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日本語指導の思い出④

 バニアさんのブラジルポルトガル語の授業は、最初、アルファベット、数字、曜日などを覚えて、読み書きすることから始めて、労働者の識字用テキストに移った。

 バニアさんは、二人分テキストのコピーを持って来てくれて、私も一緒に勉強させてくれた。
 それは、バニアさんが教職の資格を持っていないので、という理由で「同席してほしい」というバニアさんからの要望があったからだった。
 が、どうも実際のところは、バニアさんは、A君が支援者や通訳などに任せっきりにされるのを避け、バニアさんと一緒に仕事をする校内の理解者を作りたかったからではないか、と今では思う。
 結構、バニアさんの流儀は巻き込み型で、A君のために、高校で家庭科室を借りて、パオンジケージョの会を開き、2年担任やA君の保護者や他校のブラジル人生徒たちも招いて、パオンジケージョをみんなで作って食べ、歌を歌い、ダンスを踊った。

 普通、教員は授業を見られるのを嫌がるもので、バニアさんが出産のために退職した後、0限にブラジル母語支援者として来てくれたブラジル人女性は、私の同席を「今、ここにいる必要がありますか⁈」と拒否された。
 それは、母語支援対象者が、ほとんど喋れないA君ではなく、中学から日本に来てブラジルポルトガル語を普通に歌うように話すBさんだったから、ということもあった。
 レベルが全く違う生徒がいると、黙って座っていても、かなりやりづらい。壁と同化しているのならともかく、普通の人間は、『わからない』とか、『わかる』とか、テレパシーと言うと語弊があるが、意識を飛ばしてしまって、教員は、それによって授業のレベルを変える。対面とオンラインとの最大の違いは、この、教員に向かって飛んでくる、分かるとか分からないとかの生徒の意識《一種のテレパシー》だと言えるだろう。

 A君は、最初、1〜10の数を覚えるときも、私が先に覚えたくらいで、大変苦労していた。
 例えば、A君はしばらく、セイス=6、セッチ=7、オイト=8をよく間違えていた。曜日も似たり寄ったりで、水曜木曜金曜が怪しかった。私は、数はまだ今でも言えるが、曜日は忘れた。今、調べたところ、
 セグンダフェイラ 月曜
 テルサフェイラ  火曜
 クワルタフェイラ 水曜
 キンタフェイラ  木曜
 セスタフェイラ  金曜
 サバド      土曜
 ドミンゴ     日曜
そうそう、金曜をキンタフェイラと間違えていた。A君は何のかんの言っても、その時、既に8年近く日本にいたのだから。

 ポルトガル語は、フランス語やイタリア語に似た言葉がある。私は大学の第二外国語がフランス語だったので、数字は途中から(クワトロから後)フランス語にならないように気を付ければ良かったし、音楽のイタリア語アンダンテ・カンタービレから、ポルトガル語の歌うカンタールは類推しやすかった。
 そういう予備知識のないA君は、最初苦戦していたが、動詞変化が本格的に出てきてからは、私がA君に太刀打ちできなくなった。 
 テキストが識字用と言っても、母語話者用だったこともあって、ある程度喋れる前提のテキストだったので、私には語形変化が難しすぎた。一方、A君は、家で母語で話せる。
 というわけで、動詞が本格化した辺で、私はポルトガル語学習の伴走者をお役御免になった。

 バニアさんにブラジルポルトガル語を習っている間、TVのスペイン語講座やイタリア語講座が好きだった。何を言っているか分からなくても、耳が慣れて、言葉として、単語として聞き取れるのだ。もとい聴き取れた。
 ブラジルポルトガル語で「頭が痛い」は「コン ドール ジ カベッサ」という。スペイン語でも頭は「カベッサ」。
 ポルトガル語とブラジルポルトガル語の違いは、よく目立つところでは、deをディというか、ジというか、など、発音が違うようだった。

 残念ながら、バニアさんに習わなくなって、半年すると、ラテン語系の耳は失われた。
 ブラジルポルトガル語を勉強し始めたのは2008年春、A君が入学してくる直前からで、その時、私は46歳だった。
 語学は好きだが苦手で、「まさかこの歳になって外国語に挑戦することになるとは」と言ったのを覚えている。
 かなり頑張ったが、何も見ずに反射的に言えるのは挨拶の言葉だけだ。ボンジーア、ボアタルジ、ボアノイチ。数字も大丈夫かな?ウン、ドイス、トレス、クワトロ、サンク、シス…あ、フランス語に化けた。スィンコ、セイス、セッチ、オイト、ノーヴィ、デース。
 ……やれやれ。オブリガーダ。

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みゆ
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