千秋楽を終えて 感謝と雑記 笠木泉
スヌーヌー「海まで100年」は無事に千秋楽を迎えました。結局本番前怒涛の一週間のことは書けなかった。追って書いてもいいのだけど、思い出しが甘く、適当になってしまうかもしれません。
そして今は本番が終わって一週間が経過しています。その間、別の仕事をしたりといろいろバタバタしていました。
改めまして、スヌーヌー「海まで100年」にご来場いただきましたお客様、手を貸してくださった皆様、象の鼻テラスのみなさま、そしてスタッフキャストに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
(ここから、結構長い文章となっております。申し訳ありません。読まなくてもいいぐらい、長いです。体調に合わせて読んでください)
スヌーヌーと加藤さん
私は数年前にひとりでスヌーヌーという名前をつけて、個人で演劇活動をはじめました。劇団ではありません。今も基本的にはひとりですが、実際には一緒に創作してくれる多くの仲間ができました。みんなに支えられています。今回特に制作業務を一緒にやってくれたジエン社の加藤じゅんこさん。いつも私がやっている配券や当日制作を一手に引き受けてくれました。今回つくづく「演劇公演は制作が根幹だ」と思いました。加藤さんがいなければ私は今回の公演ができなかったと思っています。加藤さん、本当にありがとう。
この感謝の気持ちは、これは、スタッフみなさん全員にあてはまることなんです。
演出助手とのちゃんの音楽
演出助手のとのちゃん。今回ふと「演出助手がいてくれたら助かるだろうな」と思って募集をしてみようかなと考えたのですが、加藤さんに相談したところ「カサギさんは、もし複数応募があった場合に誰かひとりを選べないのではないか」と言われ、その通りだと思ったので、一般に募集するのはやめました。で、白羽の矢が立ったのが「とのちゃん」です。
とのちゃんとは昨年私がサポートで参加させていただいた10代の学びの場『GAKU』内の講座「あたらしい演劇の作り方」で知り合いました。彼女は現在大学生。もし興味があったら稽古見学ぐらいの軽い気持ちで参加してみない? と誘ったのです。学業優先で、授業のないときだけ、と条件をこちらからつけさせてもらいました。無理しないで欲しかったので。ということで、参加していただくことに。
とのちゃんは毎回たくさんの仕事をしてくれました。記録写真をとってくれたり、テキレジをしてくれたり、そして何より、彼女が楽しそうに参加してくれているのが私は嬉しかった。
そうだ、稽古中、とのちゃんが「私、音楽を作ってみたいです」と言ってくれたんです。その発言で稽古場がわーっと盛り上がったのは言うまでもなく。作ってもらうこと即決。どんな曲にするか? という話は、その先でいい。まずはやってみたいことをやってみて、ここがそんな場所になるなら最高だと私は思ったのです。
それから二人でミーティングをしました。こんな感じ? 私はピアノ曲がいいのではないかとか、シンプルなメロディーがいいとか、好き勝手に注文をつけて、私が歌詞を考えてそれを音に合わせて組み替えてもらったり、新しいフレーズをいれこんでもらったり、とのちゃんがかつて作った曲を聴かせてもらったり、追加で「地獄ボーイYouTube」のジングルをお願いしたり(爆音的な感じと注文/これ、最高のジングルになりました)。稽古場でとのちゃんの作ってくれた曲をはじめて流した時、みんなが「ものすごくいい曲ですね」と感想をくれたのが自分のことのように嬉しかった。なんていい曲なのだろうと私も思いました。この曲に恥じぬようなシーンを作ろうと思いました。
