「4/16第8号」
案内
4月第3週の配信でございます。
最近研究計画がまとまらず、自らの存在意義を考えさせられる毎日であります。そんな思いを書き散らしました。
それでは宜しくお願いいたします。
1.調べて見えてきたもの
調べれば調べるほど、原書や先行研究を読み進めれば進めるほど、発見もあるが同時に自らの無知も思い知らされる。最近では何もせず、現実逃避をしている。もはや無気力である。何を考えても、原書や先行研究を読めばそこに書いてあるのだから、わざわざ私如きが何かをする余地がない。私は何をやりたくて大学院へ行こうとしていたのだろうか。「コダックさんの研究したいことが分からない」という言葉が、重くのしかかる。私がやりたかったことは、一体何だったのだろうか。
2.やりたかったこと
原点回帰として、私が何に興味関心があるのか、自己紹介での文を分割して整理してみるとする。
我ながら「何をいっちょ前に書いているのだ」と思うばかりであるが、整理を試みるとする。まず「社会福祉思想」であるが、思想・理論の領域に興味を持つことがわかる。思想とはなんだろうか、社会福祉における思想とは何をさすのか。社会福祉思想にもいくつか流れがあると考えられる。CiNiiで”社会福祉思想”と検索すると62件がヒットする。私が特に関心を持っているのは、キリスト教社会福祉思想であるから、室田保夫(1948)「キリスト教社会福祉史の研究」が興味深いところである。私がやろうとしていることは、岸川洋治(2017)「阿部志郎のキリスト教社会福祉形成過程と実践」のようなものである。近いものは細井勇(2017)「嶋田啓一郎におけるキリスト教と社会正義」であるが、「キリスト教神学と社会福祉」も合わせてどんぴしゃなのは木原活信(2005)「福音と社会の結合(「連字符」):嶋田啓一郎の神学をめぐって」である。何度も読み返してみたが全てが集約されており、越えられない山となっている。私の存在意義を失った瞬間でもある。
クリスチャンの研究者として嶋田啓一郎を選んだ理由として、論文等資料がアクセスしやすいこと、弟子や教え子が存在しておりインタビュー可能であること、聖書信仰の立場であること、先行研究が存在するが未だ余地のあること、キリスト教社会福祉を代表する存在であること、同志社精神そのものでありジェントルマンであること、神学的立場について研究の余地があること、これらを理由としている。ただ、嶋田啓一郎を研究する意義について問われると、キリスト者の実践として意義はあるが、社会福祉学として考えると、些か不明である。
私のやろうとしていることは、社会福祉学にとって意義はあるのだろうかと、考え続けている。
3.祈りをもって
今は引き続き祈りをもって神とのコミュニケーションを図りながら、今後について考えていく。
私が信仰告白するに至った聖句である。若い頃の私は、心を尽くせずに神を求めていたのだと、思うばかりである。実に恥ずかしい。ただ、「平安を与える計画」「将来と希望を与える」という言葉は、私に生きる希望を与えた言葉であるともいえる。
今はただ、祈るばかりである。心を静めて、自らの計画ではなく神の計画が成就するように、ただそれだけである。
4.次回に向けて
さて、色々と書き散らしたので、これくらいで筆を置こうと思う。
今後私はどうしたらよいのだろうかと、日々考えるばかりである。アイコンのコダックは頭を抱えているが、まさにそのような状態である。
これにこりず、まだまだ、書き続けるとする。