誰かの陽だまりになりたい。〜tacica『中央線』を読み解く〜
たとえばもし、友だちが道端の蒲公英(たんぽぽ)に唾を吐きかけていたら、許せるだろうか? 「え、なんでそんなことするの?」と非難せずにはいられないと思う。
tacicaの『中央線』という楽曲にこんなフレーズがある。
自分の悲しみを、他人に完全に理解してもらうことはできない。同時に、中央線が遅れることとなった人身事故を生んでしまった人の悲しみも、完全に理解することはできない。けれど、でもだからこそ、「想像を巡らせること」はできるのではないか。蒲公英に唾を吐くという「ふつうならやらない行為」をやってしまった友人が抱える悩みを、悲しみを。〈まだ愛してたい〉はそんな想いが込もった祈りだ。
仕事に追われていて、焦っていたのかも知れない。体調がすぐれなくて、気持ちに余裕がなかったのかも知れない。パートナーと喧嘩して、感情が毛羽立っていたのかも知れない。たくさんの「かも知れない」を想像することができれば、すこしでも「理解」に近づけるのではないか。
映画『ジョーカー』のアーサーも、負の連鎖に陥ってジョーカー化していった。もしも、思いとどまらせるような人がいたなら。もしも、八方塞がりの環境から抜け出す支援があったなら。たくさんの「もしも」の先に、ジョーカー化していないアーサーの世界線があったはずだ。
この曲はこう締めくくられる。
負の行動の裏にある「何か理由があるのかも知れない」に、ほんの一瞬でも想像を巡らせること。それが、誰かにとっての「陽だまり」になるということではないか。そしてまた自分も、つらく、やるせないときに、誰かが残してくれた陽だまりを思い出すことができれば、きっと何度だって立ち上がれるはずだ。
そんなふうに希望を歌ってくれるバンドtacicaに、今日もまた僕は生かされる。
tacica「中央線」(『panta rhei』収録)はこちらで聴けます
新幹線でおいしいビールが飲みたい!