三文小説
他に好きな人が出来たからと、彼女が告げた時に心の中でガッツポーズをしたのを僕は今も覚えている。
いつもの席で、いつものコーヒーと、いつものホットサンドを食べている時だった。
『別れよう、他に好きな人がいる』
在り来りのセリフと在り来りの受け答えの後僕らは別れて、それが最後になった。
僕のプロフィールなんて大したことがないから、彼女の話をしようと思う。
彼女は本当に可愛かった。顔とか性格とかそんな次元じゃなく、本当に可愛かった。
初めて会った時、なかなか笑わない彼女に興味を持って、慣れない飲み会で慣れない酒を飲みながらどうにか彼女を笑わせようと躍起になった。
おどけたり、ふざけたり、時には無様な自分の話をしたりしていた。
そろそろやばいぞと、用を足してくると立ち上がって、目が回った僕は脚をもつれさせ、先輩の上になだれ込み思い切り膝蹴りを食らわせてしまった。
その大惨事の時、ついに笑った彼女は歯並びが悪くて、だから笑いたくなかったのだと顔を赤くした。
それを見た僕は撃ち抜かれて、それからは彼女を追いかけ回した。
どうしたら彼女が笑うのかということだけを考える、大学生活だった。
ある日、どうしてそんな意地悪ばかりするのかと怒った様子の彼女に涙目で問い詰められた時は、身に覚えがなくて動揺したのを君は気がついただろうか。
僕は君の欠点が、君が欠点だと思っているそれが心から愛おしかったんだ。悪かった。
僕が彼女をすきになるのは自然な事だった。初めて笑わせようとした時から、そう思っていたのかもしれないけど、いつも少し笑っていて、少し泣いているような君が、太陽みたいに笑うのを見てしまったら、そんなの好きにならないわけが無い。
はじめて彼女の部屋に泊まった日、なかなか何も出来ない僕の肩に手を置いて、何気なさの演出に読書する彼女がいじらしくて、僕はその本を取り上げて髪を耳に掛けた。
慣れていないように見えたのに、思ったよりこっちの気持ちを分かっていて、すっと腰をあげる仕草に嫉妬をしたのも、きっと気が付かれていないといいな。
僕らはずっと順調だった。あまりにも何も無い日常に少し退屈する時もあったけど、夏が3回訪れても暑苦しいと思わない関係が僕には心地よかった。
4回生の秋、その女は僕に近ずいた。
2年年下で、猫のようにはねあげさせたアイラインはまるで古風な壁画の女王のようだった。
地元が同じだった僕らは直ぐに打ち解け、彼氏の浮気に困っているという相談を受けながら、その女の背中が大きく空いた服に驚いていたのは否定出来まい。
そしてそれを僕が"しめた"と思ったことも。
彼女は、だんだん忙しくなった。
ライターになりたいと言っていた彼女は、映画の女性記者に感動して、弱い立場の人を救える仕事がしたいと目を輝かせた。
そこには歯並びを恥じて縮こまっていた彼女の姿はなく、キラキラとした大人の女性がいた。
僕は君の太陽みたいな笑顔を知っているのが僕だけで無くなったことを、少し寂しく思った。
彼女は綺麗になった。本当に綺麗だった。この4年間の間に、可愛くて、綺麗な大人の女性になっていた。
いつも電気を消していたけど、本当は記憶に焼き付けたくて、ずっと明るくしていたかった。そんなことを言ったら怒るだろうから、ついに言うことは出来なかったけど。
本当に僕の人生でいちばん綺麗な、1番愛おしい人だった。後悔するのは仕方ない。
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別れたいと言いながら、涙を堪えているのをきっと気づかれてしまっていたでしょう。
私が幸せになることをひたすらに思っている人でした。
付き合いで行った飲み会でたまたま前に座っただけなのに、楽しそうにしていないからとひたすら私を笑わせようとする姿に、お人好しなのかしらと思っていた。
随分ペースが早いから、お酒が強いのかと思っていたのに、立ち上がった瞬間ずっこけて思わず大きく口を開けて笑ってしまった。
母子家庭だった私に歯列矯正をするお金はなく、中学生の時にガチャピンとあだ名をつけられてからは人前で笑わないようにしていたのに。
それから彼はことある事に私を笑わせようとした。私はその全てが腹立たしく感じて、ある日問い詰めた。彼も私をからかったアイツ(武田だか、林田だか……)と同じ人間なのかもしれないと。
今思えば随分人間不信になっていたように思う。
彼は少し面食らったように、僕は人を笑わせるのが好きなんだ。と言って、芸人にはなりたかった幼少期の話をしてくれた。
その時にはもう、気になっていたのかもしれない。
彼はとても奥手だった。可愛いとか、好きだとか、そういう歯が浮くようなセリフは決して言わない。
だけれど、代わりに、ふとした時に私を見る目がとても優しいのを私は知っていた。
