「真理」に辿り着けないみたいですね。

SNSでは「論」がすごい人はいっぱいいる…。

ただ個人の感想としては、最後に世俗の中に戻るというのが大好きです。

「町に出かけ、手を垂れる」

やっぱり最後は世俗の中で「人情」に戻る。

「手を垂れる」とは無作為という意味なので、作為的なことはしないということ。

意識の成長が進むにつれ、そういった人は「説教」や「説法」じみたことはしないというのは、実生活でも感じますよね。

それでいて、そういう人にはみんな感化されていきます。

それが悟りの最終段階というのが、私が『十牛図』を大好きな理由の一つです。

胸をはだけ、はだしで市(まち)にやってくる。
塵にまみれ、泥をかぶり、いつも顔中ニコニコと。
仙人の秘術も使わずに、枯れ木に花を咲かせてしまうのだ。


それではお読みいただき、ありがとうございました。

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