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ステップファミリーを振り返る


小さい頃、よく「パパのお嫁さんになるー!」なんて言っていたのを覚えています。父の布団にもぐりこんで一緒に寝たりして。


先日、久しぶりに父とご飯を食べに行き、老けたなあなんて眺めていました。父も大人になったなあなんて思ってくれていたらいいな、と思いながら。

新しい家族として暮らし始めてから14年。実家を出てから私も自分のこれからの家族について考えることが増え、父に踏み込んだ質問をしてみました。

結婚ってなんだと思う?血の繋がりのない子を育てることって大変だった?ママ(実母)は最後どんなだった?

父は結婚について、運命だと語っていました。「結婚は決まってるんだよ。レールの上を走っていて、時期がきたら一緒になる。あれこれ考えて結婚したいなんて思っていてもどうしようもないこともあるの。」と話す父に意外とロマンチックなところあるじゃない、なんて。
「お金を持っているかとか持っていないとかそういうことも大事だと思うけど、あなたが好きだなと思った人と一緒になりなさいよ。」と。

なんだか泣きそうでした。私は結婚=幸せとどうしても思えずに生きてきました。家族だから大丈夫、とも思いません。普通の家族に憧れを抱えすぎて「こんな自分が」と自分でブロックをかけていることに気づきはっとしました。
きっとブロック気づいて溶かしていった先に、素直に愛や幸せを受け取れる自分がいるのだなあと。

父にはお付き合いしている方の話はあまりできていないのですが、いいタイミングかなと思い彼のことを生まれて初めて一緒に生きていきたいと思えた人と話しました。
結婚してもしなくても、愛を教えてくれた彼の幸せを願って生きていきたい。そんな気持ちです。
父は「ああそうなの。まあそのうち紹介してくださいよ」なんて笑っていました。


血の繋がりのない子を育てる、ということに関しては母(継母)からはあまり辛いとかは聞かなかったと言っていました。一緒に暮らすことが急に決まり、母も準備期間がないままお互いに混乱してたよねなんて。
距離感がつかめず悩みながら過ごし、仲良くないけど悪くもないという結局母と娘にしてはドライな関係に落ち着きました。
確かに準備期間があったら、もう少し形になったのかもなあなんて思いました。

当時は母と仲良くなりたいのにうまく甘えられず、母方の祖父母との繋がりは絶たれ、迎えられて一緒になった訳じゃないよねそうだよねなんて毎日生き地獄だと思って過ごしていました。

ぐちゃぐちゃな気持ちを抱えながら苦しんでいた頃から10年経った今、やっと辛いことばかりじゃなかったなと思えるようになったわけですが。

父は「10年後、20年後にみんなでそんな時もあったねって話せたらいいよね。あなた達には苦労させてしまって申し訳なかったけど。」と言っていました。
私も「今では仕方ないと思えるし、きちんと生きていく力もつけてこられたよ。本当のお母さんじゃないくせにとは思わなかったよ。」と伝えました。母はいつも温かいご飯を作ってくれて家の中も綺麗にしてくれて、生きていくのに必要なことも教えてくれました。
愛されたかったという気持ちは母だけが埋めるものでもないし、母なりに注いでくれた愛が私のバケツの受け皿には少なく感じてしまっただけなんだよな〜と。

母も幼少期に両親の離婚を経験して虐待を受け苦しんで生きてきたからこそ、私達と一緒になる時に「絶対に手はあげない」と誓ってくれました。
親にしてもらえなかったことは子にしてあげられないと聞きますが、してもらえなかったことがあるからこそ感じることってあるなあと。
母はその誓いを守ってくれましたし、私が母と同じ立場だったらそこまで強い自分でいられるかなあなんて思うこともあります。
母は私達(継子)とのことがあったからこそ今、実子の弟にできることをしてあげたいと思っているようです。


色々振り返る中で私はあまり覚えていないのですが、ママと離れた時のことを父は話してくれました。

私の記憶にあるママは私の友達をとても大切にしてくれて、愛してると言葉でたくさん伝えてくれて、ちょっとずれているけど温かい人でした。
離れる前、ママはヒステリック気味で度々爆発しては「自分はガンでもうすぐ死ぬ。医者は本当のことを隠している。自分の生まれた国で死ぬ。」と私と妹を置いてタイへ帰国しました。

当時は「ママに捨てられた。」と思っていましたが、ママなりに色々抱えて私達を守るために離れてくれたんだなあと思います。

タイで生まれ、生きにくさを感じ日本へ来ましたが日本でも生きづらさを抱えたままだったと父は話していました。余裕がなかったんだと思う、と。
検査入院もしていたし自分の棺桶を買ったとも…それから14年…いや棺桶買うの全然まだ早かったやん笑

ママと離れる前、誕生日のお祝いにお小遣いを握りしめて小さなショートケーキと4と6のろうそくを買った記憶があります。あまり嬉しそうではなかったのですが、私はそのろうそくを大切に缶にしまっていました。

誕生日は2月6日か2月7日だったかなと思うのですが、もう覚えていないし何も感じなくなってしまいました。当時の私は何かを察して必死に繋ぎ止めておきたかったのかもしれないなあなんて思います。

今思えばややネグレクトだったのかなと思う節があり、離れて暮らす父にママが帰ってこないなんて電話をしていたこともあったそう。(全く覚えていない)

でもどんな親でも親なんですよね。父はあんまり愛をたくさん注いで育ててあげられなかったかもしれないけどと言っていましたが。
将来の子育て大丈夫かなって心配はあるんだよ、と。
カウンセリングで「話だけ聞くと壮絶な経験をしているのにスクリーニングでは問題がないのでどんな方なのか気になっていました。お話うかがって乗り越える力を持っておられる方だと感じました。」と言われたのを思い出し、「まあなんとかなるよ。」と伝えました。

満たされなかった思いは友人やパートナーや子どもからもらう愛で埋められることを私は知っていますし、きちんと母と父の子という事実は消えることはなくて、愛の中で生まれてきたということがきっとこれからも私を引っ張っていってくれるんだろうなと思います。

今の時代、家族の形なんて無限にあって、子どもも大人も自分の人生を生きながら幸せを願えたらいいなあなんて思います。

また10年後、今度は母も一緒にそんなこともあったねなんて話ができたらいいなと思います。

血の繋がりがあってもなくても、子ども達の幸せを願う大人の気持ちが届きますように。
そして子ども達が温もりの中で過ごせますように。


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