日本語指導の思い出⑥
バニアさんがブラジルポルトガル語を教えに来て、1か月経った時、バニアさんは遠慮がちに言った。
「……実は、まだお給料をもらっていないんですよ」
「え?じゃあ、桶谷先生に聞いてみます」
もちろん桶谷先生に連絡した。私はそれで大丈夫と思っていた。
2か月経って、バニアさんは「聞いて下さい。まだお給料が入らないんですよ」
「変ですね、また聞いてみます」
わかりました、払いますという返事。
しかし、3か月経って、バニアさんが半泣きで言った。
「聞いて下さい、先生❗️まだ、ここのお給料もらってないんです」
「何ですって⁉️」
桶谷先生に連絡したところ、今回ようやく事情が分かった。桶谷先生はK研究所から、研究の経費としてバニアさんのお給料を出そうとしたが、なかなか審査が下りず、研究費が出ないと言った。「でも何とかします」と約束してくれた。
その後、K研究所の先生が訪ねて来られ、A君の状況を聞いてアドバイスを下さったり、指導のVTRを見せて頂いたような記憶がある。
その頃、いろいろな人が学校にやってきたり、私自身も教育委員会の人権研修(日本語指導の予算は人権委員会枠)やら国の研修やらに行かされたりして忙しく、単に調査研究のためだけに来られたのかと勘違いしていた。
……実は、今、文章を書くまで、バニアさんのお給料と話がつながっていなかった。
しばらくしてバニアさんは、ニコニコして言った。
「お給料、入りました❗️10万円❗️」
バニアさんが来てから、何ヶ月経っていただろうか。K研究所は年間予算のはずだから、ひょっとして一年で(正確には8か月ほどか)10万円❓
あまりに申し訳なくて、バニアさんが来たらコーヒーを出したり、一月には異文化体験として、A君とバニアさんに、お盆手前で、立礼ではあったが、お茶菓子とお抹茶を振る舞った。
翌年は、バニアさんは大阪府の課外活動の支援員の登録をして、そこから交通費と謝礼が出るようになった。
しかし、部活動の場合、阿倍野高校で茶道部の顧問をしていた先生が「茶道の指導に来てくださっている先生へ府から出る謝礼は、こちらが恥ずかしくなるぐらい雀の涙なのよ。だから学校の顧問は個人的にその先生のお宅に習いに行ってお月謝を払うのですよ」と言っていたのを思い出し、バニアさんの結婚式にお祝いを贈り、バニアさんが産休に入りたいが産休という制度もなく、オンライン授業もダメとなった時に、何度かバニアさん宅に出かけて、ポルトガル語の個人授業を依頼したり(上手く行かなかったけれど)、ブラジル料理をご馳走してもらって美味しくて食べ過ぎたので、鶏ばかりで最近牛肉を食べていないと聞いて、代わりにお土産に牛ステーキ肉を冷凍して持って行ったり、関東煮(おでん)の材料を持って行って、作り方を教えたりした。
ある日バニアさん宅で知り合いの日本語指導の先生にばったり会って「何故そこまでするの?」と言われた。
それで「お金の問題以上に、バニアさんがいなければ、到底、日本語指導が出来なかったと思うし、無給でもA君や私の窮状を察してずっと来てくれたバニアさんに、恩義があるので」と返事したら、「恩義、ってあなた……」と呆れられた。
しかし、その先生自身、バニア宅に週数回通って、産前産後のお世話をしていたのだった。……バニアさんの人徳じゃないんですかね。