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自分の仕事にオーナーシップを持つ

 真夏の強い日差しと、照り返すアスファルトの熱気で、気温は最高潮に達していた午後一番。会社の建物の外の敷地内には、社員が通る通路の脇に緑地化された草むらがあり、そこには背が高くて幹の太い木が何本も植えてある。その内の一本の木にビニール紐でくくりつけられた一匹の迷い犬が寝そべっている。というより、そこにくくりつけたのは僕だ。しかも、首輪にうまく紐を結べていなかったために、午前中に2回も紐を振り切り、脱走している。そんな迷い犬に僕は水をあげていた。これが僕の仕事だ。

 というのも、僕は企業の人事総務担当としての仕事を6年ほど続けている。これは僕が人事総務3年目の時の話で、最初の勤務地である事業所で働いて、2年ちょっと経過した夏のことだった。会社内の迷い犬の保護も、立派な総務の仕事なのだ。

 その日の朝、通勤してきたときに事業所内の駐車場にて悠々と闊歩している犬を発見。(雑種の中型犬で首輪あり。)すかさず車を降りて捕まえようとすると、特に抵抗する素振りを見せずに捕獲に成功。ただ、事業所の周囲は工業団地になっていて、住宅はなく、それなりに遠くまで来てしまっているようだったので、その場での飼い主探しは困難だった。とりあえず、市役所に電話して事情を説明すると、保健所へ連絡しろというので、保健所へ相談。すると、一旦引き取って飼い主探しをやってくれるということで、引き取りには午後に向かうということだった。午後まで他の仕事もあるので、事務用品のビニール紐を犬の首輪に結び付け、木の幹につないで、仕事に戻ったのだが、先にも書いた通り、脱走してしまった。しかも、脱走した割に会社の敷地から出ようともせず、社内の通路をこれまた悠々と歩いているところを、2階の事務所の窓から目撃し、再度捕獲したのだった。夏の暑い日差しの中、社内で犬を捕獲しに走り回る僕の姿はさぞ滑稽だったらしく、その後、遠巻きに撮影された僕と犬の写真が社内メールで出回っていた。

 お昼ごろには、ビニール紐もようやくきちんと結べたのか、あるいはさすがに暑さにバテ気味なのか、様子を見がてら水をあげにいくと、犬は脱走することなく木の下に寝そべっていた。ただ、僕を見つけると嬉しそうに尻尾を振って立ち上がる。人懐っこく、他の社員に対しても朝から愛嬌をふりまいている。午後の昼休みを迎え、再度水をあげていると、別の部署のTさんがやってきて、笑顔で犬をなでまわした。相当犬好きなのか、朝から何度も見に来ていて、今度は手作りお弁当の中身半分を犬にあげだした。なんという献身っぷりだろうか。自分のお昼ごはんの半分を見知らぬ迷い犬に差し出したのだ。ちなみにTさんとは今まで、存在は知っていたが、仕事で関わりが薄いので直接会話したことはなかった。おまけに、スキンヘッドで強面のおじさまだったし、なんかよくわからない外車に乗っていたので、それまでは少し敬遠していたほどだ。しかし、今回のことで、Tさんが気さくで、周囲に優しく、同僚から信頼されている人物であることを知れた。

 午後3時くらいに、無事に保健所の人が到着。迷い犬を引き取りに来た時、Tさんは寂しそうに見送っていた。犬の方はのんきなもので、特に逆らうこともなく、職員さんの誘導するままにトラックに自分から乗っていった。保健所によると、長期間は預かっていられないようで、飼い主が見つからないと、最悪の場合、殺処分になることもあるということで、正直、行く末には僕も心配はしていた。だが、まあさすがになんとかなるだろう、と楽観的に思うことにした。そして、犬を見送った後、僕は清々しく仕事をやり終えた気持ちになっていた。


 なぜこんな迷い犬の話をするのかというと、当時の上司の口癖のひとつに「会社を自分の家だと思って行動しろ」、というアドバイスあったからだ。1年目から人事総務部門に配属された僕は、当然すべてが未経験だった。特に総務関連においては、事務所のレイアウト変更や食堂改装とか、そういった費用のかかるものは判断に困ることが多く、よく上司に相談していた。そうするといつも、「この案件が自分の家のことだと思ったときにどうするか考えてみろ」と言われていた。つまりは、業務を自分事として捉えろ、ということだ。会社のカネだと思って特に何も考えず、予算内か否かだけで判断していた僕はハッとさせられた。
総務であれば、事業所内のどんなことでも、最後に対応するのは自分たちなのだ。そして、その判断は上司に押し付けるばかりではプロとは言えないのだ。細かいことだが、上司は会社内でゴミが落ちていると必ず拾っていた。これも「自分の家なら精神」らしい。それからは、意識して自分もそう思うようにして、判断・行動していた。
 
 入社して1年半ほど経ったある時、社内で大変なトラブルが起こり、一時的ではあるが、一週間以内に、私の働く事業所に今の1.5倍の人数が異動してくるという事態が起こった。緊急事態ではあったが、僕は既に事業所内の設備、備品を把握しており、関係法令の制限とも照らし合わせて、課題を整理、優先順位を決めて判断し、足りないものの手配など迅速に動くことができた。この時が初めて学んできたことが血肉となった経験だった。最初は意識して動いたり、知識として学んでいたに過ぎなかったことが、有事に際して、「自分の家なら精神」をしっかり実践して成果をおさめることができたのだ。

 そうして、このトラブル対応が首尾よく収めたことが評価され、別の事業所での人事総務部門へ異動することが決定。迷い犬と遭遇したのは異動の3日前のことだった。当然、「自分の家なら精神」で、誰からも指示されることなく、迷い犬を保護し、保健所に受け渡す、会社としての対応をとることを判断した。たわいもないことだけれど、これまでを振り返って成長を実感したというか、自然に自分事として捉えて判断し、行動するひとりのプロとなれた気がしたのだった。変化の激しい時代の中で、ビジネスのトレンドや専門知識はせっかく身に着けても、時がたつと、すぐに時代遅れとなり、陳腐化する。だからこそ、ひとつの専門的知識を持っていれば良いというものではなく、大切なのは、新しい知識・情報を学習する好奇心と、得た知識を繰り返し実践していこうとする姿勢だと考えている。「自分の家なら精神」とはつまりオーナシップのことであり、サラリーマン的な受け身ではなく、個人事業主的に物事を考える姿勢だ。自分事に捉えるからこそ、責任感が芽生え、自ら学び、実践していく。この姿勢を身に着けることができた結果だと実感した経験として、迷い犬の思い出が残っている。

 なお、犬はその後ほどなくして無事飼い主と再会できたとのことだった。実はTさんが、犬の写真を撮影し、SNSにアップして飼い主を探そうと提案してきたのだ。そのSNSの投稿がきっかけで飼い主はシェアされた我が子の写真に遭遇し、無事に再会することができたらしい。Tさんはさすがだなと思った。数年後、Tさんの部署に新人を配属することになったとき、教育係はもちろんTさんにお願いした。新人教育に熱心に対応してくれたのは言うまでもない。人事として、従業員の様々な側面を知っておくことが大事だということもその時に実感した。


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