実は音楽を使うことはちょっと難しいかもなと一度は諦めていたのです。一度はなくなりかけたシーンがとのちゃんのおかげで復活し、戯曲との化学反応を起こし、完成に向かっていった。とのちゃんの音楽は、戯曲にとって、この演劇にとって大きなエネルギーとなり、私たちはとのちゃんに導かれながら、稽古をすすめることができたのです。このことは書き記しておこうと思いました。
戯曲を書いた
時間は遡ります。
今年の秋、戯曲を書き始めました。劇壇ガルバ「ミネムラさん」の公演が終わってからです。ずっと頭の中にあったシノプシスをまとめてはいたものの、この時点ではノートは荒れまくっています。字も超絶汚い。これを書こうか、やっぱりこんなふうに持っていこうか、いやいややっぱりこっちのテーマで書こうと、ものすごく乱雑な、片付けができない人の部屋のように、ノートに書き起こしたところで脳内は散らかっています。それをひとつひとつ整理していくことが私には一番辛い作業でした。果たして私は「いま、一番、何が書きたいのか」、まずそこに嘘をつくな、と思いました。それを忘れては、書く意味がない。いや待て、追い込まず楽しく書くことだってできるさ、と思ったりして、でもやっぱり、時間を費やして書く以上は、「いまの自分が書きたいこと」を見つめるしか他に方法がないのです。それしかなかった。そしてこの方法は、ものすごく疲れる。すぐに嫌になる。楽をしたくなる。逃げたくなる。しかし、やると決めた以上は、やるしかない。自分でやるって決めて、決めたことを守ろう。それしかない。今回が最後だと思って書こう、そして「今回は今回のチャレンジをしよう」と決めました。安全な場所に行くのではない。挑戦しなければ意味がない。戯曲にも書きましたが、人生は一度きりで、そして私は48歳。ぶっちゃけ、あと何回このように戯曲が書けるかわかりません。
そしてようやく荒れ果てたノートを見つめ直しました。同時に、俳優の三人を思い浮かべます。三人が輝く、生きる舞台にしたい。
戯曲は三部構成、これは初めから決めていたことです。書く際、各章が個人の話であること、そしてその語り口を変えること、それぞれがそれぞれ独立していてなおかつゆるく連帯していること、オムニバスというものでないイメージ、など自分の中でいくつかのルールを決めました。スタイルとして、縛りを作りました。その縛りに何度も苦しめられましたが、最終的には守ってよかったと思っています。
書き進めながら、いくつか発見がありました。まず私はストーリーを描きたいわけではないということ。自分の作りたい演劇は常にここにいる人間の姿と、忘れてしまうものに対しての視線なんだなとわかってきました。ここで書かなければもう書かないだろう。全てのシーンをそうやって書いていきました。三人の顔を思い出しながら書き進めると、孤独な時間も案外そうでもなくなります。誰かが隣にいる。そう思って書きました。
戯曲はだいたい1ヶ月半ぐらいかかり、第一稿が完成しました。推敲をして、稽古前には第二稿をお渡しし、皆さんに科白を覚えてきていただきました。
1章 とるにたらないこと、ボロボロ、地獄ボーイ
鳥島明さん扮するYoutuber「地獄ボーイ」と渡辺梓さんのシーンを書きました。あまりに小さい、とるにたらない、日常の、ほんの少し。それが自分を大きく変え、支えて、日々の命を繋ぐ。それをどう描くか。どこにでもいる、しかしどこにもいない、ある女性。彼女たちはそれぞれ、人には言わないまでも、大きな波を心の中に持っています。もちろん今を生きる私たちはきっとみんなそうで。そう考えると、私=私たちはわりとボロボロなのではないか。どこもかしこもひどい世の中、いろんな意味でボロボロです。更年期もやってきた。なんだこれってなもんです。でも、でも、いいこともたくさんあります。元気で笑って、楽しく生きていこうって、いつも思っています。そんな彼女の瞬間が、書きたかった。書いてみたかった。渡辺梓さんに、この役を引き受けていただきました。
