兄はアメリカ軍、弟は日本軍。「敵」として戦った阿久根兄弟の話
家族と祖国、あなたはどちらを選びますか?
太平洋戦争の終戦から今日で75年が経ちました。僕を含め、実際に戦争を経験するどころか、その恐ろしさすら知らない世代が増えています。
国や世界が平和なのは良いことです。しかし、日本人として知っておきたい事実は沢山あります。今回はその一つ、阿久根(あくね)兄弟のストーリーをご紹介します。
実の兄弟でありながら、敵として戦わざるを得なかった。映画のような本当の話を一緒に見ていきましょう。
兄弟の生い立ち
1918年。阿久根一郎・ユキエ夫妻はビジネスチャンスを求めてカリフォルニア中部に移り住みました。小さな食用品店を営む傍ら、9人の子宝に恵まれます。
ところが1933年、ユキエが亡くなってしまいます。そこで兄弟たちは祖父母が住む鹿児島県へと渡りました。
語学学校に通っていた当時のハリーとケン
アメリカで生まれ育った子どもたちは、初めて暮らす日本に戸惑いながらも自分の居場所を見つけていきます。三男の三郎はいじめに抵抗するため、剣道を始めました。
やがて長男のハリーと次男のケンは労働環境の良いアメリカに戻り、兄弟は離れて暮らすことになります。
「敵」として参加した太平洋戦争
1941年12月7日。日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発します。
アメリカ政府は日系人を「敵性市民」とみなし、西海岸に住む日系人約12万人を強制収容キャンプへと送りました。
強制収容キャンプの様子
収容された人々はハリーやケンのようにアメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ者がほとんどでしたが、二人は日本に住む家族に連絡を取ることを許されず、その他の人権も大きく制限されました。
事態が大きく動いたのは、米軍の諜報部からリクルーターが派遣されたときのこと。ハリーとケンは日本軍の情報を探る翻訳ボランティアに志願しました。
阿久根家の長男と次男は文書の翻訳から捕虜の尋問、そして投降を求めるスローガン作成など、日本軍との戦いに大きく貢献します。ハリーに至ってはその後落下傘部隊(飛行機から敵地に飛び降りて攻撃を仕掛ける)に配属されます。
ケンが所属していた部隊の写真
当然ながら、日系人は軍の同胞から陰湿な差別を受けました。
例えばハリーは敵陣に乗り込む寸前に自分のカバンから武器がなくなっていたことを後に振り返っています。調べると、司令官が故意に彼の装備を妨害したことがわかったそうです。
しかしアメリカへの忠誠心は揺るぐことはなく、二人は目の前の仕事に全力を尽くしました。
時を同じくして、日本では三男と四男が日本軍に志願していました。
三郎は当初アメリカ国籍のために入隊を拒否されましたが、「日本生まれ」と偽ることで海軍の飛行兵に見事採用されます。まだ15歳だった四郎は新入兵の訓練を支援しました。
兄達よりも幼い頃から日本で過ごしていた二人にとっては自然な決断だったといえます。
日本での暮らしを振り返る四郎
こうして阿久根兄弟はそれぞれが「祖国」と信じた国のため、家族ながら正反対の立場で太平洋戦争を戦い抜きました。
戦後と再会
1945年8月15日。日本軍はアメリカに降伏し、大日本帝国は終わりを告げました。
奇跡的に全員が無事だった阿久根兄弟ですが、彼らの試練は終わりません。
アメリカ軍として戦ったハリーとケンは地元の日系人コミュニティから「裏切り者」のレッテルを貼られ、三郎と四郎は戦後日本の絶望的な状況に放り出されました。
戦後日本
そんな兄弟の再会は思いの外早くやってきました。なんと、統治のためにやってきた進駐軍の中にハリーとケンがいたのです。
涙ながらにお互いの無事を喜ぶ…とはいかず、彼らは激しく言い争います。
この時に初めて「敵として戦った事実」を知った四兄弟。事実認識や価値観は大きくかけ離れていました。
三郎は後のインタビューにこう答えています。
僕は世界平和のために日本は戦争をしたのだと主張し、兄は日本の幹部の連中の軍国主義のせいでこのような事態になったのだ、と譲らない。
アメリカにいて、アメリカの生活をしている兄貴からすればアメリカの国に忠誠を尽くすのは当然かもしれない。
僕は日本にいて日本にお世話になってきた。だから、僕にとっての日本への忠誠もまた当然のことだった。兄貴の一人は米軍の情報部、一人は落下傘部隊だった。