初めて彼が終電を逃して、私の家の方が近いからと家に上がった時、心臓が口から出そうとはこのことだと思った。
自分の全てが不自然に思えたし、何をどうしても恥ずかしかった。
当たり障りのない会話のあと、息詰まって本棚に手を伸ばして本を読んでいる振りをしたけれど、当然のように目の前の言葉たちは頭に入ってなんてくれなくて、私は目が回る気持ちになった。
でも不意に、私たちは仮にも付き合っていて、そして私の部屋で2人きりでいる。何も悪いことはしていないと思った。
次の日の朝は、素晴らしい朝とはいえなくて、もっと変わると思っていた私も変わっていなくて、安心したようなガッカリしたような気持ちの中、コーヒーを入れて1口飲んだ。
彼はいそいそと身支度をして、寒くなってきたなと言いながらドアを開けたら、夏の終わりの冷たい雨が降っていたから、傘を貸した。
彼は返しにくるねと言った。
それから私たちは順調だった。あまりにも平凡で退屈な幸福の中で安心感が育つのを私は確かに感じていた。
そう感じていたのは私だけではなかったはず。
だけどあっという間にそれは崩れてしまった。
彼には夢があった。夢があるというのはとても素敵な事だと思ったし、私はそれを応援した。同時に寂しくもあった。私には何かを成し遂げる勇気はない。
ある日たまたま観た映画の中の、働く女性がとてもかっこよかった。こんな女性になりたいと思った。声の出せない人の代わりに声をあげられる人になりたかった。声を出せなかった過去の私にすこしでも償いたかった。
それから私は怖がるのを辞めた。
彼に嫌われることも、愛されることも求めないようにしようと思った。私が私を愛した時に、愛してくれない人とはいても仕方が無いと何度も言い聞かせた。
彼は少し寂しそうにしていたけれど、以前より私を熱を帯びた目で見てくれていたように思った。君の恋人であることが誇らしいとも言った。とても充実した時間だった。
彼が仲良くなった女性は、私とは正反対でとてもよく笑う人だった。ショートカットの似合う美人で鼻も目も特別綺麗という訳では無いのに、とても綺麗だと思った。
きっと彼女は、ずっと綺麗なままで生きてきたんだろうと思った。綺麗な女として自分を魅せる術持ってきた人。
彼が友人を紹介してきた時、私はハッとした。
4年という月日は彼を知るには十分すぎる時間だったから、きっと自分では言い出せない何かを友人に託すつもりなのだろうと悟った。
友人と仲良くなる頃には彼とはかなり疎遠になっていて、日曜日以外には会うことが出来なかった。
営みもなくなり、家に来てもどこか沈んだ様子で寝ていたり、映画を観ていても返答も曖昧で私はどうやって彼の望むエンディングに持っていくかどうかを考えていた。
結局、彼の好きな小説のように別れることにした。くだらない三文小説だと思ったけど、このくだらなさが好きだ言っていたのを思い出したからだ。
行きつけのカフェに行って、アイスコーヒーとメロンジュースを頼んだ時、彼の顔が明るくなった。
別れ話なのが分かったのだろう。泣かない私に少しほっとしたような顔をして、伝票を持ってレジを済ませた後ろ姿が消えてから、とびきり泣ける小説を、何かを食べたいだとか言っているそれを、わざと題名が見えるようにして読みながら嗚咽を漏らした。
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僕は結構狡いから、君よりも僕のプライドを大切にしてしまった悪い男だと彼は言っていた。
君が泣くのを見たくなくて、最後まで笑ってる顔だけを見たくて、問題を先延ばしにしたのだと。
だから、僕はとても悪い男で、こんな奴が人生に居たなってくらいに覚えていてもらえれば良いと言うのが彼の私への遺言だった。
これが、それでも覚えていて欲しいと、忘れないで欲しいと言えない彼の最大のわがままなのだと思ったら笑ってしまった。
私は幸せな人生を生きてきました。彼のおかげで、たくさんの声なき人の声を届け、我ながらなかなかやれたのではないかと思います。
私のおかげで救われたと言ってくれる人に会う度、彼の話をしたくなったけれど、それじゃあいつまでも彼の言う大人の女性にはなれない気がしてここまで黙っていました。
私の微量ながらある財産は、然るべき財団に寄付されるよう手配してあります。部屋に飾ってある美術品と、ダイヤの指輪は愛する姪のゆりかに。家と車は、甥の健人に。(スピード違反なんてしたら化けてでるからね。)
寂しいと思っているなら、それは必要ありません。この時を待っていたわけでもないけれど、私の幸せは、私が決めるものなのに、勝手に身を引いた彼を叱らないと。
あなたのおかげで私は、自分を愛してこられたのよ。