渡辺さんの、彼女の人生は、私の人生でもあると、そう繋がっていくような言葉を探したかった。その彼女をただ見ている橋本和加子ちゃんの存在は一体誰なのか。その問いに答えが出ないまま書き進めたのは自分にとって新鮮でした。明け方、我が家のベランダにやってくるカラスではないか、いやもしくは渡辺さんの心にいるもう一人の自分なのか、それは明確に提示しなくてもいいのではないかと、自分の中で結論をつけましたが、この曖昧さは稽古場で俎上に上がり、やはり私たちは私なりに「誰なのか」知っていなければならないと思いました。
Youtuber「地獄ボーイ」と言う名前は思いついた時深夜だったのでちょっと不安でしたが、そのまま採用しました。初めはちょっと違和感があるか?と思ったけれど、稽古場でみんなが「地獄ボーイ」「地獄ボーイ」と言ってくれてなんだか馴染みました。
ちょっと別の話になるかもしれませんが、私はBS日テレの「小さな村の物語 イタリア」というテレビ番組が大好きで。毎回、イタリアに住む普通の生活を営む人が紹介されるだけの番組なんですが、そこにとるにたらない日々が詰まっていて、その幸福について考えることが多く、いつかこんな絵を描きたいと思ってきました。今回、執筆中にふとこの番組に出てくる人たちのことや、渡辺さんの笑顔を思い浮かべました。
2章 大黒埠頭、友達に曲を作る、鳥島さんとの旅、スワッチさん
2章では、鳥島くんが中心となった話です。この章の話も、いつか書こう書こうと思っていたことです。
ここでは大黒埠頭が出てきます。若い頃にこの場所にある大きな倉庫でバイトしていた経験がありまして、朝ものすごく早く集合して(私の場合は桜木町集合でした)バスに乗り、一日中馬車馬のように働き、休憩もあまりとれず、疲れて、辛くて、なんだか悔しくて、時給が安くて、なにもかもが嫌になったことを今もよく思い出します(結構前の話ですので、今はそんなこともないと思います、念のため)。あの時に見た夕日や、風の冷たさをよく思い出すのです。労働について、さまざまな労働によって世界が形成されていること、そして仕事をしてもしつづけても、楽にならないこと。生活していくこと、その日々のこと、社会のシステムのこと、そして、今この時間、なにも大黒埠頭だけでなく、全国どこでも、世界中至るところにある問題。私たちが生きていかねばならない世界。海を介してつながる世界。
鳥島くん扮する「カマタくん」が「音楽をずっと聴いている」というモチーフは自分の中にずっとあって、これは自分の過去の作品「モスクワの海」にも登場する「フジオくん」というキャラクターがいるのですが、フジオがずっと部屋で音楽を聴いている、聴き続けているということが、私のある種の希望であったように思い、今回もその希望が描きたくて登場させました。「カマタくん」は、「フジオ」と同じように、なかなか生きづらいことも多いかもしれない。でも、一緒に笑い合うことができたなら。あの人、あの人、あの人に向けて、一緒に笑い合っていけたらなあ。
稽古中、撮影のために鳥島明くんと二人旅をしました。行先はもちろん、大黒埠頭です。午後3時ごろ、私は鶴見駅からバスに乗り、鳥島くんは生麦駅から乗車。火力発電所を横目に見て、戯曲のとおり大黒埠頭に向かいます。目的地である「流通センター前」まで行かないバスに乗ってしまったので途中下車して二人で大黒埠頭の先にある海釣り公園の方に歩いていきました。倉庫街を撮影をしながら、二人でなんだかとんでもなく雑草が伸び切った道を歩きました。途方に暮れました。時々鳥島くんは立ち止まり、その雑草に覆われた風景をじっと静かに見ていました。最終的に「流通センター前」バス停に着いたころには真っ暗になって。二人で「戯曲そのまんまだねえこりゃ」と話をしながら、倉庫でお仕事の終わった方達と一緒に「鶴見駅行き」のバスをくだらないおしゃべりをしながら待ちました。鶴見駅について二人で安い焼鳥を食べて、ビールを飲んで、またまたくだらないおしゃべりをして、帰りました。こんな楽しい旅ある?って思ったのと(あ、もちろん撮影をしに行ったんですが!)、私たちの関係が、この戯曲に描かれた、緩やかな連帯にも似た、なんとなくお互いを信頼しているというものに近いなと思って、面白かったです。もう戯曲は書かれたあとだったし、二人で撮影に行けるかどうかはぎりぎりまでわからないスケジュールだったのですが、この日の体験は演出に反映されたような気がします。
