魔女さんのストレートティー
わたしの傍にはいつも紅茶があった。
センター試験の時も、ピアノのコンクールの時も、入学式の時も、遠足の時だって、水筒の中に入っているのは紅茶だった。
紅茶は紅茶でもストレートのみ。わたしはストレートティーが大好きだ。
よく覚えている。
初めて紅茶を飲んだのは小学生のときだ。
わたしは走っていた。
何故?それはわからない。よく覚えていない。けれど多分名札のせいで洋服に穴が空いたとか、せっかくの髪の毛がぐちゃぐちゃになったとか、家族と喧嘩したとかそんな理由だと思う。
でも負けず嫌いなわたしは絶対に泣きたくなくて、でも油断したら涙が出そうで。だから走っていたんだと思う。
小学校の校区内がわたしにとっての全世界だった。その中のことならなんでも知っていたし。
先生には「校区内から出るな」と固く言われていたけど、その日のわたしは多分どうでもよかった。気付けば全然知らない所にいた。でも怖くはない、そんな感じ。
何故かそこだけ木で覆われていた。
周りは民家が連なっているのに、何故かそこだけ小さい森のように緑でいっぱいだった。
でも森の中にわたしを誘うかのような小さな道は続いている。この奥に人が住んでいるというのはなんとなくわかった。
ここからの記憶ははっきりとある。不思議だが。
「何してるの?」
突然真後ろから声が聞こえたから本当にビックリして、変な声が出た。
「え、あっ!こ、こんにちは!」
しどろもどろになりながらなんとか言葉を返したわたしにその人は少しだけ笑った。
魔女のような人だった。
黒とも紫とも深い青ともいえる腰までの長くて真っ直ぐな髪の毛に、似た色のワンピースを着ている女の人。すごく不気味で、でも魅力的で美しい女の人。
「見ない子ね。どこから来たの?」
こっちを見据えるその女性にわたしはなにも言えなかった。
「ついてきて」
小さな森の中へと続く道を歩くと、こじんまりとした建物が見えてきた。
屋根は暖かいオレンジのような色をしていてすごく可愛い家だった。
室内には絵の具の匂いが充満していて、なんだか不思議な空気が漂っていた。
二人がけの小さなテーブルと簡易キッチンのある部屋に通されたわたしは、ぐるっと部屋を見渡した。
たくさんの絵が壁を覗かせないとばかりにぎっしりと貼られていて、すごく怖い。こっちを睨みつける女性の絵や、真っ黒な涙を流す男か女かわからない人物の絵。これが芸術的というものなのか・・・当時のわたしにはよくわからなかった(今もよくわからん)。
「少し身を引いて」
テーブルに身体を乗り出して絵を見ていたわたしは我に返り、大人しく背筋にもたれた。
魔女さんはいつの間にかテーブルのそばに立っていて、何かを持っていた。
「魔女さ・・・あ!!すみません」
「いいよ、魔女さんで」
「魔女さん、コレなんですか?」
魔女さんの持ってきた謎の液体が入ったティーポットを指刺すと、少し驚かれた。
「あら、初めて?」
わたしの前に置かれた透明のグラスの中にコポコポと液体が注がれた。
一瞬でグラスを真っ白に染めて、すぐに中の液体が顔を出した。オレンジとも赤とも言えない色。この家の屋根にそっくりだ。
と、同時に甘い香りが室内に、いや家中に、もしかすると世界中に充満したかもしれない。甘いようで少し酸味のあるような、それでもやっぱり口の中を蕩けさせてくれそうな香り。それくらい幸せな香り。
「どうぞ」
魔女さんに言われて、恐る恐るグラスに口付けた。
「うわ、美味しい」
びっくりするくらい甘くて、暖かくて、すごくすごく美味しい。身体から毒素が抜けていくよう。入っていた力も共に抜けていく。
何に悩んでいたのか、何に泣きそうになっていたのか、全部全部吹っ飛んでいった。
「ホットのストレートティーよ。」
すとれーとてぃー。
名前の通りストレートにわたしの身体を温めてくれた。わたしの心の中を不安から拭ってくれた。横に置かれた小さなクッキーとともに飲むと、さらに美味しかった。
そこからの記憶ははっきりと覚えていない。
けれど、帰り際魔女さんは「また、何かあったらおいで」と言ってくれた。
多分それは、自分ではどうにも出来ないほどに心がいっぱいになってしまった時のことだと思う。
もう無理だ、壊れる
そう思った時に来るように言ったのだと思う。
だからわたしはあれ以来魔女さんに会いに行ってない。
その代わり何か辛いこと、緊張すること、感情をコントロール出来ないことがあればホットのストレートティーを飲む。
あの時飲んだもののように安心できないし、美味しくもないけれど。
でもそれでいい。そうでなくちゃ。
魔女さんのストレートティーを作れてしまうのはわたしの中から魔女さんが消える時だ。
わたしには魔女さんのストレートティーがある。
そう思えばどんなことでも乗り越えていける気がする。