兄弟で敵味方に分かれていたわけで、もし直接に戦う場面があったとしても敵だと思って戦ったはず。当時はそういう覚悟だった。
(ディスカバー・ニッケイより)
見かねた父・一郎が間に入り「戦争はもう終わった。もう戦う必要はない。」と一喝。ようやく兄弟は10年ぶりの再会を素直に喜ぶこができました。
やがて兄二人は帰国。弟たちも後を追おうと試みるものの、日本軍に加わった二人の米国市民権は剥奪されていました。
そこに幸運が訪れます。当時三郎を運転手として雇っていた海軍将校が経緯を知り、二人をアメリカに連れ帰りたいと言い出したのです。
1950年代のロサンゼルス
彼は三郎と四郎のビザを手配し、兄たちがいるロサンゼルスに向かう支援をしました。将校は決して見返りを要求せず、きわめて人道的な行動だったといえるでしょう。
こうして阿久根兄弟の新たな暮らしが母国アメリカでスタートしました。興味深いことに、後に勃発した朝鮮戦争では4人そろって米軍として戦います。
カリフォルニアで散歩するケンと四郎
一度は引き裂かれた兄弟の関係は次第に回復していき、その後も仲良くカリフォルニアで暮らし続けました。(おしまい)
アイデンティと家族について
運命に翻弄された4人。
阿久根兄弟のストーリーは多くのことを教えてくれますが、個人的には「アイデンティと家族」について考えずにはいられませんでした。
僕は思春期の4年間(高校)をアメリカ・ハワイで過ごした経験があります。
ハワイの虹 🌈
ハワイ州はアジア系の比率がかなり高く(約4割。アメリカ全体ではわずか6%にも満たない)、サイトウやヨシダなど聞き覚えのある名字のクラスメイトが沢山いました。
ベントー(弁当)やテリヤキチキンといった単語もバリバリ通じます。しかし彼らのアイデンティはれっきとしたアメリカ人。キリスト教を信仰し、感謝祭にはターキーを食べます。
とはいえルーツを変えることは誰にもできません。「一度は祖先が生まれた国に行ってみたい」と考え、現地に居る祖父母やおじ・おば等を訪ねることは一般的でした。
両親との会話は日本語だけど、学校の友達とは英語で話す…というケースも多く、家族という面では多様かつ複雑な事情があります。
Manoa Chinese Cemeteryという中華系専用の墓地 👲
このように、ハワイは「国籍とルーツが違う場所にある」という微妙なバランスの上に生きている人が非常に多い環境でした。おそらく阿久根兄弟も同じような葛藤を抱えていたのでしょう。
単身渡米したこともあり、海外生活は僕自身にも大きく影響を与えました。例えば第二次世界大戦については、中学まで「敗者」、高校では「勝者」の立場で学んだことを覚えています。
実際に使っていた「アメリカ史」の教科書 🇺🇸
日本では「戦争は絶対的にいけない。軍隊は二度と持たない」と教わりますし、
アメリカは「戦争は最終手段だが、正当な理由(正義)があればやむを得ない。軍隊は国や世界の平和を守るために働いている」という思想が強い。
他にもテクノロジーの力や面白さ、自分の人生を切り開く大切さ…など、様々なことを感じました。同時に日本の素晴らしい面にも多く気づき、日本人としての誇りも意識するようになります。
僕はアメリカを祖国とは考えていませんが、大きな恩を感じています。しかし戦争で米軍に祖先が殺されたこともまた事実。
この複雑な感情はすぐに消えることはないと思います。
地元・東京の空 🌇
それでも変えられるのは未来だけ。完全に日本人でもアメリカ人でもない志向やアイデンティを武器に、家族のみならず多くの人々に貢献していきたいです。
みなさんはどのようなことを感じましたか?ぜひコメントで教えて下さい!
参考情報
TED-Edのドキュメンタリー
TED-Ed紹介記事
ニュース記事
CNNの特集動画
2008年時点では三郎さん以外は全員ご存命とのことでしたが、現在は不明です。
このノートを書いた人
Neil(ニール)
ecbo (荷物預かりプラットフォーム) とプログリット (英語コーチング) でUI/UXデザイナーとしてインターン。現在はIT企業でデザイナー。 ハワイの高校。大学では法学を専攻。もともとはminiruとしてnoteを運営。
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