「歌をつくる」というモチーフを書いている時、私の10代の頃の友人で、精神疾患を抱えてなかなか家から出れない子のことを思い出していました。その友人が、ある日私に手紙をくれました。そこには私へのプレゼントとして詩が書いてありました。曲を作っているが、まだできていない。曲ができたら歌うと言ってくれた彼女とは、実はそれからほど近く、会えなくなってしまった。しばらくそのことは私を落ち込ませました。無力だなと思った。救うとはなんだろうかと何度も考えた。答えは出なかった。ただ、今も、会えなくなってしまったけれど、自分のことを思って書いてくれてありがとうとずっと思っています。その子からのプレゼントについて、いつか書いてみようと思いました。その子に向けて、ようやく私なりの返歌ができたのかもしれません。違うかな。まだ、ちょっとわかりません。彼女のことに関しては、未だ、整理がついていないかもしれません。
また、曲に関しては、昨年出会ったミュージシャン・スワッチさんとの出会いもありました。スワッチさんとは横浜市旭区の障害福祉事業所に通う方がさまざまなパフォーマンスを発表する場である「あっぱれフェスタ」という場所で知り合いました。私はスワッチさんのサポートアーティストとしてあっぱれフェスタに参加させていただいたのです。スワッチさんは、作詞作曲して自ら歌を歌います。時に面白いパフォーマンスを交えて、そのショーを作っています。彼女が作った曲の中に「ともだちのうた」という名曲があります。胸を打つ、聴いているだけで、心が震えるような、優しい曲です。スワッチさんは、日頃過去に出会った知人に向けて曲を作っていると、のちに彼女から聞きました。私は彼女の曲を多くの人に聴いてもらいたい、彼女の音楽活動を応援したいと純粋に思いました。そして今年に入ってから、彼女と音楽についての話をたくさんしました。喫茶店で昔好きだった音楽や、今興味のある音楽について、最近気になっているもの、行ってみたいところなど。私たちはだんだん友達のような関係になっていきました。年齢も近いので、音楽の記憶が似ているのです。懐メロの話とか、流行歌の話とか。それが楽しかった。そのうち「ともだちのうた」を私の作る舞台で歌ってもらうのはどうだろうとか、そういう話にもなりました。しかし、それはやはり少し違う。私は彼女の音楽をたくさんの方に聴いてほしいけれど、それはいつか二人で実現させようねと言っている「スワッチライブ」で聴いてもらうべきなのではないかと思った。いつか二人で、スワッチライブを成功させるという、希望。
私は、今回、でも、友達に曲を作るというモチーフをスワッチさんを思いながら、スワッチさんに向けて、書いたように思います。そして、私は今回はじめて自分の大切な友達に向けて、音楽の好きな、今病気と戦っている友達に、曲を書いてみました。音楽は演出助手とのちゃんが作ってくれた。それで奇跡的に完成したのが、劇中歌です。とのちゃんがいなかったら、たぶん諦めていました。
3章 冬の旅、実家
3章は、これも1章、2章とは違う書き方をしようと思って、とにかくモノローグモノローグモノローグで書いていきました。信頼なる後輩、橋本和加子ちゃんに託そう、そう思って書き続けました。
私の実家は福島県いわき市の、海にほど近い場所です。東日本大震災があって、両親が避難したり、その後も生活を続けていく上で本当にいろいろなことがありました。さらに原発事故があり、いわきより北の大熊町や浪江町の方が避難を余儀なくされた時のことは今も継続している、この土地が抱える大きな、大きすぎる荷物です。自分の実家の近くの町にとんでもなく大きな災難が降りそそぎ、それを誰もがどうにもできないという苦しみを背負い、それでもなんとか立ちあがろうとしてきたこの町の姿に、わたしはいつも胸がいっぱいになります。何もできない自分がいるならば、せめて考えなければいけないと思います。
しかし、私は昨年まで積極的に避難区域まで行こうとしませんでした。いきたいとは思っていても、いけなかった。行くことで、自分自身がが揺さぶられるのが怖かったと正直に告白しなければなりません。私は行かなかったのです。
でもそれではいけない、しっかりと自分の目で確かめなければいけないと思い直し、今年のはじめでしょうか、父と母と三人で、自分で車を運転し、国道6号線を北上し、その海に向かいました。途中、ものすごい雑草が生えていて、その生命のエネルギーに感動しました。雑草が生い茂る、そう、誰も住まなくなった町は、空き家や商業施設は13年前の、あの日のままです。13年。そして、その先に、静かで、美しい海がありました。この海は、遠い彼の地に繋がっているのだなと改めて考えました。海はやっぱりいいですね。
いわきの家には毎月「原発ニュース」が投函されます。今どのような作業をしているのか、放射線の数値はどのくらいなのか、働く人たちの声、復興への道。東京にいると、入ってこない情報、感情、言葉。確かに今、現場では作業は続けられています。
いつか、私は、自分で、自分なりに、書こうと思いました。思い出すためにも。もう同じことが起きないように。願いと祈りと、これはなにも、福島のことばかりではない。世界中にある、どうにもならない(どうにかしないといけない)圧倒的困難(戦争、災害、暴力、ありとあらゆることが同時に起こっていること)に対して、なんらかの言葉を書こう。でもそれはきっと彼女の中にある。橋本和加子ちゃんが演じてくれるであろう「ノボリトさん」の中にある。それでひとつの章を書くことにしました。
アニエス・ヴァルダの「冬の旅」という映画があります。友達の上村聡くんが見て「面白かった」と言ったので見てみました。そこにはヒッチハイクで旅をする女性が描かれているのですが、私は彼女の孤独が本当にきつかった、辛かった。私には書けないことが、表現できないことが、とんでもなくたくさんある。その「書けないこと」が彼女の心のなかにある気がした。3章で、大きなリュックを背負って、北に向かう和加子ちゃんの姿が思い浮かびました。と同時に、「海に行く」というモチーフはずいぶん前に戯曲を書き始めてから今回まで書こう書こうと思いながらなかなか作品に漕ぎ着けられなかった話で。海まで、その道程がどうしても書けなかった。老夫婦が道に迷ってみたり、タクシーで乗りつけてみたり、男の子がわいわいいいながら旅をしてみたり、いろいろな習作を書いてみたけれど、どれもしっくりこず、自分の中で成立しなかった。嘘っぽいなと思ってボツにしてきた。で、今回は、ストーリーうんぬんではなく、ただ向かう、ということにしてみようと思ったのです。彼女がただ、行きたい場所に行く旅。それはまさに、戯曲を書いている自分とも重なりました。大変だけど、時に星を見たり、月を眺めたりしながら、なんとか、たどり着く、ただそれだけの話。
これも、稽古中。橋本和加子ちゃんと実家のいわき市に日帰り旅をして、一緒に請戸の海まで行きました。撮影のためです。途中道の駅でごはんを食べたり、今も帰宅困難地域である大熊町を通ってその雑草の生えた風景を眺めたり、以前私が実際に通った国道6号線を北上して戯曲に出てくるファミリーマートでお土産を買ったり(和加子ちゃんはここで共演者のふたりに桃のジュースを買っていました)。請戸の海の向こうに、今まさに作業員の皆さんが日々廃炉に向けて頑張ってくださっている福島第一原発が見えました。和加子ちゃんはやっぱりただ海を見ていました。そして、砂浜にたくさんの動物の足跡がありますよ、と教えてくれました。一緒にここに来れてよかったなあと思いました。よし、がんばってこの舞台を作り上げようと気持ちを奮い立たせ、帰りました。
稽古場での彼女の立ち姿を見ていて思ったことは、「彼女は/ここはどこでもない、世界のだれ/どこでもある」ということです。私には彼女のその姿を演出することができたでしょうか。人ひとりが、ただ旅をする夢。故郷を思う、日々。失われたことを、忘れられてしまったことを、思い出したい。見てみぬふりをしていた自分を見つめ直したい。夢の中の道程をわたしは描けたのでしょうか。わからない。難しい。自分に問いかける日々。そんなに悩むなら書くなよと思いながら、でも、私には和加子ちゃんがいる。もはや一緒に考えてくれ、ともに作ってくれる。戯曲の中に「私の中の友達がいれば、私はもう怖くない」という科白があるんですが、私にとって稽古中の「私の中の友達」は橋本和加子ちゃんでした。支えてくださり、感謝しています。
稽古の時間
書いた言葉が立体化し、稽古では毎日発見がありました。自分で書いた言葉なのに、まるではじめて出会ったような気持ちにさせられることもしばしばで。これこそ俳優の身体を通して語られる言葉だからなのでしょう。稽古の日々はとにかく楽しかった。演出助手のとのちゃんが参加し、音楽を作ってくれた。劇が大きく飛躍した。新しい風が私たちを動かしてくれた。みんなと話を重ねながら、ひとつひとつ実験する日々。とにかく俳優三人の日々更新されていく素晴らしいパフォーマンスに支えられました。この舞台は三人の話。渡辺梓、鳥島明、橋本和加子という素晴らしい俳優三人の姿。私が考え込むとみんながアドバイスをくれました。そして、いつも、みんながこの作品を応援してくれました。こんなに幸福なことはありませんでした。
作品のことを考えると眠れない日もあり、批判される夢を見たり、でも、三人がとにかく素晴らしいので大丈夫だと思いました。
本番を迎え
そして本番を迎え、お客様に見てもらう日がきました。それから先はちょっとあまり覚えていません。それぐらい、たくさんのことがありました。ただ、お客様に声をかけていただき、心から嬉しかったこと。俳優が素晴らしかったこと。演劇には俳優がいる。
スヌーヌーの次回公演の予定はまだありません。その場その場でやり切って、もうできないと思いながら、舞台を作っています。あー、もっと計画性を持って活動しなければいけないんだろうな。でもまあいいか。そんな器用じゃないしな。わたしさあ、とにかく不器用で。 もうひとつのことやりはじめたら、他のことできなくなっちゃうんですね。よくないよくない。でも、まあ、いいか。
すみません。ちょっと、とんでもなく、長くなりました。長いくせに的を得ていないと言われる可能性大の文章になっております。
すみません。
私自身は、とにかく、反省多々、書くことも演出することもとても難しく、まだまだ勉強しなければと思う次第です。
最後に
ご来場いただきました皆様、本当にありがとうございました。
SNSの感想も読ませていただいております。
もしご感想やご質問等ございましたら、snuunuuoffice@gmail.comまでメールを下さい。読ませていただきます。返信もさせていただきます。
またどこかで、お会いしましょう。お会いしたいです。
あ、そうだ。
2月から3月にかけて劇団はえぎわに出演させていただきます。
スワッチさんとのユニット「ヌードルズ」も徐々に活動していけたらいいなと。
まずは、そこでお会いしましょう。
みなさまに、感謝の気持ちを込めて。
スヌーヌー
笠木泉